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 白崎秀雄著の伝記本”鈍翁・益田孝”を読んでから、もう十年以上が経過します。<br />この伝記の後半部分に鈍翁の別荘地掃雲台が小田原に在り、周りにある多くの著名人の別荘と行き来した事が度々登場します。  又大正天皇が皇太子時代に山縣有朋の古希庵を訪ねた写真も見た事があります。<br />それらの事が頭の片隅に焼き付き、一度その跡地を訪ねたいと思っていました。<br /> しかし人伝てに聞くと、掃雲台跡地は住宅地に細分化されて昔の面影は皆無との事、それ以来頭の整理箱にしまい込まれ忘れていました。<br />それがつい最近テレビの番組で小田原の街歩きが紹介され、まだ多くの別荘地が残されているのを知りました、しかも11月末には紅葉が見頃との事、急に行きたくなります。<br /> 調べると古希庵は日曜日だけ一般公開なので月末の日曜日に出掛けます。<br />しかしここで問題が発生。<br />箱根登山鉄道の板橋駅で下車し、駅前の写真を写そうとカメラを構えます、<br />しかしレンズのオートフォーカスとズームが利かないのです。<br />先週の京都旅行時には問題なかったのに、どうしたのでしょう。<br />撮影は可能なのでピンボケ承知で撮影を続けます。<br />帰宅後見るとやはりピンボケで使用不能が多くあります。<br />又ここに使用した写真もちょっとピンボケです、ご容赦下さい。<br /> 帰宅後早速メーカーのサービスステーションに持ち込みます。<br />するとレンズが手動フォーカスになっているとの事、手動なんて一度も使用した事はありません、何故なったかは不明ですが取り敢えず一安心です。<br /><br /><br />

小田原、邸園を歩く

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2015/11/29 - 2015/11/29

643位(同エリア1803件中)

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愛吉

愛吉さん

 白崎秀雄著の伝記本”鈍翁・益田孝”を読んでから、もう十年以上が経過します。
この伝記の後半部分に鈍翁の別荘地掃雲台が小田原に在り、周りにある多くの著名人の別荘と行き来した事が度々登場します。  又大正天皇が皇太子時代に山縣有朋の古希庵を訪ねた写真も見た事があります。
それらの事が頭の片隅に焼き付き、一度その跡地を訪ねたいと思っていました。
 しかし人伝てに聞くと、掃雲台跡地は住宅地に細分化されて昔の面影は皆無との事、それ以来頭の整理箱にしまい込まれ忘れていました。
それがつい最近テレビの番組で小田原の街歩きが紹介され、まだ多くの別荘地が残されているのを知りました、しかも11月末には紅葉が見頃との事、急に行きたくなります。
 調べると古希庵は日曜日だけ一般公開なので月末の日曜日に出掛けます。
しかしここで問題が発生。
箱根登山鉄道の板橋駅で下車し、駅前の写真を写そうとカメラを構えます、
しかしレンズのオートフォーカスとズームが利かないのです。
先週の京都旅行時には問題なかったのに、どうしたのでしょう。
撮影は可能なのでピンボケ承知で撮影を続けます。
帰宅後見るとやはりピンボケで使用不能が多くあります。
又ここに使用した写真もちょっとピンボケです、ご容赦下さい。
 帰宅後早速メーカーのサービスステーションに持ち込みます。
するとレンズが手動フォーカスになっているとの事、手動なんて一度も使用した事はありません、何故なったかは不明ですが取り敢えず一安心です。


旅行の満足度
4.5
観光
4.5
同行者
カップル・夫婦(シニア)
交通手段
私鉄
旅行の手配内容
個別手配
  •  板橋の駅から10分程歩くと古希庵に到着です。<br />山縣有朋が明治40年に古希を記念して造った最後の別邸です。<br />建物は関東大震災で倒壊し、何も残っていません。<br />現在はあいおい生命の研修所が建って居ますが、庭園は当時の様子を伝えます。<br />

