1971/07/25 - 1971/08/16
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ノスタルジアさん
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昭和46年の夏休みに中華民国に行く事にした。前年の春休みに沖縄に行ってその延長線上として中華民国にした。
「1970年(昭和45年) 本土復帰2年前の沖縄を旅して」
http://4travel.jp/travelogue/11237030
昭和46年7月24日(土)、翌日の沖縄行きの船に乗る為、当時住んでいた金沢市郊外から大阪港に向けて国道8号線でヒッチハイクをした。ヒッチハイクする場合、目的地が遠距離の場合は長距離トラック、近距離の場合は乗用車に決めていた。程なくして運良く長距離トラックが止まってくれた。
運転手さんが「宮古島まで行くがいいか?」と言ったので、これは「やったぁー」と思わず喜んだ。というのも当時、フェリーの料金は同乗者1人まで無料で、行先が宮古島だったので那覇までこのトラックに乗ればタダで行けるからである。「ついでにフェリーにも同乗させて貰えませんか?」、運転手さん、自分の顔を見ながら「こいつ、何を言っているのか?」という顔をしたので「沖縄の宮古島へ行かれるでしょう。」、「ミヤコジマ?大阪の都島だよ。」まさにぬか喜びだった。運転手さんには敦賀辺りの海の見えるドライブインで昼食をご馳走になった。その日はどこで泊ったのか全然憶えていないが、多分大阪駅の待合室だったと思う。
翌25日(日)、沖縄行きの船に乗る為大阪港天保山埠頭に向かった。ところが関西汽船の窓口で沖縄行きの切符はまさかの売り切れ。「一人ぐらい何とかならないか、一人ぐらい何とかして欲しい。」と必死になって粘って食い下がったが駄目だった。これには大ショック、へなへなとなってしまった。前年の春休みに沖縄に行った時は、予約していなくても当日、買えたので、当然買えると思って甘く見ていたのである。夏休みでは状況が違う、という認識がまるで無かったのである。
余談だが、帰りの那覇から神戸行きの関西汽船で知り合った学生から、那覇で乗船券を買おうとしたら売り切れで困ってしまって民宿のおばさんに相談したら、船長と知り合いで「何とかしてやる」と云われて船賃とチップをおばさんに払って一緒に当日、乗船時刻1時間前に港に行き、船長らしき男に身柄を引き渡されて離岸するまで船底の一室に潜んでいた、勿論、乗船券、領収書は貰っていないのでびくびくしてた、と聞いた。この学生、降りる時も別ルートだった。
切符売り場でしばらく茫然としていた。それからバス停まで歩いたが、次から次へとやって来る乗船客とすれ違う度に恥ずかしいので下を向いていた。
- 旅行の満足度
- 3.0
- 観光
- 3.0
- 交通
- 4.0
- 同行者
- 一人旅
- 交通手段
- 鉄道 高速・路線バス 船 ヒッチハイク 徒歩
- 旅行の手配内容
- 個別手配
-
昭和46年6月24日(木)中華民国のビザ取得
バス停のベンチで、さて、これからどうしようか?と思案した。友人たちに、台湾に行って来る、と言った手前、予約していなくて船に乗られず帰って来た、なんて格好悪く、恥ずかしくてとても言えないと思った。その時、稲妻の如く閃いた 。そうだ鹿児島港から琉球海運の沖縄行きが出ている、昨春那覇港から鹿児島港まで乗ったのだった。
出航日もいつか分からず、琉球海運も売り切れているかも、と心配しつつ近くにあった公衆電話から電話すると幸いにも明日の便で1名分あって即予約して、すぐさま鹿児島行きの列車に乗る為、大阪駅に向かった。
10時頃に大阪駅に着き、発車時刻表を見ると日曜日で11時に西鹿児島行きの臨時急行列車があって明日の夕方の船に間に合う事が分かり切符を買った。
