2015/10/20 - 2015/10/29
21位(同エリア106件中)
tomo-komaさん
- tomo-komaさんTOP
- 旅行記11冊
- クチコミ0件
- Q&A回答0件
- 12,063アクセス
- フォロワー0人
「銀の道」。イベリア半島の西部の南北を貫く自然発生的に生まれた道。スペインの羊飼いが踏み均し、海洋民族タルテソス人が金銀銅を求めて内陸へ続く道。ローマ帝国がイベリア半島に進出する事で兵士の移動ルート、そして多様な資源を、多彩な食材を本国に送り出す為の交易ルートとして幅広い道「ヴィア・ラタ」となった。南のセビーリャはグアダルキビール川から大西洋へ、北のヒホンはビスケー湾からローマへと続いた。
19世紀頃からこの道筋の主要産物「銀・プラタ」に因んで「銀の道 ヴィア・デ・ラ・プラタ」と呼ばれるようになったそうだ。
今回の旅はマドリッドから入り、アンダルシア州のセビーリャ、イタリカ。エストレマドゥーラ州のサフラ、メリダ、カセレス、プラセンタ、ギフエロ。カスティーリャ・イ・レオン州のサラマンカ、サモラ、アストルガ、レオン。アストゥリアス州のオビエド、ヒホン。そしてビルバオから飛び立った。
- 旅行の満足度
- 4.5
-
マドリッドのアトチャート駅からAVEで約2時間半、セビーリャに到着。真夏の日差しの中、アラビア語で大きな川という意味のグアダルキビール川沿いを進む。
セビーリャ。スペイン広場。
1929年、イベロ・アメリカ博覧会のスペイン館として作られた。周りには色彩豊かなタイルで町ごとに装飾されていた。
昨日までの雨が嘘のような日差しと気温、オレッッッ!!! -
セビーリャのシンボル、大聖堂の隣にある97mある煉瓦造りのスリムなヒラルダの塔。
ヒラルダとは風見の意味、塔の先端の勝利の女神は手には椰子の葉を持ち、風向きで微笑みを四方に振りまく。先端のこの部分は1192年に建てたモスクのミナレット、内部は緩やかなスロープ場で34の曲がり角、最後は18段の階段。当時は馬やロバで上っていたらしい。70mの高さに展望台があり、大小28の鐘、眼下には大聖堂の中庭とセビーリャの町が見渡せる。数日続いたという雨上がりの後、本当に美しい町を見せて頂いた。 -
セビーリャから約10km郊外の町、サンティポンセの「イタリカ遺跡」の入り口。
イタリカの町はスペインで最古の古代ローマの植民都市。BC206年に古代ローマの将軍スキピオ・アフリカヌスのよって第二次ポエニ戦争時に戦闘で負傷した兵士の為の居住地として造られ、のち、ローマ帝国の属州の一都市として発展。見学出来るイタリカ遺跡はAD2世紀ハドリアヌスが先代トラヤヌス帝に敬意を表して造った町のほんの一部。殆どは現在のサンティポンセの町の下に眠っており、発掘する事は難しい。現在の町の人口約8500人、そのほとんどが遺跡の上で暮らしているのだから。現在、古代ローマ帝国の遺跡の上で暮らしている人口はどれくらいになるのか、実際の所、ちょっと想像が難しい・・・。 -
ここイタリカからはローマ皇帝トラヤヌスとハドリアヌスという二人の皇帝を輩出。その時代に急速に、急激に発展したもよう。当時、町は大理石で敷き詰められた舗装道路、豪華な建造物で埋め尽くされていたとか。町はスキピオ自身が創設した旧市街と、ハドリアヌスによって整えられた新市街に分かれているそうで、現在遺跡の見学が出来るのは新市街地区だけだそう。このお顔はローマ帝国13代トラヤヌス皇帝。
-
トラヤヌスの立像。
当然この象はレプリカ、本物は考古学博物館へ。顔は前の写真と合体させて想像・・・。マグリットの青空と顔の作品が現実の世界と工作したような錯覚。とにかく、とにかくご褒美の青空!! -
ネプチューンの館。
見事なモザイク。奥はきっと数種類のテルマエだね。熱めのお風呂から冷水のお風呂まで。もちろん蒸気のサウナもあったようです。ヤマザキマリさんのお陰でローマのお風呂はずいぶんと身近になったものです。 -
鳥の館。
30種類ほど描かれている、いた。美しい!!ローマのモザイクタイル。可愛い!!ローマのモザイクタイル。 -
まん丸お目目の愛嬌たっぷりの可愛いフクロウ。幸せを運んでくれる事、間違いなしだ。
-
当時から背筋を通した気取ったポーズの雄のクジャク。自分の美しさを知っているね、さすが、ハドリアヌスの故郷、とはコメントひねり過ぎかぁ・・・。
-
人生を思案中なのか、世俗を憂いているのか、慎重な足取りのオウム。脳みそのフル回転が見て取れる?!
