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下田街道は三島から天城峠を超えて下田へ至る道が有名ですが東伊豆地方にも存在したのです。<br />伊東市内にも断片的ですが一部が残っていて赤沢地区の旧下田街道を痕跡を求め歩きました。<br />河津三郎祐泰の血塚は曽我物語の発祥の地として有名です。<br /><br />

伊東赤沢地区の旧下田街道

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2016/03/29 - 2016/03/29

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アルプ・グリュム

アルプ・グリュムさん

下田街道は三島から天城峠を超えて下田へ至る道が有名ですが東伊豆地方にも存在したのです。
伊東市内にも断片的ですが一部が残っていて赤沢地区の旧下田街道を痕跡を求め歩きました。
河津三郎祐泰の血塚は曽我物語の発祥の地として有名です。

  • 国道135号が東浦路に分岐する地点に血塚の案内板が設置されています。<br />東浦路とは旧国道135号で国道が有料道路として開通しましたが、今でも混雑時の抜け道として存在しています。<br />

    国道135号が東浦路に分岐する地点に血塚の案内板が設置されています。
    東浦路とは旧国道135号で国道が有料道路として開通しましたが、今でも混雑時の抜け道として存在しています。

  • 旧下田街道の痕跡を求め河津三郎の血塚へ。<br />血塚の入り口には一般車侵入禁止 全域 私有地 市道と拒んでいます。

    旧下田街道の痕跡を求め河津三郎の血塚へ。
    血塚の入り口には一般車侵入禁止 全域 私有地 市道と拒んでいます。

  • 別荘地内にあるため立ち入り禁止の看板が!<br />誰かに見つかったら血塚を見学するためと言い訳する予定でしたが誰とも遭遇しませんでした。

    別荘地内にあるため立ち入り禁止の看板が!
    誰かに見つかったら血塚を見学するためと言い訳する予定でしたが誰とも遭遇しませんでした。

  • 別荘地の一番奥に常夜灯と碑が見えます。<br />この道が整備された旧下田街道の一部です。

    別荘地の一番奥に常夜灯と碑が見えます。
    この道が整備された旧下田街道の一部です。

  • 碑ではなく道標のです。

    碑ではなく道標のです。

  • 細い道を歩きます。<br />この道が旧下田街道を整備した道で趣が感じられます。

    細い道を歩きます。
    この道が旧下田街道を整備した道で趣が感じられます。

  • しばらくすると河津三郎の血塚があります。

    しばらくすると河津三郎の血塚があります。

  • 伊東市指定文化財(史跡)<br />河津三郎祐泰の血塚<br />1176年(安元2)10月、配流の身の源頼朝を慰めるために催された巻狩りの帰り道、河津三郎祐泰が所領問題で恨みを抱く工藤祐経の指図によって近くの椎の木三本で待ち受けていた大見小藤太と八幡三郎に射ころされた。・・・これが世に知られた曽我兄弟仇討の発端となった。 後に供養のため積石塚と宝篋印塔一基をつくり、血塚として伝えてきた。 この宝篋印塔は、その形状から南北朝頃のものと推測される。 

    伊東市指定文化財(史跡)
    河津三郎祐泰の血塚
    1176年(安元2)10月、配流の身の源頼朝を慰めるために催された巻狩りの帰り道、河津三郎祐泰が所領問題で恨みを抱く工藤祐経の指図によって近くの椎の木三本で待ち受けていた大見小藤太と八幡三郎に射ころされた。・・・これが世に知られた曽我兄弟仇討の発端となった。 後に供養のため積石塚と宝篋印塔一基をつくり、血塚として伝えてきた。 この宝篋印塔は、その形状から南北朝頃のものと推測される。 