ところがここで大変な問題が発生した。長距離電話代、切符代を払って、沖縄までの船賃を除くと財布には百円にも満たない小銭にしか残らず、後は180ドルの紙幣だけだった。これでは何も買えないのである。 乗車すると臨時列車のせいか急行なのに鈍行並みに遅く、やたら停車駅が多く、その上、鹿児島本線が集中豪雨の被害で不通になっていて日豊本線に変更になり到着予定時刻は11時間と車内アナウンスがあった。24時間も乗るのか、と思ったが、何とか夕方の船には間に合いそうなのでよしとした。その内、朝から何にも食べておらず、腹が減って、腹が減って仕方がなかった。車内販売の駅弁を買いたくてもドルの持ち合わせしかなく、一度停車駅のホームの売店で、ドルを差し出して駅弁を買おうとしたら、オバちゃんから胡散臭い人物に思われて相手にされなかった。リクライニングではない4人掛け席に座っているのも苦痛で、列車の通路を端から端まで何度も行ったり来たりして気を紛らせていた。それでも時間が全然進まなかった。臨時列車のせいか乗客も少なかったがそれも広島駅でほとんど降りてがらがらとなった。山口県に入る頃には車窓からの風景は真っ暗で、窓ガラスに映るのは誰もいない座席と時折り来る車掌だけでますます腹は減るし、心細くなってきた。 -
昭和46年7月23日(金)64,000円を180ドルに両替1ドル360円
8時頃厚狭駅に着いて女子大生3人が乗って来て、3,4席離れて座ってすぐにお喋りが始まって楽し気な雰囲気が伝わって来た。通路を歩いてさりげなく彼女たちを見ると窓際のテーブルには食べ物、食べ物、お菓子、果物類がいっぱいあってそれらを食べながら実に楽しそうだった。それを見て何とか輪の中に入りたい、入れて貰いたい、というより食べ物にありつけたい気持ちだったがきっかけが見つからない、元来、自分から積極的に女性に声を掛けるなんてとても出来ない性格だったが、空腹に耐えかねて最早そんな事は言ってられない、悲壮な決意で「仲間に入れて貰えませんか?」、「どうぞ、どうぞ。」と席を空けてくれた。これで舞い上がって、今朝からの一連の出来事や今までの旅先での豊富な体験談を面白おかしく話すと、3人は笑い転げてその場は大いに盛り上がってさながら寅さん状態となった。この辺の会話力は旅先のヒッチハイクで運転手さんとの会話で鍛えていたので自信があった。
ところが彼女たちは話しに夢中になっていて、肝心の期待していた食べ物類他をいつまで経っても一向に勧めてくれないので、ついにはしびれを切らして「そのおにぎりとバナナを食べていいですか?」と後にも先にもない物乞いをしてしまったのである。「あっ、話しが面白くて気が付かなくてゴメンなさい。どうぞ、どうぞ。」、「勧めてくれるのを今か今かと待っていたんですよ。」一同大笑い、そして目の前に次から次へと食べ物類を差し出して来た。その後も歓迎?パーティーは朝まで続いた。宮崎駅で彼女たちは降りて行ったが、その際に持っていた食料類を全て置いて行った。勿論、それだけは断ったが、結局は押し切られて好意に甘えた。 -
昭和46年7月23日(金)当時のパスポートには渡航費用に関する証明欄があった。
終点の西鹿児島駅に降り立ったのは正午過ぎ、鹿児島港までのタクシー代はおろかバス賃も持っていないので炎天下歩くしかなかった。歩き出すとすぐに噴き出した汗は白のTシャツとぬぐうタオルに染み込んでみるみるうちに黄色くなった、黄色くなった汗をかいだのは初めてだった。重いリュックを背負った身体は寝不足と疲れで今にもぶっ倒れそうだった、港まで1時間程掛かった。日射病になっていたのか、なっていなかったのか、今でも分からないが、切符を買って船室に入るとそのまま寝込んで翌日の沖縄に着くまで目が覚めなかったのである。だから船の中の記憶は全くないのである。台湾旅行の一番の思い出は台湾での事では無く沖縄行きの船に乗るまでの事である。写真を一枚も撮って無かった事が今となって悔やまれるのである。 -
昭和45年3月27日(金)交付 種痘のイエローカード(予防接種証明書)
中華民国に渡航するには種痘とコレラの「免疫証明書」が必要であったが、種痘は前年の春休みに沖縄に行った時に予防接種を受けていた。 -
昭和46年7月22日(木)コレラのイエローカード(予防接種証明書)
当時、石川県に住んでいて最寄りの検疫所は富山県高岡市伏木港にあってそこまで出向いてコレラの接種を受けた。 -
昭和46年7月27日(火)沖縄 那覇入港 トランジットビザ
トランジットビザで沖縄では72時間の滞在可能だったが、台湾でどれだけお金を
使うか分からなかったので、那覇近くの海水浴場に行っただけ。海水浴場で入場料が要るのは初めてだった。これもアメリカ式とか。 -
昭和46年7月29日(木)沖縄 那覇 泊出港
当時、台湾航路の発着は那覇港ではなく泊港だった。 -
昭和46年7月31日(土)中華民国 基隆入港
基隆までは2泊3日の航海、2日目、石垣島に寄港したので川平湾で海水浴した。