     板橋の駅から10分程歩くと古希庵に到着です。
    山縣有朋が明治40年に古希を記念して造った最後の別邸です。
    建物は関東大震災で倒壊し、何も残っていません。
    現在はあいおい生命の研修所が建って居ますが、庭園は当時の様子を伝えます。

  • バックの建物が邪魔なので表札のみを写します。

    バックの建物が邪魔なので表札のみを写します。

  •  建物の入口に無人の受付があり、名前を記入し料金箱に1人100円の入園料を投入して庭に入ります。

     建物の入口に無人の受付があり、名前を記入し料金箱に1人100円の入園料を投入して庭に入ります。

  • 石碑があり、有朋がこの別邸を詠んだ歌が刻まれています。<br /><br /> 打いたす 相模の海を池にして あふぐ箱根は 庭の築山   有朋<br /><br /> 谷水は 庭を巡りて城山の 麓の松は まかきなりけり<br /> <br /> のどかにも 畝の麦まく小田原の 畑のあぜ道 梅の早咲<br />

    石碑があり、有朋がこの別邸を詠んだ歌が刻まれています。

     打いたす 相模の海を池にして あふぐ箱根は 庭の築山   有朋

     谷水は 庭を巡りて城山の 麓の松は まかきなりけり
     
     のどかにも 畝の麦まく小田原の 畑のあぜ道 梅の早咲

  • この庭は専用の水道まで造ってこしらえた流水庭園なのです。

    この庭は専用の水道まで造ってこしらえた流水庭園なのです。

  •  庭への取水はこの滝に始まります。<br />この滝についてのエピソードが白崎秀雄著”鈍翁・益田孝”に記されているので紹介します。<br /> 古希庵お披露目の日、多くの名士が招かれましたが、その中に益田鈍翁や原三渓がいました、庭を一巡した後、原三渓が有朋につぶやいたそうです。<br /> この庭には1っだけ欠点がある、それは滝の音が自然ではなく、人工の音だからだと。  有朋の口惜しそうな顔が想像されます。<br /> 原三渓とは、横浜三渓園を残した日本の生糸王の事です。<br />

     庭への取水はこの滝に始まります。
    この滝についてのエピソードが白崎秀雄著”鈍翁・益田孝”に記されているので紹介します。
     古希庵お披露目の日、多くの名士が招かれましたが、その中に益田鈍翁や原三渓がいました、庭を一巡した後、原三渓が有朋につぶやいたそうです。
     この庭には1っだけ欠点がある、それは滝の音が自然ではなく、人工の音だからだと。  有朋の口惜しそうな顔が想像されます。
     原三渓とは、横浜三渓園を残した日本の生糸王の事です。

  • 名石、兜石

    名石、兜石

  • お地蔵さんもいます。

    お地蔵さんもいます。

  •  古希庵の斜向かいに旧共寿亭址が有ります、大倉喜八郎が大正8年に建てた別荘で、関東大震災にも倒壊しなかったそうです。<br />建物はしばらく前迄料亭として利用されていましたが、現在は放置されたままです。<br />

     古希庵の斜向かいに旧共寿亭址が有ります、大倉喜八郎が大正8年に建てた別荘で、関東大震災にも倒壊しなかったそうです。
    建物はしばらく前迄料亭として利用されていましたが、現在は放置されたままです。

  •  建物を垣間見たいと10米程入ってみましたが、見れませんでした。<br />大きな庭なんですね。<br />

     建物を垣間見たいと10米程入ってみましたが、見れませんでした。
    大きな庭なんですね。

  • 共寿亭から少し下った処に、紅葉に囲まれた素敵な家がありました。

    共寿亭から少し下った処に、紅葉に囲まれた素敵な家がありました。

  • 竹の小径を通り、松永記念館に向かいます。

    竹の小径を通り、松永記念館に向かいます。

  • 小径を抜けると香林寺、名刹らしいですが今日は通過。

    小径を抜けると香林寺、名刹らしいですが今日は通過。

  •  松永記念館に到着。<br />電力王松永安左衛門が昭和21年に建てた隠居所の跡で、昭和34年には敷地内に松永記念館を設立、美術コレクションを公開しました。<br />

