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11月3日、4日の連休に高校時代の旧友2人と名古屋で集合することになりました。久しぶりの再会で、駅近のホテルのレストランで会食をし、午後は名古屋観光をする予定でした。<br /><br />ところが、積もる話は延々続き、午後の名古屋観光はキャンセルに・・・。夕方バスターミナルを兼ねた施設『オアシス21』を訪ね、空中に浮かぶガラスの大屋根を眺めながら外周の空中散歩を楽しみました。<br /><br />翌日はそれぞれ別行動となり、私は前から行きたかった『明治村』に行くことにしました。敷地内には明治時代の歴史的価値のあるレトロ建築などが数多く移築されていて、またNHKの朝の連続ドラマ「花子とアン」の私立修和女学校として撮影に使われた建物や京都市電や帝国ホテル玄関などもあると知り、ぜひ見たいと思っていました。<br /><br />朝一番、名古屋駅のバスセンターから「明治村行き」のバスに乗り出かけてみました。

ハイカラなものを探しに愛知《博物館・明治村》へ

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2017/11/03 - 2017/11/03

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akiko

akikoさん

11月3日、4日の連休に高校時代の旧友2人と名古屋で集合することになりました。久しぶりの再会で、駅近のホテルのレストランで会食をし、午後は名古屋観光をする予定でした。

ところが、積もる話は延々続き、午後の名古屋観光はキャンセルに・・・。夕方バスターミナルを兼ねた施設『オアシス21』を訪ね、空中に浮かぶガラスの大屋根を眺めながら外周の空中散歩を楽しみました。

翌日はそれぞれ別行動となり、私は前から行きたかった『明治村』に行くことにしました。敷地内には明治時代の歴史的価値のあるレトロ建築などが数多く移築されていて、またNHKの朝の連続ドラマ「花子とアン」の私立修和女学校として撮影に使われた建物や京都市電や帝国ホテル玄関などもあると知り、ぜひ見たいと思っていました。

朝一番、名古屋駅のバスセンターから「明治村行き」のバスに乗り出かけてみました。

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  • 朝、8時過ぎの新大阪発、新幹線のぞみに乗車し、1時間弱で名古屋に到着。<br /><br />まもなく旧友と感激の再会をし、駅近くのホテルのレストランで会食をしながら楽しい時間を過ごしました。

    朝、8時過ぎの新大阪発、新幹線のぞみに乗車し、1時間弱で名古屋に到着。

    まもなく旧友と感激の再会をし、駅近くのホテルのレストランで会食をしながら楽しい時間を過ごしました。

  • 午後は名古屋を観光する予定でしたが、気がつくと4時を過ぎていました。<br /><br />それで、名古屋の繁華街の栄に移動することになり、地下鉄に乗車。まずは空中に浮かぶ大屋根がシンボルの『オアシス21』にやってきました。

    午後は名古屋を観光する予定でしたが、気がつくと4時を過ぎていました。

    それで、名古屋の繁華街の栄に移動することになり、地下鉄に乗車。まずは空中に浮かぶ大屋根がシンボルの『オアシス21』にやってきました。

  • ここは、バスターミナルとしての機能を備えた立体型公園で、<br /><br />地上14mの『水の宇宙船』からは『名古屋テレビ塔』が見えていました。

    ここは、バスターミナルとしての機能を備えた立体型公園で、

    地上14mの『水の宇宙船』からは『名古屋テレビ塔』が見えていました。

  • 下を見ると、宙に浮かんだような渡り廊下が見えたり・・・

    下を見ると、宙に浮かんだような渡り廊下が見えたり・・・

  • 大階段が見え、まるで近未来の風景の中にいるような気がしました。

    大階段が見え、まるで近未来の風景の中にいるような気がしました。

  • ほとんど名古屋観光はできなかったけれど、<br /><br />この美しい『オアシス21』の夜景を見ることができて良かった~~♪

    ほとんど名古屋観光はできなかったけれど、

    この美しい『オアシス21』の夜景を見ることができて良かった~~♪

  • ここからは翌日に訪れた『明治村』のことです。<br /><br />名古屋から明治村に行くには、(1)名鉄・犬山駅まで行き、その先コミュニティーバスに乗るか(2)名鉄バスセンターから直通バスで行くか、どちらかでした。<br /><br />私は乗り換えが要らない直通バスで行くことにしました。バスセンターで往復チケットと明治村入村券がセットのなったセットチケットを購入し、8:45発のバスに乗車し、10時過ぎに明治村に到着したのでした。

    ここからは翌日に訪れた『明治村』のことです。

    名古屋から明治村に行くには、(1)名鉄・犬山駅まで行き、その先コミュニティーバスに乗るか(2)名鉄バスセンターから直通バスで行くか、どちらかでした。

    私は乗り換えが要らない直通バスで行くことにしました。バスセンターで往復チケットと明治村入村券がセットのなったセットチケットを購入し、8:45発のバスに乗車し、10時過ぎに明治村に到着したのでした。

  • 「明治村」の正門は立派な門ですが、もとは明治41年設立の名古屋の旧制第八高等学校の正門だったそうです。<br /><br />四本の門柱は、赤いレンガに白い花崗岩を帯状に配して作られていて、この構成は明治洋風建築によく使われたということです。

    「明治村」の正門は立派な門ですが、もとは明治41年設立の名古屋の旧制第八高等学校の正門だったそうです。

    四本の門柱は、赤いレンガに白い花崗岩を帯状に配して作られていて、この構成は明治洋風建築によく使われたということです。

  • 正門を入ると、明治村1丁目のエリアが広がっていて、青で囲んだ建物を中心に回りました。<br /><br />*村内地図はオフィシャルサイトから借用

    正門を入ると、明治村1丁目のエリアが広がっていて、青で囲んだ建物を中心に回りました。

    *村内地図はオフィシャルサイトから借用

  • まずは『大井牛肉店』。<br /><br />横浜、長崎につぎ、慶応3年(1867)、神戸の開港に伴い、外国人を相手にした商売が盛んになりました。<br /><br />外国船が寄港するようになり、外国人居留地には外国人の住宅が次々と建設されました。明治20年(1887)頃牛肉販売と牛鍋の店としてオープンしたのが、『大井牛肉店』だったそうです。

    まずは『大井牛肉店』。

    横浜、長崎につぎ、慶応3年(1867)、神戸の開港に伴い、外国人を相手にした商売が盛んになりました。

    外国船が寄港するようになり、外国人居留地には外国人の住宅が次々と建設されました。明治20年(1887)頃牛肉販売と牛鍋の店としてオープンしたのが、『大井牛肉店』だったそうです。

  • 外国の商館が立ち並ぶ新しい町の商店にふさわしく、洋風の建物で、2階にはベランダを設け、上部にアカンサスという植物の葉を飾ったギリシャの建築様式の<コリント式>の柱に半円アーチの窓が配されています。<br /><br />玄関の庇は、京風の&quot;むくり破風&quot;に鶴を飾り、金の浮き文字看板が掲げられ、和洋折衷の造りになっています。<br /><br />このような牛肉店の建物は、当時の日本人の目には、&quot;ハイカラ&quot;に映ったことでしょうね。

    外国の商館が立ち並ぶ新しい町の商店にふさわしく、洋風の建物で、2階にはベランダを設け、上部にアカンサスという植物の葉を飾ったギリシャの建築様式の<コリント式>の柱に半円アーチの窓が配されています。

    玄関の庇は、京風の"むくり破風"に鶴を飾り、金の浮き文字看板が掲げられ、和洋折衷の造りになっています。

    このような牛肉店の建物は、当時の日本人の目には、"ハイカラ"に映ったことでしょうね。

  • この建物は『三重県尋常師範学校・蔵持小学校』です。<br /><br />尋常師範学校は小学校教師の養成を目的としていて、明治21年(1886年)に三重県の尋常師範学校本館として建てられたそうです。その後、名張市に移築され『蔵持小学校』として使われていたそうです。<br /><br />玄関は四本の円柱を立ててアーケードとし、二階にベランダを設け、入母屋の屋根となっています。<br /><br />こんな建物が一時小学校の校舎だったなんて・・・

    この建物は『三重県尋常師範学校・蔵持小学校』です。

    尋常師範学校は小学校教師の養成を目的としていて、明治21年(1886年)に三重県の尋常師範学校本館として建てられたそうです。その後、名張市に移築され『蔵持小学校』として使われていたそうです。

