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東海道53次旧街道歩き、見付宿から天竜川を越えて浜松へ<br /><br />編集中<br />見付~浜松  12.6km4里7町<br /><br /><br /><br />【浜松宿】<br />中世に浜松と呼称されるようになったことが、史書にもある。元は曳馬(ひくま)という地名だった。徳川家康が曳馬(引馬)を浜松と改めたことで、以後、浜松として定着。(元来、曳馬城の近郊に濱松という町があった。家康が曳馬城を元に増築した城を名付ける際町の呼び名に因んで濱松城とした)江戸から数えて29番目にあたる。実距離では江戸から京との中間にあたり、名実共に関東関西の中間地域であった。遠江国敷知郡(ふちごおり)の中心にあたり司法行政を浜松藩が取り仕切っていた。浜松城の城下町として天保年間には本陣が6軒、旅籠が94軒もあったとされる、遠江国・駿河国を通じて最大の宿場であった。天竜川の右岸にもあたるが、洪水の度に川の流れが変わったこともあり現在の川岸からは6kmほど離れている。(Wikipedia)

東海道53次、No20 見付宿(28)から天竜川を渡り浜松宿(29)へ

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2017/06/15 - 2017/06/15

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ムッシュ

ムッシュさん

東海道53次旧街道歩き、見付宿から天竜川を越えて浜松へ

編集中
見付~浜松 12.6km4里7町



【浜松宿】
中世に浜松と呼称されるようになったことが、史書にもある。元は曳馬(ひくま)という地名だった。徳川家康が曳馬(引馬)を浜松と改めたことで、以後、浜松として定着。(元来、曳馬城の近郊に濱松という町があった。家康が曳馬城を元に増築した城を名付ける際町の呼び名に因んで濱松城とした)江戸から数えて29番目にあたる。実距離では江戸から京との中間にあたり、名実共に関東関西の中間地域であった。遠江国敷知郡(ふちごおり)の中心にあたり司法行政を浜松藩が取り仕切っていた。浜松城の城下町として天保年間には本陣が6軒、旅籠が94軒もあったとされる、遠江国・駿河国を通じて最大の宿場であった。天竜川の右岸にもあたるが、洪水の度に川の流れが変わったこともあり現在の川岸からは6kmほど離れている。(Wikipedia)

旅行の満足度
5.0

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  • 浜松日産隣りの塚上に一里塚の跡碑があります、【宮之一色の一里塚跡】<br />です。<br />現在の塚は昭和46年(1971)に復元されたものです、江戸日本橋より数えて63里目<br /><br />『宮之一色一里塚跡』<br />ここは江戸日本橋から数えて63番目の一里塚であり、現在の一里塚は昭和46年に<br />復元されたものであると。「江戸時代になると、東海道や中山道などの街道が整備され、これにより多くの人々が安全に旅することができるようになり、荷物も多く、早く届けられるようになりました。<br />一里塚は、旅人に距離を知らせるために一里(約4キロ)ごとに、街道をはさんで両側に一基ずつ作られました。一里塚の上には、榎や松などが植えられ、その木蔭は多くの旅人の休憩する場所となりました。また、かごや荷物を運ぶ料金の目安としても利用されたようです。<br />ここ宮之一色一里塚は、東海道の起点である江戸(東京都)日本橋から数えて<br />63番目の一里塚です。現在の一里塚は昭和46年に復元されたものです。<br />当時は、西に間の宿といわれた池田宿と天竜川の渡船場を、東に見附宿をひかえて、さぞ多くの旅人や荷物が行き交ったことでしょう。一里塚の西に点在する松並木がその名残を今に伝えます。」 <br />

    浜松日産隣りの塚上に一里塚の跡碑があります、【宮之一色の一里塚跡】
    です。
    現在の塚は昭和46年(1971)に復元されたものです、江戸日本橋より数えて63里目

    『宮之一色一里塚跡』
    ここは江戸日本橋から数えて63番目の一里塚であり、現在の一里塚は昭和46年に
    復元されたものであると。「江戸時代になると、東海道や中山道などの街道が整備され、これにより多くの人々が安全に旅することができるようになり、荷物も多く、早く届けられるようになりました。
    一里塚は、旅人に距離を知らせるために一里(約4キロ)ごとに、街道をはさんで両側に一基ずつ作られました。一里塚の上には、榎や松などが植えられ、その木蔭は多くの旅人の休憩する場所となりました。また、かごや荷物を運ぶ料金の目安としても利用されたようです。
    ここ宮之一色一里塚は、東海道の起点である江戸(東京都)日本橋から数えて
    63番目の一里塚です。現在の一里塚は昭和46年に復元されたものです。
    当時は、西に間の宿といわれた池田宿と天竜川の渡船場を、東に見附宿をひかえて、さぞ多くの旅人や荷物が行き交ったことでしょう。一里塚の西に点在する松並木がその名残を今に伝えます。」

