2017/10/14 - 2017/10/14
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名古屋のmisakoさん
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平泉寺白山神社参拝時にいただいた泰澄大師スタンプラリー帳の金前寺を拝観予定、思いかけず、人道の港敦賀ムゼウムが近くなので寄ってみました
この日は敦賀港で観光物産inみなと敦賀2017が行われていて賑わっていました
金前寺 Pあり
福井県敦賀市金ヶ崎町1-4 金前寺
拝観無料
金崎宮 Pあり
福井県敦賀市金ヶ崎町1-4
敦賀赤レンガ倉庫 P有り
福井県敦賀市金ケ崎町4番1号
開館時間9:30 ~ 22:00
[北棟(ジオラマ館)] 9:30 ~ 17:30 (最終入館は17:00)
休館日水曜日(祝日の場合その翌日)
12月30日から翌年1月1日まで
ご利用料金
区分 金額 北棟(ジオラマ館)
一般【個人】1人400円 【団体】1人320円
小学生以下【個人】1人200円 【団体】1人160円
模型運転体験1台につき1回当たり100円(3分間)
人道の港敦賀ムゼウム P有り
福井県敦賀市金ヶ崎町44-1(金ヶ崎緑地内)
ムゼウムはポーランド語で資料館を意味します
開館時間午前9時00分から午後5時00分まで
※入館受付は午後4時30分までです。
休 館 日12月29日から1月3日まで
展示協力金100円のご協力をお願いします。
(高校生以下は無料)
敦賀鉄道資料館 敦賀市 港町1-25
【開館時間】
午前9時~午後5時
【休館日】
月曜日(祝日の場合は翌平日)、12月29日~1月3日
※その他、特別な理由(天災など)により臨時休館する場合があります。
【入館料】
無料
- 旅行の満足度
- 4.5
- 観光
- 4.5
- グルメ
- 4.5
- 交通
- 4.5
- 同行者
- カップル・夫婦
- 一人あたり費用
- 1万円未満
- 交通手段
- 自家用車
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金前寺には昭和20年(1945年)の敦賀空襲の時まで、縁結びで知られた十一面観音が本尊として祀られていました。人々から「袴掛観音」(はかまかけかんのん)と呼ばれたこの仏様は、古く「今昔物語集」(平安末期の説話集)などに由来が記されています。その話とは
昔、敦賀に一人娘とその父母が住んでいた。娘に何度か夫を迎えたが、いずれも離縁となった。両親はあきらめ、家の後ろに堂を建て観音を安置して、娘を守ってくださるようにと祈った。まもなく父も母も死に、次第に
衣食にも窮するようになった。娘が観音に向かって助けたまえと願ううちに、夢の中に老いた僧が現れて「夫を見つけてやろう。明日ここに来る。その人の言う事に従え」と告げた。
翌日の夕方、馬の足音がして大勢の人がやって来た。一行は若狭へ向かう途中で、この家を宿として貸して欲しいという。見れば主人は30歳程の好男子である。従者など70人から80人ばかりいる。男は美濃の豪族の一人息子で、深く愛していた妻を亡くし、再婚話も断って一人身でいた。男は娘が話す様子など全てが、妻と生き写しであることに驚き喜んだ。
翌日、男たちは若狭へ向かい、従者20人ほどが敦賀に残ったが、これらの人に食べさせるものもなく困っていると、以前、父母に召し使われていた者の娘だと名乗る女が、思いがけなく訪ねてきた。わけを話すと、女はしばらくして食べ物や、馬の草を運んできた。
翌日の夕刻、若狭から一行が戻ると、その世話も全て女がしてくれた。男は、娘を明日美濃へ連れて帰るという。娘は助けてくれた女に何かお礼をと思い、ただ一着、紅の絹の袴があったので、自分は男が脱ぎ捨てた白い袴をはき、女に紅の袴を与えようとした。女は受け取ろうとしなかったが「思いがけず美濃に行く事になったから、これを形見に」と無理に取らせた。
出立のときに、観音にお参りすると、その肩に赤いものがかかっている。見ると前夜にあの女に与えた袴である。さては女と思ったのは観音が変じて助けて下さったのだと気づき、娘は身もだえして泣いた。男も事の次第を聞いて涙を流し、従者達もその話に胸をうたれた。その後、二人は美濃で仲むつまじく暮らし、子供が多く生まれた。敦賀にもしばしば通って観音の世話をし、手を尽くしてその女を捜したが、ついぞ見つからなかった。
(「今昔物語集」巻第十六から要約)関西電力㈱わかさ探訪より
(金前寺HPより) -
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高野山真言宗誓法山金前寺