-
とにかく何処のローマ遺跡も想像力を最大限に動員しないと楽しめない残骸量。見学を重ねながら、ローマ人の息吹を感じられるようになるのは何時の事かしら・・・。
-
パン屋の跡、凹みはパン釜のかまど。当時もおいしいパンだった事は証明済みだって、ローマで聞いたよ。繁盛していたんだろうなぁ。
-
月曜日から日曜日までを網羅している暦のモザイク。
占いの館だったのかしら、それとも地域のスケジュール調整を司っていたお偉いさん宅?それにしても、完全な状態で残っているとは、これこそが後世への約束か・・・、まさに奇跡だ! -
幾何学模様のモザイク。これは直線だったけど、ハート形のような曲線の模様もステキでした。
-
円形闘技場の前にある足裏が描かれた大理石。
想像よりも小さいサイズ、グラディエーターのものではないのかな?!。向きが双方あるのは生きて、無事で戻ってこられるように、との意味が。 -
2万5000人収容の円形闘技場。
闘技場を囲む石の階段式座席は身分が高い順に下から座る仕組み。一般市民も見学出来る事に意味がある。皇帝は特別のスペースを確保され、親指を上下どちらに向けるかと全見物人に注視された。 -
中央の窪みは衣装や武器や道具、捕らえている動物の檻の置き場だったと。
-
こちらのお顔はハドリアヌス?!やっぱり御髪がハドリアヌス?!
-
宿泊したサフラのパラドール。
15世紀に家畜市で富を築いたサフラの領主フェリア伯爵の宮殿、九つの円柱塔、噴水がある真っ白の大理石が敷き詰められている中庭、のちに隣の聖マリア教会を新館として規模拡大。 -
館主専用のキンキラピカピカの礼拝堂。
314号室というスイートルームは元はフェリア伯爵の寝室だった部屋、黄金の間と呼ばれるに値する美しく可愛らしい天井、見学させて頂きました。 -
リスボンとトレド、サラマンカとセビーリャを結ぶ軍事上の要所の町、メリダ。
BC25年、ローマ帝国初代皇帝アウグストゥスがローマ軍の退役軍人の為にエメリタ・アウグスタという名を付け植民都市とした。
BC1世紀の水道橋。 -
目を上に転ずると「コウノトリ」。現地ガイドさん曰く、今の季節には珍しいとか。最近は地球規模でどこでも聞こえる温暖化?、気候異変?!。でも、姿を見せてくれてありがとう!