    玄関は四本の円柱を立ててアーケードとし、二階にベランダを設け、入母屋の屋根となっています。

    こんな建物が一時小学校の校舎だったなんて・・・

  • アーチ部分に草花をモチーフとした縁飾りがあしらわれています。<br /><br />当時としては、この建物もずいぶんハイカラだったのでしょうね。

    アーチ部分に草花をモチーフとした縁飾りがあしらわれています。

    当時としては、この建物もずいぶんハイカラだったのでしょうね。

  • 玄関を入ると、奥の開口部から色づき始めた木々が見えていました。

    玄関を入ると、奥の開口部から色づき始めた木々が見えていました。

  • なだらかに続く森の小径を上っていくと、林の上に『聖ヨハネ教会堂』の2本の尖塔が見えてきました。

    なだらかに続く森の小径を上っていくと、林の上に『聖ヨハネ教会堂』の2本の尖塔が見えてきました。

  • 明治6年(1873)、鎖国以来200年以上続いたキリスト教の禁止令が解かれ、各地に教会堂が建てられるようになったそうです。<br /><br />この『聖ヨハネ教会堂』は、明治40年(1907)京都の河原町通りに建てられた日本聖公会の『京都五條教会』で、2階が会堂に1階は日曜学校や幼稚園に使われていたのだとか・・・<br /><br />ロマネスク様式を基調に、ゴシックのデザインを交えた外観で、正面左右に高い尖塔が建てられ、奥に十字形大屋根がかかる会堂が配された教会となっています。

    明治6年(1873)、鎖国以来200年以上続いたキリスト教の禁止令が解かれ、各地に教会堂が建てられるようになったそうです。

    この『聖ヨハネ教会堂』は、明治40年(1907)京都の河原町通りに建てられた日本聖公会の『京都五條教会』で、2階が会堂に1階は日曜学校や幼稚園に使われていたのだとか・・・

    ロマネスク様式を基調に、ゴシックのデザインを交えた外観で、正面左右に高い尖塔が建てられ、奥に十字形大屋根がかかる会堂が配された教会となっています。

  • 1階入り口部分は、レンガ積の角柱から柱頭飾りをはさんでレンガ積のアーチが立ち上がり、奥の欄間には二つの三葉形アーチの窓が・・・2階部分にはステンドグラスがはめ込まれています。<br /><br />この教会堂を設計したアメリカ人ガーディナーは、ハーバード大学で建築を学び、明治13年(1880)来日。立教学校の校長として教育宣教にあたる一方、建築家としても立教大学校校舎、明治学院ヘボン館などを設計したそうです。

    1階入り口部分は、レンガ積の角柱から柱頭飾りをはさんでレンガ積のアーチが立ち上がり、奥の欄間には二つの三葉形アーチの窓が・・・2階部分にはステンドグラスがはめ込まれています。

    この教会堂を設計したアメリカ人ガーディナーは、ハーバード大学で建築を学び、明治13年(1880)来日。立教学校の校長として教育宣教にあたる一方、建築家としても立教大学校校舎、明治学院ヘボン館などを設計したそうです。

  • 2階の会堂内部。

    2階の会堂内部。

  • ステンドグラスから差し込む光を受けたオルガン。

    ステンドグラスから差し込む光を受けたオルガン。

  • この建物は『学習院長官舎』です。<br /><br />明治42年(1909)に建てられたこの官舎は、洋館と和館とをつなぎ合わせた形式になっているそうで、学習院長という公的な立場での接客や実務には洋館部分を使い、私的な生活には日本座敷を使っていたそうです。

    この建物は『学習院長官舎』です。

    明治42年(1909)に建てられたこの官舎は、洋館と和館とをつなぎ合わせた形式になっているそうで、学習院長という公的な立場での接客や実務には洋館部分を使い、私的な生活には日本座敷を使っていたそうです。

  • 続いて現れたのが『西郷從道邸』。<br /><br />西郷從道公は西郷隆盛の弟で、陸海軍を歴任した従道の元には、在日外交官や政府高官の来客が多く、東京上目黒の自邸内に接客のために建設した2階建の洋館(ゲストハウス)だったそうです。

    続いて現れたのが『西郷從道邸』。

    西郷從道公は西郷隆盛の弟で、陸海軍を歴任した従道の元には、在日外交官や政府高官の来客が多く、東京上目黒の自邸内に接客のために建設した2階建の洋館(ゲストハウス)だったそうです。

  • フランス人建築家レスカスの設計で、当時のフランスで見られた住宅の典型だとか。<br /><br />半円形に張り出されたベランダが印象的で、これぞ西洋建築の瀟洒な洋館!!といった素敵な建物です。

    フランス人建築家レスカスの設計で、当時のフランスで見られた住宅の典型だとか。

    半円形に張り出されたベランダが印象的で、これぞ西洋建築の瀟洒な洋館!!といった素敵な建物です。

  • 玄関を入ったところに従道公の原寸大(身長160cm)の写真が置いてありました。<br /><br />西郷従道は、西南戦争では兄・隆盛側につかず政府に残留し、明治18年(1885)内閣制度が創設されると、第1次伊藤内閣の海軍大臣に就任したそうです。<br /><br />顔は我々が知る兄の隆盛に似ていますが、それもそのはず、西郷隆盛の写真はこの写真と叔父から合成したものなのだそうです。

    玄関を入ったところに従道公の原寸大(身長160cm)の写真が置いてありました。

    西郷従道は、西南戦争では兄・隆盛側につかず政府に残留し、明治18年(1885)内閣制度が創設されると、第1次伊藤内閣の海軍大臣に就任したそうです。

    顔は我々が知る兄の隆盛に似ていますが、それもそのはず、西郷隆盛の写真はこの写真と叔父から合成したものなのだそうです。

  • これは、玄関横にある書斎です。

    これは、玄関横にある書斎です。

  • 赤いカウチだけでなく、置いてある家具や調度品は、洋館にふさわしい素敵なものばかり。

    赤いカウチだけでなく、置いてある家具や調度品は、洋館にふさわしい素敵なものばかり。

  • この部屋は、書斎から続く『婦人室』です。<br /><br />中央にラウンドテーブルセットが置かれ・・・

    この部屋は、書斎から続く『婦人室』です。

    中央にラウンドテーブルセットが置かれ・・・

  • テーブルにはボーンチャイナの洋食器のセットが載っています。<br /><br />部屋の脇にある黒塗りの桜花模様蒔絵のサイドテーブルにはフルーツ盛りがありました。また、壁面にはハーブの刺繍の額も飾られていました。<br />

    テーブルにはボーンチャイナの洋食器のセットが載っています。

    部屋の脇にある黒塗りの桜花模様蒔絵のサイドテーブルにはフルーツ盛りがありました。また、壁面にはハーブの刺繍の額も飾られていました。

  • これは食堂で、来客の接待に使われたようです。<br /><br />

    これは食堂で、来客の接待に使われたようです。

  • この食堂だけでなく、邸内に置かれた家具調度品は大変素晴らしいものばかり、と思っていたら・・・<br /><br />鹿鳴館や明治宮殿、赤坂離宮で使用されたものだそうなんです。

    この食堂だけでなく、邸内に置かれた家具調度品は大変素晴らしいものばかり、と思っていたら・・・

    鹿鳴館や明治宮殿、赤坂離宮で使用されたものだそうなんです。

  • 1階バルコニーです。<br /><br />もともと、東京目黒にあった2万坪に及ぶ敷地に建っていたこの洋館には回遊式の庭園が造られ、東京一の名庭園といわれたそうです。この景色とは比べものにならないものだったことでしょう。

    1階バルコニーです。

    もともと、東京目黒にあった2万坪に及ぶ敷地に建っていたこの洋館には回遊式の庭園が造られ、東京一の名庭園といわれたそうです。この景色とは比べものにならないものだったことでしょう。

  • 2階に上がると、右に居間、左に応接室があります。

    2階に上がると、右に居間、左に応接室があります。

  • これは居間です。<br /><br />二階各室にはフランス窓という丈の高い窓が開けられています。内開きのガラス戸に加え、外開きの鎧戸が備えられています。

    これは居間です。

    二階各室にはフランス窓という丈の高い窓が開けられています。内開きのガラス戸に加え、外開きの鎧戸が備えられています。

  • こちらは応接室です。<br /><br />見るからに立派な応接セットは、皇室から運ばれた家具なんだそうです。

    こちらは応接室です。

    見るからに立派な応接セットは、皇室から運ばれた家具なんだそうです。

  • この部屋にある暖炉の額縁飾りは、日本で焼かれた焼き物で、日本三景である厳島・天橋立・松島、また上面には富士山が描かれている大変高価なものだそうです。

    この部屋にある暖炉の額縁飾りは、日本で焼かれた焼き物で、日本三景である厳島・天橋立・松島、また上面には富士山が描かれている大変高価なものだそうです。

  • 応接間から広いベランダに出ると、とても良い眺めでした。<br /><br />ちょうど色づいた木々の向こうに『聖ヨハネ教会堂』が顔を覗かせていました。

    応接間から広いベランダに出ると、とても良い眺めでした。

    ちょうど色づいた木々の向こうに『聖ヨハネ教会堂』が顔を覗かせていました。

  • この廻り階段は、降りる際に手を手摺に乗せると自然に背筋が伸びる姿勢になるよう設計されているそうです。<br /><br />ドレスを身にまとった女性が優雅に見えるだけでなく、男性も胸を張り堂々とした姿で階段を降りるようになっていたのだとか。

