2016/05/17 - 2016/05/17
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frau.himmelさん
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ハンガリーは、第一次世界大戦まではオーストリア・ハンガリー帝国としてハプスブルク家に統治される一つの国でした。
大戦終了後、オーストリアとの国境に位置するショプロンは条約により、オーストリアに帰属するか、ハンガリーにとどまるか市民投票での選択を迫られます。商人たちは地理的にブダペストよりウィーンが近いという経済的有利性を考えオーストリア帰属を望みましたが、時の市長トゥルナー・ミハーイの熱心な説得によりハンガリーにとどまることを選びました。
第二次世界大戦後の冷戦時代、ハンガリーはロシアを盟主とする社会主義・共産主義に組み込まれることになり、選択は間違っていたのではと後悔する人もあったようですが、汎ヨーロッパピクニック計画では、ショプロンの郊外が西側への亡命の門の役目を果たしました。
歴史って面白いですね。
後編では城壁散歩ルートをめぐり、ミニトレインで城壁外を観光、ショプロン名産赤ワインのケークフランコシュをいただき、リストの足跡も見つけ、ショプロンフルコースを経験しました。
ああそうそう、駅でちょっと面白いこともありました。
思いがけずショプロンで長い時間を取られ、予定していたハイドンゆかりのアイゼンシュタットには訪れることができなくなりました。
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「忠誠の門」のレリーフ。
ハンガリーの国に最も忠実な町、ハンガリー国民の愛国の証として、この門のことを「忠誠の門」と呼ばれます。 -
忠誠の門をくぐって反対側に出ました。
こちらが旧市街への入口になります。 -
火の見の塔を下から眺めます。
階段を使ってこの展望台にも上ることができます。 -
ローマ帝国時代には既に町が存在していたショプロン。
旧市街の一部の建物はローマ帝国の城壁の上に建てられています。
そのことを物語るローマ遺跡。 -
16世紀のオスマントルコ軍の襲撃を免れたショプロンは、中世の城壁が今も残っています。
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ここには「城壁パサージュ」と名前が付けられた城壁を廻るルートが造られています。
私たちもこれに沿って、中世散策をしてみたいと思います。 -
火の見の塔は城壁内。頭だけ見えます。
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散策するのもワクワクするような美しい小路。
この先はどうなっているんだろう? -
城壁スレスレに民家が建っていたり・・・。
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静かなカフェが営業していたり・・・。
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城壁の片隅にさりげなくベンチが置いてあったり・・・。
少しここで休憩します。 -
I女史は上から垂れ下がったみごとなツタにいたく感激のご様子。
ほんとにこの「城壁廻り回路」、旧市街とは一味違った「オアシス」のよう。
ショプロンにいらっしたらぜひお薦めです。 -
なにやら興味を引く銘碑。1946年という年号が気になりました。
中世のころより東欧諸国に住み始めた多くのドイツ系移民たち、あるいはドイツ語をしゃべるハンガリー人が、第二次世界大戦の敗戦により大量に東欧地区から追放されました。
単語を拾ってつなげると、どうもその記念碑らしいです。
今流に言えばシリア難民のようなものでしょうか。(ちょっと違うか)
現在多くの難民を受け入れているドイツにもそんな歴史があったのですね。 -
城壁廻りはまだ途中でしたが、ここが出口と思いこみ、ここから旧市街に入りました。
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それで正解でした。
ここはショプロンの歴史地区、バロック建築が建ち並んでいる通りです。
奥の教会はエヴァンゲリッシュ教会、プロテスタントのルター派の教会です。
そして美しいバラ色の建物は、ショプロンが誇る大音楽家フランツ・リストが29歳の時にコンサートを開いたという館です。 -
フランツ・リストは1812年、ショプロンの郊外、現オーストリア領のライディングで生まれました。