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誓法山金前寺(せいほうざんこんぜんじ)は、天平8年(736年、奈良時代)45代聖武天皇の霊夢により勅を奉じた泰澄大師が十一面観音の 坐像を本尊として寺を建て、天皇親筆による金光明経を賜り、その経を金櫃に封じて陵丘に埋めさせ給うた。それによりこの山を金ヶ崎(かねがさき)と名付け、寺名を金前寺と号した。尚、金前寺の所伝によれば金前というのは金光を発する十一面観音からその名が出たとも云われる。
弘仁2年(811年)弘法大師ご留錫(りゅうしゃく)あり。 当山は気比神宮の奥の院として、伽藍十二坊を有し、本尊、袴掛観音(はかまかけかんのん)は縁結びの観音として霊験あらたかであった。この金前寺こそ、南北朝の延元に入るや、北国の鎮護(ちんご)として下向し給うた後醍醐天皇の皇子恒良親王(つねながしんのう)、及び尊良親王(たかながしんのう)を迎え奉って、気比社の祠官気比氏治(けひうじはる)氏以下いくたの忠勇義烈(ちゅうゆうぎれつ)の士が足利の軍をひきうけて一大決戦の本営となったが、武運つたなく足利軍に破れた。
(現在金ヶ崎宮の地)
以後、寛文2年(1662年)安孫子浄泉(あびこじょうせん)打宅宗貞(うたむねさだ)等が現在地に観音堂を再建し、鎮護国家・済世利人の祈願寺として法灯相続せしも、昭和20年7月12日夜、米国空軍による爆撃により堂宇(どうう)、寺宝の一切を焼失灰塵と化した。
現在の本尊十一面観音の立像は、当時金前寺の末寺であった気比蔵寺の本尊で、戦時中は美浜町の園林寺 (おんりんじ)に疎開されており、幸にも空爆からまぬがれた。終戦直後昭和21年4月より本堂再建に着手しその年に本尊を迎えた。
その後は昭和27年、37年に本堂の修復増築工事。平成元年には現在の本堂、庫裡を再建する
(金前寺HPより) -
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当時の賑わいを今に伝えるランプ小屋
敦賀港駅は当初金ヶ崎駅と呼ばれていました。明治末期から昭和初期にかけて欧亜国際列車が運行され、ここからウラジオストク航路に乗り継ぎ、遥か欧州を目指す人や荷物で賑わっていた場所です。ランプ小屋は、列車の灯火に使用されるカンテラの燃料を保管する油庫として、かつては主要な駅に一般的に存在したものです。しかし光源が電灯に変わるなどして、その用途が消滅すると、駅の増改築などで急速にその姿を消していきました。
ランプ小屋は1882年(明治15年)頃に建てられました。近代のコンクリートブロックやスレート造のものとは違い、丁寧に積み上げられたレンガや開口部のアーチなどは、独特の趣があります。そのレンガには、ところどころに四角い小さな文字が刻まれています。これはレンガを作った職人のサインのようなものです。(敦賀観光協会HPより) -
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延元元年(1336年)5月、九州で再挙した足利尊氏が京都に攻め寄せると、後醍醐天皇はこれを比叡山に避けられた が、同年10月に至って一旦尊氏の請を容れられ、京都に還幸されることになり、その際天皇は別に新田義貞(にったよしさだ)に命じ、尊良親王・恒良親王を 奉じて北陸道の鎮撫、官軍再興のために下向せしめられた。
新田義貞一行は雪中の木の芽峠を越えて敦賀(つるが)に着き、氣比神宮(けひじんぐう)の大宮司氣比氏 治に迎えられその居城、金ヶ崎城に入った。一方足利尊氏は高師泰(こうのもろやす)を総大将として兵六万余もって陸海より金ヶ崎城を攻撃、延元2年正月、 杣山城(そまやまじょう)の瓜生保、里見時成等兵五千余も金ヶ崎の急を救わんとしたが、迎撃に遭い、保、時成等戦死、3月6日遂に落城、尊良親王は新田義 顕(新田義貞嫡子)以下将士三百余人と共に亡くなられた。尊良親王御年27歳、義顕18歳であったと伝えられる。
恒良親王は、氣比氏治が子息斎晴によって脱出されたが、後に捕らえられて京都に幽閉され、延元3年4月13日毒薬を盛られて亡くなられた。御年15歳であったという。
明治の御代に至り、当地敦賀の人々の熱烈なる請願により、明治23年9月尊良親王を御祭神とし、宮号を 金崎宮として官幣中社に加列せらるる旨仰出された。同25年11月には恒良親王を本宮に合祀され、同26年5月5日勅使参向せしめられ鎮座祭及び奉告祭を 執行、翌6、7日両日に奉祝祭を執行し、以来毎年6日をもって例祭日と定められた。
しかし、同36年3月、町内よりの出火により本殿以下三棟を焼失、日露戦争後の同39年4月に正還宮再建されたが、この時御本殿は現在の地に移され、建築様式も流造より神明造に改められた。