  • 河津三郎祐泰の血塚<br />

    河津三郎祐泰の血塚

  • 河津三郎の血塚からは下田街道一部が残されていますが別荘地開発等のため、この先で消滅しています。

    河津三郎の血塚からは下田街道一部が残されていますが別荘地開発等のため、この先で消滅しています。

  • 大河ドラマに「平清盛」に伊東祐親登場<br />伊東祐親ゆかりの血<br />

    大河ドラマに「平清盛」に伊東祐親登場
    伊東祐親ゆかりの血

  • 何とも趣のある道です、

    何とも趣のある道です、

  • 周囲の石は昔のままのように苔が生えています。

    周囲の石は昔のままのように苔が生えています。

  • 周囲は私有地

    周囲は私有地

  • 河津三郎の血塚から東浦路(旧国道135号)を見上げています。<br />曽我物語はじまりの地 椎の木三本がこの上にあるので寄っていきます。<br />

    河津三郎の血塚から東浦路(旧国道135号)を見上げています。
    曽我物語はじまりの地 椎の木三本がこの上にあるので寄っていきます。

  • 東浦路(旧国道135号)沿いにある案内板<br />案内板には曽我物語発祥の地として歌川広重がこの場面を描いています。<br />椎の木の場所へは少し登ったところにあります。

    東浦路(旧国道135号)沿いにある案内板
    案内板には曽我物語発祥の地として歌川広重がこの場面を描いています。
    椎の木の場所へは少し登ったところにあります。

  • 余に名高い曽我兄弟の悲劇はこの奥にある椎の木三本の場所からはじまった。伊東祐親(すけちか)に恨みを抱く工藤祐常(すけつね)は腹心の部下に命じて祐親とその嫡男河津三郎祐泰(すけやす)の暗殺をはかった。部下の八幡三郎と大見小藤太の二人はこの奥の椎の大木に隠れて下の道をとおる親子をねらった。祐親はけがですんだがはじめにきた河津三郎は遠矢にかかって生命を落とした。父を殺された二人の遺児が成長して曽我兄弟となり、18年の辛苦の末に富士の裾野で仇を討つまでの物語が世に名高い曽我物語である。犯人がたてにした椎の木三本と呼ばれる椎の大木があったが最近枯死してわずかに名残りをとどめるだけである。曽我兄弟の父河津三郎が命を落とした場所は、この下の森の中にあり、伊東市指定文化財史跡河津三郎血塚がある。(伊東市教育委員会) <br />

    余に名高い曽我兄弟の悲劇はこの奥にある椎の木三本の場所からはじまった。伊東祐親(すけちか)に恨みを抱く工藤祐常(すけつね)は腹心の部下に命じて祐親とその嫡男河津三郎祐泰(すけやす)の暗殺をはかった。部下の八幡三郎と大見小藤太の二人はこの奥の椎の大木に隠れて下の道をとおる親子をねらった。祐親はけがですんだがはじめにきた河津三郎は遠矢にかかって生命を落とした。父を殺された二人の遺児が成長して曽我兄弟となり、18年の辛苦の末に富士の裾野で仇を討つまでの物語が世に名高い曽我物語である。犯人がたてにした椎の木三本と呼ばれる椎の大木があったが最近枯死してわずかに名残りをとどめるだけである。曽我兄弟の父河津三郎が命を落とした場所は、この下の森の中にあり、伊東市指定文化財史跡河津三郎血塚がある。(伊東市教育委員会)