    この廻り階段は、降りる際に手を手摺に乗せると自然に背筋が伸びる姿勢になるよう設計されているそうです。

    ドレスを身にまとった女性が優雅に見えるだけでなく、男性も胸を張り堂々とした姿で階段を降りるようになっていたのだとか。

  • 西郷従道邸の先には『森鴎外・夏目漱石住宅』がありました。

    西郷従道邸の先には『森鴎外・夏目漱石住宅』がありました。

  • 明治20年(1887)頃、医学士中島襄吉の新居として建てられたものだそうですが、空家のままであったのを、明治23年森鴎外が借りうけ一年余りを過ごし、明治36年(1903)から同39年までは夏目漱石が借りて住んだそうです。

    明治20年(1887)頃、医学士中島襄吉の新居として建てられたものだそうですが、空家のままであったのを、明治23年森鴎外が借りうけ一年余りを過ごし、明治36年(1903)から同39年までは夏目漱石が借りて住んだそうです。

  • 庭には、和傘がたくさん並べられていました♪<br /><br />紅葉も負けてしまうような彩りでした。

    庭には、和傘がたくさん並べられていました♪

    紅葉も負けてしまうような彩りでした。

  • 鴎外は、ここに移り住む同じ年の1月、処女作小説「舞姫」を発表、この家では「文づかひ」等の小説を執筆し、文壇に入っていったそうで・・・<br /><br />また約10年遅れてこの家に住んだ漱石は、ここで「吾輩は猫である」を発表、文壇にその名を高めたということです。

    鴎外は、ここに移り住む同じ年の1月、処女作小説「舞姫」を発表、この家では「文づかひ」等の小説を執筆し、文壇に入っていったそうで・・・

    また約10年遅れてこの家に住んだ漱石は、ここで「吾輩は猫である」を発表、文壇にその名を高めたということです。

  • 「吾輩は猫である」が執筆されたであろうこの書斎に、モデルとなった黒っぽい灰色に虎斑の子猫の置物がありました。「この猫だったんですね~~」<br /><br />また、奥の部屋には別の猫の置物があり、それには「夏目漱石は朝寝転んで新聞を読む習慣があって、その背中にはよく猫が乗っていた」との説明が書いてありました。

    「吾輩は猫である」が執筆されたであろうこの書斎に、モデルとなった黒っぽい灰色に虎斑の子猫の置物がありました。「この猫だったんですね~~」

    また、奥の部屋には別の猫の置物があり、それには「夏目漱石は朝寝転んで新聞を読む習慣があって、その背中にはよく猫が乗っていた」との説明が書いてありました。

  • 1丁目、最後の建物は『三重県庁舎』です。<br /><br />明治維新政府による地方行政は、明治2年の<版籍奉還>に続く<廃藩置県>に始まります。この時から中央政府に任命された府知事・県令が各府県に派遣されるようになりました。<br /><br />府知事・県令を迎えた各府県では、当初は既存の建物を県庁舎として使っていたそうですが、先進的な県令は先を争うように洋風の新庁舎を建設するようになったのだそうです。<br /><br />この三重県庁舎も明治9年(1876)、県令岩村定高によって計画され、3年後に完成したものだそうです。

    1丁目、最後の建物は『三重県庁舎』です。

    明治維新政府による地方行政は、明治2年の<版籍奉還>に続く<廃藩置県>に始まります。この時から中央政府に任命された府知事・県令が各府県に派遣されるようになりました。

    府知事・県令を迎えた各府県では、当初は既存の建物を県庁舎として使っていたそうですが、先進的な県令は先を争うように洋風の新庁舎を建設するようになったのだそうです。

    この三重県庁舎も明治9年(1876)、県令岩村定高によって計画され、3年後に完成したものだそうです。

  • 庁舎の1室で、「明治村あかりアート展」の入賞作品が展示されていました。

    庁舎の1室で、「明治村あかりアート展」の入賞作品が展示されていました。

  • 陶磁器の魅力を最大限に活かしたあかりのアート展だそうで・・・<br /><br />陶磁器からあかりが外に漏れ、暗闇に美しいデザインとなって映し出されていました。優しい灯りのアートに、しばらく魅せられていました♪

    陶磁器の魅力を最大限に活かしたあかりのアート展だそうで・・・

    陶磁器からあかりが外に漏れ、暗闇に美しいデザインとなって映し出されていました。優しい灯りのアートに、しばらく魅せられていました♪

  • さて、次は2丁目へと向かうことにします。<br /><br />道標によると、2通りの行き方があるそうで、『東松家住宅』とある近道を行くことにしました。

    さて、次は2丁目へと向かうことにします。

    道標によると、2通りの行き方があるそうで、『東松家住宅』とある近道を行くことにしました。

  • 2丁目の地図です。

    2丁目の地図です。

  • 商家や銀行、学校などの建物が立ち並んでいるエリアです。

    商家や銀行、学校などの建物が立ち並んでいるエリアです。

  • 右側に見えるのは『千早赤阪小学校講堂』です。<br /><br />この建物は、もとは大阪市北区大工町の堀川尋常小学校にあったものが、昭和4年(1929)同校の校舎が新築されるに際し、南河内郡千早赤阪村の小学校に移築されたものだそうです。

    右側に見えるのは『千早赤阪小学校講堂』です。

    この建物は、もとは大阪市北区大工町の堀川尋常小学校にあったものが、昭和4年(1929)同校の校舎が新築されるに際し、南河内郡千早赤阪村の小学校に移築されたものだそうです。

  • 文明開化の様子を表した&quot;錦絵&quot;の行灯が道沿いに並んでいました。<br />これは、和服姿の女性たちが洋装の女性を眺めている様子が描かれているものでした。<br /><br />この洋装の女性を見て、NHK朝の連続テレビ小説『あさが来た』の主人公・広岡浅子さんのことが頭に浮かびました。時代を先取りした人ですよねー

    文明開化の様子を表した"錦絵"の行灯が道沿いに並んでいました。
    これは、和服姿の女性たちが洋装の女性を眺めている様子が描かれているものでした。

    この洋装の女性を見て、NHK朝の連続テレビ小説『あさが来た』の主人公・広岡浅子さんのことが頭に浮かびました。時代を先取りした人ですよねー

  • 『千早赤阪小学校講堂』では、帝国ホテル中央玄関の設計者、フランク・ロイド・ライト展が行われていました。

    『千早赤阪小学校講堂』では、帝国ホテル中央玄関の設計者、フランク・ロイド・ライト展が行われていました。

  • 一階の廻廊には、二間(3.6m)ごとに細い角柱が立てられ、柱間に浅いアーチ形の幕板を入れ、その中央にペンダント状の吊束が付けられています。

    一階の廻廊には、二間(3.6m)ごとに細い角柱が立てられ、柱間に浅いアーチ形の幕板を入れ、その中央にペンダント状の吊束が付けられています。

  • 2丁目の目抜き通りはレンガが敷かれたレンガ通り。<br /><br />レンガ通りの両側にも歴史的建造物が建ち並んでいます。

    2丁目の目抜き通りはレンガが敷かれたレンガ通り。

    レンガ通りの両側にも歴史的建造物が建ち並んでいます。

  • これは『東松家住宅』で、名古屋の中心部堀川沿いにあった商家を移築したものだそうです。<br /><br />東松家は明治20年代後半までは灯火用の油を販売していた油問屋を、その後昭和の初めまで堀川貯蓄銀行を営んでいたのだとか。<br /><br />塗屋造という江戸時代以来の伝統工法で建てられているこの建物は、江戸末期、平屋であったものを、明治28年後方へ曳家(ひきや)の上、2階の前半部を増築して現在の店構えを完成させ、明治34年3階以上を増築したそうです。

    これは『東松家住宅』で、名古屋の中心部堀川沿いにあった商家を移築したものだそうです。

    東松家は明治20年代後半までは灯火用の油を販売していた油問屋を、その後昭和の初めまで堀川貯蓄銀行を営んでいたのだとか。

    塗屋造という江戸時代以来の伝統工法で建てられているこの建物は、江戸末期、平屋であったものを、明治28年後方へ曳家(ひきや)の上、2階の前半部を増築して現在の店構えを完成させ、明治34年3階以上を増築したそうです。

  • 玄関を入ると、まず店があり、店先にうちわを使った面白い器具が置いてありました。<br /><br />これは<団扇扇風機>だそうで、錦絵に描かれていたものを復元したものだそうです。ドラえもんに出てくるような、こんな原始的な手動扇風機が考えられていたのですね(笑)いやいや、ドラえもんなら手動じゃなくて、電動かな?

    玄関を入ると、まず店があり、店先にうちわを使った面白い器具が置いてありました。

    これは<団扇扇風機>だそうで、錦絵に描かれていたものを復元したものだそうです。ドラえもんに出てくるような、こんな原始的な手動扇風機が考えられていたのですね(笑)いやいや、ドラえもんなら手動じゃなくて、電動かな?

