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 今日は5月15日、1972年5月15日(昭和47年)に沖縄が本土復帰した日である。この日を迎えるとその2年前の春休み、1年前の夏休みに沖縄を訪れた事を思い出す。 <br /> 1970年(昭和45年)に入ってから学生運動は収束に向かっていてしらけ世代が台頭して来た。当時の自分は政治や学生運動には大いに関心があったがせいぜい教授や上京した折に新宿西口広場で活動家と議論する程度だった。そして世の中に不満があったりすると春休み、夏休みに気分転換の為に全国各地を旅行していた。旅行は現実逃避には最適だった。前年の夏休みには北海道を20日間程旅して病みつきになってしまった。そして70年の春休み、さてどこに行こうか、と計画したが、3月14日には大阪万博が開幕して万博ブームが起きていたが、「国民不在の祭典」とよばれる万国博、万国博が70年安保の自動延長のカモフラージュ等の批判もあったので、「国の政策には俺は乗らないぞ。」との思いだったが、それよりも混雑、人混みが大嫌いだったので沖縄に行く事した。只、太平洋戦争で多くの犠牲者の出た沖縄に物見遊山や現実逃避の為に行くのは自分自身に後ろめたく、未だにアメリカの占領地、統治下、ベトナム戦争の北爆基地の沖縄、一言で言えば日本、世界の矛盾が詰まっている、6月23日に日米安保条約の自動延長迎える沖縄を見ておきたい、という稚拙な大義名分にしたのであるが、実際はやはり現実逃避の旅行だった。<br />旅行日程<br />3月31日(火)大阪出港 よど号ハイジャック事件発生<br />4月2日(木)那覇入港 ひめゆりの塔~摩文仁の丘<br />4月3日(金)嘉手納米軍基地~与勝半島~万座毛で野宿<br />4月4日(土)辺戸岬~那覇 <br /> 北上して島の最北端辺戸岬を目指した。辺戸岬まで22キロの辺戸名までは順調なヒッチハイクだったが、それからの道は車が全然来なく、時折り収穫したさとうきびを積んだ軽トラックの荷台に乗せて貰った。降りる時貰ったさとうきびを真ん中辺りを噛んで2つに折って空を見上げた口に絞り出すと甘い砂糖液を感じた。辺戸岬までの道の両側は全てさとうきび畑でまさに「ざわわ、ざわわ」の世界だった。辺戸岬からは与論島が間近に見えた。<br /> https://youtu.be/tyB9z2C98tM?t=87<br /> 辺戸岬、さとうきび畑の写真を撮ってないのを悔やんでいる。当時は学生で現像代とプリント代が高くて今のデジカメの様に何枚でも撮れる状況では無かったのである。調べてみるとカラーフィルムが一般に普及し始めた1970年頃の現像代は、400~500円で、サービス判のプリントは1枚70~80円もしていた。大卒初任給4万円、かけそば100円の時代で。<br /><br /> 辺戸岬から那覇市に戻った時は20時を過ぎていた。今日1日ヒッチハイクした車の数は憶えていないくらい乗った。コザ市から那覇市まで乗せてくれた人が琉球大学の構内にあるキリスト教学生センターは安くて泊まれると言って親切にもそこまで送ってくれたので感激した。<br />4月5日(日)那覇市内 よど号が平壌から羽田に帰還<br />4月6日(月)那覇出港<br />4月7日(火)鹿児島入港<br /><br /> 今回の沖縄旅行は沖縄の人たちの親切お蔭で旅行が出来たと思っている。<br />特に移動手段は全てヒッチハイクだったので乗せて貰った人たちには感謝している。行く先々で昼食代も払ってくれた。これには今でも忘れられない面白い思い出がある。2日目にヒッチハイクした運転手さんから少し早目のお昼にしようか、と誘われて食堂に入った。11時半頃だったのでまだ客がいなかったが、馴染みの食堂らしく運転手さんは注文を取りに来た店員に指を2本立てながら「味噌汁」と言って手洗いに行った。テーブルに座って、確か今、「味噌汁」、と運転手さんは言ったけ、「えっ、味噌汁だけ!?」、「ご飯は、おかずは?」もしかしたら沖縄では奢られる方はご飯、おかずを注文するのがマナーなのか?、運転手が戻って来たらこちらから注文しなきゃ、と思ったり、他に客もいないので様子も分からない、どうしたら良いかと不安のまま過ごしていたら、運転手さんが戻って席に着いた途端「味噌汁」が運ばれて来た。それを見て驚いた。想像していたお椀ではなく、ラーメン丼のサイズで味噌汁は、おかずのように具だくさんで野菜(もやし、キャベツ、小松菜、ニンジン、大根、玉ねぎなど)、豚肉、豆腐、卵、かまぼこなどが入っていて、卵焼き、漬物の小皿、大盛のご飯も付いていた。<br />それからもヒッチハイクをした運転手さんと昼時に食堂に行けば、こちらには構わず「味噌汁」と注文してくれた。店によって具の材料や小皿のおかずは違うが全て美味しく未だに忘れられない味である。夕食は一人で行く事が多かったが、いつも注文したのは味噌汁だけだった。翌年の夏休みに来た時も味噌汁だけを注文した。食堂によっては壁に貼ってあるのは「味噌汁」か「味噌汁定食」のどちらかで「味噌汁」を注文した時、もしかしたら味噌汁だけかも、と思ってドキドキしながら待っていたのも良い思い出である。<br />沖縄味噌汁の画像は<br />https://search.yahoo.co.jp/image/search?rkf=2&amp;ei=UTF-8&amp;gdr=1&amp;p=%E6%B2%96%E7%B8%84+%E5%91%B3%E5%99%8C%E6%B1%81