基隆入港の時間調整の為、夜中に着くと停泊料金が高くなるので、石垣島の沖合で長時間停泊した。その間、船員たちはのんびりと魚釣りをしていた。
夕食を食べ終えた頃、船員がバリカンを持って食堂にやって来て中華民国は、長髪禁止で街で長髪を見かけると、警察が強権を発動して床屋まで連行される、長髪の日本人(もっとも学生しかいなかったが)も入国禁止で、入国拒否されてたくなかったらバリカンで刈ってやると云われたが、当時の学生たちは全ての事に逆らっていたので7,8人いた学生は誰もバリカンの世話にならなかった。
入港日、入国審査の為に船に乗りこんで来た3人の係官は軍服姿で全員丸坊主で眼光鋭く威圧された。帽子を被って髪の毛を隠していたが帽子を取る様に言われたりした。学生の中で一番の長髪が呼ばれて「髪を切らないと入国できない。」と告げられ船員に連れられて行き、丸坊主になった。自分を含めた他の学生も長髪だったが、特に目立った長髪の彼だけが見せしめになった感じである。
入国審査で荷物検査は特に厳しくチェックされ、平凡パンチを持っていた者は没収されたりして、3時間程かかり下船したのは昼近くだった。
旅行中は警官に呼び止められないよう常に帽子を被る事にした。 -
昭和46年7月31日(土)中華民国 基隆入港
船内で取りあえず40ドル(14,400円)を元に両替した。 -
昭和46年7月31日(土)台北駅前
昭和30年代の日本の風景だった。歩いている人の髪型に注目。 -
昭和46年7月31日(土)台北駅前
この日泊まった旅社名(旅館、宿屋)は全く憶えていない。夜、ベッドに入って天井を見ると船に乗っていたせいかゆっくり、ゆっくりと動いているように感じた。こんな状態は3,4日続いた。 -
昭和46年8月1日(日)碧潭(ビータン)で台湾の学生二人連れ
碧潭は、台北市の隣にあって台北八景の一つに数えられ川沿いに遊歩道があるが猛暑のせいか歩いている人がほとんどいない中で学生二人連れに声を掛けられ日本の事を英語で色々と質問された。困ったのは「アメリカが中共を承認したら日本はどうするのか?」、当時、中国の代表権は台湾から中華人民共和国に取って代わる情勢で中国政府も相当ナーバスになっていた。船員からも日本語が通じるからといって現地では政治的な話しはタブー、と言われていたが、幸いにも英語が話せないので話しにならなかった。
別れる時、写真を撮って送ってくれないか。と言われたが、当時のサービス判のプリント代はかけそば100円の時代で1枚70~80円と高く、フィルムも24枚撮りで1本ぐらいしか持っておらず、若い女性なら喜んで撮るところだが、それが男性2人では、と思ったが、撮って帰国してから2枚送った。当時の台湾の絵葉書は白黒写真でその上から彩色されていて女性のポートレートの唇も口紅を塗ったかのようになっていたのを後日知った。彼らの撮って欲しかった気持ちが分かった。尚、当時はカラー写真ではなく天然色写真と言っていた。
1971年10月25日:国際連合総会にて、国際連合総会決議2758が可決され、「中国」の代表権を喪失。同時に国際連合から脱退。
1972年:日本国と中華人民共和国の国交樹立により日華平和条約が失効。日本との国交を断絶。 -
昭和46年8月1日(日)烏来瀑布
碧潭の後、16キロ南にある烏来に行った。先住民族の一つであるタイヤル族の村があり、原住民文化に触れられる場所として、また温泉の街としても有名。
烏来には名物の台車が並び押し屋が待っていた。台車は元々材木運搬用だが、その仕事の合い間に観光客を乗せて押し屋を営んでいた。 -
昭和46年8月1日(日)烏来 落差82mの烏来瀑布・白糸の滝で
台車に乗って15分も行くと白糸の滝に着いた。落差350mの立山称名の滝を見ていただけに大して感動しなかった。時折り降りかかって来る冷たい飛沫だけが猛暑を忘れさせてくれた。
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昭和46年8月2日(月)嘉義市街並み風景
前日、15時過ぎに台北に戻って阿里山森林鉄道に乗る為、嘉義に向かう事にして駅前のバス乗り場に行った。時刻表を見ると嘉義直行便はなく台中までだった。今からだと台中まで180キロあって夜の8時頃に着く予定だった。