  • 天竜川に架かる国道橋

    天竜川に架かる国道橋

  • 天竜川は大きな川です。<br />天竜川は信州諏訪湖に源を発し、信濃、三河と流れてくる。流末は遠州灘に注いでる。<br />この川長く、曲がりくねり度々曲がりくねり度々洪水を引き起こしたところから、「暴れ天竜」と呼ばれる。暴れ川で、往時天竜川は大天龍、小天龍二筋の流れがあり、両者とも舟渡しでした。渡し料は武士は賃銭なし、民百姓は銭六文。<br />

    天竜川は大きな川です。
    天竜川は信州諏訪湖に源を発し、信濃、三河と流れてくる。流末は遠州灘に注いでる。
    この川長く、曲がりくねり度々曲がりくねり度々洪水を引き起こしたところから、「暴れ天竜」と呼ばれる。暴れ川で、往時天竜川は大天龍、小天龍二筋の流れがあり、両者とも舟渡しでした。渡し料は武士は賃銭なし、民百姓は銭六文。

  • 【六所神社】天竜川の西河岸。<br />六所神社は、建治二年(1276)尾張中野郷より御朱印五石七斗を拝領した。旧道の起点。<br />由緒 伝え云ふ 建治二年八月十八日尾張国中野郷より 勧請すと御朱印五石七斗拝領す  境内はもと寺裏にありしを明治七年遷座す その折当地に鎮座せし島津神社と北裏に遷座せし上下神社を合祀  大正十二年六月二十七日 賀陽宮恒憲王殿下御参拝あり  第六十回伊勢神宮式年遷都に伴ひ 御正殿の古材を使いまして昭和五十年十一月社殿他皆改築す 。<br /><br /><br />【神社名 六所神社】<br />鎮座地 浜松市天竜区春野町領家327<br />御祭神 天兒屋根命 大日靈貴命 譽田別命<br />    中筒男命  大山袛命  武甕槌命<br />御由緒 伝え云ふ 建治二年八月十八日尾張国中野郷より 勧請すと御朱印五石七斗拝領す境内はもと寺裏にありしを明治七年遷座す その折当地に鎮座せし島津神社と北裏に遷座せし上下神社を合祀<br /> 大正十二年六月二十七日 賀陽宮恒憲王殿下御参拝あり<br /> 第六十回伊勢神宮式年遷都に伴ひ 御正殿の古材を使いまして昭和五十年十一月<br />    社殿他皆改築す。

    【六所神社】天竜川の西河岸。
    六所神社は、建治二年(1276)尾張中野郷より御朱印五石七斗を拝領した。旧道の起点。
    由緒 伝え云ふ 建治二年八月十八日尾張国中野郷より 勧請すと御朱印五石七斗拝領す  境内はもと寺裏にありしを明治七年遷座す その折当地に鎮座せし島津神社と北裏に遷座せし上下神社を合祀  大正十二年六月二十七日 賀陽宮恒憲王殿下御参拝あり  第六十回伊勢神宮式年遷都に伴ひ 御正殿の古材を使いまして昭和五十年十一月社殿他皆改築す 。


    【神社名 六所神社】
    鎮座地 浜松市天竜区春野町領家327
    御祭神 天兒屋根命 大日靈貴命 譽田別命
        中筒男命  大山袛命  武甕槌命
    御由緒 伝え云ふ 建治二年八月十八日尾張国中野郷より 勧請すと御朱印五石七斗拝領す境内はもと寺裏にありしを明治七年遷座す その折当地に鎮座せし島津神社と北裏に遷座せし上下神社を合祀
     大正十二年六月二十七日 賀陽宮恒憲王殿下御参拝あり
     第六十回伊勢神宮式年遷都に伴ひ 御正殿の古材を使いまして昭和五十年十一月
        社殿他皆改築す。