9歳の時に始めてショプロン市民の前で演奏します。これがリストの音楽家としての原点となりました。
リストの父親は、ハンガリーの名門貴族エステルハージ家に遣える事務官でした。
早くからリストの音楽才能に気づき、エステルハージ侯爵から息子の音楽を学ぶ奨学金援助を取り付けました。 -
1940年リストがこの館でコンサートを開いたという碑文。
ここでコンサートを開いたのは29歳の時。
端正な顔立ちのリストは女性たちに大人気で、コンサートを開けば多くの女性ファンが失神したというころです。
ショプロンでも例外ではなかったようです。 -
そのお隣は森林博物館。
この壁には・・。 -
ここにはヨーゼフ・ハイドン(1732-1809)の名前が。
エステルハージ家と言えばハイドンですね。
1760-1790年の30年間にわたって彼がエステルハージ家に遣えたことが記されています。 -
鮮やかなブルーの館は、リストの父が遣えていたエステルハージ家の宮殿。
現在は鉱物博物館になっています。 -
中央広場の三位一体像の前に出ました。
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広場の角にはミニトレインが停まっています。
ちょっと足も疲れたしちょうどいい、これに乗りましょう。
30分コースで1人たしか3ユーロ。
座っていながらにして街の写真が撮れる、ラクチンラクチン・・。 -
ところが乗り込んで大誤算に気が付きました。
ミニトレインの窓には薄いビニールのカバーが掛けてあるので美しい写真は撮れない。まるで霧がかかったようなぼけた写真しか撮れない。 -
お見苦しい写真ですがご容赦ください。
ミニトレインは中央広場を出発して・・・。 -
市庁舎の中に立っている像は、ショプロンがオーストリアに帰属するかハンガリーにとどまるかの選択を迫られた時、熱心にハンガリーに残ることを説得した時の市長トゥルナー・ミハーイ。
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これらの写真は城壁の外。
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ホテルが建ち並ぶ大通り。
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銃砲穴が見える城壁と、教会。
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マリア柱が見えます。
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工場地帯らしい。
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旧市街に入ってきました。
ミニトレインの方にニコニコ笑顔を送っている若い女性たち。
ショプロンって美人が多いですね。
モヤモヤとストレスが堪る写真のアップはこれくらいにします。 -
ミニトレインの天井部分。
要所要所で観光スポットをアナウンスしながらの走っていますが、言葉が聞き取れず(泣)。
その度に写真を撮っていますので写真枚数だけは多いけど、使い物になりません。 -
一周して中央広場に着きました。
広場に面した感じがよさそうなレストランに入ります。 -
レストランの建物も歴史的建造物です。
ここも貴族の館だったのでしょうか。 -
レストランの入口には、ここにもショプロンの街中であちこちで見た歴史的建造物を表すプレートが。
言葉は判りませんが、知っている単語で判断すると、この建物は1490年にバロック様式で建てられたようです。 -
ショプロン名産のケークフランコシュという赤ワインで乾杯です。
このワインのことは調べておりました。 -
メニューは読めませんので、私が唯一知っているハンガリーのお料理「グラーシュズッペ」を注文。
これにパンが付いてきましたので、シニアにはちょうどいい量です。
このグラーシュ、後日シニア3人で反省会をやった時、とても美味しかったと大好評でした。 -
ちょうど客が少ない時間で店員ものんびりしています。
紋章がいくつも描かれた壁の梁は、このレストランの歴史の深さを感じさせます。 -
名産ワインとハンガリー料理のグラーシュもいただいたし、ぼちぼち歩いて駅に向かいます。
レストランからガッセに入るこの通り、さっき通った道ですね。
左側のバラ色のお屋敷はリストがコンサートを開いた館、そのお隣は森林博物館、ここにハイドンの銘碑がありました。
その奥のブルーの館はエステルハージ宮殿。 -
そこを少し歩くと鮮やかなバロック建築のホテルに出ます。
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ホテル・ヴォルナー。