バスは台北市を離れるとすぐ農村風景に変わった。子供の頃見た昭和30年代の日本の農村風景だった。夕方には機械化されていない田畑に沈み行く夕陽を浴びた牛馬、農夫とその子供たちがシルエットになって美しい絵画のようであった。
辺りが真っ暗になって乗客もいなくなると見知らぬ土地に対する言い知れぬ不安が募って来た。8時過ぎに台中駅前に着いた。バスから降りると駅前は明るく心配していた旅社も多くあってたちまち客引きに取り囲まれた。年配の客引きは皆日本語が堪能で宿を選ぶには苦労しなかった。
翌日の8月2日は南に100キロ離れた嘉義に向かった。
嘉義市(かぎし)は、台湾南部に位置する市(日本の中核市に相当する。)で、嘉義都市圏の中心都市である。北回帰線が市内南部を通過している。 -
昭和46年8月3日(火)嘉義 阿里山森林鉄道
おもちゃのような蒸気機関車これで標高2千mの阿里山駅まで登るのである。
昨晩泊まった旅社の主人に今日は阿里山森林道に乗ると言ったら駅で切符を買うよりお土産屋で買った方が良いと言われて教えられたお土産屋で買った。本当に安いのかどうか半信半疑だったので駅に行ってチェックしたらお土産屋の方が2割程安かったのでびっくりした。 -
昭和46年8月3日(火)嘉義 阿里山森林鉄道
阿里山森林鉄道は日本統治時代の1899年に、ヒノキ材を運搬する目的で建設された。全長72.7kmと短いながらも、始発~終着駅間標高差が2274mにもなる鉄道は、当時の日本とアメリカの最先端の技術を駆使して建設された。インドのダージリン鉄道、チリ~アルゼンチンを通るアンデス山鉄道と並んで、世界の三大登山鉄道と言われている。
阿里山というのは山の名前ではなく、嘉義県にある尖崙山、祝山、対高岳山、大塔山、塔山など18の高山から構成されたエリアを指す。最高峰は大塔山で標高2663m。 -
昭和46年8月3日(火)嘉義 阿里山駅で降りて
海抜30mの嘉義駅から約2000mの阿里山駅まで約4時間掛かるがスイッチバックあり、スパイラルありで熱帯・亜熱帯・温帯の三種類の森林景観が楽しめる。嘉義駅で買った駅弁は日本の幕の内弁当の豪華版で味も美味しく風景と共に堪能した。 -
昭和46年8月3日(火)嘉義 阿里山神木
阿里山神木遺跡、1906年に日本の技師小笠原富次郎氏が樹齢三千年以上の巨大な台湾ヒノキを発見し「阿里山神木」と命名された。落雷により幹の内部が燃え、腐敗が進んでおり、1997年の落雷でダメージを受けた後1998年に切り倒され1998年6月29日に伐採された。 -
昭和46年8月3日(火)嘉義 阿里山森林鉄道 三代木
3代に渡って、同じ木の株から生長し、枯れてはまた茂るを繰り返しているところから命名された。1代目が樹齢1500年。2代目がその250年後、3代目は2代目が枯れて空洞になった後の300年後に芽を出したとか。 -
昭和46年8月3日(火)嘉義 阿里山森林鉄道 姉妹潭
姉妹潭には、仲の良い姉妹が1人の鄒族の美少年を好きになり、そのことで姉妹の絆が壊れないよう2人とも自殺し、その後2つの湖(姉潭と妹潭)になった、という伝説が。姉潭には中央にヒノキの涼亭があり、周辺の林が湖面に映り優美な雰囲気になっている。付近には、寄り添うように立つ仲の良さそうな姿から、四姉妹、三兄弟と呼ばれる木がある。 -
昭和46年8月4日(水)台中駅
前日、嘉義から台中に移動した。 -
昭和46年8月4日(水)日月潭
旅行中出会った唯一の日本人女子大生。当時の銀塩コンパクトカメラには恋人モードの設定は無く、二人の間には距離があってもシャッターが押せた。 -
昭和46年8月4日(水)日月潭
日月潭は、対中の南東70キロにあって台湾最大の淡水湖。水深23.5m、標高749mのところにある深緑色の湖で湖の北側が太陽(日)の形、南側が月の形をしていることから日月潭と呼ばれる。略称は明潭(みんたん、日と月の合字で明)。 -
昭和46年8月4日(水)日月潭
ガイドブックには、湖面は暗緑色の落ち着いた色合いをしていて、この色合いは陽射しの差し込み方で微妙な変化が見られ、日月潭の特色となっている。とりわけ朝霧に煙る光景は筆舌に尽くせない美しさ、と書かれているがあいにくの天気は雨模様で視界も悪く最悪だった。 -
昭和46年8月4日(水)日月潭
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昭和46年8月5日(木)台中から中部横貫公路で花蓮に向かう