1970年(昭和45年) 本土復帰2年前の沖縄を旅して

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1970/03/31 - 1970/04/07

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ノスタルジア

ノスタルジアさん

 今日は5月15日、1972年5月15日(昭和47年)に沖縄が本土復帰した日である。この日を迎えるとその2年前の春休み、1年前の夏休みに沖縄を訪れた事を思い出す。 
 1970年(昭和45年)に入ってから学生運動は収束に向かっていてしらけ世代が台頭して来た。当時の自分は政治や学生運動には大いに関心があったがせいぜい教授や上京した折に新宿西口広場で活動家と議論する程度だった。そして世の中に不満があったりすると春休み、夏休みに気分転換の為に全国各地を旅行していた。旅行は現実逃避には最適だった。前年の夏休みには北海道を20日間程旅して病みつきになってしまった。そして70年の春休み、さてどこに行こうか、と計画したが、3月14日には大阪万博が開幕して万博ブームが起きていたが、「国民不在の祭典」とよばれる万国博、万国博が70年安保の自動延長のカモフラージュ等の批判もあったので、「国の政策には俺は乗らないぞ。」との思いだったが、それよりも混雑、人混みが大嫌いだったので沖縄に行く事した。只、太平洋戦争で多くの犠牲者の出た沖縄に物見遊山や現実逃避の為に行くのは自分自身に後ろめたく、未だにアメリカの占領地、統治下、ベトナム戦争の北爆基地の沖縄、一言で言えば日本、世界の矛盾が詰まっている、6月23日に日米安保条約の自動延長迎える沖縄を見ておきたい、という稚拙な大義名分にしたのであるが、実際はやはり現実逃避の旅行だった。
旅行日程
3月31日(火)大阪出港 よど号ハイジャック事件発生
4月2日(木)那覇入港 ひめゆりの塔~摩文仁の丘
4月3日(金)嘉手納米軍基地~与勝半島~万座毛で野宿
4月4日(土)辺戸岬~那覇 
 北上して島の最北端辺戸岬を目指した。辺戸岬まで22キロの辺戸名までは順調なヒッチハイクだったが、それからの道は車が全然来なく、時折り収穫したさとうきびを積んだ軽トラックの荷台に乗せて貰った。降りる時貰ったさとうきびを真ん中辺りを噛んで2つに折って空を見上げた口に絞り出すと甘い砂糖液を感じた。辺戸岬までの道の両側は全てさとうきび畑でまさに「ざわわ、ざわわ」の世界だった。辺戸岬からは与論島が間近に見えた。
 https://youtu.be/tyB9z2C98tM?t=87
 辺戸岬、さとうきび畑の写真を撮ってないのを悔やんでいる。当時は学生で現像代とプリント代が高くて今のデジカメの様に何枚でも撮れる状況では無かったのである。調べてみるとカラーフィルムが一般に普及し始めた1970年頃の現像代は、400~500円で、サービス判のプリントは1枚70~80円もしていた。大卒初任給4万円、かけそば100円の時代で。

 辺戸岬から那覇市に戻った時は20時を過ぎていた。今日1日ヒッチハイクした車の数は憶えていないくらい乗った。コザ市から那覇市まで乗せてくれた人が琉球大学の構内にあるキリスト教学生センターは安くて泊まれると言って親切にもそこまで送ってくれたので感激した。
4月5日(日)那覇市内 よど号が平壌から羽田に帰還
4月6日(月)那覇出港
4月7日(火)鹿児島入港

 今回の沖縄旅行は沖縄の人たちの親切お蔭で旅行が出来たと思っている。
特に移動手段は全てヒッチハイクだったので乗せて貰った人たちには感謝している。行く先々で昼食代も払ってくれた。これには今でも忘れられない面白い思い出がある。2日目にヒッチハイクした運転手さんから少し早目のお昼にしようか、と誘われて食堂に入った。11時半頃だったのでまだ客がいなかったが、馴染みの食堂らしく運転手さんは注文を取りに来た店員に指を2本立てながら「味噌汁」と言って手洗いに行った。テーブルに座って、確か今、「味噌汁」、と運転手さんは言ったけ、「えっ、味噌汁だけ!?」、「ご飯は、おかずは?」もしかしたら沖縄では奢られる方はご飯、おかずを注文するのがマナーなのか?、運転手が戻って来たらこちらから注文しなきゃ、と思ったり、他に客もいないので様子も分からない、どうしたら良いかと不安のまま過ごしていたら、運転手さんが戻って席に着いた途端「味噌汁」が運ばれて来た。それを見て驚いた。想像していたお椀ではなく、ラーメン丼のサイズで味噌汁は、おかずのように具だくさんで野菜(もやし、キャベツ、小松菜、ニンジン、大根、玉ねぎなど)、豚肉、豆腐、卵、かまぼこなどが入っていて、卵焼き、漬物の小皿、大盛のご飯も付いていた。
それからもヒッチハイクをした運転手さんと昼時に食堂に行けば、こちらには構わず「味噌汁」と注文してくれた。店によって具の材料や小皿のおかずは違うが全て美味しく未だに忘れられない味である。夕食は一人で行く事が多かったが、いつも注文したのは味噌汁だけだった。翌年の夏休みに来た時も味噌汁だけを注文した。食堂によっては壁に貼ってあるのは「味噌汁」か「味噌汁定食」のどちらかで「味噌汁」を注文した時、もしかしたら味噌汁だけかも、と思ってドキドキしながら待っていたのも良い思い出である。
沖縄味噌汁の画像は
https://search.yahoo.co.jp/image/search?rkf=2&ei=UTF-8&gdr=1&p=%E6%B2%96%E7%B8%84+%E5%91%B3%E5%99%8C%E6%B1%81

同行者
一人旅
旅行の手配内容
個別手配

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  • 昭和45年3月18日(水)発行 身分証明書<br /><br /> 身分証明書とは内閣総理大臣(総理府)が発行する沖縄渡航専用のパスポート。外務省発行のパスポートとは異なり、上部の文字は「身分証明書」、中央の紋章は「五七の桐花紋」、下部の文字は「日本政府総理府」であった。

    昭和45年3月18日(水)発行 身分証明書

     身分証明書とは内閣総理大臣(総理府)が発行する沖縄渡航専用のパスポート。外務省発行のパスポートとは異なり、上部の文字は「身分証明書」、中央の紋章は「五七の桐花紋」、下部の文字は「日本政府総理府」であった。

  • 昭和45年3月18日(水)発行 身分証明書<br /><br /> 身分証明書発行について<br /> 本籍地または現住所の都道府県の窓口で申請する(申請時は必ず本人が出頭しなければならない)。<br /> 窓口で申請するには以下の書類が必要であった。<br />1.身分証明書発給申請書2通 <br />2.住民票の謄本か抄本1通(有効期間6ヶ月以内)<br />3.申請者本人の顔写真2枚<br />4.入域許可申請書3通 「入域許可申請書」とは琉球列島米国民政府が発行した「入域許可証(Permission for Entry into the Ryukyu Islands)」(査証)で英文書式の申請書。<br /> これらの書類を提出すると、1、2、3は総理府、4は米国民政府に送られ、入域が許可されると総理府の「身分証明書」に米国民政府の入域許可証が添付されて、都道府県窓口に送られて、申請者に交付された(約2週間を要する)。<br /> 手続きは旅行代理店でもしてくれるが高い手数料と団体客でもない貧乏旅行の学生では相手にされなかったので県庁に書類を取りに行ったりして結構面倒だった。 