  • 旧道を進むと右手に【軽便鉄道軌道跡標柱と解説板】がある。<br />軽便鉄道は明治四十二年(1909)より、浜松~中野町間を走っていた。<br /><br />『軽便鉄道軌道跡』。<br />軽便鉄道は、建設費・維持費の抑制のため低規格で建設されたと。軽量なレールが使用され、地形的制約の克服に急曲線・急勾配が用いられ、軌間も狭軌が採用されることが多い。<br />このため、運行時は最高速度が低く輸送力も小さく、軌間が違う場合は積み替え・乗り換えの不便が生じる。産業の未成熟で限定的な輸送力しか必要としない地域に建設される事例が多い日本における軽便鉄道は、法規的には「軽便鉄道法」に基づいて建設された鉄道を指すが、一般的には国鉄線や軌道法に基づいた軌道線をふくめて、軌間1067mm(3フィート6インチ)未満の営業鉄軌道を軽便鉄道とする。

    旧道を進むと右手に【軽便鉄道軌道跡標柱と解説板】がある。
    軽便鉄道は明治四十二年(1909)より、浜松~中野町間を走っていた。

    『軽便鉄道軌道跡』。
    軽便鉄道は、建設費・維持費の抑制のため低規格で建設されたと。軽量なレールが使用され、地形的制約の克服に急曲線・急勾配が用いられ、軌間も狭軌が採用されることが多い。
    このため、運行時は最高速度が低く輸送力も小さく、軌間が違う場合は積み替え・乗り換えの不便が生じる。産業の未成熟で限定的な輸送力しか必要としない地域に建設される事例が多い日本における軽便鉄道は、法規的には「軽便鉄道法」に基づいて建設された鉄道を指すが、一般的には国鉄線や軌道法に基づいた軌道線をふくめて、軌間1067mm(3フィート6インチ)未満の営業鉄軌道を軽便鉄道とする。

  • 六所神社で、近くに舟橋跡標柱と天竜川木橋跡標柱があります。<br />明治元年(1868)明治天皇東幸の際に舟橋ができ、同九年(1876)木橋が架橋され、昭和八年(1934)鉄橋が出来た。<br />

    六所神社で、近くに舟橋跡標柱と天竜川木橋跡標柱があります。
    明治元年(1868)明治天皇東幸の際に舟橋ができ、同九年(1876)木橋が架橋され、昭和八年(1934)鉄橋が出来た。

  • 【金原明善(きんばらめいぜん)生家】<br />生家跡の向いに金原明善記念館があります、前庭に歌碑「木を植えて 天龍の川治めんと 心も固く 若き日の明善」がある。<br />*天竜川の治水事業に尽力した。1913年、92歳で没。<br /><br />	<br />【金原明善の経歴】(一部)<br />天保3年(1832)に現在の浜松市安間町に生まれる。<br />明治元年(1868)37歳のとき京に上がり維新政府民生局に天竜川治水策を建白<br />同8年冶河協力社を設立。<br />同10年大久保利通に会見天竜川治水のため全財産の寄付を申出で補助金下附の承認を得<br />同11年財産整理を終え、私財5万6千余円を冶河協力社に寄付<br />同12年全財産を冶河協力社に寄付、水害防除に努めたのを賞せられ金杯下賜(静岡県)<br />この間、数々の事業と献金を行う<br />大正12年東京府にて永眠

    【金原明善(きんばらめいぜん)生家】
    生家跡の向いに金原明善記念館があります、前庭に歌碑「木を植えて 天龍の川治めんと 心も固く 若き日の明善」がある。
    *天竜川の治水事業に尽力した。1913年、92歳で没。


    【金原明善の経歴】(一部)
    天保3年(1832)に現在の浜松市安間町に生まれる。
    明治元年(1868)37歳のとき京に上がり維新政府民生局に天竜川治水策を建白
    同8年冶河協力社を設立。
    同10年大久保利通に会見天竜川治水のため全財産の寄付を申出で補助金下附の承認を得
    同11年財産整理を終え、私財5万6千余円を冶河協力社に寄付
    同12年全財産を冶河協力社に寄付、水害防除に努めたのを賞せられ金杯下賜(静岡県)
    この間、数々の事業と献金を行う
    大正12年東京府にて永眠