  • 奥の間に名古屋の商家における「ハレの日の食事」が再現されていました。<br /><br />説明があり、次のように書かれていました。<br />「明治時代の商家は家族や使用人が多かったため、普段の食事は麦飯に漬物だけの昼食など質素なものでした。しかしお正月やお祭り等のハレの日には季節の材料を用い、その家ならではのご馳走を作りました。東松家のあった名古屋では春のお祭りには、ばら寿司をよく食べました。ここではその食卓を再現しています。」

    奥の間に名古屋の商家における「ハレの日の食事」が再現されていました。

    説明があり、次のように書かれていました。
    「明治時代の商家は家族や使用人が多かったため、普段の食事は麦飯に漬物だけの昼食など質素なものでした。しかしお正月やお祭り等のハレの日には季節の材料を用い、その家ならではのご馳走を作りました。東松家のあった名古屋では春のお祭りには、ばら寿司をよく食べました。ここではその食卓を再現しています。」

  • レンガ通りの突き当たりに『東山梨郡役所』があります。<br /><br />明治18年(1885)新庁舎としてこの建物が日下部村に建てられました。当時の山梨県令藤村紫朗はとても先進的な人物で、地元に多くの洋風建築を建てさせたのだそうです。

    レンガ通りの突き当たりに『東山梨郡役所』があります。

    明治18年(1885)新庁舎としてこの建物が日下部村に建てられました。当時の山梨県令藤村紫朗はとても先進的な人物で、地元に多くの洋風建築を建てさせたのだそうです。

  • 2階のベランダから、レンガ通りが一直線に伸びているのが見えました。

    2階のベランダから、レンガ通りが一直線に伸びているのが見えました。

  • この白い建物は『清水医院』です。<br /><br />東京に出て医学を学び、地元に戻った清水半次郎が開業した医院で、島崎藤村の姉園子も入院。このため、藤村の小説「ある女の生涯」に登場する須原の蜂谷医院のモデルとなっているそうです。

    この白い建物は『清水医院』です。

    東京に出て医学を学び、地元に戻った清水半次郎が開業した医院で、島崎藤村の姉園子も入院。このため、藤村の小説「ある女の生涯」に登場する須原の蜂谷医院のモデルとなっているそうです。

  • 玄関を入ると、奥には診察室が、通り土間に面して待合室と薬局がありました。<br /><br />この医院は旅篭の立ち並ぶ街道沿いでひときわ目立つものであったそうです。<br /><br />表側の入口や窓をアーチ形に開けたり、白い壁に目地を切って石積みに見せたり、壁隅には柱型を付けるなど洋風のデザインが取り入れられています。

    玄関を入ると、奥には診察室が、通り土間に面して待合室と薬局がありました。

    この医院は旅篭の立ち並ぶ街道沿いでひときわ目立つものであったそうです。

    表側の入口や窓をアーチ形に開けたり、白い壁に目地を切って石積みに見せたり、壁隅には柱型を付けるなど洋風のデザインが取り入れられています。

  • これは『札幌電話交換局』だった建物です。<br /><br />明治維新の頃に電信による通信網が整備されたそうですが、ベルが電話を発明すると、翌明治10年(1877)日本にも紹介され、同23年には東京と横浜で電話交換業務を開始、以後全国に普及していったそうです。<br /><br />この札幌電話交換局は明治31年にできたそうですが、窓は葉飾を刻んだ要石が使われたアーチ窓で、二階窓下には大きな円形の花紋が連続して刻まれているなど、装飾にも洋風のデザインが用いられているのだとか・・・

    これは『札幌電話交換局』だった建物です。

    明治維新の頃に電信による通信網が整備されたそうですが、ベルが電話を発明すると、翌明治10年(1877)日本にも紹介され、同23年には東京と横浜で電話交換業務を開始、以後全国に普及していったそうです。

    この札幌電話交換局は明治31年にできたそうですが、窓は葉飾を刻んだ要石が使われたアーチ窓で、二階窓下には大きな円形の花紋が連続して刻まれているなど、装飾にも洋風のデザインが用いられているのだとか・・・

  • 『京都市電のりば』がありました。<br /><br />1881年ドイツで初めて電車の営業が開始され、日本では市内電車として明治28年(1895)に開業した京都市電が最初だったそうです。<br /><br />東京では明治15年に&quot;馬車鉄道&quot;が開業。新橋・上野・浅草を結ぶ目抜き通りで営業を行ったそう。京都に遅れること5年、明治33年には電車への動力変更が行われ、東京電車鉄道と改称されたのだそうです。

    『京都市電のりば』がありました。

    1881年ドイツで初めて電車の営業が開始され、日本では市内電車として明治28年(1895)に開業した京都市電が最初だったそうです。

    東京では明治15年に"馬車鉄道"が開業。新橋・上野・浅草を結ぶ目抜き通りで営業を行ったそう。京都に遅れること5年、明治33年には電車への動力変更が行われ、東京電車鉄道と改称されたのだそうです。

  • 市電がやってきました♪(市電は乗車可で1乗車500円)<br /><br />この市電は村内の品川灯台からなごや駅までのおよそ800mを走っています。

    市電がやってきました♪(市電は乗車可で1乗車500円)

    この市電は村内の品川灯台からなごや駅までのおよそ800mを走っています。

  • 森の中を駆け抜ける市電。ノスタルジックな光景です~

    森の中を駆け抜ける市電。ノスタルジックな光景です~

  • 次に3丁目にやってきました。<br /><br />

    次に3丁目にやってきました。

  • 八角尖塔を頂く二階建のこの建物は、日本の細菌学の先駆者北里柴三郎が大正4年(1915)芝白金三光町に建てた研究所の本館『北里研究所本館・医学館』で・・・<br /><br />ここではNHKの朝の連続ドラマ「花子とアン」の私立修和女学校として撮影に使われたそうです。

    八角尖塔を頂く二階建のこの建物は、日本の細菌学の先駆者北里柴三郎が大正4年(1915)芝白金三光町に建てた研究所の本館『北里研究所本館・医学館』で・・・

    ここではNHKの朝の連続ドラマ「花子とアン」の私立修和女学校として撮影に使われたそうです。

  • 東大で医学を修めた北里柴三郎はドイツに留学、コッホのもとで、細菌学を研究し、破傷風菌の培養、破傷風の血清療法を編み出したそうです。<br /><br />帰国した翌年、明治25年(1892)福沢諭吉の後援を得て日本初の伝染病研究所を設立、大正3年(1914)同研究所が東大に移管されると、独自にこの北里研究所を創立した、とのことです。

    東大で医学を修めた北里柴三郎はドイツに留学、コッホのもとで、細菌学を研究し、破傷風菌の培養、破傷風の血清療法を編み出したそうです。

    帰国した翌年、明治25年(1892)福沢諭吉の後援を得て日本初の伝染病研究所を設立、大正3年(1914)同研究所が東大に移管されると、独自にこの北里研究所を創立した、とのことです。

  • 見学を終え次の場所に向かう途中、振り返ると横からの外観が見えました。<br /><br />

    見学を終え次の場所に向かう途中、振り返ると横からの外観が見えました。

  • これは、『芝川又右衛門邸』で、現在の西宮市甲東園に明治44年(1911)、大阪の商人芝川又右衛門の別荘として建てられたものだそうです。<br /><br />芝川又右衛門は、先代が大阪伏見町に唐物商(輸入業)「百足【むかで】屋」を開業した豪商の一人だったそう。又右衛門は果樹園「甲東園」を拓き、明治44年(1911)には別荘としてこの建物を建築し、さらに日本庭園や茶室等を整え、関西財界人との交友の場としたのだとか。<br /><br /> 現在、甲東園近くを通る阪急今津線には、当時駅がなかったため、駅の設置を阪急に依頼し、費用と周辺の土地一万坪を阪急に提供し「甲東園駅」ができたそうです。

    これは、『芝川又右衛門邸』で、現在の西宮市甲東園に明治44年(1911)、大阪の商人芝川又右衛門の別荘として建てられたものだそうです。

    芝川又右衛門は、先代が大阪伏見町に唐物商(輸入業)「百足【むかで】屋」を開業した豪商の一人だったそう。又右衛門は果樹園「甲東園」を拓き、明治44年(1911)には別荘としてこの建物を建築し、さらに日本庭園や茶室等を整え、関西財界人との交友の場としたのだとか。

    現在、甲東園近くを通る阪急今津線には、当時駅がなかったため、駅の設置を阪急に依頼し、費用と周辺の土地一万坪を阪急に提供し「甲東園駅」ができたそうです。

  • 内部は、無料ガイドツアーで見学することができます。<br /><br />これは、玄関ホールです。まず目に入るのは、金色の壁でした。これは、金を混ぜた漆喰が乾かないうちに一つ一つ渦巻模様をつけていったのだそうです。

