2017/12/14 - 2017/12/14
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今から315年前の1702年(元禄15年)12月15日(旧暦)未明に起きた元禄赤穂事件(忠臣蔵)
赤穂藩の筆頭家老大石内蔵助ら浅野家家臣が主君の敵討ちを行ったという事件である。12月14日の地元紙に「熊本藩と忠臣蔵」という特集記事が掲載されていた。
大石をはじめとした赤穂浪士17人を預かったのが熊本藩細川家3代藩主細川綱利であった。17人の浪士を預かった熊本藩の浅野家との関わりなどが詳しく掲載されていた。そして熊本県山鹿市にある日輪寺に赤穂浪士遺髪塔があることを知った。そこで急に思い立って高速道路を通って日輪寺に出かけることにした。
熊本IC→九州自動車道→植木IC→国道3号線→山鹿市日輪寺(つつじ公園・竜王山古墳)
- 旅行の満足度
- 3.5
- 観光
- 3.5
- 交通
- 4.0
- 同行者
- 一人旅
- 一人あたり費用
- 1万円未満
- 交通手段
- 自家用車
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日輪寺山門
ここから入っていく -
山門の上部につられている釣鐘
1358年昔の銅銭百貫文を使用して、藤原頼重により造られたという、肥後三大銘鐘の一つと言われている。 -
十一面正観音像
1664年ごろ谷川清心という人が刻んだ観音様といわれている。 -
赤穂浪士十七義士遺髪塔
細川藩江戸屋敷に十七名、松平藩十名、尾張藩十名、水野藩十名の四か所に浪士たちはお預けの身となった。
細川藩には大石内蔵助など17名が送られてきた。その時綱利公は浪士たちを門前に迎え、武士の鑑であるとほめられ、堀内傳右衛門に接待役を申し付けた。傳右衛門は浪士たちを三度の食事を与え50日間接待したという。
切腹後に傳右衛門は自分が世話をした義士と別れがつらいと将軍綱吉公に髪の毛なりともと申し出てもらい受け、自分の菩提寺「日輪寺」に持ち帰り供養塔を立てた。これがその写真である。毎年2月4日を命日として今も供養祭(義士まつり)が行われている。 -
赤穂十七義士の名前が刻まれている。
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赤穂浪士遺髪塔の由来が書かれている案内板
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松尾芭蕉の句碑
芭蕉が山鹿温泉に宿泊し、夕方日輪寺を散策した際に、池の淵に立ち、林の中を飛び回るホタルを見て「己が火を木木の蛍や花の宿」と詠んだという句碑 -
芭蕉碑の説明板
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了心素覚尼の墓
芭蕉句碑の隣にある。菊池武時公の娘の墓である。生前に私が死んだら父が植えた槇の木の下に眠りたいという遺書があったので作られたといいう。 -
日輪寺本堂と安らぎの池(手前)
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大仏様
この大仏様はお釈迦様の弟子で名前を「賓度羅跋羅堕しゃ」(ばんどらだしゃ)という。亡くなってから「賓頭蘆尊者」(びんずるそんじゃ)の名を戴かれ十六羅漢様の一人となった。当時から撫で仏といわれ、尊者と自分の体を交互に撫で祈願すると、病気が治り願い事がかなったといわれている。 -
撫で仏の像
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この堂の中でろうそくと線香(100円)をあげて自分の願いや体の悪いところを撫でるようになっている。
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鎮護社
石体三十三像 -
大石内蔵助像
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赤穂浪士大石内蔵助像の横にある説明板
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禅宗曹洞宗日輪寺の説明板
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寺に入ってすぐの左側にある水子地蔵像
これはまだ新しかった -
日輪寺の正面から見た本堂
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日輪寺の後方にあるつつじ公園
右側に大仏様の頭が見える。 -
山頂にある竜王山古墳の説明板
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竜王山古墳
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山頂から見た山鹿市内
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山頂からみた山鹿市内
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竜王山古墳の後ろにあった古い建物だが説明がなかったのでわからない。
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登山の道の中腹から見た大仏様
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九州自然歩道の道案内
奥に金毘羅宮がある。右手に行くと不動岩のほうに行くことができる。 -
九州自然歩道の説明板
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湯町橋についての説明碑
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湯町橋
山鹿温泉と熊入温泉の中間を流れる吉田川に万介・次七の二人が名石工に造られた橋。細川藩と薩摩藩の参勤交代の行列が通ったという。昭和50年ごろ保存のために移築された。
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