2018/04/17 - 2018/04/17
135位(同エリア543件中)
ジバゴさん
久々に上京する機会があったので浅草山谷方面に足を向けてみた。
今回は千住大橋を歩いてみようと思い北千住駅から南千住~吉原まで歩いてみた。吉原エリアは夜となり時間切れになったので翌日に再訪問したので別記事にした。
最初に行こうと決めてたポイントは南千住の喫茶店「バッハ」だけであとは行き当たりばったりの旅である。
ところがこれが大当たりで北千住駅からグーグルマップで千住大橋までナビ通りに歩いたら予想もしない江戸明治時代の青果市場(やっちゃ場)の通りに遭遇したのである。通りの両側の家々に昔の看板が掛けてあり当時を偲ばせていた。
今は普通の静かな住宅街であるが当時は朝も開けない暗いうちから夕方まで威勢のいい掛け声が響いてたことだろう。
通りを抜けると、千住大橋が見えてくる。 左手には足立市場があった。
千住大橋を渡り隅田川を越す。生まれて初めてのことである。渡った所が南千住で日光街道をそのまま進み途中から吉野通り(都道464号線)に入ると喫茶店バッハに至る。ここで念願だったゲイシャ・コーヒーを飲むつもり。 2千円くらいだと思い込んでいたのがメニューを見たら1,300円となっていたので店員に確認すると他店は知りませんがウチはそれでやってますということでしたので納得してオーダーする。今までコーヒーの香りは気にしてなかったがゲイシャは独特の香りでした。味は他のコーヒーと然程違いは感じられなかったが素性の良い味と思った。
店を出て日本堤方面に行く。夕方近くになり雨が降ってきた。 傘も持ってないので開店準備中の店先で雨宿りしてたら巡回中の巡査に職質されバッグの中身を見せることになった。流石に吉原エリアだ警官も仕事熱心だと感心する。
それでも、何か所か訪問したが暗くなってきたので明日また来ることにして本日は明日のジョーに挨拶して帰ることにした。
- 旅行の満足度
- 5.0
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「ここは元やっちゃ場北詰」
往時は、神田・駒込とともに江戸の三市場の一つとして幕府御用市場にもなり、維新後も存続していたが空襲で消滅したという。 “やっちゃ”とは、戦前まで賑わっていたという、この市場でのセリの掛け声なんだとか。 江戸時代にもこのあたりは農産物の集積場として繁栄し,セリの掛け声が盛んに響いていたものと思われます。当時の市場としての賑わいはなかなかのもので,草加・川越方面の農家からも出荷されていたそうです。
現在は東京都中央卸売市場足立市場に発展解消し個人経営でなくなったが 実にその期間369年に及んだ。
参考 http://www.senjumonogatari.com/yachaba.htm#%E7%8F%BE%E5%9C%A8 -
往時の屋号看板が通りの家々に飾られている。
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昭和5年 千住市場 問屋配置図
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河原稲庭神社
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浅草神社の狛犬を作った工人と同じと思われるとの説明板
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やっちゃ場追想 大正昭和初期
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やっちゃ場と千住の彫刻家 富岡芳堂
昭和23年千住2丁目富岡呉服店の次男として生まれる。幼少より芸術を好み彫刻家吉沢芳明氏に師事する。 -
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「ここは元やっちゃ場南詰」
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足立市場
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足立市場があり食堂なら一般人も利用できるそうなので昼時でもありある店に入ってめかぶトロ丼を食したが正直美味かった。
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千住大橋
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小塚原 回向院
回向院は寛文7年(1667)本所回向院住職弟誉技義が、行路病死者や刑死者の供養のために開いた寺で当時は常行堂と称していた。安政の大獄により刑死した橋本左内・吉田松陰 ・頼三樹三郎や多くの志士たちが葬られている。明和8年(1771)蘭学者杉田玄白・中川淳庵・前野良沢らが小塚原で刑死者の解剖に立ち会った後に解体新書を翻訳し日本医学史上に大きな功績を残したことを祈念して大正11年に鑑臓記念碑が建立された。 -
墨田区両国の回向院と区別するため小塚原回向院と呼ばれています。 江戸時代大和刑場、鈴ヶ森刑場ととも三大刑場と言われた小塚原刑場があった地です。
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カールゴッチ墓 アメリカ人のプロレスラー
若かりしアントニオ猪木と名勝負を繰り広げた -
相馬大作供養碑
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鼠小僧次郎吉 左端