    昭和45年3月18日(水)発行 身分証明書

     身分証明書発行について
     本籍地または現住所の都道府県の窓口で申請する(申請時は必ず本人が出頭しなければならない)。
     窓口で申請するには以下の書類が必要であった。
    1.身分証明書発給申請書2通
    2.住民票の謄本か抄本1通(有効期間6ヶ月以内)
    3.申請者本人の顔写真2枚
    4.入域許可申請書3通 「入域許可申請書」とは琉球列島米国民政府が発行した「入域許可証(Permission for Entry into the Ryukyu Islands)」(査証)で英文書式の申請書。
     これらの書類を提出すると、1、2、3は総理府、4は米国民政府に送られ、入域が許可されると総理府の「身分証明書」に米国民政府の入域許可証が添付されて、都道府県窓口に送られて、申請者に交付された(約2週間を要する)。
     手続きは旅行代理店でもしてくれるが高い手数料と団体客でもない貧乏旅行の学生では相手にされなかったので県庁に書類を取りに行ったりして結構面倒だった。 

  • 昭和45年3月28日(土) 42ドル(15,120円)に両替 1ドル360円(固定相場制)<br /><br />「身分証明書」を外貨両替を行っている銀行に提示すれば、500ドル(18万円)の範囲内で交換ができた。

    昭和45年3月28日(土) 42ドル(15,120円)に両替 1ドル360円(固定相場制)

    「身分証明書」を外貨両替を行っている銀行に提示すれば、500ドル(18万円)の範囲内で交換ができた。

  • 米国民政府発行の入域許可証(査証)<br /><br /> 書類申請で困ったのは12.のList PrincipalContact Naame And Addressだった。<br />文字通り訳せば主要連絡先だったが、実際は沖縄在住の身元保証人だった。当然そん人はいなくて必死に調べていたら琉球政府文教局保健体育課内にある沖縄ユースホステル協会事務局のIさんが身元保証人になってくれると知ってお願いした。<br /> 出入域管理事務そのものは琉球政府が所管していたが、根拠法令は米国民政府が制定した琉球列島出入管理令(民政府布令第125号)や琉球住民の渡航管理(民政府布令第147号)であり、実際に出入域の可否を決めるのは米国民政府であった。<br />そのため、復帰運動の運動家が出入域できない事例が頻発するなど、恣意的な運用が批判された。<br /> その為県庁に申請書類を窓口に提出した際に米国民政府が反米的活動家あるいは復帰運動の運動家かどうか、の厳しいチェックがあるので許可証が下りない場合もあると釘を刺された。

    米国民政府発行の入域許可証(査証)

     書類申請で困ったのは12.のList PrincipalContact Naame And Addressだった。
    文字通り訳せば主要連絡先だったが、実際は沖縄在住の身元保証人だった。当然そん人はいなくて必死に調べていたら琉球政府文教局保健体育課内にある沖縄ユースホステル協会事務局のIさんが身元保証人になってくれると知ってお願いした。
     出入域管理事務そのものは琉球政府が所管していたが、根拠法令は米国民政府が制定した琉球列島出入管理令(民政府布令第125号)や琉球住民の渡航管理(民政府布令第147号)であり、実際に出入域の可否を決めるのは米国民政府であった。
    そのため、復帰運動の運動家が出入域できない事例が頻発するなど、恣意的な運用が批判された。
     その為県庁に申請書類を窓口に提出した際に米国民政府が反米的活動家あるいは復帰運動の運動家かどうか、の厳しいチェックがあるので許可証が下りない場合もあると釘を刺された。

  • 昭和45年3月27日(金)交付 イエローカード(予防接種証明書)<br /><br /> 沖縄に渡航するには種痘の「免疫証明書」が必要であった。当時、石川県に住んでいて最寄りの検疫所は富山県高岡市伏木港にあってそこまで出向いて種痘の接種を受けた。

    昭和45年3月27日(金)交付 イエローカード(予防接種証明書)

     沖縄に渡航するには種痘の「免疫証明書」が必要であった。当時、石川県に住んでいて最寄りの検疫所は富山県高岡市伏木港にあってそこまで出向いて種痘の接種を受けた。

  • 昭和45年3月31日(火) 出国にあたり所持金8,000円の申告

    昭和45年3月31日(火) 出国にあたり所持金8,000円の申告

  • 昭和45年3月31日(火)大阪港から出国<br /><br /> 出国手続きは海外渡航と同じ扱いなので、出発時刻の2時間前に港や空港に到着して、荷物検査、税関、出国審査を済ませなければならなかった。<br />関西汽船のカウンターで乗船券、身分証明書、免疫証明書、日本の出入国カードのチェックと手荷物の検査を受ける。税関にて身分証明書を提示し、所持金の申告をする。入管で身分証明書に出国印を押してもらい、出入国カードを提出してようやく乗船した。

    昭和45年3月31日(火)大阪港から出国

     出国手続きは海外渡航と同じ扱いなので、出発時刻の2時間前に港や空港に到着して、荷物検査、税関、出国審査を済ませなければならなかった。
    関西汽船のカウンターで乗船券、身分証明書、免疫証明書、日本の出入国カードのチェックと手荷物の検査を受ける。税関にて身分証明書を提示し、所持金の申告をする。入管で身分証明書に出国印を押してもらい、出入国カードを提出してようやく乗船した。

  • 昭和45年4月2日(木)那覇港 <br /><br /> 2等船室相部屋で一緒だった左からAさん、Fさん、Sさんで皆、学生だった。<br />3人とは話しが合い2泊3日の船内生活は行動を共にした。そして那覇港で下船する時、翌日の3日に万座毛で落ち会って野宿する事にした。実に大雑把な話しだった。<br /> 

    昭和45年4月2日(木)那覇港 

     2等船室相部屋で一緒だった左からAさん、Fさん、Sさんで皆、学生だった。
    3人とは話しが合い2泊3日の船内生活は行動を共にした。そして那覇港で下船する時、翌日の3日に万座毛で落ち会って野宿する事にした。実に大雑把な話しだった。
     

  • 昭和45年4月2日(木)那覇港<br /><br /> 大阪港を出港してから紀伊水道に入った11時頃だったと思うが、突然、部屋のテレビ画面が板付空港(現在の福岡空港)の旅客機に変わった。よど号ハイジャック事件である。1970年3月31日に共産主義者同盟赤軍派が起こした日本における最初のハイジャック事件である。知り合った3人と画面に釘付けとなったが、午後になると船は電波の届かない四国沖の航海になってニュースは見られなくなった。<br /> よど号が平壌から羽田に帰還したのは4月5日、自分が那覇港を離れたのは4月6日、ほぼ重なるのである。<br /> その頃、実家には沖縄に行って来る、と伝えてはいたが、祖母から犯人グループの中に孫がいるのでは、とかなり心配して家に電話があったと母から後から聞いたのである。日頃から政治に対して過激な発言(言うだけ)をしていたせいである。<br /> 今でもよど号ハイジャック事件が報じられる度に沖縄旅行と祖母の事がリンクされて思い出すのである。<br />