    内部は、無料ガイドツアーで見学することができます。

    これは、玄関ホールです。まず目に入るのは、金色の壁でした。これは、金を混ぜた漆喰が乾かないうちに一つ一つ渦巻模様をつけていったのだそうです。

  • この部屋は、ダンスホールとしても使われた1階ホールです。宝塚の女優さんも、この部屋に踊りに来たそうです。<br /><br />天井は、網代と葦簾を市松状に組まれ、和のテイストも加えられています。

    この部屋は、ダンスホールとしても使われた1階ホールです。宝塚の女優さんも、この部屋に踊りに来たそうです。

    天井は、網代と葦簾を市松状に組まれ、和のテイストも加えられています。

  • 反対側から見たホール。<br /><br />ガイドさんが、「芝川又右衛門は三井八郎右衛門・住友吉左衛門などとともに明治12年(1879)の大日本持丸長者鑑【かがみ】に、名を連ねた豪商の一人・・・」などと説明をしてくれました。

    反対側から見たホール。

    ガイドさんが、「芝川又右衛門は三井八郎右衛門・住友吉左衛門などとともに明治12年(1879)の大日本持丸長者鑑【かがみ】に、名を連ねた豪商の一人・・・」などと説明をしてくれました。

  • 2階に上がると、和室があり、ガイドさんが「この和室にはある仕掛けがあります」と言いながら、押入れの襖を開けると、中に暖炉が設置されていました。<br /><br />和室の障子を開けると、腰をかけて外の景色が楽しめるようになっていました。出窓のような部分に欄干が設置されていて、よく見ると、ハートマークが・・・(*^^*)<br /><br />この家はアールヌーヴォーを取り入れた武田五一が設計したそうで、浴室の天井にある換気口には4匹のトンボの姿が彫り込まれていたり、趣向が凝らしてある箇所が多く見られました。

    2階に上がると、和室があり、ガイドさんが「この和室にはある仕掛けがあります」と言いながら、押入れの襖を開けると、中に暖炉が設置されていました。

    和室の障子を開けると、腰をかけて外の景色が楽しめるようになっていました。出窓のような部分に欄干が設置されていて、よく見ると、ハートマークが・・・(*^^*)

    この家はアールヌーヴォーを取り入れた武田五一が設計したそうで、浴室の天井にある換気口には4匹のトンボの姿が彫り込まれていたり、趣向が凝らしてある箇所が多く見られました。

  • この日本家屋は、幸田露伴住宅『蝸牛庵』です。<br /><br />隅田川東岸の向島にあった酒類商甲州屋(雨宮家)の別棟だったらしく、露伴はやどかりのように幾度となく住まいを変えたため、自宅を、かたつむりの家『蝸牛庵』と呼んでいたそうです。

    この日本家屋は、幸田露伴住宅『蝸牛庵』です。

    隅田川東岸の向島にあった酒類商甲州屋(雨宮家)の別棟だったらしく、露伴はやどかりのように幾度となく住まいを変えたため、自宅を、かたつむりの家『蝸牛庵』と呼んでいたそうです。

  • 玄関を入ると、格子窓から庭が見えるようになっていて、紅葉の枝がひっそり飾られていました。

    玄関を入ると、格子窓から庭が見えるようになっていて、紅葉の枝がひっそり飾られていました。

  • 付書院のある座敷

    付書院のある座敷

  • 廊下に、露伴の等身大の写真があり、廊下の突き当りに茶室の水屋がありました。

    廊下に、露伴の等身大の写真があり、廊下の突き当りに茶室の水屋がありました。

  • 次は、4丁目に移動します。

    次は、4丁目に移動します。

  • 4丁目に移動していると、昔懐かしボンネットバスが通り過ぎました。<br /><br />これは村内バスだそうで、明治村の広大な敷地内をレトロな気分を味わいながら移動できるんですね。

    4丁目に移動していると、昔懐かしボンネットバスが通り過ぎました。

    これは村内バスだそうで、明治村の広大な敷地内をレトロな気分を味わいながら移動できるんですね。

  • これは、『日本赤十字社中央病院病棟』です。<br /><br />明治10年(1877)西郷隆盛が九州で挙兵した西南戦争の際、敵味方の区別なく傷病兵の救護に当たった博愛社が日本赤十字社の前身。<br /><br />明治19年日本政府がジュネーブ条約に加盟し、日本赤十字社と名を改め、皇室から渋谷の御料地の一部と建設資金が下賜され、同23年この病院が建設されたそうです。<br /><br />中庭を囲む分棟式の木造様式病院で、その廻りに病棟が配されていたそうです。

    これは、『日本赤十字社中央病院病棟』です。

    明治10年(1877)西郷隆盛が九州で挙兵した西南戦争の際、敵味方の区別なく傷病兵の救護に当たった博愛社が日本赤十字社の前身。

    明治19年日本政府がジュネーブ条約に加盟し、日本赤十字社と名を改め、皇室から渋谷の御料地の一部と建設資金が下賜され、同23年この病院が建設されたそうです。

    中庭を囲む分棟式の木造様式病院で、その廻りに病棟が配されていたそうです。

  • ボンネットバスの後方に見えるのが『宇治山田郵便局舎』です。<br /><br />明治3年に郵便事業開始の達示が出され、翌4年には東京江戸橋に日本最初の郵便局が建てられ近代郵便事業が開始されたそうです。<br /><br />その後、各地に郵便役所が建てられ、伊勢の宇治山田にも同5年わずか4坪の小さな役所が開業。その後、明治42年に伊勢外宮前の角地にこの立派な西洋風建物が新築されたのだそうです。

    ボンネットバスの後方に見えるのが『宇治山田郵便局舎』です。

    明治3年に郵便事業開始の達示が出され、翌4年には東京江戸橋に日本最初の郵便局が建てられ近代郵便事業が開始されたそうです。

    その後、各地に郵便役所が建てられ、伊勢の宇治山田にも同5年わずか4坪の小さな役所が開業。その後、明治42年に伊勢外宮前の角地にこの立派な西洋風建物が新築されたのだそうです。

  • 中央には円錐ドームの屋根を頂き、正面の左右に小ドームの載る角塔を立て、外装はハーフティンバー様式とした美しい郵便局です♪

    中央には円錐ドームの屋根を頂き、正面の左右に小ドームの載る角塔を立て、外装はハーフティンバー様式とした美しい郵便局です♪

  • 中に入ると、円形のホールがあり、その周囲にはカウンターが廻らされています。<br /><br />歴代の郵便ポストも展示されていました。<br />郵便制度が開始されると、直ちに四種の切手が発行され、書状集箱と呼ばれるポストも設置されたのだとか。明治5年には角柱型の黒塗りポストとなり、その後馴染みのある赤いポストに変えられたそうです。

    中に入ると、円形のホールがあり、その周囲にはカウンターが廻らされています。

    歴代の郵便ポストも展示されていました。
    郵便制度が開始されると、直ちに四種の切手が発行され、書状集箱と呼ばれるポストも設置されたのだとか。明治5年には角柱型の黒塗りポストとなり、その後馴染みのある赤いポストに変えられたそうです。

  • これは、明治4年に設置された初期の書状箱です。今のポストとは全く違い、小さな木の箱だったんですね。<br /><br />

    これは、明治4年に設置された初期の書状箱です。今のポストとは全く違い、小さな木の箱だったんですね。

  • これは、『工部省品川硝子製造所』で、今は<デンキブラン汐留バー>として洋風バーになっています。

    これは、『工部省品川硝子製造所』で、今は<デンキブラン汐留バー>として洋風バーになっています。

  • 前にウッドデッキがあり、多くの人たちが食事やお酒を楽しんでいました。

    前にウッドデッキがあり、多くの人たちが食事やお酒を楽しんでいました。

  • さて、さらに進んでいくと、楽しそうな一画が見えてきました。

    さて、さらに進んでいくと、楽しそうな一画が見えてきました。

  • 板塀には、レトロな張り紙を発見!

    板塀には、レトロな張り紙を発見!