     松永記念館に到着。
    電力王松永安左衛門が昭和21年に建てた隠居所の跡で、昭和34年には敷地内に松永記念館を設立、美術コレクションを公開しました。

  • 茶室に設けられた門

    茶室に設けられた門

  • 茶室の庭

    茶室の庭

  • 茶室葉雨庵、後から移築したものです。

    茶室葉雨庵、後から移築したものです。

  • にじり口

    にじり口

  • 庭には平安時代の石造物が置かれています。

    庭には平安時代の石造物が置かれています。

  • それでは、隠居所の老欅荘に向かいましょう。

    それでは、隠居所の老欅荘に向かいましょう。

  • 紅葉が素晴らしいです。

    紅葉が素晴らしいです。

  • 老欅荘内から見た処。

    老欅荘内から見た処。

  • 同上

    同上

  • 同上

    同上

  • 同上

    同上

  • それでは老欅荘に別れを告げます。

    それでは老欅荘に別れを告げます。

  • 門外から振り返ります。

    門外から振り返ります。

  • 下の庭に於かれた平安時代の石造物。

    下の庭に於かれた平安時代の石造物。

  •  旧東海道を小田原宿に向かうと、左手にこんな碑が建っています。<br />三井物産の初代社長益田孝の別荘掃雲台入口跡です。<br />鈍翁は明治39年この地に別荘を造り始め、約2万5千坪の敷地に屋敷、流水庭園、茶室、蔵、農園迄造ったそうです。<br />現在は宅地化され、昔を偲ぶものは何も在りません。<br />

     旧東海道を小田原宿に向かうと、左手にこんな碑が建っています。
    三井物産の初代社長益田孝の別荘掃雲台入口跡です。
    鈍翁は明治39年この地に別荘を造り始め、約2万5千坪の敷地に屋敷、流水庭園、茶室、蔵、農園迄造ったそうです。
    現在は宅地化され、昔を偲ぶものは何も在りません。

  •  さらに東海道線のガードを潜り進むと、対潮閣跡に到着します。<br />看板が出ています。<br /> 山下汽船の創業者、山下亀三郎の別宅です。又この地で日本海海戦の連合艦隊作戦参謀秋山真之中将が大正7年に49歳で亡くなって居ます。<br /> 尚現在は細分され個人の住宅となって居ます。<br />

     さらに東海道線のガードを潜り進むと、対潮閣跡に到着します。
    看板が出ています。
     山下汽船の創業者、山下亀三郎の別宅です。又この地で日本海海戦の連合艦隊作戦参謀秋山真之中将が大正7年に49歳で亡くなって居ます。
     尚現在は細分され個人の住宅となって居ます。

  •  庭の一角に当時の庭石、釣り鐘石が置かれていました。<br />当時を偲ぶものはこの石とこの石を称えて詠んだ田中光顕の歌碑が有るのみです。<br />

     庭の一角に当時の庭石、釣り鐘石が置かれていました。
    当時を偲ぶものはこの石とこの石を称えて詠んだ田中光顕の歌碑が有るのみです。

  • 田中光顕の歌碑。

    田中光顕の歌碑。

  •  隣にある山角天神社。<br />天神さんの愛称で呼ばれます。<br />童謡”通りゃんせ”の舞台だそうです。

     隣にある山角天神社。
    天神さんの愛称で呼ばれます。
    童謡”通りゃんせ”の舞台だそうです。

  • 通りゃんせの歌碑が有ります。

    通りゃんせの歌碑が有ります。

  • 芭蕉の句碑も有ります。

    芭蕉の句碑も有ります。

  • 句碑の説明です。<br /> 次は黒田長成の別邸、清閑亭に向かいます、ここは小田原邸園交流館になって居り、内部で休憩も取れます。<br />しかし写真がすべてピンボケで掲載できませんので、これで終了とします。<br />お読み頂き有難う御座いました。

    句碑の説明です。
     次は黒田長成の別邸、清閑亭に向かいます、ここは小田原邸園交流館になって居り、内部で休憩も取れます。
    しかし写真がすべてピンボケで掲載できませんので、これで終了とします。
    お読み頂き有難う御座いました。

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