  • 【金原明善生家】<br />天保3年(1832)に豪農に生まれた明善は、天竜川の水害で苦しむ住民のために自費で治水工事を行い、その治水の考え方は後に天竜川治水の基本方針ともなっている。<br />また、水源地の植林に力を入れ、スギやヒノキなど292万本の木がある天竜美林を作った。<br /><br />	<br />【金原明善の経歴】(一部)<br /> 天保3年(1832)に現在の浜松市安間町に生まれる。<br /> 明治元年(1868)37歳のとき京に上がり維新政府民生局に天竜川治水策を建白同8年冶河協力社を設立。<br /> 同10年大久保利通に会見天竜川治水のため全財産の寄付を申出で補助金下附の承認を得<br /> 同11年財産整理を終え、私財5万6千余円を冶河協力社に寄付<br /> 同12年全財産を冶河協力社に寄付、水害防除に努めたのを賞せられ金杯下賜(静岡県)この間、数々の事業と献金を行う大正12年東京府にて永眠<br /><br />【金原 明善(天保3年6月7日(1832年7月4日) - 大正12年(1923年)1月14日)】<br />明治時代の実業家。遠江国長上郡安間村(現浜松市東区安間町)出身。<br />浜名郡和田村村長。天竜川の治水事業・北海道の開拓・植林事業など近代日本の発展に活躍した。<br />明善記念館は、その偉業を顕彰するために、1960年、生家の前を通る旧東海道を隔てた南側に、建築家十代田三郎(そしろだ さぶろう:1894-1966)の設計で建てられたものです。<br />記念館には、治山治水や植林事業で使った測量器具、地図、請願書、公文書、私信、遺墨などが多数収蔵・展示され、当時の難事業の様子を知ることができます。展示室は1階と2階回廊部分に分かれ、1階には天竜川流域の治山治水、植林事業の計画書や申請書、実際に測量や植林に使用したさまざまな道具類や愛用したカバン、91才の最後の山林視察で使った籠などを見ることができた。2階の回廊には、親交のあった多くの著名人からの手紙や、明善直筆の遺墨などが展示されている。

    【金原明善生家】
    天保3年(1832)に豪農に生まれた明善は、天竜川の水害で苦しむ住民のために自費で治水工事を行い、その治水の考え方は後に天竜川治水の基本方針ともなっている。
    また、水源地の植林に力を入れ、スギやヒノキなど292万本の木がある天竜美林を作った。


    【金原明善の経歴】(一部)
     天保3年(1832)に現在の浜松市安間町に生まれる。
     明治元年(1868)37歳のとき京に上がり維新政府民生局に天竜川治水策を建白同8年冶河協力社を設立。
     同10年大久保利通に会見天竜川治水のため全財産の寄付を申出で補助金下附の承認を得
     同11年財産整理を終え、私財5万6千余円を冶河協力社に寄付
     同12年全財産を冶河協力社に寄付、水害防除に努めたのを賞せられ金杯下賜(静岡県)この間、数々の事業と献金を行う大正12年東京府にて永眠

    【金原 明善(天保3年6月7日(1832年7月4日) - 大正12年(1923年)1月14日)】
    明治時代の実業家。遠江国長上郡安間村(現浜松市東区安間町)出身。
    浜名郡和田村村長。天竜川の治水事業・北海道の開拓・植林事業など近代日本の発展に活躍した。
    明善記念館は、その偉業を顕彰するために、1960年、生家の前を通る旧東海道を隔てた南側に、建築家十代田三郎(そしろだ さぶろう:1894-1966)の設計で建てられたものです。
    記念館には、治山治水や植林事業で使った測量器具、地図、請願書、公文書、私信、遺墨などが多数収蔵・展示され、当時の難事業の様子を知ることができます。展示室は1階と2階回廊部分に分かれ、1階には天竜川流域の治山治水、植林事業の計画書や申請書、実際に測量や植林に使用したさまざまな道具類や愛用したカバン、91才の最後の山林視察で使った籠などを見ることができた。2階の回廊には、親交のあった多くの著名人からの手紙や、明善直筆の遺墨などが展示されている。