  • 今でいうお店の宣伝のためのポスター広告でした。<br /><br />美しい女性が主役のポスターです。

    今でいうお店の宣伝のためのポスター広告でした。

    美しい女性が主役のポスターです。

  • この家は東京本郷にあった新井家経営の理髪店『喜之床』です。<br /><br />明治43年頃に建てられ、1階は理髪店「喜之床」で、2階は石川啄木が母かつ、妻節子、長女京子と共に明治42年から44年まで住んでいたそうです。<br /><br />啄木はここで文学生活をしながら、京橋滝山町の東京朝日新聞社校正部に勤めていたということです。

    この家は東京本郷にあった新井家経営の理髪店『喜之床』です。

    明治43年頃に建てられ、1階は理髪店「喜之床」で、2階は石川啄木が母かつ、妻節子、長女京子と共に明治42年から44年まで住んでいたそうです。

    啄木はここで文学生活をしながら、京橋滝山町の東京朝日新聞社校正部に勤めていたということです。

  • 1階の理髪店の様子です。<br /><br />結構立派な椅子が並び、ここに座って西洋風の髪型にしてもらっていたんですね~<br />天井付近に、当時の男性の髪型がわかる絵が掲げられていました。

    1階の理髪店の様子です。

    結構立派な椅子が並び、ここに座って西洋風の髪型にしてもらっていたんですね~
    天井付近に、当時の男性の髪型がわかる絵が掲げられていました。

  • お隣は駄菓子屋さんでした♪

    お隣は駄菓子屋さんでした♪

  • この建物は、東京に住んだ小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)が夏の間に住んだ、魚屋、山口乙吉の家だそうです。<br /><br />1階は左に店、座敷が並ぶ構造だったようで、明治村では駄菓子販売店として使われているのだそうです。

    この建物は、東京に住んだ小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)が夏の間に住んだ、魚屋、山口乙吉の家だそうです。

    1階は左に店、座敷が並ぶ構造だったようで、明治村では駄菓子販売店として使われているのだそうです。

  • 小さな頃を思い出す、懐かしい駄菓子屋さんの光景です!

    小さな頃を思い出す、懐かしい駄菓子屋さんの光景です!

  • 昔は、5円から駄菓子が売られていて、当たりくじのついたもの、ちょっとしたおもちゃがついたものなどもあって、30円くらいを手にして、どれにしようかと迷っていたような気がします(笑)<br /><br />今でもよく似たものが販売されているのですね~~

    昔は、5円から駄菓子が売られていて、当たりくじのついたもの、ちょっとしたおもちゃがついたものなどもあって、30円くらいを手にして、どれにしようかと迷っていたような気がします(笑)

    今でもよく似たものが販売されているのですね~~

  • 江戸時代以来の伝統建築の名残を留めるこの芝居小屋は、『呉服座』です。<br /><br />入口下屋の軒下には出し物の絵看板を掲げています。<br /><br />この芝居小屋は、明治初年大阪府池田市の戎神社の近くに建てられ、<戎座>と呼ばれていましたが、明治25年に同じ池田市の猪名川の川岸に移され、名称も<呉服座>と改められたそうです。ここでは地方巡業の歌舞伎をはじめ、壮士芝居、新派、落語、浪曲、講談、漫才等様々なものが演じられていたということです。

    江戸時代以来の伝統建築の名残を留めるこの芝居小屋は、『呉服座』です。

    入口下屋の軒下には出し物の絵看板を掲げています。

    この芝居小屋は、明治初年大阪府池田市の戎神社の近くに建てられ、<戎座>と呼ばれていましたが、明治25年に同じ池田市の猪名川の川岸に移され、名称も<呉服座>と改められたそうです。ここでは地方巡業の歌舞伎をはじめ、壮士芝居、新派、落語、浪曲、講談、漫才等様々なものが演じられていたということです。

  • その先の小高いところに『聖ザビエル天主堂』が見えました。<br /><br />

    その先の小高いところに『聖ザビエル天主堂』が見えました。

  • ここからは、最後の5丁目エリアになります!

    ここからは、最後の5丁目エリアになります!

  • この白亜の教会堂は、近世初頭日本に渡来しキリスト教の伝道に努めた聖フランシスコ・ザビエルを記念して、明治23年、かつてザビエルがいたことのある京都の地に献堂されたカトリックの教会堂。<br /><br />正面のバラ窓が印象的で、窓はすべてステンドグラスで、太陽の光が差し込むと堂内は鮮やかな光でいっぱいになるそうです。<br /><br />ぜひ内部を見たかったのですが、この時は中でイベントが行われていて、入ることができませんでした。残念すぎます°°・(>_<)・°°<br />

    この白亜の教会堂は、近世初頭日本に渡来しキリスト教の伝道に努めた聖フランシスコ・ザビエルを記念して、明治23年、かつてザビエルがいたことのある京都の地に献堂されたカトリックの教会堂。

    正面のバラ窓が印象的で、窓はすべてステンドグラスで、太陽の光が差し込むと堂内は鮮やかな光でいっぱいになるそうです。

    ぜひ内部を見たかったのですが、この時は中でイベントが行われていて、入ることができませんでした。残念すぎます°°・(>_<)・°°

  • 高台にある天主堂のあたりから、秋景色の入鹿池が見えていました。

    高台にある天主堂のあたりから、秋景色の入鹿池が見えていました。

  • 『聖ザビエル天主堂』のある高台を下っていくと、『隅田川新大橋』『川崎銀行本店』『内閣文庫』が見えてきました。

    『聖ザビエル天主堂』のある高台を下っていくと、『隅田川新大橋』『川崎銀行本店』『内閣文庫』が見えてきました。

  • このレンガ造りの立派な門は、『金沢監獄正門』です。<br /><br />明治になり近代的な監獄制度が決められ、新監獄の建設が始まったそうです。<br />各地で建設が進み、金沢監獄が造られたのは明治40年のこと。南北250m、東西190mの敷地はレンガ造の高い塀で囲われ、この門が正門になったそうです。

    このレンガ造りの立派な門は、『金沢監獄正門』です。

    明治になり近代的な監獄制度が決められ、新監獄の建設が始まったそうです。
    各地で建設が進み、金沢監獄が造られたのは明治40年のこと。南北250m、東西190mの敷地はレンガ造の高い塀で囲われ、この門が正門になったそうです。

  • これは、八角形の『金沢監獄中央看守所』で、この建物を中心に、左右及び正面奥と左右斜め奥に五つの舎房が放射状に配されていたそうです。

    これは、八角形の『金沢監獄中央看守所』で、この建物を中心に、左右及び正面奥と左右斜め奥に五つの舎房が放射状に配されていたそうです。

  • 中に入ると、中央看守所の中央には看視室が置かれ、ここから各舎房の廊下が一目で見渡せるようになっていました。<br /><br />今年、奈良少年刑務所が廃止され、ホテルになるという報道がありましたが、この方式が採用されていました。

    中に入ると、中央看守所の中央には看視室が置かれ、ここから各舎房の廊下が一目で見渡せるようになっていました。

    今年、奈良少年刑務所が廃止され、ホテルになるという報道がありましたが、この方式が採用されていました。

  • 広い廊下の左右に独居房の重い扉が整然と並ぶ第五舎房の内部です。<br /><br />明治時代の監獄の食事も再現されていたり、家族に手紙を書く「書信室」も展示されていました。

    広い廊下の左右に独居房の重い扉が整然と並ぶ第五舎房の内部です。

    明治時代の監獄の食事も再現されていたり、家族に手紙を書く「書信室」も展示されていました。

  • 池に架かっている石造アーチ橋は『天童眼鏡橋』で、明治20年、山形県の天童にそれまであった木橋に替えて架けられたものだそうです。

    池に架かっている石造アーチ橋は『天童眼鏡橋』で、明治20年、山形県の天童にそれまであった木橋に替えて架けられたものだそうです。

  • これは『内閣文庫』で、明治6年(1873)赤坂離宮内に太政官文庫という名で開設された明治政府の中央図書館だそうです。<br /><br />本格的なルネッサンス様式のデザインの建物で、内閣制度の制定とともに内閣文庫と改称され、昭和46年国立公文書館が設立されるまで広く利用されたのだとか。

    これは『内閣文庫』で、明治6年(1873)赤坂離宮内に太政官文庫という名で開設された明治政府の中央図書館だそうです。

    本格的なルネッサンス様式のデザインの建物で、内閣制度の制定とともに内閣文庫と改称され、昭和46年国立公文書館が設立されるまで広く利用されたのだとか。

  • 最後に、『帝国ホテル中央玄関』を見学しました。<br /><br />この建物は、20世紀建築界の巨匠、アメリカの建築家フランク・ロイド・ライトによって設計され、大正12年(1923)4年間の大工事の後に完成した帝国ホテルの中央玄関部として利用されたそうです。

    最後に、『帝国ホテル中央玄関』を見学しました。

    この建物は、20世紀建築界の巨匠、アメリカの建築家フランク・ロイド・ライトによって設計され、大正12年(1923)4年間の大工事の後に完成した帝国ホテルの中央玄関部として利用されたそうです。

  • 帝国ホテルの全容は、日比谷通り側、間口約100m、奥行約150m余の広大な敷地に、正面中央の前池、その奥の中央玄関、二層吹抜きのレストラン、高層の劇場棟などが連続し、それらを挟むように全長150m・3階建ての客室棟が2列建っていたそうです。<br /><br />あまりにたくさんの場所を回ったので、一つ一つの見どころの魅力を十分お伝えすることができなかったと思います。それでも私自身は、ここ明治村を訪れて、江戸から明治へと、大きく変わった文明開化の頃の日本を垣間見ることができ、とても楽しかったです♪ ハイカラなものもたくさん見つけることができました^ ^<br /><br />長い旅行記に付き合っていただき、ありがとうございました☆☆