    昭和45年4月2日(木)那覇港

     大阪港を出港してから紀伊水道に入った11時頃だったと思うが、突然、部屋のテレビ画面が板付空港(現在の福岡空港)の旅客機に変わった。よど号ハイジャック事件である。1970年3月31日に共産主義者同盟赤軍派が起こした日本における最初のハイジャック事件である。知り合った3人と画面に釘付けとなったが、午後になると船は電波の届かない四国沖の航海になってニュースは見られなくなった。
     よど号が平壌から羽田に帰還したのは4月5日、自分が那覇港を離れたのは4月6日、ほぼ重なるのである。
     その頃、実家には沖縄に行って来る、と伝えてはいたが、祖母から犯人グループの中に孫がいるのでは、とかなり心配して家に電話があったと母から後から聞いたのである。日頃から政治に対して過激な発言(言うだけ)をしていたせいである。
     今でもよど号ハイジャック事件が報じられる度に沖縄旅行と祖母の事がリンクされて思い出すのである。

  •  昭和45年4月2日(木) 那覇港入域スタンプ<br /><br /> 那覇港にに到着すると免疫証明書の検査、出入管理庁のカウンターで身分証明書に入域印が押され、沖縄の出入域カードを提出して、最後に税関で荷物の検査が行われてようやく上陸出来た。<br /> 上陸して最初に向かったのは琉球政府行政府ビルにある沖縄ユースホステル協会で身元保証人になって貰ったIさんにお礼の挨拶をした。Iさんは年配の見るからに優しそうなご婦人で沖縄の資料や地図、観光パンフレットをくれて、あなたが見た沖縄の現状を本土の人たちに話して欲しい、と言われた。<br /> 「あなたが見た沖縄の現状を本土の人たちに話して欲しい。」は、旅行中出会った人たちからよく言われた。特に移動は全てヒッチハイクだったので乗せてくれた人たちからは必ず言われた。<br />

     昭和45年4月2日(木) 那覇港入域スタンプ

     那覇港にに到着すると免疫証明書の検査、出入管理庁のカウンターで身分証明書に入域印が押され、沖縄の出入域カードを提出して、最後に税関で荷物の検査が行われてようやく上陸出来た。
     上陸して最初に向かったのは琉球政府行政府ビルにある沖縄ユースホステル協会で身元保証人になって貰ったIさんにお礼の挨拶をした。Iさんは年配の見るからに優しそうなご婦人で沖縄の資料や地図、観光パンフレットをくれて、あなたが見た沖縄の現状を本土の人たちに話して欲しい、と言われた。
     「あなたが見た沖縄の現状を本土の人たちに話して欲しい。」は、旅行中出会った人たちからよく言われた。特に移動は全てヒッチハイクだったので乗せてくれた人たちからは必ず言われた。

  • 昭和45年4月2日(木)ひめゆりの塔 慰霊碑<br /><br /> 慰霊碑の名称は、当時第三外科壕に学徒隊として従軍していたひめゆり学徒隊にちなんでいる。「ひめゆり」は学徒隊員の母校、沖縄県立第一高等女学校の校誌名「乙姫」と沖縄師範学校女子部の校誌名「白百合」とを組み合わせた言葉で、元来は「姫百合」であったが、戦後ひらがなで記載されるようになった。なお、植物のヒメユリとは関係がない。

    昭和45年4月2日(木)ひめゆりの塔 慰霊碑

     慰霊碑の名称は、当時第三外科壕に学徒隊として従軍していたひめゆり学徒隊にちなんでいる。「ひめゆり」は学徒隊員の母校、沖縄県立第一高等女学校の校誌名「乙姫」と沖縄師範学校女子部の校誌名「白百合」とを組み合わせた言葉で、元来は「姫百合」であったが、戦後ひらがなで記載されるようになった。なお、植物のヒメユリとは関係がない。

  • 昭和45年4月2日(木)ひめゆりの塔 <br /><br /> ひめゆりの塔と壕は慰霊碑の手前にある。

    昭和45年4月2日(木)ひめゆりの塔 

     ひめゆりの塔と壕は慰霊碑の手前にある。

  • 昭和45年4月2日(木)ひめゆりの塔 <br /><br /> 壕は病院の第三外科として利用された自然洞窟で深さ10m程の暗い地下壕。<br />学徒隊のなかで最も被害を受けたのがこの壕で、第三外科壕は、黄燐手榴弾などの攻撃を受け、壕にいた96名(うち教師5名・生徒46名)のうち、87名が死亡した<br />当時、戦闘が激しくなる中、招集された女子生徒222名、教師18名が看護要員として、第三外科壕に動員された。病院としての建物などはなく、ポッカリと口を開けた狭い洞窟で、看護を行い続けるが、戦局が絶望的となり解散命令が出る。<br /> しかし、敵に包囲され、洞窟から逃げ出すことができず、その後、数日でほとんどの女子生徒は爆弾によって命を落とし、結局、第三外科壕で生き残ったのは5名のみだった。<br /> そんな洞窟を背景に記念撮影をする本土からの観光客には怒りと悲しみを感じて何とも言えない気持ちになった。こんな狭く、暗い場所で、逃げることもできなかった犠牲者の事を思えばとても記念撮影する気にはならない筈なのに。

    昭和45年4月2日(木)ひめゆりの塔 

     壕は病院の第三外科として利用された自然洞窟で深さ10m程の暗い地下壕。
    学徒隊のなかで最も被害を受けたのがこの壕で、第三外科壕は、黄燐手榴弾などの攻撃を受け、壕にいた96名(うち教師5名・生徒46名)のうち、87名が死亡した
    当時、戦闘が激しくなる中、招集された女子生徒222名、教師18名が看護要員として、第三外科壕に動員された。病院としての建物などはなく、ポッカリと口を開けた狭い洞窟で、看護を行い続けるが、戦局が絶望的となり解散命令が出る。
     しかし、敵に包囲され、洞窟から逃げ出すことができず、その後、数日でほとんどの女子生徒は爆弾によって命を落とし、結局、第三外科壕で生き残ったのは5名のみだった。
     そんな洞窟を背景に記念撮影をする本土からの観光客には怒りと悲しみを感じて何とも言えない気持ちになった。こんな狭く、暗い場所で、逃げることもできなかった犠牲者の事を思えばとても記念撮影する気にはならない筈なのに。

