2016/10/18 - 2016/10/19
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出町柳から鯖街道を通って若狭に行った旅行記です。1日目は小浜の遠敷川周辺を廻り、2日目は若狭の海岸を経巡って来た。
タイトル写真は若狭姫神社本殿
訪問先:
18日
明王院・熊川宿・上の塚古墳・若狭国分寺・若狭姫神社・若狭彦神社・鵜の瀬・白石・根来・萬徳寺・若狭歴史博物館・太良の庄・羽賀寺・阿納
19日
常神半島・内外海半島・久須夜ヶ岳・音海半島・馬居寺・中山寺・松尾寺
- 旅行の満足度
- 4.5
- 観光
- 4.5
- 同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- 交通手段
- 自家用車
- 旅行の手配内容
- 個別手配
-
出発地は京の出町柳
だけど出町柳が出発点とは何か変? -
出町柳は到着点。
小浜の人々は鯖など日本海の海産物を都に持ち込んで来る。その道筋を鯖街道と言う。都からの視点では持ち込んで来る京に至る道が『鯖街道』である。
京から小浜への帰り道は視界の外。 -
小浜から都に海産物を運んで来て売り切り、空になった荷物箱を担いで帰って行くその道中を車で行ってきた。
若狭では「京は遠くても18里」と言われていたが、約72Kmの行程になるか。 -
右手に比叡山が見える。
左手は高野川が流れている。 -
洛北の標識
国道367線が『鯖街道』である。 -
大原
隣に座っている人は
「小浜なんかより三千院に行こ」と宣まわる。
無視。目的地は若狭。 -
367号線は片道1車線の普通の道路である。
-
大原から途中峠を経て花折峠へ。
花折峠の名称は後にでてくる明王院への供花(樒)をこの峠で採ったことによるそうであるが、穏やかな名前ではない。 -
花折トンネル内部。
恐らく日本は世界で最もトンネルが多い。最近はどんな辺鄙な地方へ行ってもトンネルが出来ている。 -
花折トンネルを出た直後の京北の山。
秋なのに新緑の色彩である。飛行機で日本列島に帰って来ると、緑一色に見える。 -
花折トンネルからしばらくで葛川明王院。
延暦寺の奥の院と言われる。阿闍梨の本拠地。
鯖街道の中間点当たりになる。 -
延暦寺の僧の修業地。比叡山からここまで比良山系を走破する。
車では出町柳から40分程である。 -
葛川の景色
この川は安曇川。花折峠が分水嶺で、川は北(写真右方向)に向かって流れている。鯖街道は後半はズッとこの川に沿って進むが、日本海ではなく、朽木で右折して琵琶湖に流れ出す。 -
熊川宿
本来は鯖街道の中心になる朽木で休憩するのだが、なんと朽木新本陣の道の駅が休日であった。写真を撮るのも忘れて、通過してしまった、駐車場のある熊川まで来たが、ここまで来るともはや若狭に来たという感じになる。 -
平日の午前中はこんなに閑散としている。
朽木で買うはずであった「焼き鯖寿司」をここで買った。高かった。 -
上の塚古墳
熊川宿からはほんの10分で小浜の入口である上中町に着く。出町柳から僅か1時間40分であった。
上中町の東のはずれの字名[脇袋]にある5世紀の前方後円墳である。 -
前方後円墳である形態が残っている。
5世紀に若狭ではこれだけの墳墓を作る権力が出来あがっていた。 -
古墳から僅か数キロで若狭国分寺(跡)に着く。遠敷川の最下流である。
この建物は少々酷い。実際の国分寺ははるかに立派であったと思われる。
この地に国分寺が置かれたことが重要か。 -
8世紀の建立であるから先ほどの古墳から300年を経過している。
そして驚いたことに国分寺の境内に古墳があった。古い神社はだいたい古墳の上に作られているが(古墳が神社に置き換えられたと言える)、神社ではなく寺も古墳の上(跡)に作られていたのは面白い。 -
国分寺の境内に椿の花が季節外れに咲いていた。
この時期に咲くはずはないから違う花木かもしれないが・・・ -
若狭姫神社
国分寺跡のすぐ横にある。遠敷川が平地に出る入口にあたる。
別名「遠敷明神」と呼ばれる。 -
参道
古墳を作ったか、あるいは国分寺を作った一族が斎き祀った神社であろうか? -
本殿
立派で見事な佇まいである。若狭一宮。 -
拝殿
「神社では見るべき物はない」と言うが、本当に何もない。
神社は【佇まい】だけを見るものなのだろう。
拝殿中央は『鏡』かな? -
若狭彦神社
姫神社から遠敷川を少し上流へ遡ると彦神社に着く。
