2017/03/04 - 2017/03/04
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TOMISLAVさん
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世界遺産になったからという、ベタな動機により、私の心の中の「ぼっちで社会科見学」のリストに上る。
たまには、バス旅行もよかろうと思い、往路は高速バスで、復路は上信電鉄で。
写真は、富岡製糸場の心臓、ブリュナ型エンジン(模型)。
- 旅行の満足度
- 4.0
- 観光
- 4.0
- 同行者
- 一人旅
- 一人あたり費用
- 1万円未満
- 交通手段
- 高速・路線バス JRローカル 私鉄
- 旅行の手配内容
- 個別手配
-
往路は、池袋から富岡ICまで高速バス。高速バスの富岡停留場から歩いて2kmほどで、富岡市街に着く。
-
富岡に着いた時には、お昼時のため、名物?肉うどんで腹ごしらえ。
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富岡製糸場の門に。
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まずは、東置繭所跡に入る。
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東置繭所のアーチの部分に「明治五年」の銘?が。
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江戸時代の製糸の様子。
幕末の開国後、生糸は日本の自慢の輸出商品になったが、このようなやり方では、量産が難しく、品質にむらが生じる。海外から、量産や品質の向上(切れにくい)・均一化が求められるようになる。そうこうしているうちに、明治維新を迎えてしまう。 -
明治維新後、明治の元勲たちは、早々に生糸の大量生産、品質改良をすべく、模範工場の設置を企図する。
そこで、設立指導者としてフランス人 ポール・ブリュナが招聘される。
渋沢が関わったため、フランスにつてがあったのもあるにしろ、イギリスではなく、フランスを選択した点は、興味深い。 -
設置を委ねられた、ブリュナらは、養蚕が盛んな、信州、上野、武蔵を巡り、製糸場を設置するのにふさわしい場所を探す。
「なぜ、富岡に製糸場が設置されたのか」
と思っていたが、富岡が選定された理由は写真の通り。
繭、木、水、炭 とすべてがそろった場所がここだったのだ。 -
場所を選定した、ブリュナは一旦フランスに戻り、製糸場のエンジンを選定する。これが写真のエンジンで製糸場では「ブリュナ型エンジン」と呼ばれるものだ。
このエンジンは、決して当時の最新型ではなかったが、値ごろで扱いやすいためこれにしたとのこと。 -
繰糸器(写真右)も当時の日本人女性の背に合わせて調整。ブリュナさん気配りのある方だったのですね。
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操業開始時のイラスト。
ブリュナや日本人関係者の熱意により、明治5年10月に製糸場が操業開始。明治5年にここまでやってしまう、明治の人々に脱帽です。なるほど、これは世界遺産にふさわしい。と今更思いました…。 -
操業開始のころの写真。
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官立のモデル工場ということあってか、労働条件は当時としては好待遇だったようだ。現代よりもいい労働条件だったりして。
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東繭置場で、富岡製糸場の概要をつかんだあと、裏手の西繭置場で。あいにくおここは、修理中。
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ブリュナ館。名前の通り、当初は、設立指揮者、ブリュナの家族が住んでいた家だが、ブリュナ後もいろいろ改築されて、寄宿舎や工女のための夜学校などにも使われたそうだ。
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女工館。日本人女工の指導にあたる、フランス人女性指導員のための住居。フランスの指導陣が去ったあとは、ここも寄宿舎などに利用されていたのだろう。
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最後に、繰糸場に入る。
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繰糸場の中。
富岡製糸場は、明治5年に官立の模範工場として設立されたが、その後は三井に払い下げられ、いくどの売却を経て、最後は片倉工業株が経営(昭和13年~昭和62年)。
つまり明治5年(1872年から昭和62年(1987年)までの115年「現役」だったのだ。
写真はビニールが被せられていてわかりにくいが、片倉時代に使われていた繰糸器。 -
片倉時代最後の繰糸機は、
昭和41年から稼働の、
「ニッサンHR型自動繰糸機」だ。
このような工業機械は、オーダーメイドなのでしょうね。 -
ニッサンHRの繰糸の様子。ケンネル式とのこと。
写真下のYの字のところで、糸が絡み合う。 -
稼働していたころのビデオを視る。
全自動で繭から糸口を見つけて、繰糸までやってくれる優れた機械だ。しかし、なんかのはずみで繰糸が切れてしまうこともある。そこは、作業員さんがその熟練の技でサッと機械につなぐ。こうして、間断なく高品質な糸を大量生産できるのだが、これが、機械だけでもできないし、人間だけでもできない。機械(単純作業を高速)とヒト(高い観察力と判断力)が協同して初めて実現できる。優れた機械とは、ヒトから仕事を奪うのではなく、ヒトとの協働がうまくできる機械なのだと思いました。
ブリュナの時代から始まった、ヒトと機械の調和による、製糸は115年続いたが、昭和62年にこの建物での操業に限界を迎えたのか、その歴史を静かに閉じる。 -
これにて、富岡製糸場のぼっちでの社会科見学を終える。
最後は、富岡市の萌えキャラ?
「お富ちゃん」に
見送られて、製糸場跡を後にする(シャレではない)。 -
帰りは、せっかくなので、上信電鉄で、高崎経由で帰る。
上信電鉄さんにとっても、富岡製糸場の存在はありがたいだろう。
最後に、なぜ 上「信」電鉄なのかと思ったが、帰ってきてしらべたら、信州まで延ばす予定が、世界恐慌のあおりで断念したとのこと。信州への想いだけが、その名に名を留めているわけですね。
富岡製糸場
当初は、世界遺産だからという軽薄な理由で来たが、明治の人々の意気込みや機械と協働してきた人々のありようが垣間見られてよかった。
西繭置場の修理が終わったらまた来たい。
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この旅行記へのコメント (1)
-
- kids560さん 2025/03/02 09:20:42
- 近代化への大きな一歩
- 群馬に紅葉を見に行った帰りにここの前を通ったのですが残念ながらよる時間がなかったのでこうして旅行記でみられることはとても嬉しいです。
ちょんまげを結っていたいた時代からまだ10年も経過していないのに、明文化された労働条件、生産現場の改善、生糸を海外から買っているの日本の外貨が外へ流出するのでそれを防ぐという大きな役割を負わされたにも関わらず、やり遂げる礎がここにあると思うと灌漑深いです。
当時農村から出てきた女工たちには煉瓦でできたこの建物はどのように見えたのか。
鉄といえば鎌や鍬しかなかったところからこんな機械の横で働く。
不安がありつつも日本を担う誇りもあったのかと思うと今より仕事のやりがいってものを持っていたのかもしれません。
「ブリュナ型エンジン」これは当時最新でなかったというのも興味深いです。
最新機種が必ずしも良いパフォーマンスを出すとは限りませんので実績があるエンジンを調達してきたのにも心配りを感じます。壊れたら即修理というまでに技術が追い付いていませんでしたもんね。ここは凄いと思いました。
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