ショプロンの4つ星名門ホテルです。 -
学校帰りの子供たち。
観光客の姿が全く見えない通りを歩いていると、私たちもショプロンの住民になったような気がします。
ホテル・ヴォルナーの向かい側もそうそうたる歴史的なバロック様式の建物が並んでいます。
そういえば車は1台も見かけません。
車両乗り入れ禁止になっているのでしょうか。 -
通りすがりに駐車システムを見かけました。
ボタンを押すと正面のポールが引っ込んで車が通れるようになります。
この先が駐車場なのでしょうね。
何でも興味津々のシニア達。 -
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リストの銅像がある場所に出てきました。
もしかしてここが彼が9歳の時にピアノを演奏して、神童ぶりを発揮した館だったのでしょうか。 -
リストの銅像。晩年のリストのようです。
リストはバイロイトで亡くなりました。
リストの娘コジマがリヒャルト・ヴァーグナーと、今流に言えば不倫に走った後、リストとヴァーグナー、コジマ夫婦とは長い間絶好状態にありました。
しかし晩年になるとリストの気持ちも少しずつ氷解し、二人が住んでいるドイツのバイロイトにしばしば訪れるようになりました。
そして1886年7月、バイロイト祝祭歌劇場でヴァーグナー作曲の「トリスタンとイゾルデ」を鑑賞した後、風邪をこじらせて亡くなります。74歳でした。
娘コジマの強い希望により彼の亡骸はバイロイトの墓地に埋葬されています。
バイロイト、リスト関係の旅行記
http://4travel.jp/travelogue/10790361 -
ここはセーチェニ公園と言うそうです。
セーチェニ・イシュトヴァーンの像。
19世紀前半にハンガリーで活躍した名門貴族。
政治家としても辣腕を奮いました。 -
公園の前の郵便局も古い建物です。
ショプロンは16世紀のオスマントルコ軍の襲撃も免れた街。今日は中世の佇まいそのままの建物を数多く見てきました。 -
1719年ー1725年に建造されたセント・ジュード・タデウス教会(旧ドミニコ教会)。
公園の向こう側に見える美しいバロック建築の教会を最後に見て駅に向かいます。 -
豪華な祭壇。
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ジオットの絵のような小祭壇
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鮮やかな丸天井のフレスコ画。
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教会を出て駅に向かう途中にまたまた素晴らしい建築物を見つけました。
これも写真に撮ります。 -
近づいて細部を。
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鼻の欠けた天使の浮き彫り。
この装飾をみてもかなり古い建物です。 -
この古さが何とも言えない。
本当に歴史ある町を散策したという満足感を味わいながら駅へ。 -
ショプロン駅に到着。
駅から出てきたあの二人、親子?。
特にフードをつけた男の子の方は私をまっすぐ見ています。
そして近づいて、私のカメラを指さして何か言っています。
私を撮ってくれると言っているようだけど、なんとなく胡散臭いし、カメラを持って逃げられたら追いかけられないので、「ノーサンキュー!」って断りました。 -
そしたら今度は自分たちを撮れと。
別に面白い被写体でもないけど、撮れって言うのなら撮りましょう。
その後男の子の口から出てきた言葉は何と
「ツーユーロちょうだい」。
自分たちで撮れと行ったくせにモデル代を請求するつもり!?
なんてズーズーしい。
ちょっと強い口調で「ノー!!」と言いその場を離れました。
写真でも指2本を出して2ユーロってアピールしていますね(笑)。
この親子もどうやら移民が難民か外国人っぽいけど、着ている服もまともだし顔色もとてもいい。何より若いでしょう。働きなさいよ!。
皆様もこの手のしょぼい物乞いにはお気を付けください。 -
電光掲示板で時刻表を見るとあと10分ちょっとでウィーン行きのREXがあるようです。
もう4時半になりますし、当初予定していたハイドンゆかりのアイゼンシュタット行きは止めてそのままウィーンに戻ります。
欲張っていろいろ計画はするけれど、臨機応変にスケジュール変更ができるところ、それが個人旅行のいいところですね。
特にシニアには、その要素は必要不可欠です。
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