昭和57年本殿等の破損著しく改築、桧皮葺の本殿、瓦葺の拝殿等が銅版葺に改められ、現在に至る。
(金崎宮HPより) -
御祭神
尊良親王(たかながしんのう)※後醍醐天皇一の宮
恒良親王(つねながしんのう)※後醍醐天皇皇太子
御祭徳
「縁結び・恋愛成就」
「難関突破」
「開運招福」
「金運招福」
(金崎宮HPより) -
花換まつりや小豆袋守で知られています
花換まつりとは-
金崎宮へ桜見物に訪れた男女が「花換えましょう」と声をかけあい、桜の小枝を交換することで思いを伝えたといわれる、ロマンチックなお祭りです。
「花換え」をしたカップルは将来幸せに恵まれるといわれています。
難関突破守(小豆袋守)
織田信長、朝倉攻めの折り妹お市の方は浅井・朝倉両軍に挟まれ窮地に陥ったことを知らせるため、両方を紐で結んだ袋に小豆を入れ陣中に届けたという。この2ヶ月後、信長は近江姉川にて浅井、朝倉軍を破る。
今は大変厳しい状況にあってもここを乗り越えれば未来があると言うお守り。
ちょっと大きくて太いのは、手の中に入れて握っていただけるように。
内にはお守りのほかに小豆(一粒)が入っている珍しいお守りです。
(金崎宮HPより) -
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赤レンガ倉庫について
福井県敦賀市は明治から昭和初期にかけてロシアを経由して大陸ヨーロッパへと繋がる国際都市として繁栄しました。その象徴である『敦賀赤レンガ倉庫』は、外国人技師の設計によって1905年に石油貯蔵用の倉庫として建設され、途中、軍の備品倉庫や昆布貯蔵庫としても使用された福井県内でも有数のレンガ建築物です。2009年1月には、北棟・南棟・煉瓦塀が国の登録有形文化財に登録されました。
この港町敦賀のシンボルである『敦賀赤レンガ倉庫』が2015年10月に、北棟が鉄道と港の『ジオラマ館』、南棟が赤レンガ空間を楽しみながら食事ができる『レストラン館』として、生まれ変わります。オープンガーデンと合わせて、鉄道と港の町敦賀の観光コア施設として、市内の様々な施設と結びつき、敦賀の魅力を提供していきます。
「敦賀の最盛期(明治後期~昭和初期)の街並みを再現して史実とエンターテインメント性を両立させた鉄道と港のジオラマ」、「敦賀ならではの魅力を兼ね備えたレストラン」を備え、港の風と緑を感じながら、ゆったりとした時間を楽しむことができます。
"ノスタルジーと出会える場所"敦賀赤レンガ倉庫。
ここで生み出される体験と共に、敦賀赤レンガ倉庫は時代を超えて再び皆様と歩み始めます。
(敦賀赤レンガ倉庫HPより) -
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ぐるっと敦賀周遊バス
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赤レンガ倉庫レストラン館
生け簀の甲羅
2周年記念海鮮三種丼390円
焼きガニ2580円
【営業時間】 ランチ:11:00~14:00 ディナー:18:00~22:00(ラストオーダー20:00)
【電話番号】 0770-47-6338
【WEB】http://ikesunokoura.com
【facebook】https://www.facebook.com/ikesunokouraakarenga
食とエンターテイメントの融合
生け簀の甲羅では、県内在住の方はもちろん県外から敦賀市に訪れる観光客のニーズを充足すべく「見る楽しみ」「食べる楽しみ」「行く楽しみ」の3面からのアプローチで食とエンターテイメントの融合を目指します。
その場所に行ってただ、食べるだけのありきたりな飲食店ではなく、5感を刺激し楽しめるサービス・時間のご提供ができる飲食店を目指します。 -
海鮮丼大盛り1680円
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海鮮丼大盛り1680円
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焼きガニ2580円
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赤レンガ倉庫オープンガーデン
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敦賀港は、1920年に「ポーランド孤児」、
1940年には、「命のビザ」を持ったユダヤ人難民が上陸した日本で唯一の港。
古くから大陸への玄関口として栄え、