  • 昭和45年4月2日(木)遺骨を収集して昭和21年に建てられたひめゆりの塔<br /><br /> 塔と名はついているが、実物は高さ数十センチでそれほど高くはない。これは、終戦直後の物資難な時代に建立された事と、アメリカ軍統治下に建立されたという事情によるものである。<br /> いわまくら碑は、学徒隊引率教師であった仲宗根政善氏が、第1回ひめゆりの塔慰霊祭(1946年4月7日)で、戦死した教え子を悼み霊前に捧げた歌の碑。<br /> 「いはまくら かたくもあらん やすらかに ねむれぞといのる まなびのともは」<br /> 「固いごつごつとした岩場で亡くなったのはさぞ無念で辛かったでしょう。心安らかに眠って欲しいと学友たちは願っています。」という哀悼の歌。

    昭和45年4月2日(木)遺骨を収集して昭和21年に建てられたひめゆりの塔

     塔と名はついているが、実物は高さ数十センチでそれほど高くはない。これは、終戦直後の物資難な時代に建立された事と、アメリカ軍統治下に建立されたという事情によるものである。
     いわまくら碑は、学徒隊引率教師であった仲宗根政善氏が、第1回ひめゆりの塔慰霊祭(1946年4月7日)で、戦死した教え子を悼み霊前に捧げた歌の碑。
     「いはまくら かたくもあらん やすらかに ねむれぞといのる まなびのともは」
     「固いごつごつとした岩場で亡くなったのはさぞ無念で辛かったでしょう。心安らかに眠って欲しいと学友たちは願っています。」という哀悼の歌。

  • 昭和45年4月2日(木)沖縄師範健児の塔<br /><br /> 沖縄師範学校男子部等の生徒によって編成された鉄血勤皇隊を祀った碑。学徒動員は沖縄戦の特徴である。 ひめゆり学徒もそうであったように鉄血勤皇隊も13~19歳で法的根拠無く動員された。鉄血勤皇隊は 1945年3月31日に編成されたが法律(義勇兵役法)は6月23日にしか発布されていない。 そのため、親の承諾印をもらうため実家に帰したという。戦争に出るのを反対し引き留める親もいたが皇民化 教育(師範学校は教師を養成する学校のため特に徹底された)を徹底されていたため、ほとんどの生徒が、学校に 戻ってきたという。<br /> 鉄血勤皇隊は伝令や通信、切り込み、急造爆雷(箱に火薬を詰めた爆弾)を背負っての特攻を行った。伝令なども、同じ文書を3人に持たし走らせ、そのうち1人だけがたどり着く、そのような任務であった。

    昭和45年4月2日(木)沖縄師範健児の塔

     沖縄師範学校男子部等の生徒によって編成された鉄血勤皇隊を祀った碑。学徒動員は沖縄戦の特徴である。 ひめゆり学徒もそうであったように鉄血勤皇隊も13~19歳で法的根拠無く動員された。鉄血勤皇隊は 1945年3月31日に編成されたが法律(義勇兵役法)は6月23日にしか発布されていない。 そのため、親の承諾印をもらうため実家に帰したという。戦争に出るのを反対し引き留める親もいたが皇民化 教育(師範学校は教師を養成する学校のため特に徹底された)を徹底されていたため、ほとんどの生徒が、学校に 戻ってきたという。
     鉄血勤皇隊は伝令や通信、切り込み、急造爆雷(箱に火薬を詰めた爆弾)を背負っての特攻を行った。伝令なども、同じ文書を3人に持たし走らせ、そのうち1人だけがたどり着く、そのような任務であった。

  • 昭和45年4月2日(木)健児の塔の石碑

    昭和45年4月2日(木)健児の塔の石碑

  • 昭和45年4月2日(木)健児之塔 平和の像<br /><br /> 沖縄師範健児之塔の斜め後方に建っているのが平和の像で向かって右側の少年が友情を、中央の少年が師弟愛を、左の少年が永遠の平和を象徴している。

    昭和45年4月2日(木)健児之塔 平和の像

     沖縄師範健児之塔の斜め後方に建っているのが平和の像で向かって右側の少年が友情を、中央の少年が師弟愛を、左の少年が永遠の平和を象徴している。

  • 昭和45年4月2日(木)摩文仁の丘<br /><br /> 摩文仁の丘の第三十二軍司令部洞窟付近から眺めた沖縄の海。当時、この海面は米軍の艦艇で埋め尽くされ、降伏を呼びかける小型艇が岸近くを往来していた。

    昭和45年4月2日(木)摩文仁の丘

     摩文仁の丘の第三十二軍司令部洞窟付近から眺めた沖縄の海。当時、この海面は米軍の艦艇で埋め尽くされ、降伏を呼びかける小型艇が岸近くを往来していた。

  • 昭和45年4月2日(木)摩文仁の丘<br /><br /> 中部・首里戦線の戦闘で6万人の兵力を消耗した日本軍に対して米軍は、掃討戦の形をとって追いつめていった。南部一帯は那覇・首里・中南部からの避難民と敗走する守備軍の入り乱れる戦場と化した。米軍は、艦砲射撃・爆撃・火炎放射器などあらゆる近代兵器を使って攻撃した。さらに日本兵や住民が隠れている壕に対しては「馬乗り攻撃」を行ったため、多くの人々が犠牲となった。6月23日(22日の説がある)、牛島司令官の自決によって守備軍の組織的戦闘は終了した。

    昭和45年4月2日(木)摩文仁の丘

     中部・首里戦線の戦闘で6万人の兵力を消耗した日本軍に対して米軍は、掃討戦の形をとって追いつめていった。南部一帯は那覇・首里・中南部からの避難民と敗走する守備軍の入り乱れる戦場と化した。米軍は、艦砲射撃・爆撃・火炎放射器などあらゆる近代兵器を使って攻撃した。さらに日本兵や住民が隠れている壕に対しては「馬乗り攻撃」を行ったため、多くの人々が犠牲となった。6月23日(22日の説がある)、牛島司令官の自決によって守備軍の組織的戦闘は終了した。

  • 昭和45年4月2日(木)摩文仁の丘 発掘された高射砲<br /><br /> 

    昭和45年4月2日(木)摩文仁の丘 発掘された高射砲

     

  • 昭和45年4月2日(木)摩文仁の丘 発掘された高射砲の説明文<br /><br /> 旅行記作成にあたりネット検索したがこの高射砲についてはヒットせず、現在は存在しないかもしれない。

    昭和45年4月2日(木)摩文仁の丘 発掘された高射砲の説明文

     旅行記作成にあたりネット検索したがこの高射砲についてはヒットせず、現在は存在しないかもしれない。

  • 昭和45年4月2日(木)ユースホステル 那覇春海荘の宿泊スタンプ<br /><br /> 那覇市内に戻りその日はユースホステル春海荘に泊まった。<br />http://www.okinawa-yha.org/hostels.php<br />

