2015/11/15 - 2015/11/15
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ka-keikoさん
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香川から416Kmの旅
家を朝6時44分に出て 高松東ICから高速に乗り 途中の福山SA、宮島SA、美東SAで休憩しながら松陰記念館に11時24分着。
その後、指月山にある萩城址、松陰神社付近、萩反射炉と造船所跡、城下町散策。
翌日は津和野へ。
- 旅行の満足度
- 4.0
- 観光
- 4.0
- ホテル
- 5.0
- 交通手段
- 自家用車
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家を6時44分に出発して 高松東ICから高速に乗り 瀬戸大橋を渡り---
途中の福山SA、宮島SA、美東SAで休憩しながら萩へ向かい---11時24分に松陰記念館着。 -
松陰記念館前にて。
左端は 高杉晋作(1839〜1867)
萩城下の菊屋横丁に武士の子として生まれ、19歳の時に友人の久坂玄瑞のすすめで松下村塾に入塾し、久坂と並んで村塾の双璧と称され 長野の佐久間象山を訪ね学んだ。身分に関係なく組織された奇兵隊を結成し、四境戦争などで連戦連勝して長州藩の勝利におおいに貢献し 幕末に大変活躍したが 明治維新を見る直前に下関で病死した。
中央は 吉田松陰(1830〜1859)
萩藩士 杉百合之助の二男として生まれ、叔父の山鹿流兵学師範 吉田大助の養子となり吉田姓を名乗るようになった。
萩の松下村塾で幕末の志士や明治維新に活躍する多くの人材を育てた。松陰は生涯にわたって日本中を旅していた。
安政の大獄によって処刑された。
右端は 久坂玄瑞(1840〜1864)
萩城下の平安古で生まれ、松陰と出会ったのは17歳の頃。
松陰の妹の文(ふみ)と結婚して松陰の実家・杉家に同居し、松下村塾での松陰の教育事業を助け 松陰の亡くなった後の村塾では中心的人物だったが 京都の蛤御門の戦いで負傷し若くして亡くなった。 -
萩城址。
「萩城は毛利輝元によって築城され、慶長9年(1604)に工事に着手し、4年後の慶長13年に完成した。
以後 260年間 萩藩主の居城として、また周防・長門両国の藩政の中枢機関として偉容を誇った。しかし 第13代藩主 毛利敬親の代に至り 幕末の多端な国事の処理に不便なため 文久3年(1863)4月 藩府を山口に移した。
明治6年(1873)には政府から萩城払い下げ令が下り、翌年天守閣、矢倉などすべてが解体された」---説明文より。
内堀と正面の本丸門。
後ろに 指月山(143m)。 -
指月山と天守閣跡(左端)
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天守閣跡から内堀をみて。
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天守閣跡から見下ろして。
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指月公園内にある 萩藩寄組士梨羽家(三千三百石)の別邸茶室---別邸にあったものを明治時代に移築。
年末の城内煤払いの際、藩主が一時ここに休憩した事からこの名がある---案内文より抜粋。 -
茶室前の庭
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梨羽家茶室に隣接する 花江茶亭。
13代藩主・毛利敬親が安政5年(1858)頃、旧三の丸にあった藩主別邸花江御殿内に増築した茶室で、明治期に指月公園内に移築された。
幕末期、敬親は家臣たちと茶事に託して時勢を論じ、国事を画策したといわれている。萩市指定有形文化財。 -
花江茶亭
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志都岐山神社(しづきやまじんじゃ)---萩藩歴代藩主が祀られている。
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旧厚狭毛利家萩屋敷長屋。
全長 51.5 mの長屋で、屋根は一重入母屋造瓦ぶき、出格子5か所、格子窓6か所、式台および縁付で仲間部屋もある代表的な武家屋敷長屋で、国の重要文化財。 -
旧厚狭毛利家萩屋敷長屋の中に展示されている萩城。
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松陰神社
この中に松下村塾がある。 -
松下村塾(国指定史跡)
松下村塾は 玉木文之進(松陰の叔父)が天保13年(1842年)に自宅で私塾を開いたのが始まりで、ついで久保五郎左衛門が継承し、安政4年(1857年)に28歳の松陰がこれを継いだ。 -