    帝国ホテルの全容は、日比谷通り側、間口約100m、奥行約150m余の広大な敷地に、正面中央の前池、その奥の中央玄関、二層吹抜きのレストラン、高層の劇場棟などが連続し、それらを挟むように全長150m・3階建ての客室棟が2列建っていたそうです。

    あまりにたくさんの場所を回ったので、一つ一つの見どころの魅力を十分お伝えすることができなかったと思います。それでも私自身は、ここ明治村を訪れて、江戸から明治へと、大きく変わった文明開化の頃の日本を垣間見ることができ、とても楽しかったです♪ ハイカラなものもたくさん見つけることができました^ ^

    長い旅行記に付き合っていただき、ありがとうございました☆☆

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この旅行記へのコメント (10)

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  • みちるさん 2017/11/27 20:49:26
    ようこそ~名古屋へ
    akikoさん、こんばんは
    そしてようこそ、名古屋へ。
    大阪に比べれば、大したことない名古屋ですが、ご訪問ありがとうございます。
    『水の宇宙船』って、知らなかったわ~
    私は、オアシスからバスに乗って帰宅するのですが、ここ素通り。
    今度行ってみようかな。
    面白い写真が撮れましたね。
    明治村は、20年以上前、両親と夫の4人で出かけて以来行くことはなかったので、当時訪れたのもあり、たぶん新しい建物も増えていると思います。
    『西郷從道邸』は覚えてます。
    あの時、夜会服を着た案内嬢がいて雰囲気満点でした。
    『金沢監獄中央看守所』は、網走刑務所と似てますね。たぶん同時代に建てられたのでしょうか。

    見どころはいっぱいなので、時間が足りなかったでしょう。
    犬山には、他にリトルワールドもありますし、またおいでくださいね。


    akiko

    akikoさん からの返信 2017/11/28 23:00:59
    RE: ようこそ?名古屋へ
    みちるさん、こんばんは〜

    みちるさんは、名古屋はホームグラウンドでしたね!
    先日、名古屋にお邪魔して、おしゃべりに時間をかけてしまい、あまり観光はできなかったのですが、思ったより大都会で、また居心地も良かったです。それから食べ物も美味しかったです♪

    『水の宇宙船』は、夕方から夜にかけて訪れ、ライトアップしていたこともあって、近未来都市にいるような不思議な感じがしました。みちるさんも夜に最上階まで上がってみてください。とても綺麗でした♪♪

    > 面白い写真が撮れましたね。

    そうなんです^ ^ それで、無理やり『明治村』の旅行記に加えてしまいました(笑)

    > 明治村は、20年以上前、両親と夫の4人で出かけて以来行くことはなかったので、当時訪れたのもあり、たぶん新しい建物も増えていると思います。

    そうでしょうね。きっと以前より見応えもあるのではないかと思います。イベントも随時開催されているみたいでした。

    > 『西郷從道邸』は覚えてます。
    > あの時、夜会服を着た案内嬢がいて雰囲気満点でした。

    そうそう、今回も当時の洋服を着た方が楽しく案内してくれました。この館だけでも初期の洋館を楽しむことができました。

    > 『金沢監獄中央看守所』は、網走刑務所と似てますね。たぶん同時代に建てられたのでしょうか。

    私は網走刑務所は知らないのですが、関西でこの間、奈良の少年刑務所が廃止されたのですが、大変立派な造りで、よく似た構造でした。明治初期は西洋を真似てたくさん立派な刑務所が建設されたみたいですね。

    > 見どころはいっぱいなので、時間が足りなかったでしょう。

    どの建物も興味深く、見学方法も工夫されていて、一日では見切れませんでした。

    > 犬山には、他にリトルワールドもありますし、またおいでくださいね。

    ぜひ、ぜひ!また行かせてもらいますね〜(*^^*)

    akiko
  • こあひるさん 2017/11/19 16:25:39
    見ごたえある明治村
    akikoさん、こんばんは。

    明治村・・・ここはずっと気になっているスポットのひとつです(とはいえ、なかなか行く機会はなさそうですが)。

    名古屋からバスで行けるのですね。

    それにしても・・・江戸時代からの日本の歴史を感じさせる建物がたくさん移築されていて・・・見ごたえありますね。内部も見て周ると、朝10時から周っても、1日がかり(1日で見れるかな?)ですね。

    歴史的にも価値のある・・・ストーリーのあるお家たち。当時の人たちの生活を思い浮かべながら見るととっても楽しそうです。

    移築した建物を単に置いてあるだけでなく、家並み風にしているのがとてもフォトジェニックでいいですね。

    どこの時代にタイムトリップしたのかしら?と思っちゃうような不思議な気分になります。

    旧帝国ホテルがまた・・・いいですね~。東京から失われたのがもったいないです!

    こあひる

    akiko

    akikoさん からの返信 2017/11/20 06:58:14
    RE: 見ごたえある明治村
    こあひるさん

    明治村の旅行記見ていただいたのですね☆

    今回、名古屋に行ったついでに行きたかった明治村を訪れてきました。名古屋市内から少し離れていて、電車〜バスかバスで行けるんです。

    > それにしても・・・江戸時代からの日本の歴史を感じさせる建物がたくさん移築されていて・・・見ごたえありますね。内部も見て周ると、朝10時から周っても、1日がかり(1日で見れるかな?)ですね。

    そうなんです。一つ一つきちんと見て回ると、一日では無理だと思います。どの建物も見応えあるものばかりで、私も全ては見ることができませんでした。

    > 歴史的にも価値のある・・・ストーリーのあるお家たち。当時の人たちの生活を思い浮かべながら見るととっても楽しそうです。

    おっしゃる通りで、住んでいた人たちの実物大の写真もあったりして、当時の暮らしぶりについて想像が膨らみました。

    > 移築した建物を単に置いてあるだけでなく、家並み風にしているのがとてもフォトジェニックでいいですね。

    それぞれの家があるべき場所にうまく配置されて、違和感なく街が出来上がっていました。どこから撮っても写真映えすると感じました♪

    > どこの時代にタイムトリップしたのかしら?と思っちゃうような不思議な気分になります。

    文明開化の時代に紛れ込んだ気分が味わえますよ(*^^*) ハイカラ衣装も借りて散策もできますし・・・

    > 旧帝国ホテルがまた・・・いいですね?。東京から失われたのがもったいないです!

    そうですね!今でも十分通用しそうなフランク・ロイド・ ライト設計の立派な建物でした!!内部にティールームがあって優雅にお茶することもできるそうです♪

    名古屋方面に行かれることがあれば、ぜひ訪ねてみてくださいね。

    akiko
  • cheriko330さん 2017/11/17 02:05:59
    テーマパークというよりは・・・☆
    akikoさん、こんばんは~♪

    秋晴れのお天気続きですが、風が冷たくなりました彡
    近くの公園も紅葉がきれいです。

    文化の日の翌日に明治村を楽しまれたのですね。
    いつもタイムラインに載った旅行記を見て、すぐに
    駆け付けるのですが、この分は見てません。きっと
    口コミをたくさん書かれた方がいたので、見逃したのだと
    思いますが、投稿日はいつだったのですか?
    フォローのところから、最新の旅行記を見て変わっている?
    あれっ?と思いお訪ねしました。
    やっぱり新作が!!

    私もずい分と前から行きたいと気になるところでした。
    名古屋は、何度か立ち寄った程度で詳しくないのです。
    近代的な建物が建っているのですね。

    明治村は、テーマパークというより、そのまま息づいていて一つの
    町のようで、今でも日々の生活が営まれているようですね。
    造りものじゃないのでそう思うのでしょうね。

    神戸や横浜の異人館も好きです。
    とても広いところをたくさん回られましたね。一つ一つ
    丁寧な説明もして下さっていて楽しませていただきました。
    初めて知った西郷從道公は、素敵な洋館にお住まいだったのですね。
    ここのベランダで毎日紅葉や季節の移ろいをを楽しんだり、お茶など
    できたら幸せです。

    さすが文化財のオンパレード、一度は行くべきですね☆
    聖ザビエル天主堂の内部が見れなくて、心残りでしたね。
    フランク・ロイド・ライトの帝国ホテルも一見の価値が
    ありました。
    『アンと花子』もここでロケが行われたのですね。
    『わろてんか』で見た芝居小屋も、そっくりなのがありました。

    ハイカラさんの格好で写っているカップルは、観光客で衣装を
    借りれるのですか?