    昭和45年4月2日(木)ユースホステル 那覇春海荘の宿泊スタンプ

     那覇市内に戻りその日はユースホステル春海荘に泊まった。
    http://www.okinawa-yha.org/hostels.php

  • 昭和45年4月3日(金)ヒッチハイクした車から嘉手納空軍基地を撮る。<br /><br /> 嘉手納空軍基地は、日本最大の空港である東京国際空港(羽田空港)の約2倍である。かつてはスペースシャトルの緊急着陸地に指定されていた。

    昭和45年4月3日(金)ヒッチハイクした車から嘉手納空軍基地を撮る。

     嘉手納空軍基地は、日本最大の空港である東京国際空港(羽田空港)の約2倍である。かつてはスペースシャトルの緊急着陸地に指定されていた。

  • 昭和45年4月3日(金)ヒッチハイクした車から嘉手納空軍基地を撮る。<br /><br /> 1965年(昭和40年)7月29日、グアムの台風を避けるため前日から嘉手納に展開していたB-52爆撃機25機が、同日北ベトナム空爆に出撃。以降、成り行きで同機の飛来が定着、嘉手納はアメリカ政府の主張による「補給基地」から、実質的な「出撃基地」のひとつとなる。<br /><br />

    昭和45年4月3日(金)ヒッチハイクした車から嘉手納空軍基地を撮る。

     1965年(昭和40年)7月29日、グアムの台風を避けるため前日から嘉手納に展開していたB-52爆撃機25機が、同日北ベトナム空爆に出撃。以降、成り行きで同機の飛来が定着、嘉手納はアメリカ政府の主張による「補給基地」から、実質的な「出撃基地」のひとつとなる。

  • 昭和45年4月3日(金)ヒッチハイクした車から嘉手納空軍基地を撮る。<br /><br /> 垂直尾翼の形状から戦略爆撃機B-52と思われる。

    昭和45年4月3日(金)ヒッチハイクした車から嘉手納空軍基地を撮る。

     垂直尾翼の形状から戦略爆撃機B-52と思われる。

  • 昭和45年4月3日(金)消防署の屋上から嘉手納空軍基地のB-52を撮る。<br /><br /> 消防署の前で車から一旦降りて署の受付で屋上から(といっても3階だが)基地内を撮らして欲しい、とお願いすると意外にもOKだったので驚いた。折角だったのにバカチョンの銀塩カメラではこれが限界だった。<br /><br /> 

    昭和45年4月3日(金)消防署の屋上から嘉手納空軍基地のB-52を撮る。

     消防署の前で車から一旦降りて署の受付で屋上から(といっても3階だが)基地内を撮らして欲しい、とお願いすると意外にもOKだったので驚いた。折角だったのにバカチョンの銀塩カメラではこれが限界だった。

     

  • 昭和45年4月3日(金)与勝半島 屋慶名港で<br /><br /> 与勝半島(よかつはんとう)は、沖縄本島中部東海岸から太平洋に突き出した半島で北は金武湾、南は中城湾に面していて屋慶名港は半島の先端近くにある。<br />

    昭和45年4月3日(金)与勝半島 屋慶名港で

     与勝半島(よかつはんとう)は、沖縄本島中部東海岸から太平洋に突き出した半島で北は金武湾、南は中城湾に面していて屋慶名港は半島の先端近くにある。

  • 昭和45年4月3日(金)与勝半島 屋慶名港で<br /><br /> 何でここに来たかは覚えていないが、ヒッチハイクした運転手さんの都合、営業車であればこの辺りに営業先があって訪れた、ついでに眺めの良い所で観光案内してくれたのでは、と思っている。<br /> 昨日も摩文仁の丘へ行くのにヒッチハイクした車が生協の配達トラックだったので配達しながらだった。勿論、率先して配達の手伝ったが結構楽しかった。

    昭和45年4月3日(金)与勝半島 屋慶名港で

     何でここに来たかは覚えていないが、ヒッチハイクした運転手さんの都合、営業車であればこの辺りに営業先があって訪れた、ついでに眺めの良い所で観光案内してくれたのでは、と思っている。
     昨日も摩文仁の丘へ行くのにヒッチハイクした車が生協の配達トラックだったので配達しながらだった。勿論、率先して配達の手伝ったが結構楽しかった。

  • 昭和45年4月3日(金)与勝半島 屋慶名港から平安座島(へんざじま)を撮る<br /><br /> 平安座島は面積5.44km2、周囲約7km、標高115.6mの低平な島である。<br />与勝半島と平安座島の海域は遠浅で、干潮時に徒歩で往来可能であったが、離島苦の解消は島民にとって積年の願いであった。<br /> 過去には1753年に親子が平安座島へ渡る途中に暴風雨に遭遇し帰路を見失い、満潮時に流され溺死した事故が起こっている。また戦後にはアメリカ軍が改造した海上トラックも通行していた。1968年(昭和43年)にアメリカの石油会社ガルフ社が平安座島に進出した際、島の大半を貸与する代わりに、1972年(昭和47年)にガルフ社の負担で全長約4.75kmの海中道路を完成させた。しかし、開通後には金武湾内の海流が変化し、土砂堆積などの問題が発生した。

    昭和45年4月3日(金)与勝半島 屋慶名港から平安座島(へんざじま)を撮る

     平安座島は面積5.44km2、周囲約7km、標高115.6mの低平な島である。
    与勝半島と平安座島の海域は遠浅で、干潮時に徒歩で往来可能であったが、離島苦の解消は島民にとって積年の願いであった。
     過去には1753年に親子が平安座島へ渡る途中に暴風雨に遭遇し帰路を見失い、満潮時に流され溺死した事故が起こっている。また戦後にはアメリカ軍が改造した海上トラックも通行していた。1968年(昭和43年)にアメリカの石油会社ガルフ社が平安座島に進出した際、島の大半を貸与する代わりに、1972年(昭和47年)にガルフ社の負担で全長約4.75kmの海中道路を完成させた。しかし、開通後には金武湾内の海流が変化し、土砂堆積などの問題が発生した。

  • 昭和45年4月3日(金)屋慶名港で<br /><br /> 当時、平安座島まで道路はなく干潮時に車や徒歩で往来していた。この写真を撮ってしばらくして平安座島からトラックが集団でやって来た。めったに見られない光景なのに写真は撮っていなかった。

    昭和45年4月3日(金)屋慶名港で

     当時、平安座島まで道路はなく干潮時に車や徒歩で往来していた。この写真を撮ってしばらくして平安座島からトラックが集団でやって来た。めったに見られない光景なのに写真は撮っていなかった。

  • 昭和45年4月3日(金)万座毛で<br /><br /> 万座毛は、恩納村にある高さ約20mの断崖絶壁の景勝地で東シナ海に面し、沖縄海岸国定公園に属する。琉球王朝の時の王である尚敬王が、「万毛(毛は原っぱのこと)」(言い換えると「一万人が座れる広い原っぱ」)と評したことに由来していると言われている。<br />