-
ジャーン!!ミラグロスの水道橋。和訳「奇跡の水道橋」。
赤煉瓦と切石の縞模様はコルドバの雌キータの色合いに影響を与えたと。もちろんアーチ構造はローマ人のお得意分野。強く、高く、美しく! -
真っ青な空のもと、ローマ帝国の赤煉瓦とアーチカーブと、白黒のコウノトリ。
シャッターを切った私の感動、伝わる事を信じています。 -
手前にはローマ時代の川に架かっていた橋の残骸。
奥には現在機能している橋が見える。橋を架ける場所を選ぶ土壌調査や条件、その技術は現在でも十二分に通用する、いや、ある意味手抜きなしでスピーディーかも。 -
メリダのローマ遺跡。入り口。
-
オリジナル大理石のローマ舗装道路。
ポンペイの遺跡ほど完璧には残っていないけど、横断歩道の石を発見。やっぱりここも人には優しく、馬車では猛スピードを可能にしていたのだなぁ。 -
AD8年に完成した円形闘技場。
剣闘士同士の戦いはもちろん、猛獣との戦いも盛んだった模様。観客席は15000人、身分により三つに分けられていた。そんなこんなを舞台上の高校生達は先生から学んでいる事でしょう。しばらくして学生さんは思い思いの場所へ行き、記念写真を。みんな大人っぽい事、ポーズが決まっている事、さすが情熱の国、スペインの子孫達。 -
BC24年、アウグストゥスの右腕で娘婿、アグリッパが築いたローマ劇場。6000人収容、AD4世紀まで劇場として使用されていた。発掘されたのは20世紀、コンサートや音楽会が夏の季節の開かれているそう。半円形のステージやオーケストラピットはポルトガルのエストレモスの大理石の化粧板、貴賓席レベルの座席も、もちろん大理石。
-
舞台正面の象、農業の女神セレスの像。
女性も農作物も命を生み出し、繁栄を表す象徴。セレス、あなたは美しい! -
劇場脇にはアウグストゥスと二人の息子?の像。
-
この町の創始者、ちょっとアップのアウグストゥス、イタリア在住のあの方はカエサル、そしてあちらの方はハドリアヌス、私はオクタヴィアヌス!皇帝になってからはアウグストゥス、やっぱり大好き!長く皇帝を長期に渡って務め上げるという事は意味のある事だと思う。もちろん生まれた時代という運もあるけど。それにしても、どこでもこのお顔、年取らないってステキ?!
-
座って事を行えるローマの水洗トイレ。
やっぱり布をふんだんに使って仕切ってあったのでしょうね、通路と水洗トイレは。 -
散策の途中に出会った発掘中のディアナ神殿。
ローマ皇帝に捧げられた神殿。現在は修復途中、数年後には見学コースに入っているかも。 -
町のロータリーの真ん中にローマ起源のシンボル、本物はローマのカピトリーノ美術館にあるロムルスとレムスに乳を与える「カピトリーノのオオカミ」の象。感激です。
-
メリダのローマ橋。
カピトリーノのオオカミの象の目の前にはBC95年完成、全長792m、60のアーチを持つ花崗岩のローマ橋。その全貌はご褒美青空に匹敵する美しさ。グアディアナ川に架かる橋を渡る時間は無く、残念。奥には新しいローマ橋も写っていた。
橋を守る砦アルカサバも見学した。城壁はオリジナルのものがあり、ローマ時代や西ゴート時代のものも現存。イスラム時代の貯水池も見学。 -
メリダのパラドールへ向かう途中のローマの遺産のトラヤヌス帝の凱旋門。
スペインのローマと呼ばれていたここメリダですから、当時の装飾はどんなに見事な事でしたか・・・。町の資料によると、寺院の入り口の門で、周りは大理石で覆われ、パリの凱旋門のように四角い形状だったそう。骨格がこんな風に見られる事は当時か、後世かの特権。石にあいているいくつかの穴は周りを装飾した大理石の板を止めた所。 -
エクストレマドゥーラ州カセレス。
中世以来「銀の道」の中継地として栄えてきたが、1492年の新大陸発見され、セビーリャが交易拠点となったため、大量に持ち込まれた金銀がで更に繁栄した。町に戻った実力者達は競って豪邸を建設。
町の散策をすると、豪邸の隙間には狭い道やこんな坂ばっかり、地図を片手に頑張ったけど、相当迷った。 -
イスラム時代の王宮跡の敷地に建築された邸宅を利用したカセレス博物館のローマ時代のモザイク。
ローマ時代、西ゴート時代の墓石・境界石・工具・モザイクなどがたくさん展示されていました。イスラム時代に作られた貯水槽も見学。今でも雨水を蓄えるそうです。驚いた事は、プラド美術館のおこぼれか、ピカソとミロの作品もありました。
サン・マテオ教会、サンタマリア広場、カルバハル邸のイチョウ、星の門、マヨール広場を見学。 -
サラマンカでバールデビュー。写真では賑やかさと楽しさ、美味しさが伝えきれない、とってもとっても残念。
-
ほろ酔いの中、気分を良くしてちょっとピンボケの夜景。
-
サン・エステバン教会と月。
-
サラマンカのカテドラル。
1149年聖母マリアを祀り、ロマネスク様式の聖堂完成。13世紀にはスペイン初、世界でも四番目の大学が創設。人口増加により、新聖堂の建設へ。18世紀まで増改築が続き、旧新大聖堂はロマネスク、ゴシック、ルネサンス、バロックと時の流行の様式が混在している。 -
左上に注目!!、何と21世紀の宇宙飛行士発見。次!!、右下に注目!!、ダブルのアイスクリームを持った新生物を発見。おっと、上から狙っている敵が・・・。
-
こちらは禁断のぶどうを見付け、かぶりついているワンコ。上には羽を広げているフクロウ。何か不似合い?!不釣り合い?!