「東洋の波止場」と謳われた敦賀港は「人道の港」でもあった。
東洋の波止場
古来より、海と陸の交通の要衝であった敦賀港。1899年に開港指定を受け、ヨーロッパとの交通の拠点でもあった国際港の敦賀に出会うことができます。
大陸への玄関・敦賀港
古来より、海と陸の交通の要衝であった敦賀港は、1902年から1941年にかけて、ヨーロッパとの交通の拠点でした。
敦賀港のむかし
江戸時代以前の敦賀港
敦賀港は、往古「笥飯浦(けいのうら)」と呼ばれ、さらに古代日本三大要津のひとつ「敦賀津」として、渤海国や宋国をはじめ大陸諸国との交流拠点として繁栄しました。
また、さらに迎賓館・検疫所・貿易取引拠点等を兼ね備えた「松原客館」が置かれ、日本の最先進国際都市でした。
戦国末期から、現在の東北地方や北海道・千島との交易拠点港として栄え「北国の都」と謳われて千石船が往来し、間口50m・奥行90mもある豪商の店舗がありました。
敦賀八景八ッ乃詠
近代以降の敦賀港
敦賀港は、1899(明治32)年に開港場(外国貿易港)の指定を受け、1902年には、敦賀とウラジオストク間に直通航路が開設されました。日露戦争後は航路の重要性が高まり、政府は敦賀を神戸や横浜などと並ぶ重要港湾に指定しました。また、1910年に駐日ロシア領事館が開庁されました。さらに、1912年にはシベリア鉄道を利用して、ヨーロッパの各都市を結ぶ拠点港となり、新橋駅(東京)・金ケ崎駅間には欧亜国際連絡列車が運行され、名実ともに「東洋の波止場」として繁栄しました。
(人道の港敦賀ムゼウムHPより) -
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人道の港敦賀ムゼウム
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杉原千畝コーナーもあります
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とんがり屋根が印象的な敦賀鉄道資料館(旧敦賀港駅舎)では、敦賀の鉄道の歴史を紹介したパネルや貴重な鉄道資料を展示しています。
敦賀港は古代より大陸に開かれた玄関口として重要な役割を果たしてきました。
このことから、明治2(1869)年、日本初の鉄道となる4路線の一つとして、京都-敦賀間の鉄道建設が決定され、明治15(1882)年に日本海側初の線路が敦賀に敷かれました。
その後、明治45(1912)年に欧亜国際連絡列車の運行が始まり、新橋(東京)-金ケ崎(敦賀)間を直通列車が走り、敦賀港から連絡船でウラジオストク(ロシア)へ、そこからシベリア鉄道でパリ(フランス)まで行くという路線が確立されました。
さらに、昭和32(1957)年には日本初となる本格的交流電化が完成し、昭和37(1962)年には当時、世界第5位の長さを有する北陸トンネルが開通しました。
このように、敦賀は「港と鉄道」と共に歩んできた街です。
敦賀鉄道資料館では、敦賀の鉄道の歴史を紹介する資料や列車模型などを展示しています。また、夜には建物がライトアップされます。
(敦賀市HPより) -
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北前船モニュメント
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きらめきみなと館
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五木ひろし作曲の敦賀港開港100周年記念の歌、萩の花郷の歌詞が書かれています
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きらめきみなと館で開催されていた観光物産inみなと敦賀
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敦賀市の花は萩
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萩
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人道の港敦賀ムゼウムの館内で買った絆・幸せのルガラー10個入り950円
ユダヤのクッキー -
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金崎宮のいちご守り500円、交通安全ステッカー500円
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