    昭和45年4月3日(金)万座毛で

     万座毛は、恩納村にある高さ約20mの断崖絶壁の景勝地で東シナ海に面し、沖縄海岸国定公園に属する。琉球王朝の時の王である尚敬王が、「万毛(毛は原っぱのこと)」(言い換えると「一万人が座れる広い原っぱ」)と評したことに由来していると言われている。

  • 昭和45年4月3日(金)万座毛で

    昭和45年4月3日(金)万座毛で

  • 昭和45年4月3日(金)万座毛から東シナ海を望む

    昭和45年4月3日(金)万座毛から東シナ海を望む

  • 昭和45年4月3日(金)万座毛から東シナ海を望む

    昭和45年4月3日(金)万座毛から東シナ海を望む

  • 昭和45年4月3日(金)万座毛から万座ビーチを望む<br /><br />BEGIN 島人ぬ宝 歌詞付<br />https://www.youtube.com/watch?v=ALZsM7PBSOA

    昭和45年4月3日(金)万座毛から万座ビーチを望む

    BEGIN 島人ぬ宝 歌詞付
    https://www.youtube.com/watch?v=ALZsM7PBSOA

  • 昭和45年4月3日(金)万座毛で<br /><br /> 冷たい風が吹き抜け時折り日が差す程度のやや明るい曇り空で寒かった。<br />万座毛には自分が一番に到着してそのうちSさん、Aさんがそれぞれヒッチハイクで到着したが、Fさんが夕方なっても現れない、皆で話し合った結果、吹きさらしの万座毛で野宿するには余りにも寒過ぎるので、万座毛の入り口辺りにしようか、Fさんが来るかもしれないので万座毛からは離れない事に決まった。<br /> 万座毛の入り口を出てからどこかテキトウな寝場所が無いかな?と当ても無く探していたら住宅の新築中の工事現場があって大工さん2,3人がいて仕事が終ったのか酒を飲んでいた。Sさん、Aさんとも目が合って、ここをお願いしてみる事にした。「本土から来ました、一晩、ここで寝てもいいですか?」、棟梁らしき大工さんが「屋根も無いし、床だってまだ貼ってないぞ。」、「いいんです。僕たち寝袋持っていますので隅の方で結構です。お願いします。」、「いいよ、それよりもこっちに来て一緒に飲まないか。」、「あ、ありがとうございます。」勧められた酒は泡盛で飲めない自分にとっては強烈だった。それならとコーラ割り、コーラ10、泡盛1ぐらいの比率でようやく飲めた。Sさん、Aさんは酒に強く、大工さんの飲み相手になってくれたので助かった。その内施主のおじさんの料理の差し入れがあって一緒になって宴会が更に盛り上がった。

    昭和45年4月3日(金)万座毛で

     冷たい風が吹き抜け時折り日が差す程度のやや明るい曇り空で寒かった。
    万座毛には自分が一番に到着してそのうちSさん、Aさんがそれぞれヒッチハイクで到着したが、Fさんが夕方なっても現れない、皆で話し合った結果、吹きさらしの万座毛で野宿するには余りにも寒過ぎるので、万座毛の入り口辺りにしようか、Fさんが来るかもしれないので万座毛からは離れない事に決まった。
     万座毛の入り口を出てからどこかテキトウな寝場所が無いかな?と当ても無く探していたら住宅の新築中の工事現場があって大工さん2,3人がいて仕事が終ったのか酒を飲んでいた。Sさん、Aさんとも目が合って、ここをお願いしてみる事にした。「本土から来ました、一晩、ここで寝てもいいですか?」、棟梁らしき大工さんが「屋根も無いし、床だってまだ貼ってないぞ。」、「いいんです。僕たち寝袋持っていますので隅の方で結構です。お願いします。」、「いいよ、それよりもこっちに来て一緒に飲まないか。」、「あ、ありがとうございます。」勧められた酒は泡盛で飲めない自分にとっては強烈だった。それならとコーラ割り、コーラ10、泡盛1ぐらいの比率でようやく飲めた。Sさん、Aさんは酒に強く、大工さんの飲み相手になってくれたので助かった。その内施主のおじさんの料理の差し入れがあって一緒になって宴会が更に盛り上がった。

  • 昭和45年4月4日(土)大工さんが建ててくれた寝場所 左からA、自分、SさんでFさんに撮って貰った。<br /><br /> 昨夜の8時頃に宴会は終り、帰り際に大工さん達が寒かろう、と言ってブロックを10段程積んで寝場所を作ってくれた。そこで寝袋に入って3人で話していたら、10時頃だと思うが、誰か呼ぶ声がした、Fさんの声である。寝袋から這い出して外を見ると暗闇の中に間違いなくFさんが立っていた。「よくここが分かったな!」、「何となくここにいる様な気がして辺りを窺っていたら皆の話し声が聞こえて来たので声を掛けた。」、「さすが鋭い勘、もう来ないのでは、と思っていたよ。」、「それが乗せてくれた人が凄く親切で観光案内と夕食までご馳走してくれてその上すぐ近くまで送ってくれたんだ。」、「寝場所はちゃんとこの通り用意していたよ。」それにしても電灯も無く暗闇の中でよく再会出来たものだ、と思った。昨日会っていたばかりなのにまるで久しぶりの再会の様に皆、感激していた。<br /> 今、写真を見るとブロックが今にも落ちそうで、4人で寝ていて端のAさんがブロックに向かって寝返りを打てば落下したブロックの一撃を顔、頭に受けて即死、という危険な状況だった事が判る。

    昭和45年4月4日(土)大工さんが建ててくれた寝場所 左からA、自分、SさんでFさんに撮って貰った。

     昨夜の8時頃に宴会は終り、帰り際に大工さん達が寒かろう、と言ってブロックを10段程積んで寝場所を作ってくれた。そこで寝袋に入って3人で話していたら、10時頃だと思うが、誰か呼ぶ声がした、Fさんの声である。寝袋から這い出して外を見ると暗闇の中に間違いなくFさんが立っていた。「よくここが分かったな!」、「何となくここにいる様な気がして辺りを窺っていたら皆の話し声が聞こえて来たので声を掛けた。」、「さすが鋭い勘、もう来ないのでは、と思っていたよ。」、「それが乗せてくれた人が凄く親切で観光案内と夕食までご馳走してくれてその上すぐ近くまで送ってくれたんだ。」、「寝場所はちゃんとこの通り用意していたよ。」それにしても電灯も無く暗闇の中でよく再会出来たものだ、と思った。昨日会っていたばかりなのにまるで久しぶりの再会の様に皆、感激していた。
     今、写真を見るとブロックが今にも落ちそうで、4人で寝ていて端のAさんがブロックに向かって寝返りを打てば落下したブロックの一撃を顔、頭に受けて即死、という危険な状況だった事が判る。