  • 大河ドラマ、直虎ちゃんのマスコット。

    大河ドラマ、直虎ちゃんのマスコット。

  • 谷島屋書店の所に高札場跡標石と解説板があります、柵で囲い柱を立てて高札を掲げた高札場がここにあった。

    谷島屋書店の所に高札場跡標石と解説板があります、柵で囲い柱を立てて高札を掲げた高札場がここにあった。

  • こじんまりとした【浜松城】<br />天保14年(1843)の東海道宿村大概帳によると浜松宿の宿内家数は1,622軒、うち本陣6、旅籠94軒、宿内人口は5,964人で、宿間は二十三町十五軒(約2,530m)。<br />家康は浜松城に17年間在城しました、しかしこの期間は辛酸を舐めた時期でもあり、三方ケ原の合戦に大敗し、織田信長から正室の築山御前と嫡子信康は武田信玄に内通していると疑われ、処刑を命じられ、死に追いやった。<br />しかし、出世城としての名前もある。<br /><br />浜松城は、三方ケ原台地の東南端にあって、徳川家康が築いた。家康は天文11年(1542)三河国岡崎城内に誕生し、父は松平広<br />忠。母に生別、駿府に少年時代を過ごすが、岡崎に戻り、永禄11年(1568)に三河から近江に入り、各地を転戦して引馬城をはじめ諸城をしたがえると共に、元亀元年(1570)長子の信康に岡崎城をゆずって、自らは浜松城へ移り、駿遠経営の本拠と定めた。<br /><br /> 家康は、29歳から天正14年(1586)45歳で駿府城(静岡市)に入るまで、在城17年に及んでいる。有名な姉川、長篠、高天城、小牧・長久手の戦いもこの期間に行われ、特に元亀3年(1572)の三方ケ原合戦は、家康の生涯における難戦で、関ヶ原合戦以上の戦いであった。家康にとって、この浜松在城17年間は、徳川300年の歴史を築く試練の年でもあった。<br /><br /> 当時の城郭は、南北500m、東西約450mで、三方ケ原台地の斜面に沿い、天守閣・本丸・二の丸・三の丸がほぼ一直線に並び、梯郭式の築城法に属している。その他作左曲輪(さくざくるわ)、出丸等もあった。<br /><br /> この浜松城は、豊臣の家臣、堀尾吉春氏によって天守が築かれたといわれているが、江戸に幕府が開かれてからは、代々の諸大名にこれを守らせ、浜松藩制約260年の間に再任を含めて25代の城主が在城した。在城中に老中に5人、大阪城代に2人、京都所司代に2人、寺社奉行に4人(兼任を含む)が登用されており、中でも水野忠邦は、天保の改革でよく知られている。そのことから、浜松城が出世城ともいわれるようになった。<br /><br /> 明治維新以来、城郭は壊され、すっかり荒廃していたが、昭和33年春浜松市民の努力が結実し、旧天守閣跡に、新天守閣が再建され、昭和34年6月1日市の史跡に指定された。<br />

    こじんまりとした【浜松城】
    天保14年(1843)の東海道宿村大概帳によると浜松宿の宿内家数は1,622軒、うち本陣6、旅籠94軒、宿内人口は5,964人で、宿間は二十三町十五軒(約2,530m)。
    家康は浜松城に17年間在城しました、しかしこの期間は辛酸を舐めた時期でもあり、三方ケ原の合戦に大敗し、織田信長から正室の築山御前と嫡子信康は武田信玄に内通していると疑われ、処刑を命じられ、死に追いやった。
    しかし、出世城としての名前もある。

    浜松城は、三方ケ原台地の東南端にあって、徳川家康が築いた。家康は天文11年(1542)三河国岡崎城内に誕生し、父は松平広
    忠。母に生別、駿府に少年時代を過ごすが、岡崎に戻り、永禄11年(1568)に三河から近江に入り、各地を転戦して引馬城をはじめ諸城をしたがえると共に、元亀元年(1570)長子の信康に岡崎城をゆずって、自らは浜松城へ移り、駿遠経営の本拠と定めた。

     家康は、29歳から天正14年(1586)45歳で駿府城(静岡市)に入るまで、在城17年に及んでいる。有名な姉川、長篠、高天城、小牧・長久手の戦いもこの期間に行われ、特に元亀3年(1572)の三方ケ原合戦は、家康の生涯における難戦で、関ヶ原合戦以上の戦いであった。家康にとって、この浜松在城17年間は、徳川300年の歴史を築く試練の年でもあった。

     当時の城郭は、南北500m、東西約450mで、三方ケ原台地の斜面に沿い、天守閣・本丸・二の丸・三の丸がほぼ一直線に並び、梯郭式の築城法に属している。その他作左曲輪(さくざくるわ)、出丸等もあった。

     この浜松城は、豊臣の家臣、堀尾吉春氏によって天守が築かれたといわれているが、江戸に幕府が開かれてからは、代々の諸大名にこれを守らせ、浜松藩制約260年の間に再任を含めて25代の城主が在城した。在城中に老中に5人、大阪城代に2人、京都所司代に2人、寺社奉行に4人(兼任を含む)が登用されており、中でも水野忠邦は、天保の改革でよく知られている。そのことから、浜松城が出世城ともいわれるようになった。

     明治維新以来、城郭は壊され、すっかり荒廃していたが、昭和33年春浜松市民の努力が結実し、旧天守閣跡に、新天守閣が再建され、昭和34年6月1日市の史跡に指定された。