-
カテドラルの入り口。
-
カテドラルの前の広場。出発時間が良く分からない街中を回る観光バスが偶然やって来た。一回り一時間くらいかな・・・?
-
やっぱり花壇には癒される。その町の、そこの人のセンスが光りますね。
-
旧大聖堂の1455年にニコラス・フィオレンティーノによって描かれた聖書の53場面。最上部は最後の審判。
-
最後の審判、アップ。
-
新カテドラル。
-
サラマンカ大学入り口。1543年完成したプラテレスコのファザード。上段はローマ法王、中段はカルロス5世と王家の紋章、下段はカトリック王の二人。この装飾の中に骸骨に乗ったカエルがいます。見つける事が出来たら願い事が叶うって・・・。
-
見つけたぁ〜!
-
サラマンカ大学の中庭から。
サラマンカ大学はイタリアのボローニャ大学、フランスのパリソルボンヌ大学、イギリスのオックスフォード大学に続いて四番目に出来た大学。大木メタセコイヤも歴史を語っている。 -
サラマンカ大学の回廊の天井。床に鏡がセットしてあり、上を向かずに見る事も、写真に収める事も出来る。Nice idea.それにしても鮮やかです、オリジナル?じゃなかったら怒るよ・・・。
-
1218年創設のサラマンカ大学の付属図書館。
活版印刷技術が普及する15世紀以前の貴重な初期活字本や写本が保管されている。入り口部分はガラスが張ってあり、のぞく事しか出来ない。内部の設計は旧市街の中心、スペインで最も美しいといわれるマヨール広場を手掛けたアルベルト・デ・チュリゲラ。特徴はバロック様式を発展させ、柱に螺旋に植物を配し、周りの装飾と調和させる事で繊細且つ大胆な広がり感を醸し出している。本の装丁装飾も合わせ、本当に美しいスペースとなっている。1758年、ある教授が旅先から持ち帰ったというのが丸い教科書と呼ばれていた地球儀、確かに。当時の教室は写本の教科書が一冊あるだけ、だから教室の真ん中に教科書を置く台がある。後ろにはお金持ちの保護者や使用人の席までありました。何か優雅。 -
巡礼者を守る為のゴシック様式の貝の家。
元はサンチャゴ騎士団の邸宅だった。外装はサンティアゴへの巡礼のシンボルであるホタテ貝が400くらい貼り付けてある。 -
サラマンカで何故かアール・デコ美術館へ。
天井のステンドガラス。特別大きい訳ではありませんが、装身具、絵画、ガラス作品、絵本、お人形、小物、家具など。代表的なアール・デコ作家さんの作品もたくさん見る事が出来ました。女子はみんな大好きな空間だと思うけど・・・。 -
トルメス川から見たの正面はこんな感じ。外観もまさにアール・デコ!