  • 椎の木三本跡(この上の古株)<br />しかし、古株がどこにあるのか見つかりませんでした。

    椎の木三本跡(この上の古株)
    しかし、古株がどこにあるのか見つかりませんでした。

  • 伊東市ののぼりを辿って急斜面を登るとそれらしき椎の木がありました。

    伊東市ののぼりを辿って急斜面を登るとそれらしき椎の木がありました。

  • るとそれらしき椎の木がありました。<br />先ほどの案内に書かれていた古株はどこにあるのでしょうか?<br />この椎の木は二代目だそうです。

    るとそれらしき椎の木がありました。
    先ほどの案内に書かれていた古株はどこにあるのでしょうか?
    この椎の木は二代目だそうです。

  • 椎の木三本から見た河津三郎の血塚<br />40m下、距離90m先にあります。

    椎の木三本から見た河津三郎の血塚
    40m下、距離90m先にあります。

  • 全く見えないので望遠で<br />この距離で矢を放ったのですからすごい腕前だったようです。

    全く見えないので望遠で
    この距離で矢を放ったのですからすごい腕前だったようです。

  • 椎の木三本を後にして八幡野方向へ進みます。<br />この道は「東浦路」と呼ばれる道で国道135号が整備される前の国道だった道です。

    椎の木三本を後にして八幡野方向へ進みます。
    この道は「東浦路」と呼ばれる道で国道135号が整備される前の国道だった道です。

  • 前方に何やら高架橋が見えてきました。

    前方に何やら高架橋が見えてきました。

  • この橋はかつて別荘地開発のために建設されたのですが資金難で建設途上で工事中止になった橋で現代の遺跡となっています。<br /><br />廃墟となっているのは下田街道だけではありません。<br />ここでは昭和の立派な高架橋も廃墟となっています。

    この橋はかつて別荘地開発のために建設されたのですが資金難で建設途上で工事中止になった橋で現代の遺跡となっています。

    廃墟となっているのは下田街道だけではありません。
    ここでは昭和の立派な高架橋も廃墟となっています。

  • 次に向かったのは国道135号との合流地点の少し前にある「馬蹄石」です。

    次に向かったのは国道135号との合流地点の少し前にある「馬蹄石」です。

  • 小さな祠と案内板の前に馬蹄石があります。

    小さな祠と案内板の前に馬蹄石があります。

  • 平治の乱の後、伊東祐親支配下の伊東に流された頼朝に因んだ史跡はこの地に多くある。<br />ここ下田街道東浦路に面する小さな祠の露出した石は頼朝の馬蹄石といわれるものである。<br />岩に刻まれた馬の足跡は頼朝の愛馬生月(いけずき)のものといわれる。<br />文化12年(1815)伊能忠敬指揮する調査隊がこの街道を通った際に残した日誌にも頼朝公馬蹄石と記されている。

    平治の乱の後、伊東祐親支配下の伊東に流された頼朝に因んだ史跡はこの地に多くある。
    ここ下田街道東浦路に面する小さな祠の露出した石は頼朝の馬蹄石といわれるものである。
    岩に刻まれた馬の足跡は頼朝の愛馬生月(いけずき)のものといわれる。
    文化12年(1815)伊能忠敬指揮する調査隊がこの街道を通った際に残した日誌にも頼朝公馬蹄石と記されている。

  • 源頼朝が愛馬”生月(いけずき)”に跨り石の上に乗った時石の表面に出来た馬の蹄の跡と云われる凹みのある大きな石が地面から顔を出している。源頼朝公の馬蹄石と言われている。<br />

    源頼朝が愛馬”生月(いけずき)”に跨り石の上に乗った時石の表面に出来た馬の蹄の跡と云われる凹みのある大きな石が地面から顔を出している。源頼朝公の馬蹄石と言われている。

  • 馬蹄石から八幡野方向へ旧下田街道は残っています。<br />民家にも接してないため取り残されたようにあります。

    馬蹄石から八幡野方向へ旧下田街道は残っています。
    民家にも接してないため取り残されたようにあります。

  • 左に見える未舗装の道路が旧下田街道で、ここで東浦路は国道135号と合流します。<br />東浦路と平行して見える線路は伊豆急です。<br />伊豆急と国交省は旧下田街道の痕跡を残すために伊豆急は踏切を、国交省はトンネルで八幡野へ抜けるように計らいを見せています。

    左に見える未舗装の道路が旧下田街道で、ここで東浦路は国道135号と合流します。
    東浦路と平行して見える線路は伊豆急です。
    伊豆急と国交省は旧下田街道の痕跡を残すために伊豆急は踏切を、国交省はトンネルで八幡野へ抜けるように計らいを見せています。

  • 伊豆急の歩行者専用踏切と国道とのトンネルです。<br /><br />この先、八幡野地区は別に編集しています。

    伊豆急の歩行者専用踏切と国道とのトンネルです。

    この先、八幡野地区は別に編集しています。

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