  • 【五社・諏訪神社】<br />五社神社は浜松城内で誕生した秀忠の産土神です、諏訪神社は家康が社殿を造営し、家光が現在地に転座させた。<br />近辺には、佐藤本陣跡解説板があり。建坪はおよそ225坪(約745㎡)でした。<br />宿並の右に移ると浜松信用金庫の所に杉浦本陣跡標石と解説板があります、建坪は272坪(約900㎡)でした。さらに、 先に進むと伝馬町交差点手前に川口本陣跡解説板があります、建坪は163坪(約540㎡)でした。<br />梅屋本陣跡標柱と解説板があります、建坪は180坪(約600㎡)でした。<br /><br /><br />『五社神社 諏訪神社 由緒』<br />「五社神社<br />曳馬城(後の浜松城)主・久野越中守が城内に創建した事に始まると伝えられる。<br />後、徳川家康公、浜松城主となり天正7年(西暦1579年)4月7日、秀忠公誕生に当り産土神として崇敬し、現在地に社殿を造営し天正8年(西暦1580年)遷座す。<br />寛永11年(西暦1634年)家光公上洛の砌、社参し朱印300石を奉る。その節改めて社殿の造営がなされ、寛永18年(西暦1641年)竣工す。「お江戸見たくば五社諏訪ごろじ お江戸まさりの五社や諏訪」と謡われ戦前まで国宝建造物に指定されていた社殿がこれである。<br />諏訪神社<br />延暦10年(西暦791年)、坂上田村麻呂が東征の砌、敷智郡上中島村に奉斎と伝えられる。弘治2年(西暦1556年)に曳馬城下、大手前に遷座される。<br />秀忠公誕生に当り、五社神社と同じく産土神として崇敬され、天正7年(西暦1579年)徳川家康公、社殿を造営す。<br />元和元年(西暦1615年)、秀忠公、社地を杉山に改め、更に寛永11年(西暦1634年)、家光公、社参し朱印300石を奉ると共に現在地に社地を遷し、寛永18年(西暦1641年)竣工す。<br />国宝建造物に指定されるも、昭和20年(西暦1945年)戦災により五社神社と共に消失す。<br />五社神社 諏訪神社<br />昭和37年(西暦1962年)、両社が合祀され、新たに五社神社諏訪神社として発足する。<br />                     【五社神社諏訪神社HPより】」<br />

    【五社・諏訪神社】
    五社神社は浜松城内で誕生した秀忠の産土神です、諏訪神社は家康が社殿を造営し、家光が現在地に転座させた。
    近辺には、佐藤本陣跡解説板があり。建坪はおよそ225坪(約745㎡)でした。
    宿並の右に移ると浜松信用金庫の所に杉浦本陣跡標石と解説板があります、建坪は272坪(約900㎡)でした。さらに、 先に進むと伝馬町交差点手前に川口本陣跡解説板があります、建坪は163坪(約540㎡)でした。
    梅屋本陣跡標柱と解説板があります、建坪は180坪(約600㎡)でした。


    『五社神社 諏訪神社 由緒』
    「五社神社
    曳馬城(後の浜松城)主・久野越中守が城内に創建した事に始まると伝えられる。
    後、徳川家康公、浜松城主となり天正7年(西暦1579年)4月7日、秀忠公誕生に当り産土神として崇敬し、現在地に社殿を造営し天正8年(西暦1580年)遷座す。
    寛永11年(西暦1634年)家光公上洛の砌、社参し朱印300石を奉る。その節改めて社殿の造営がなされ、寛永18年(西暦1641年)竣工す。「お江戸見たくば五社諏訪ごろじ お江戸まさりの五社や諏訪」と謡われ戦前まで国宝建造物に指定されていた社殿がこれである。
    諏訪神社
    延暦10年(西暦791年)、坂上田村麻呂が東征の砌、敷智郡上中島村に奉斎と伝えられる。弘治2年(西暦1556年)に曳馬城下、大手前に遷座される。
    秀忠公誕生に当り、五社神社と同じく産土神として崇敬され、天正7年(西暦1579年)徳川家康公、社殿を造営す。
    元和元年(西暦1615年)、秀忠公、社地を杉山に改め、更に寛永11年(西暦1634年)、家光公、社参し朱印300石を奉ると共に現在地に社地を遷し、寛永18年(西暦1641年)竣工す。
    国宝建造物に指定されるも、昭和20年(西暦1945年)戦災により五社神社と共に消失す。
    五社神社 諏訪神社
    昭和37年(西暦1962年)、両社が合祀され、新たに五社神社諏訪神社として発足する。
                         【五社神社諏訪神社HPより】」