手作業で岩を削って開いた道路として知られる中部横貫公路は、台湾の中央部を東西に横断する唯一の自動車道である。一般には「中横公路」と呼ばれる。
前身は日本統治時代の1914年に建設された理蕃道路である。台中市の東勢大橋を起点とし、谷関・青山・徳基・梨山・大禹嶺・関原・天祥・太魯閣・峡口(太魯閣牌楼)などを経て花蓮県秀林郷の太魯閣大橋に至る、全長約192.78kmの省道である。
計画段階では「東西横貫公路」と呼ばれていたが、開通後は「省道台8線」の呼称が定着している。1960年5月9日に全線開通し、現在に至っている。 -
昭和46年8月5日(木)中部横貫公路
つづら折りの狭い道をバスは標高3千m近くまで登って山越えするが、いつ谷底に転落してもおかしく無いまさに悪路の山岳道路だった。 -
昭和46年8月5日(木)中部横貫公路
1956年7月7日着工、連日5、6千人を動員し、台風や地震、豪雨の危険に曝されながら、死傷者の続出、機材の破損を乗り越えて、建設工費4億3千万元、3年9ヶ月と18日の歳月を費やして、ようやく1960年5月9日全線開通した。 -
昭和46年8月5日(木) 花蓮市北にある中部横貫公路東の入り口太魯閣牌楼で
真っ直ぐ行けば太魯閣渓谷、右に行けば蘇花公路、6時間掛かってここまで下りて来てようやくほっとした。 -
昭和46年8月5日(木)花蓮 阿美族民族舞踊ショー
花蓮阿美文化村で観たアミ族の民族舞踊ショーは、豊年踊りや山狩りの踊り、結婚式の踊りなど華やかで若さ溢れていて実に洗練されていた。
最後の踊りが終ると4,5人の踊り子が花束を持って現れ会釈した時、一番近かった踊り子と目があった。そして手にしていた花束をこちらに向けて投げたのである。ところが花束は前列から4番目に座っていたせいか外れて隣りに座っていた台湾の若いカップルの女性がキャッチしたのである、踊り子も一瞬残念そうな顔をしたが、控室に戻って行ってしまった。がっかりして宿に帰ろうとしたら、隣りのカップルが花束を「どうぞ」と差し出した来た。幾らなんでも受け取る訳には行かず「あなた方がキャッチしたのだから」と遠慮したら女性から「彼女があなたに向かってほほ笑んだのを見たのよ。」連れの彼も「どうぞ受け取って。」という表情だったので花束を受け取った。感激のサプライズだった。
宿に帰っておばさんに花束と付いていたカードを見せると、「これは幸運の花束で受け取った人は必ず幸せになれる、この娘(李玉珍)は踊り子の中で一番の気立ての良い、あんたはラッキーだよ」と言われた。 -
昭和46年8月5日(木)花蓮 阿美族民族舞踊ショー
李玉珍さんからの花束に付いていたカード。携帯電話番号、メルアドの個人情報は伏せています。 -
昭和46年8月6日(金)蘇花公路
太平洋に沿って断崖絶壁の中腹を縫う蘇澳と花蓮を結ぶ全長118キロ蘇花公路は、1932年に開通した。
花蓮からバスは出発して北上し、崇徳で停車する。道路は幅3.5m程で狭く、すれ違い出来ないので一方通行規制が敷かれ、蘇花公路を通行する車両はここに集合して並び、蘇澳から来る車両を待つ為規定の通行許可時刻まで待機させられた。 -
昭和46年8月6日(金)蘇花公路
118キロのスリリング過ぎるドライブが2時間余り続く、2度と通りたくない道路だった。花束は日本まで大切に持ち帰ろうと思っていたが、検疫の事もあって、旅の無事、安全を祈ってバスの窓から海に投げた。 -
昭和46年8月6日(金)蘇澳市街並み風景
蘇澳市は宜蘭県東部沿岸部に位置し、東側は太平洋に面して蘇花公路の起点である。沿岸部には蘇澳港があり近海のみならず遠洋漁業の基地として重要な地位を占めている。 -
昭和46年8月6日(金)蘇澳市駅前風景
日本では珍しい輪タクが客待ちしていた。 -
昭和46年8月6日(金)台湾銀行台北駅カウンターで21ドル両替
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昭和46年8月9日(月)金山海水浴場
7日に台北に戻って金山青年活動センターにあるユースホステルに出国まで3泊して泳いだりした。ここには付設された海水浴場があってビーチにゴミが一つも落ちていないことが自慢で、透明度が高いことでも知られている。安全に関する管理体制も整っていた。 -
昭和46年8月9日(月)金山海水浴場で
金山青年活動センターでアルバイトしていた女子大生。写真を撮って欲しいと言われた時はフィルムが勿体無いなんて全然思わなかった。 -