-
トルメス川に架かるローマ橋。
町とともに、雰囲気があり、アーチに魅せられた。時間がたっぷりあったので、ゆっくりローマ橋を渡り、川岸まで降りて行き、四方を見渡し、サラマンカの秋を満喫。とっても愛おしいひと時でした。 -
旧市街の中心をトルメス川向こうからの眺め。それを・・・。
-
それを・・・、一筆書きをするとこんな感じ。うふぅ。
-
想定以上に感動した「サラマンカの空」フレスコ画。
飾られている狭い空間、上を見上げながら一回りするも良し、数段の階段を上ってますます目を近づけて見るも良し。現代のプラネタリウムよりもゆったりと時間を味わえ、空間を楽しめる。 -
マヨール広場や教会の柱の螺旋模様を完成させたチュリゲラ兄弟?、いや、チュリゲラ家の末っ子アルベルトと設計を依頼した市長?のブロンズ像。良い仕事してますねぇ〜。
-
サン・エステバン修道院。
16世紀から17世紀にかけて作られたドミニコ会の修道院。プラテレスコとは銀細工師様式という意味。浅浮彫による繊細且つ豊かな装飾が特徴で、イスラム的要素とルネサンス的要素も混じり合っているともいえる。ここもサラマンカ大学のファザード同様、そのプラテレスコ様式で素晴らしいと評価されている。静かで落ち着く回廊、まぶしすぎる礼拝堂。↓ -
←これがまぶしすぎる礼拝堂の祭壇。
ホセ・ベニート・チュリゲラとは、チュリゲラ様式を確立した一族の中心的存在といわれているが、彼の代表作といわれている。柱にねじれた植物を巻き付けたよう、その柱の上下に装飾を工夫し、繊細でありながら大胆な空間演出。 -
目に映る豪華な輝きがもったいなくて、しばし、動けず。しつこく、そのアップをカメラに納めた。
-
サラマンカからバスを走らせる事、約一時間、サモラの町に到着。地理的に主要な場所にあった為にレコンキスタの激戦地となった。その為ドゥエロ川流域一帯は廃墟に。それがアルフォンソ1世に時代、再び城塞が築かれたのは893年アルフォンソ6世の時代、キリスト教徒が領土拡大を果たしても、再び逆襲という繰り返し。この歴史的背景から世界的に有名な格言「ローマは一日にして成らず」といわれたそう。この言葉の誕生にサモラが関わっているとは、正直驚きです。現在、人口65000人の小さな町。町を散策をしながら、また、お昼をいただきながら、ここは経済的自立の為に何か仕掛けてきそうな勢いを感じました。後で分かった事ですが、中世の時代、既に王族御用達ワインとして高い評価と名声を得ていた有名なトロワインの産地はドゥエロ河畔のここサモラだったのです。サモラのチーズと合わせて産地呼称が認められているそうです。スゴイ!
-
サモラの大聖堂。
ロマネスク建築の宝庫といわれているサモラではあるが、この大聖堂はロマネスク様式はもちろん、ゴシック、新古典様式もが混じり合っている建物。鱗模様の丸屋根が印象的。1926年に設置された博物館も見学。ほとんどが伝統的なブリュッセルのタペストリーで、ギリシャ神話から歴史的な戦いのモチーフのものがほとんど。 -
ドゥエロ川に架かるローマ橋。サモラはちょっと寒い所、どこよりも黄葉が進んでいました。
-
ルシタニアの戦士の像があるビリアド広場。別名プラタナスの木の広場。・・・確かにプラタナスだぁ。
-
サモラの現代の戦士。ツ・ヨ・ソ・ウ・デ〜ス、ホ・ン・ト・ウ・ハ、カ・ワ・イ・イ・デ〜ス。
-
アストルガ。大聖堂。
アストルガはサンディアゴへの巡礼の道と銀の道が交差するポイント。アストルガ以西、サンティアゴとの間には最後の難関の山塊が横たわっているという。という訳で、巡礼者は必ずこの町で体調を整えるという。現在はそんな静かな町。ローマ時代には東西南北を結ぶ道の交差点として繁栄に貢献。城壁を始め、ローマの香りが漂う。 -
アストルガ。同郷のグラウ司教に依頼されたガウディ設計の司教館。