  • 【五社神社】<br />曳馬城(後の浜松城)主・久野越中守が城内に創建した。後、徳川家康公、浜松城主となり天正7年(1579年)4月7日、秀忠公誕生に当り産土神として崇敬し、現在地に社殿を造営し天正8年(西暦1580年)遷座す。<br />寛永11年(1634年)家光公上洛の砌、社参し朱印300石を奉る。その節改めて社殿の造営がなされ、寛永18年(西暦1641年)竣工。「お江戸見たくば五社諏訪ごろじ お江戸まさりの五社や諏訪」と謡われ戦前まで国宝建造物に指定されていた社殿がこれである。<br />【諏訪神社】<br />延暦10年(791年)、坂上田村麻呂が東征の砌、敷智郡上中島村に奉斎と伝えられる。弘治2年(1556年)に曳馬城下、大手前に遷座される。<br />秀忠公誕生に当り、五社神社と同じく産土神として崇敬され、天正7年徳川家康公、社殿を造営す。<br />元和元年(1615年)、秀忠公、社地を杉山に改め、更に寛永11年(1634年)、家光公、社参し朱印300石を奉ると共に現在地に社地を遷し、寛永18年(1641年)竣工す。国宝建造物に指定されるも、昭和20年(1945年)戦災により五社神社と共に消失。

    【五社神社】
    曳馬城(後の浜松城)主・久野越中守が城内に創建した。後、徳川家康公、浜松城主となり天正7年(1579年)4月7日、秀忠公誕生に当り産土神として崇敬し、現在地に社殿を造営し天正8年(西暦1580年)遷座す。
    寛永11年(1634年)家光公上洛の砌、社参し朱印300石を奉る。その節改めて社殿の造営がなされ、寛永18年(西暦1641年)竣工。「お江戸見たくば五社諏訪ごろじ お江戸まさりの五社や諏訪」と謡われ戦前まで国宝建造物に指定されていた社殿がこれである。
    【諏訪神社】
    延暦10年(791年)、坂上田村麻呂が東征の砌、敷智郡上中島村に奉斎と伝えられる。弘治2年(1556年)に曳馬城下、大手前に遷座される。
    秀忠公誕生に当り、五社神社と同じく産土神として崇敬され、天正7年徳川家康公、社殿を造営す。
    元和元年(1615年)、秀忠公、社地を杉山に改め、更に寛永11年(1634年)、家光公、社参し朱印300石を奉ると共に現在地に社地を遷し、寛永18年(1641年)竣工す。国宝建造物に指定されるも、昭和20年(1945年)戦災により五社神社と共に消失。

  • 街道の両側に御堂が対であり、【二ツ御堂】と呼ばれル。<br />*街道の両脇に建つ。<br /><br />薬師堂<br />【二つ御堂】<br /> 奥州平泉の藤原秀衡と、その愛妾によって、天治年間(1125年ごろ)創建されたと伝えられている。<br /> 京へ出向いている秀衡公が大病であることを聞いた愛妾は、京へ上る途中、ここで飛脚より秀衡公死去の知らせ(誤報)を聞き、その菩提をともらうために、北のお堂(阿弥陀如来)を建てたという。<br /> 一方、京の秀衡公は、病気が回復し、帰国の途中ここでその話を聞き、愛妾への感謝の気持をこめて、南のお堂(薬師如来)を建てたという。<br /> 現在の北堂は、昭和三十年改築、阿弥陀如来・地蔵菩薩・毘沙門天が、南堂は、昭和十二年新築、薬師如来・不動明王・大日如来が祭られている。毎年十二月十四日、供養が行われている。<br />                           可美村教育委員会<br /><br />

    街道の両側に御堂が対であり、【二ツ御堂】と呼ばれル。
    *街道の両脇に建つ。

    薬師堂
    【二つ御堂】
     奥州平泉の藤原秀衡と、その愛妾によって、天治年間(1125年ごろ)創建されたと伝えられている。
     京へ出向いている秀衡公が大病であることを聞いた愛妾は、京へ上る途中、ここで飛脚より秀衡公死去の知らせ(誤報)を聞き、その菩提をともらうために、北のお堂(阿弥陀如来)を建てたという。
     一方、京の秀衡公は、病気が回復し、帰国の途中ここでその話を聞き、愛妾への感謝の気持をこめて、南のお堂(薬師如来)を建てたという。
     現在の北堂は、昭和三十年改築、阿弥陀如来・地蔵菩薩・毘沙門天が、南堂は、昭和十二年新築、薬師如来・不動明王・大日如来が祭られている。毎年十二月十四日、供養が行われている。
                               可美村教育委員会