昭和46年8月9日(月)台北街並み風景
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昭和46年8月9日(月)琉球政府トランジットビザ申請書
沖縄でのトランジットビザを取るには台北市にあるアメリカ領事館に行かなければならなかった。それにはパスポートと中華民国(10日)~沖縄(12日)と沖縄(15日)~日本(16日)の乗船券を提出しなければならなかったが、問題は沖縄からの出航日が15日でトランジットビザの滞在期限72時間を超える事であった。もし、ビザが取れなかったら金も無いし大変な事になるのである。相当考えた末に出航日付を改ざんする事にした。小さなナイフで5を削って4をボールペンで書いた。当時は日付はタイプ打ちでは無くボールペンだった。総領事館に行くと窓口は長蛇の列で係員が次から次へとスタンプを押していた。順番が来てびくびくしながら申請書とパスポートと乗船券を恐る恐る出すと、女性係員は乗船券の日付のチェックをすることなく一瞥しただけで申請書に押印してくれた。その間、1分ぐらいであっけなく終わった。それでも気が小さい性格なので後ろめたい気持ちが残っていて、出国後、琉球海運の船員にビザの事を話すと船の場合、台風とか天候によってスケジュールが狂う場合も多いので、沖縄からの乗船券さえあればトランジットビザは下りる、との事。取り越し苦労だった訳だ、それを聞いて正直ほっとした。 -
昭和46年8月10日(火)中華民国出国
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昭和46年8月10日(火)中華民国~沖縄 東シナ海の船上で
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昭和46年8月10日(火)中華民国~沖縄 東シナ海のの船上で
すっかり伸びてしまった髪の毛、これだと中華民国に入国出来ないだろう。 -
昭和46年8月12日(木)沖縄 泊入港
金も無いので海水浴に行って過ごした。 -
昭和46年8月15日(日)那覇出港
滞在72時間を過ぎていたが何の問題は起きなかった。 -
昭和46年8月16日(月)船内で4ドルを1,416円に両替
180ドル(64,600円)持ち込んで残ったのは4ドル(1,416円)、円は小銭しか無かったので神戸からはヒッチハイクして帰った。
この旅行記を書くにあたり結構時間費やした。何しろ46年前の事で記憶も薄らいでいて、撮った写真も少なく、ネットで検索しても当時の記事もなく、その上、写真に撮ってない出来事の方が記憶に残っていてそれを文章化するのに大いに苦労したのである。 -
昭和46年8月16日(月)神戸入港
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この旅行記へのコメント (3)
-
- kuronekoさん 2018/06/18 16:12:08
- 懐かしいです
- 懐かしいです。私も同年次の月に船で、沖縄、台湾一周をしました。東京から汽船でいきました。
お金はバイトで、大学四年の時でした。船での友人2人旅でした。女性はホテルで呼んでもらいました。
写真がすばらしいですね。カラーもいいですね。女性もすてきですね。
- ノスタルジアさん からの返信 2018/06/18 16:40:18
- Re: 懐かしいです
- 当時の沖縄、台湾を旅行された方からの投稿嬉しいです。是非旅行記アップしてください。
-
- aoitomoさん 2017/06/03 17:14:53
- 当時の旅は色々とスケールが大きいですね〜
- ノスタルジアさん こんにちは〜
貴重な写真に何十年も前にも関わらず明確な記憶、凄いですね。
なんか旅自体もスケールが大きくて昔のドキュメント番組を見ているようでした。
しっかりと美女が現れるのもノスタルジアさんらしいです。(笑)
確かにフィルムも惜しくないですね。
出航日付の改ざんも凄いです。
際どい旅はドラマのようです。
楽しませていただきました。
フォローさせていただいているので旅行記楽しませてもらってます。
お気遣いなく〜
aoitomo
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