高橋お伝 右から二番目 -
吉田松陰
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橋本左内
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吉展地蔵
あのよしのぶちゃんがと感慨無量でした。 -
喫茶店バッハ
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ロイヤルコペンハーゲンのカップ
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ゲイシャコーヒー
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あしたのジョー像とご対面
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こちらは天ぷら屋 伊勢屋 ほぼ吉原エリア
通称、土手の伊勢屋 -
ここから吉原エリアに入りました。
見返り柳説明板
ここで遊び終えた客が名残惜しそうに見返るから -
石碑
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吉原大門跡、昔はココが唯一の入場口でこの先に吉原の店が集結していた。
周囲は堀(お歯黒どぶ)で囲まれていたので逃げられない。
今はドコからでも入れる。 -
吉原に関してはこのサイトが非常に詳しいです。 是非一読を。
https://chinobouken.com/yoshiwara/ -
同上
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旧 浅草新吉原江戸町二丁目
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吉原神社
吉原神社は、かつて吉原遊郭にお祀りされていた五つの稲荷神社と遊郭に隣接する吉原弁財天を合祀した神社です。五つの稲荷神社とは玄徳(よしとく)稲荷社、明石(あかし)稲荷社、開運(かいうん)稲荷社、榎本(えのもと)稲荷社、九郎助(くろすけ)稲荷社の五社で、倉稲魂命(うがのみたまのみこと)を御祭神としています。
また吉原弁財天の御祭神は市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)で、吉原神社にお祀りされていると共に、現在でも本宮が大切にお祀りされていて信仰が続いています。 -
逢初とは恋焦がれている人に初めて会うという意味があります。江戸時代より遊客の出逢いを叶える桜として新吉原入口の玄徳稲荷社脇に植えられ、同じく稲荷社脇にあった「駒止松」、さらに新吉原入口の「見返り柳」と合わせて「廓(くるわ)の三雅木(さんがぼく)」として知られていました。現在の逢初桜は平成24年に植樹された枝垂れ桜で、春には見事な花を咲かせています。
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境内に吉原今昔図が掲示されてあったので撮影したが暗いのでピントがボケて使い物にならなかった。 ネット情報で同じものが「一葉記念館」で入手出来ると知り撮影は止めた。
明治27年、大正12年、昭和20年、昭和33年、平成5年の各時代にあった店の名前が記載された地図。 -
台東病院
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花園公園
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弁財天
合掌
https://jinja.tokyolovers.jp/tokyo/taito/yoshiwarajinja_benzaiten
弁財天には関東大震災にまつわる悲しい歴史がある。
この地は元々湿地帯であったところを埋め立てて造成しているが、池の一部は残された。
中島に弁天祠が祀られた池は、花園池・弁天池などと称され遊郭楼主たちの信仰を集めていた。
関東大震災により発生した火災から逃がれようとした遊女達は、廊の中では逃げ場がなかった。
このため池に飛び込まざるを得ず、490人が溺死したという悲劇が起こった。
その後池自体はNTT吉原ビル建設時に埋め立てられてしまったが、弁財天を祀る小社は残され吉原神社の奥宮として、震災殉難慰霊の観音像なども祀られている。 -
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吉原観音
関東大震災の殉難者を慰霊する観音像 -
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吉原江戸町二丁目を表す門柱 (現 千束4丁目)
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旧お歯黒ドブの石垣跡 遺構
階段の上が廓内の土地高さで道路の地面がどぶ池水面その差1.2メートル位か? -
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土手の伊勢屋 改装工事のため休み
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ジョー、明日も来るぜ! キリッ
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アバヨ!
と、夜は更けていく。
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