姫社に較べると格段に貧相であり、今日は特にみすぼらしく見える。 -
本殿の屋根修復工事中であった。
檜皮葺の内部がよく判る。 -
白石神社
彦神社から遠敷川を5分ほど遡るとこの神社がある。
神社とはいえ門も塀も鳥居も何もない。祠と言った感じのみすぼらしい小社である。
全面雪囲いが施してあり、神社本体(拝殿)も見えない。
-
雪囲の中にある拝殿
神籬と言ってもよいか。
白石大明神とあるが、遠敷大明神とも呼ばれるらしい。 -
大きな椿の老木が祠の横にある。
正面にも鳥居のように2本並んでいたが、祠の裏も椿の林になっている。
祠周辺は日光が遮られ、地面は苔がびっしり生えている。
4月には落花した椿の花弁がその苔の上に落ちて、赤と緑の壮麗な景観である。 -
白石の名前は神社前のバス停留所看板だけに残っている。
しかし、この白石には何があるのか? -
この白石が『鵜の瀬』である。
奈良のお水取りと大きな関係がある。
東大寺のお水取りは突き詰めれば「二月堂の前にある若狭井と呼ばれる井戸から“水”を汲み上げて二月堂の本尊にお供えする行事」である。
その若狭井に水を送るのが、鵜の瀬からと言い伝えられている。即ちここ
鵜之瀬(白石)がお水取りの原点なのだ。 -
3年前の写真(1)
この鵜の瀬ではお水取りの10日前の3月2日に毎年「お水送り」の行事が開催されており、3年前に行った時の写真です。
鵜の瀬に向かう松明の列。真暗闇の中、1Kmにわたって続く松明の行列は幻想的であった。 -
3年前の写真(2)
鵜の瀬の大護摩。
遠敷川の川原に壮大な護摩が焚かれていた。 -
3年前の写真(3)
水司他行事主催者が、お水取りが行われる二月堂の若狭井に送る水を持って、鵜の瀬に向かうところ。 -
3年前の写真(4)
遠敷川へ“水”を流し、「奈良へ水を送ります」と言ってる。(そうです)
実際の現場ではなにが行われているのか、まったく判らない。遠敷川の高い水音と松明の火と煙が立籠める鵜の瀬は“一夜の夢か幻”であった。 -
白石神社の前に二つの石碑がたっています。
東大寺の初代別当(東大寺を作った僧侶)である良弁の誕生地石碑
「瀬にしみて奈良までとどくせみの声」 山口誓子の句碑
証明されていないが、良弁はここ白石の出身であるらしい。
東大寺二月堂の上方左側には遠敷社(遠敷大明神)がある、お水取りには造花の椿をお供えする、かっては二月堂の前に椿の大木(良弁椿)が立っていた、若狭井の名称がついた井戸の存在等々この白石と東大寺とは近い関係であったことは間違いない。
大仏を作った聖武天皇が国分寺も作ったことを考えると、遠敷川一帯は奈良と密接に繋がっていたのであろう。
千数百年を経ても祠になって残っているのが素晴らしい。 -
熊川宿で買った昼食用の焼鯖寿し
鵜の瀬に座って昼食をとる。
遠敷川のせせらぎを聞きながら贅沢な食事になるはずであったが・・・・・・。 -
切れてない。
お寿司は食べやすい印象があるが、それは食べるサイズにカットされているからであり、この状態で、包丁はない、箸はない、スプーンもない、では食べようがない。どうしよう。
助手席に座ってる人が「インド人みたい」と言ったように手掴みで食べるしかなかった。こんな食べ方では味も分からない。高かったのに。
トホホホ・・・ -
遠敷川を遡る
鵜の瀬よりもっと上流の根来へむかった。
3月2日のお水送り神事も根来八幡社から始まる。
最上流のこの根来が若狭の発祥地だと言ってる学者もいる。 -
根来谷の標示をさがしたが、消火ホースボックスに書かれた神ノ谷ぐらいしかなかった。
-
県道35線「下根来」とあるが、遠敷川の村落はここで途切れる。
この上流に人は住んでいない。
車が通ることが出来る道は無くなる。 -
歩いては行ける道が現在も通じている。
針畑越えと呼ばれる根来峠を越える本当の「鯖街道」である。
本日通って来たR367は小浜から京都に行くには平坦ではあるが、大きく遠回りである。
江戸時代の運送は基本人力であり、最短距離を通った。高低のある山中を突っ切って、道は作られていた。鯖街道も当然、京への最短距離を選択されていた。この写真の前方の山を越えて鯖は運ばれていたのである。
当然であるが、1時間40分のドライブでは鯖街道を通ったことにならない。 -
遠敷川を車で行けるところまで行って、Uターンして引き返してきた。
若狭彦神社の遠敷川対面に萬徳寺がある。
どうという寺ではないが、中世では駆け込み寺として歴史に名を残している。 -