  • 奥州平泉の藤原秀衡の愛妾が【北堂】を、秀衡が【「南堂】を建立したという。<br /><br />奥州平泉の藤原秀衡が京都で大病と聞いた愛妾が京へ上る途中、ここで秀衡死去の誤報を聞き、その菩提を弔うために●阿弥陀堂(北の堂)を建立。自身もここで亡くなった。<br />ここには、高札場跡碑と馬頭観音がある。<br />一方、京の秀衡は病が回復し、帰国の途中ここでその話を聞き、愛妾への感謝を込めて向側の●薬師堂(南の堂)を建てたと言われています<br />南堂には明治天皇御野点所記念碑、北堂脇には高札場碑と馬頭観音がある。

    奥州平泉の藤原秀衡の愛妾が【北堂】を、秀衡が【「南堂】を建立したという。

    奥州平泉の藤原秀衡が京都で大病と聞いた愛妾が京へ上る途中、ここで秀衡死去の誤報を聞き、その菩提を弔うために●阿弥陀堂(北の堂)を建立。自身もここで亡くなった。
    ここには、高札場跡碑と馬頭観音がある。
    一方、京の秀衡は病が回復し、帰国の途中ここでその話を聞き、愛妾への感謝を込めて向側の●薬師堂(南の堂)を建てたと言われています
    南堂には明治天皇御野点所記念碑、北堂脇には高札場碑と馬頭観音がある。

  • 奥州平泉の藤原秀衡と、その愛妾によって、天治年間(1125年ごろ)創建されたと伝えられている。 京へ出向いている秀衡公が大病であることを聞いた愛妾は、京へ上る途中、ここで飛脚より秀衡公死去の知らせ(誤報)を聞き、その菩提をともらうために、 北のお堂(阿弥陀如来)を建てたという。 一方、京の秀衡公は、病気が回復し、帰国の途中ここでその話を聞き、愛妾への感謝の気持をこめて、南のお堂(薬師如来)を建てたという。 現在の北堂は、昭和三十年改築、阿弥陀如来・地蔵菩薩・毘沙門天が、南堂は、昭和十二年新築、薬師如来・不動明王・大日如来が祭られている。 毎年十二月十四日、供養が行われている。(可美村教育委員会)<br />

    奥州平泉の藤原秀衡と、その愛妾によって、天治年間(1125年ごろ)創建されたと伝えられている。 京へ出向いている秀衡公が大病であることを聞いた愛妾は、京へ上る途中、ここで飛脚より秀衡公死去の知らせ(誤報)を聞き、その菩提をともらうために、 北のお堂(阿弥陀如来)を建てたという。 一方、京の秀衡公は、病気が回復し、帰国の途中ここでその話を聞き、愛妾への感謝の気持をこめて、南のお堂(薬師如来)を建てたという。 現在の北堂は、昭和三十年改築、阿弥陀如来・地蔵菩薩・毘沙門天が、南堂は、昭和十二年新築、薬師如来・不動明王・大日如来が祭られている。 毎年十二月十四日、供養が行われている。(可美村教育委員会)

  • 【熊野神社】<br />紀州熊野本宮の神主が諸国行脚の途中、この地に足を留め祭祀したのが始まりと伝わっています。<br />村社、街道沿に高札場があった。

    【熊野神社】
    紀州熊野本宮の神主が諸国行脚の途中、この地に足を留め祭祀したのが始まりと伝わっています。
    村社、街道沿に高札場があった。

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この旅行記へのコメント (1)

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  • 三昧さん 2017/12/12 00:07:34
    金原明善
    今晩は!
    冒頭の写真は掛塚橋ですね。時期になると、あの辺りで手長エビが釣れます。
    で、ビールの肴にもってこいです。
    金原明善生家、明治時代に天竜川の治水に身を挺した人ですね。この辺りは、金原の苗字が多いですね。私が住んでいる賃貸マンションの大屋さんも金原さんです。
    神奈川から移り住んで10年、会社で飛ばされて来たんですがネ。こっち来てから、来年は横浜に戻るんですが、本音は こっちに居たいんですネ。空が広い!これが最高です。こっちに来て、畑で野菜作る楽しみを覚えました。市で農業塾が開催されていて、首都圏では考えられないでしょ。試しに参加して、一日で嫌なら辞めようと、思ってたら目覚めちゃいました。野菜作りに!今は20坪の市民農園で野菜作っています。・・・と、川、海が近いので好きな釣りが渋滞無く行けて、釣り場が空いているのが最高です。勝手な事ばかり書いてスイマセンでした。

    三昧。

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