    最後になりましたが、先日久々に見た旅行記で投票済のはずの
    旅行記がポチ漏れでした<(_ _*)>
    こっそりポチしたかったけど、そうもいきません。リニューアル後
    不便になったものばかりですが、投稿日も載っていなし一目でポチ済か
    否か分かるのだけが良いですよね。

    週末より寒くなるようです。お互いに風邪など引かないように
    気を付けましょうね (*'▽')/

    では、また~♪

    cheriko330

    akiko

    akikoさん からの返信 2017/11/17 22:34:50
    RE: テーマパークというよりは・・・☆
    cheriko330さん、こんばんは♪

    ちょうど今寒波がきてるせいでもあるんでしょうが、もう冬のようですね。
    もう少し秋を楽しみたいです〜(>_>)

    明治村の旅行記は確か12日に投稿したような・・・最近は投稿日が表示されなくなったんですね。

    ところで、cherikoさんも明治村に興味を持たれていたのですね!

    > 明治村は、テーマパークというより、そのまま息づいていて一つの
    > 町のようで、今でも日々の生活が営まれているようですね。
    > 造りものじゃないのでそう思うのでしょうね。

    ほとんどのものが移築されてきて、ここでまるで昔から建っていたように違和感なく町が出来上がっています。 cherikoさんの言われるように、息づいていて、日々の生活が営まれているように感じました。

    > 神戸や横浜の異人館も好きです。

    私も好きで、「神戸山手西洋人住居」や「長崎居留地二十五番館」を見るのを楽しみにしていたのですが、修復中で見ることができなかったんです。

    > 初めて知った西郷從道公は、素敵な洋館にお住まいだったのですね。
    > ここのベランダで毎日紅葉や季節の移ろいをを楽しんだり、お茶など
    > できたら幸せです。

    明治初頭にあのような瀟洒な洋館を建てたなんてすごいですよね!内部も洋館そのものでした。ベランダも素敵で、おっしゃるように、ゲストの方も日本の庭の景色を楽しんだりしていたのでしょうね〜

    > さすが文化財のオンパレード、一度は行くべきですね☆

    行く価値はあります!!(*^^*)

    > 聖ザビエル天主堂の内部が見れなくて、心残りでしたね。

    そうなんです。バラ窓も太陽の光が差し込むと堂内は鮮やかな光でいっぱいになるというステンドグラスも見たかったです。

    > フランク・ロイド・ライトの帝国ホテルも一見の価値が
    > ありました。
    > 『アンと花子』もここでロケが行われたのですね。

    そうなんですって。帝国ホテルはとても重厚な造りで、今でも十分使えそうな建物でした。

    > 『わろてんか』で見た芝居小屋も、そっくりなのがありました。

    芝居小屋の『呉服座』ですね?

    > ハイカラさんの格好で写っているカップルは、観光客で衣装を
    > 借りれるのですか?

    「ハイカラ衣装館」という場所があって、ハイカラなドレスや袴を借りて記念写真を撮ったり、散策もできるようでした。衣装を借りて、文明開化の時代に戻った気分で村内を歩くのも楽しそうですね!

    フランスの旅行記まで見ていただいたようで、投票まで、ありがとうございます♪♪
    (なんだかリニューアル版、便利なのか、不便なのかよくわからないですね〜〜)

    今日は金曜日☆☆ 素敵な週末をお過ごしくださいね〜

    akiko
  • あまいみかんさん 2017/11/14 09:05:45
    紅葉の明治村めぐり~♪♪
    akiko様、

    おはようございます!
    明治村って聞くと、子供達の修学旅行って連想してしまいますが
    大人こそ楽しめる場所なんだ~っとわかりました。
    一昨年、犬山城迄行きながら、そんな考えで明治村をパスしたのが
    悔やまれます・・・。
    江戸から明治へ、西洋の政治、文化を即刻吸収して行った時代の
    建物が、西洋館から、日本の家屋まで見れて、とても充実した
    体験型博物村なんですね~。
    帝国ホテルから、監獄から、政庁舎建築から、聖堂などの
    西洋建築どれも実に実に立派。
    また、日本を代表する作家方が住んだことのある住居も大変興味深く
    知る事ができました。
    幸田文さんの小説の中に出て来る露伴(とても厳しくてきちんとした人だった
    らしい)等というのを、綺麗にレイアウトされたお写真から、こんな感じで
    お住まいだったのか~などと感心したり・・・。
    日本全国から、残しておくにふさわしい建物が、集められているのですね。
    旅行記の中にある池田市の呉服座は今も落語や大衆演劇の場として
    利用されているので、その前の姿なのかなっと思ったり。
    昔懐かしいボンネットバスや市電も有ったりして、
    紅葉の気持ちの良い季節の中で、爽やかな懐かしさとハイカラさが
    ガンガン伝わって来ましたヨ!!!
    行って見るべき場所ですね~!!
    いやあ~、akikoさんも5円や10円玉を握りしめて~、
    駄菓子屋を楽しまれたんですね・・・当たりが出るとも一つ貰えたりして
    そんな庶民的な体験も明治村でできるなんて・・・
    子供時代に戻れるタイムトンネルの様にも感じました。

    有難うございました。
    あまいみかん

    akiko

    akikoさん からの返信 2017/11/14 22:44:36
    RE: 紅葉の明治村めぐり?♪♪
    あまいみかんさま

    こんばんは。

    おっしゃるように、明治村は大人こそ楽しめる場所だと思いました。

    > 江戸から明治へ、西洋の政治、文化を即刻吸収して行った時代の
    > 建物が、西洋館から、日本の家屋まで見れて、とても充実した
    > 体験型博物村なんですね?。

    その通りですー☆ 今思うと、明治になると、何もかもあっという間に西洋化されましたが、そのエネルギーってすごいですね!建築物だけではなく電話・郵便・教育制度・鉄道など当時の様子を実際に見て、驚くほど早く改良されたのにびっくり!!一応、歴史は習いましたが、実際目にすると、よくわかること!(笑)

    > 帝国ホテルから、監獄から、政庁舎建築から、聖堂などの
    > 西洋建築どれも実に実に立派。

    そうでしょう。海外視察をして、それを取り入れて作ったのでしょうが、今見ても素晴らしい建築ですよね!!

    > また、日本を代表する作家方が住んだことのある住居も大変興味深く
    > 知る事ができました。
    > 幸田文さんの小説の中に出て来る露伴(とても厳しくてきちんとした人だった
    > らしい)等というのを、綺麗にレイアウトされたお写真から、こんな感じで
    > お住まいだったのか?などと感心したり・・・。

    幸田露伴について「五重塔」を書いたことくらいしか知らないのですが、娘の文さんの小説に父・露伴が登場するのですね。写真を見る限り、露伴さんは優しそうな感じがしますよね〜

    > 日本全国から、残しておくにふさわしい建物が、集められているのですね。
    > 旅行記の中にある池田市の呉服座は今も落語や大衆演劇の場として
    > 利用されているので、その前の姿なのかなっと思ったり。

    私も同じことを思っていました(⌒▽⌒)

    > 昔懐かしいボンネットバスや市電も有ったりして、
    > 紅葉の気持ちの良い季節の中で、爽やかな懐かしさとハイカラさが
    > ガンガン伝わって来ましたヨ!!!
    > 行って見るべき場所ですね?!!

    はい!(笑)一日では足りないくらい、楽しく文明開化の頃を体験しつつ見て回れます。

    > いやあ?、akikoさんも5円や10円玉を握りしめて?、
    > 駄菓子屋を楽しまれたんですね・・・当たりが出るとも一つ貰えたりして

    そうでした^ ^ お小遣い数十円持って友達と駄菓子屋さんによく行ったものです。
    当たりが出るともう一つもらえましたね!

    > そんな庶民的な体験も明治村でできるなんて・・・
    > 子供時代に戻れるタイムトンネルの様にも感じました。

    その表現、いただきます!明治村は「子供時代に戻れるタイムトンネル」のような場所でした!キャッチフレーズで使えそうです(笑)

    コメントをいただきありがとうございました♪♪

    akiko
  • kikiさん 2017/11/14 08:30:18
    お早うございます
    akiko 様

    明治村
    機会が無く、行った事無いです

    名古屋は学生時代過ごしたのですが
    変わったもんですね~
    栄て、こんな事になっているのですか?
    是非一度ゆっくり訪れたいものです

    では、仕事して午後から成田に向かいます~~
    (追伸、帰りはセントレア。。でも名古屋観光する時間はなし 残念)

    kiki (^^)

    akiko

    akikoさん からの返信 2017/11/14 21:10:46
    RE: お早うございます
    kikiさん、お忙しい中メッセージありがとう♪♪

    kikiさんは名古屋で暮らしておられたことがあるのですね。
    きっとその時から比べると、ずいぶん街は変化したと
    思います。
    私は初めてだったのですが、名古屋駅出るなり超高層ビル
    が建っていて・・・
    オアシス21もとても斬新なデザインの施設で、ちょっと
    びっくり!!

    明治村も機会があれば、ぜひ行ってみてくださいね。
    ハイカラ衣装館で明治時代風ドレスや袴姿に着がえて
    写真撮ったり、散歩に出かけたりできて楽しそうでした。

    今晩からハワイに行かれるんですね♪
    今回もたくさん楽しんできてくださいね!!
    行ってらっしゃい〜〜

    akiko

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