グラウ司教は完成を見ずに他界、19世紀末の事、後継の新司教はガウディの設計を司教館としては斬新過ぎ、相応しくないと一度も使われる事は無かったと。現在は巡礼博物館として一般公開されている。訪れたのは日曜日、という事で、外観のみの見学となった私は、午後の日差しに反射するステンドグラスを想像し、また、門の格子から見える庭の三体の像を間近に見る事が出来たらと、心から残念に思いました。 -
バスの窓からパチリ。13世紀のオルビコ橋。
高速道路を降り、巡礼道路を通過した際に見る事が出来た。夕刻に向かう中、数名の巡礼者さんとすれ違う。皆日焼けした顔、大きな荷物のせいか、疲労のせいか、やや落ちた肩ライン、でも、しっかりした足取りであった事が印象に残った。 -
レオンのパラドール。
レオンという町の由来はライオンではなく、レギオン、すなわち古代ローマ軍第七部隊ということ。レギオンがここに野営軍事基地を設置した事による。10世紀オビエドを首都としていたアストゥリアス王国はレコンキスタを終えたばかりのレオンに遷都、レオン王国の首都としても大いに繁栄。 -
レオンの大聖堂。<夜>
ライトアップされた美しさ。レオンの宝石ともいわれている大聖堂、プルク・レオニーナとよばれ、スペインゴシック建築の傑作。ファザードのバラ窓を始め、見事なステンドグラスは1800?。ガラスといい、鉄の窓枠といい、メチャ重たい。この大聖堂、実は柔らかい砂岩で出来上がっているので、メチャもろい。という事で、ファザード脇にはデザインというだけではなく、補強している数本のアーチ。お見事!!しかし、残念な事に19世紀の半ばに壁の一部が崩壊、今でも修復を繰り返しているとか。 -
レオンの大聖堂。<朝>
大聖堂が建つこの場所は古代ローマ時代には公衆浴場テルマエが、その後、ロマネスク様式の教会が建てられ、1255年、大聖堂の建築が始まったそう。完成したこの比類無きステンドグラスの美しさを「光と石が織りなす奇跡」と表現したのは思想家で作家のミゲル・デ・ウナムノ。 -
受胎告知。大理石の彫刻。
-
受胎告知。何と形容したらいいのかしら、マリア様の表情・・・。
-
受胎告知。絵画。
-
受胎告知。フレスコ画。
ロマネスク様式のサン・イシドロ教会。1063年、セビーリャの大司教イシドロの亡骸がイスラム王から返され、フェルナンド1世の命により奉納、その後、レオン王国歴代23代の王家の霊廟となっている。その天井画は12世紀の傑作。オリジナルであるため、見学も人数制限、もちろん写真撮影は禁止。そんな中、何故か喉から手が出るほど欲しい受胎告知のフレスコ画をゲット。と、もちろんこれはオリジナルではなく、お土産屋さんで見付けたもの。結果的にはこれを購入された方との奇跡の一枚。写真に収める事にご協力をいただき、心から感謝。 -
霊廟の内部の柱に描かれた12ヶ月、すなわち一年を示したフレスコ画。
当時の生活を忠実に再現したものでしょう、農作業、ワイン作り、家畜の世話などが描かれている。これは手に入れたカレンダーのおまけのページ。 -
どこから見てもメチャ可愛いロマネスクの十二星座!!カレンダーからのおまけ写真です。
-
サンタ・マリア・デル・ナランコ教会。
9世紀にラミロ1世が夏の離宮として建設。近くに二つの川が流れ、美しい所、ラミロ1世は魚釣りや狩猟を楽しんでいたそうです。当時離宮の周りには建物が40くらいあったそうです。離宮が教会になってきっかけは12世紀に地盤の関係で一部が崩壊した事が関係あるそうです。 -
サンタ・マリア・デル・ナランコ教会からの眺め。
ロマネスク様式の前のプレロマネスク様式といわれる建物。教会の外付けの階段を上って二階からの風景。そこは王の居住の間。町が見渡せる。ここアストゥリアス地方は年間170日は雨が降るという土地。それなのに、この日差しに青空、素晴らしい!!昨日までの雨の蒸気が眼下の町をまだ覆っている。現地ガイドさんも、添乗員さんもこんな天気は珍しいと写真を撮りまくっていたのが印象的。笑。 -
縄を編み込んで人を配した文様。途切れないつながりを示している。
-
縄目の縁取りに動物。当時の生活が想像できそう・・・。ちょっと東洋的要素も・・・。
-
アカンサスの葉。
-
サン・ミゲール・デ・リーリョ教会。