  • 昭和45年4月4日(土)ブロック小屋からの風景、何も無い野原<br /><br /> 3人とはここで別れた。帰りの船でも会わなかった。Sさんは京都の大学の寮に住んでいて翌年、四国に旅行した際、再会して寮に泊まり夕食も近くの食堂でご馳走になった。3人とも会える機会があれば是非会いたいと思っている。<br /><br />

    昭和45年4月4日(土)ブロック小屋からの風景、何も無い野原

     3人とはここで別れた。帰りの船でも会わなかった。Sさんは京都の大学の寮に住んでいて翌年、四国に旅行した際、再会して寮に泊まり夕食も近くの食堂でご馳走になった。3人とも会える機会があれば是非会いたいと思っている。

  • 昭和45年4月5日(日) 守礼門(しゅれいもん)で<br /><br /> 守礼門は、沖縄県那覇市首里にある首里城歓会門の外、首里を東西に貫く大通りである「綾門大道」(アイジョウウフミチ または アヤジョウウフミチ とも)の東側に位置する牌楼型の門(楼門)である。日本城郭でいう首里城の大手門に値する。柱は4本で二重の屋根を持ち、赤い本瓦を用いている。<br /> 第二尚氏王朝の時代、中国からの冊封使が琉球に来た際には、国王以下の高官らが守礼門まで出迎え三跪九叩頭の礼をとっていた。沖縄戦で焼失したが、1958年に再建され、1972年には沖縄県指定有形文化財となった。<br />

    昭和45年4月5日(日) 守礼門(しゅれいもん)で

     守礼門は、沖縄県那覇市首里にある首里城歓会門の外、首里を東西に貫く大通りである「綾門大道」(アイジョウウフミチ または アヤジョウウフミチ とも)の東側に位置する牌楼型の門(楼門)である。日本城郭でいう首里城の大手門に値する。柱は4本で二重の屋根を持ち、赤い本瓦を用いている。
     第二尚氏王朝の時代、中国からの冊封使が琉球に来た際には、国王以下の高官らが守礼門まで出迎え三跪九叩頭の礼をとっていた。沖縄戦で焼失したが、1958年に再建され、1972年には沖縄県指定有形文化財となった。

  • 昭和45年4月5日(日)琉球大学構内<br /><br /> 当時、琉球大学は守礼門のある首里城跡に設置されていた。

    昭和45年4月5日(日)琉球大学構内

     当時、琉球大学は守礼門のある首里城跡に設置されていた。

  • 昭和45年4月5日(日)琉球大学構内 キリスト教学生センター<br /><br /> 多くの欧米人のバックパッカーが泊まっていた。<br /><br />

    昭和45年4月5日(日)琉球大学構内 キリスト教学生センター

     多くの欧米人のバックパッカーが泊まっていた。

  • 昭和45年4月6日(月)那覇出港<br /><br /> 琉球海運のおとひめ丸(2974総トン)で鹿児島港に向かった。

    昭和45年4月6日(月)那覇出港

     琉球海運のおとひめ丸(2974総トン)で鹿児島港に向かった。

  • 昭和45年4月7日(火)鹿児島入港

    昭和45年4月7日(火)鹿児島入港

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この旅行記へのコメント (4)

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  • メイリンさん 2018/09/30 22:50:38
    沖縄に行くのも大変だったんですね(;´・ω・)
    中華民国の旅行記とこちらの旅行記と、興味深く拝見しました。
    何分、まだ自分が生を受けた時にはすでに沖縄は返還されていましたので…。
    沖縄に行くのも、台湾に行くのも大変だったんですね。
    だいぶ前ですが、私の父が沖縄に出張したことがあって、帰ってきたときに「初めて異国の地を踏んだ」とか言うので「何言っちゃってるの~沖縄は日本じゃーん。」なんて返したりしたんですが、世代の差というか、沖縄に対する気持ちの差も、なんとなくあるんだと思います。
    ところで、旅行記中にある高射砲を私も調べてみました。
    http://ki43.on.coocan.jp/injapan/heiki3/dokukou27/dokukou27.html
    これは同じものでしょうか?違うものかもしれません。

    ノスタルジア

    ノスタルジアさん からの返信 2018/09/30 23:20:51
    Re: 沖縄に行くのも大変だったんですね(;´・ω・)
    今晩は、高射砲同じ物ですね。アップされたのがH29.5.26で、旅行記投稿の後なのでヒットしなかったのだと思います。本当に有難うございました。
    世代の差というか、も、なんとなくあるんだと思います。
    私自身が20代の時と今の自分のとの世代の差、当時と今の沖縄に対する気持ちの差があります。
  • PHOPHOCHANGさん 2017/05/15 08:59:50
    味噌汁大好き!
    昔の写真が残ってるのは羨ましいです。フィルム時代のネガとか、何処行っちゃったか全然判りません(´`:)

    沖縄行きって大変だったのですね。自分が住んでたのは80年代初期なので、何の苦労も無く行き来出来ました。嘉手納から横田への貨物便に乗せて貰ったのも懐かしい思い出です。
    さて、自分も沖縄のご飯で何が好きかって、味噌汁です。具沢山で汁と言うより完全におかずですよね。しかもそれぞれの店に個性有って、それぞれ美味しいし。
    ハラハラしたところ、有る有ると思いつつ拝見しました。
    チャンプルーやてびちなど、有名になった物も色々有りますが、やっぱり味噌汁が一番です。

    ノスタルジア

    ノスタルジアさん からの返信 2017/05/15 12:06:46
    RE: 味噌汁大好き!
    いつもいいねの投票有難うございます。
    沖縄、だんだん記憶が薄れて行く年令になったので投稿しました。数少ない写真と資料を基でネットで調べたりして大変でした。特に沖縄航路について、関西汽船や琉球海運についての記述や資料は見当たりませんでした。
    味噌汁、旅先でのグルメは関心がないのですが、味噌汁だけは別です。
    いつの日かご一緒に食べたいですね。
    ノスタルジア
    > 昔の写真が残ってるのは羨ましいです。フィルム時代のネガとか、何処行っちゃったか全然判りません(´`:)
    >
    > 沖縄行きって大変だったのですね。自分が住んでたのは80年代初期なので、何の苦労も無く行き来出来ました。嘉手納から横田への貨物便に乗せて貰ったのも懐かしい思い出です。
    > さて、自分も沖縄のご飯で何が好きかって、味噌汁です。具沢山で汁と言うより完全におかずですよね。しかもそれぞれの店に個性有って、それぞれ美味しいし。
    > ハラハラしたところ、有る有ると思いつつ拝見しました。
    > チャンプルーやてびちなど、有名になった物も色々有りますが、やっぱり味噌汁が一番です。
    >

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