杉家旧宅。
下田での海外渡航に失敗した松陰は 安政元年(1854)野山獄に入れられ、翌年に実家である杉家に帰され謹慎生活を命じられた。
松陰は家族からの薦めもあり幽囚室で孟子などを講じるようになり、やがて松下村塾を主宰するようになった。 -
杉家旧宅の隅にある幽囚室
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吉田稔麿(としまろ)生誕地。
稔麿(栄太郎)は少年期には宝蔵院流槍術を学び、安政3年(1856)松本村から最初の塾生として松下村塾に入塾した。 -
伊藤博文像
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伊藤博文旧宅
博文は天保12年(1841)、現在の山口県光市の農家に生まれ、9才の時 萩に移り両親とも伊藤家に入家し、この家に住むようになった。安政4年(1857)に松下村塾に入塾、文久3年(1863)には長州ファイブの1人として英国に留学。明治になり憲法制定に携わり、初代内閣総理大臣となった。 -
伊藤博文旧宅内
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伊藤博文旧宅内にて
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萩反射炉---世界遺産になったためか 観光客が多かった。
反射炉は西洋で開発された金属溶解炉。
現在残っている遺構は、萩反射炉の煙突にあたる部分。
高さ10.5 メートルの安山岩積み(上方一部煉瓦積み)の煙突は 上に向かって幅を狭める長方形で下方に2つのアーチ型の煙道孔が開いている。
上方で二股に分かれているように見えるが、実際はそれぞれ独立した2本の煙突となっている。
反射炉が現存するのは 静岡と萩の2か所だけ。 -
萩反射炉
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反射炉の下部
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恵美須ヶ鼻造船所跡
幕府の海防力強化を目的に萩(長州)藩最初の洋式軍艦「丙辰丸」と「庚辰丸」が建造された。「丙辰丸」建造には大板山たたら製鉄遺跡の鉄が使用された。 -
恵美須ヶ鼻造船所跡
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防波堤から日本海をみて。
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恵美須ヶ鼻造船所跡にて大きな防波堤
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萩城下町を歩いて。
口羽家住宅 -
口羽家住宅(国指定重要文化財)
口羽家は萩藩寄組士で、萩城下に残る上級武士の屋敷。 -
口羽家住宅内の 相の間(あいのま)
二つの部屋の間にある小部屋で、表と内とを分け隔てる緩衝帯としての役割を持っており、武者隠しの名残をとどめているとも思われる。これは主人の身辺を警護するために家来が身を隠していた場所でもある。 -
相の間上部の壁に置かれた武器
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口羽家住宅の庭から見た風景
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堀内鍵曲(かいまがり)
鍵曲は 敵の侵入や攻撃に備えるため、左右が高い土塀で囲まれた、見通しのきかない鍵手形の道路である。
藩政時代、このあたりには重臣たちの邸宅が立ち並んでいたが、明治以降ほとんどが解体され、夏みかんの畑になった。
この堀内地区は 平安古(ひやこ)地区とともに、国の重要伝統的建造物保存地区に選定されている---説明文より -
鍵曲
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旧毛利家別邸表門
昭和49年にここに移築された。 -
左側に旧毛利家別邸表門
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萩藩主毛利家墓所(天樹院墓所)
天樹院墓所は毛利輝元の墓所で、輝元と夫人および殉死者長井治郎左衛門の墓石3基がある。 -
萩ロイヤルインテリジェントホテルの室内の電話
税込み、朝食付きで2人で7700円と安く清潔であった。 -
萩ロイヤルインテリジェントホテルの室内に飾ってあったもの
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