現在ではこの庭が有名である。
本尊や特別公開中の釈迦涅槃図は当然撮影禁止である。
どちらも強い印象を残していない。 -
若狭歴史博物館
若狭歴史博物館は国分寺のすぐ近辺にあるが、館内撮影禁止の為、写真がない。
そこで面白い‘おまけ’をもらった。
奈良平城京跡から出土した木簡のレプリカである。
[若狭国遠敷郡青里御贄多比鮓]
{わかさこく おにゅうぐん あおさと おんにえ たいずし}
奈良時代の荷札です。贄として鯛のなれずしを献上していたことがわかる資料。青里は高浜ですから、遠敷郡は現在よりはるかに広かった。
-
次に向かった太良の庄も博物館から近い
京都の東寺の荘園であったため、大量の古文書が残り、日本の荘園分析の基礎になった場所である。荘園分析が日本中世の研究の中心だから、中世においても若狭は重要な資料を提供したことになる。
若狭には広い耕作地が広がっていないが、写真のように太良の庄は豊かだったのでしょう。 -
本日最後の訪問地であり、目的地でもある羽賀寺です。
太良の庄から田畑の畦道を通って車で5分程である。 -
参道
羽賀寺に来ると、参道を見るわけではないが、何となく途中経過を綴りたくなる。 -
参道に続く階段
このあたりの景観は何時来ても、しっくりくる。 -
階段を昇りきると本堂だけが建っている。後ろは山が迫り、行き止まり。
この本堂に中に目指す十一面観音様が鎮座されている。(尊敬語になってしまった) -
もちろん十一面観音は撮影禁止である。替りに羽賀寺が参拝者に配る絵はがきの写真を添付しておくが、本当は載せたくない。実物の十一面観音と全く異なるからである。
本堂の厨子のなかにスックと立ったスマートな立像であり、顔は、助手席に座っている人の表現を借りれば「若い頃の美智子妃そっくり」となる。
羽賀寺の説明文には「元正天皇御等身像」と表現している。お寺の縁起は荒唐無稽が大部分であるが、これもその一つである。 -
パンフレット表紙に載っている十一面観音だが、実際に見るのと違いが大きすぎる。なぜ、写真ではあの姿が写らないのだろうか。
元正天皇は絶世の美女であったと言われているが、その伝承か噂を知っている坊主がでっち上げたに違いない。元正は8世紀初めの天皇。この像は9世紀半ば制作か。元正の写真が有ったはずがない。しかし、想像をたくましくすれば、この十一面の気品溢るる姿は奈良時代の美貌の女帝のイメージに近いかもしれない。孤高を保っていながら優しく、優美であって冷たく、笑顔にも見えるが、謹厳にも見える。
写真では表現出来ない“絶対的美”と言えるので、本堂で直接対面ください。 -
羽賀寺で30分以上、十一面と対面対話したあとは、今夜の宿である阿納の海岸まで
新しいトンネルを通るとすぐだった。
楽しみにしていた夕食。 -
魚を食べに行ったのはその通りであるが、魚ばっかり。
暫く魚は食べたくなくなった。
2日目に続く。
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この旅行記へのコメント (1)
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- 熟年ドラゴン(もう後期高齢だけど)さん 2016/10/29 05:50:13
- 魚屋道は通ったのですが。
- 鯖街道は行ったことありません。
大昔に三千院へ行ったことあるかもしれません。道路沿いではないですか。よく助手席のお方はパスすることに同意されましたね。我が家では主導権は先方にあります。なので一緒に行動どうすることは滅多にないですが。
「途中」トンネルの途中は一般名詞かと思いきや固有名詞だったのですね。
朽木があるということは、信長が浅井長政に裏切られ逃げ帰ってきた道ですかね?
当方、神社仏閣仏像に全く興味がないのでコメントできなくてすみません。
焼鯖寿司、切れてなくて往生されましたね。いつもスーパーで買う「切れてる」お寿司に慣れてるので思い込みがありますが、もともと切れてないのが普通なのでしょうね。
フィリピンでもマンゴー買ってホテルで食べようと思ったら、ナイフも皿もなくて困ったことありました。
では、第二弾お待ちしています。
PS:私も時々やってしまうのですが所々「です、ます」調が混じってますね。文体整えるの大変です。
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