ラミロ1世によって建設された教会。プレロマネスク様式。手前側は喪失してしまったという。中の二階部分は王様とお妃様の礼拝の時の席がある。当時は3,4時間もミサが続いたそうです。光を取り込む工夫がされた窓。オリジナルのステンドグラスもあった。 -
ビルバオの空港と同じ設計士の作品、ショッピングセンター。スペインが誇る建築家バレンシア出身のサンティアゴ・カラトラバ。他にはバルセロナのモンジュイックタワー、ギリシャアテネのオリンピックスタジアム、スイスのルツェルン駅など。確かに凄い仕事をしている。鉄とガラス、コンクリートを使わないという事が特徴とか。
-
オビエドの大聖堂。
正式名称はサン・サルバトル大聖堂。9世紀、アストゥリアス王アルフォソン2世が西ゴート王国の没落後、トレドから運び出した聖遺物を集めた小箱をア覚める為に建設。資金不足?!ファザードの塔がもう一つ予定ではあったらしい。確かに、バランスがおかしいか?!。 -
受胎告知。
-
これも受胎告知。(角の部分)
-
オビエドのお菓子。クリスマスの時に食べるんだって。
-
南米に向かう男?!、南米から戻った男?!。広場に佇むダンディーな像。
-
キャ〜!!海だぁ〜!!カンタブリコ海。気が急いてしまいバスからのショット。窓越しなのでちょっと空の色が・・・。
-
本物のヒホンの青空の色はこれだ!!
-
ヒホンの英雄、ペヨーラ王。
BC6世紀、今のヒホンにアストゥル人定住。BC1世紀、ローマ帝国の支配下に入りこの半島部に町として発展。ローマ時代から西ゴーと時代へ、713年、イスラム勢力に征服され、ヌムーザによって支配された。718年、この伝説的な王ペヨーラがコバトンガの戦いでヌムーザを破り、アストゥリアス王国、レオン王国、カスティーリャ王国の領土となり、現在へ至る、と。 -
カラー版、ヒホンの英雄、ペヨーラ王。こんな出で立ち。
-
地面のヒホンの英雄、ペヨーラ王。どこにでも描かれている。
-
ヒホンのお菓子「フェラオ」。まあ、マジパンだね。中にはリンゴジャム。
-
ヨットがたくさん。このヨットハーバーを望むようにペヨーラ王の像は立つ。
-
ソーセージ入りのファバタ。ヒホンの名物料理。栄養満点、素朴で、美味しい!!魚介ベースのものも有名。
-
サン・ペドロ教会。空の色に注目、ランチをいただいて外に出たら・・・。雨に雷に風に・・・。
-
カンタブリコ海に突き出た先端。雨に雷に風に、負けないで歩いた、歩いた・・・。待っていてくれたのはこのモニュメント、「水平線への賛辞」。実は真ん中には船が走っているのです、見えるのです。凄いタイミング。
-
戻った頃には虹が出て雨がやんでお日様まで顔を出してくれました。
-
一応「銀の道」の終着点・始発点の看板?!特別にこれといったものは残ってないそうです。さすが、属州??、そしてローマ??
-
「銀の道」の石碑。これも古くはない・・・。
-
オクタヴィアヌス、すなわちアウグストゥス。・・・ありがとう!!あなたの時代に勝ち取った町、繁栄させた町ですものね。
-
後ろ髪を引かれるカンタブリコ海とサン・ペドロ教会。
-
家の壁の壁面に地図を発見。
-
オビエドで最後にアストリア美術館へ。収穫の受胎告知。
-
旅は終わる。スペインともお別れ。オビエドの夜明けは遅い、ビルバオへの向かう朝、どんどん薄れる朝靄。そんな時の空。この雲を見ていたら、ミケランジェロの最後の審判を思い出した。どうしてだったのか、今も良く分からない。
-
これも受胎告知。
-
この旅行記のタグ
利用規約に違反している投稿は、報告する事ができます。
コメントを投稿する前に
十分に確認の上、ご投稿ください。 コメントの内容は攻撃的ではなく、相手の気持ちに寄り添ったものになっていますか?
サイト共通ガイドライン(利用上のお願い)報道機関・マスメディアの方へ 画像提供などに関するお問い合わせは、専用のお問い合わせフォームからお願いいたします。
旅の計画・記録
マイルに交換できるフォートラベルポイントが貯まる
フォートラベルポイントって?
0
116