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長州藩初代藩主、毛利秀就の出生は広島というのが定説であるが、実は山口県は宇部市小野地区であったとの歴史を覆す異論が発表され、地元をあげて毛利秀就誕生地を名乗り、当地に母親である毛利輝元の側室二の丸やお産のために屋敷を貸した地元の領主財満家の方々の縁のモニュメントもあります。2009年に研究成果が発表され2013年頃に各建立物が作られたようです。<br />財満家と二の丸様の繋がりや毛利秀就の秘話も明らかにされていて実に興味深いです。

長州藩初代藩主、毛利秀就の誕生地は広島ではなく山口県宇部市であった

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2015/08/16 - 2015/08/16

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風待人

風待人さん

長州藩初代藩主、毛利秀就の出生は広島というのが定説であるが、実は山口県は宇部市小野地区であったとの歴史を覆す異論が発表され、地元をあげて毛利秀就誕生地を名乗り、当地に母親である毛利輝元の側室二の丸やお産のために屋敷を貸した地元の領主財満家の方々の縁のモニュメントもあります。2009年に研究成果が発表され2013年頃に各建立物が作られたようです。
財満家と二の丸様の繋がりや毛利秀就の秘話も明らかにされていて実に興味深いです。

旅行の満足度
4.0
観光
4.0
同行者
一人旅
一人あたり費用
1万円未満
交通手段
自家用車 徒歩
旅行の手配内容
個別手配

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  • 毛利秀就の誕生に縁起する財満家と毛利輝元側室の二の丸様の苦悩と悲哀について書かれた説明看板です。毛利秀就公誕生の地の石碑の真横に建てられています。

    毛利秀就の誕生に縁起する財満家と毛利輝元側室の二の丸様の苦悩と悲哀について書かれた説明看板です。毛利秀就公誕生の地の石碑の真横に建てられています。

  • 宇部市小野地区は小野茶の産地としても知られ、毛利秀就公誕生の地は流石に二の丸様の隠棲・出産には持って来いの場所で静な田園風景の中にありました。

    宇部市小野地区は小野茶の産地としても知られ、毛利秀就公誕生の地は流石に二の丸様の隠棲・出産には持って来いの場所で静な田園風景の中にありました。

  • 二の丸様が隠棲・出産をしたと言われる小野地区の領主、財満家の館跡です。<br />今は建物などの痕跡はなく石碑と説明看板があるのみです。

    二の丸様が隠棲・出産をしたと言われる小野地区の領主、財満家の館跡です。
    今は建物などの痕跡はなく石碑と説明看板があるのみです。

  • この看板の説明によると領主、財満家の館の一角の西御殿または西御前と呼ばれる場所で毛利秀就は生まれたとされています。

    この看板の説明によると領主、財満家の館の一角の西御殿または西御前と呼ばれる場所で毛利秀就は生まれたとされています。

  • 二の丸様の顕彰碑の説明看板に書かれた二の丸様の一生が悲しすぎます。<br />美人に生まれると得ばかりではなく苦労や不幸のほうが多いようですね。<br />無理やり側室にされ、夫を殺され、正室からは疎まれ生んだ実子をその手であやす事も出来ず失意の内に亡くなったその人生はいったい何だったのでしょうか。

    二の丸様の顕彰碑の説明看板に書かれた二の丸様の一生が悲しすぎます。
    美人に生まれると得ばかりではなく苦労や不幸のほうが多いようですね。
    無理やり側室にされ、夫を殺され、正室からは疎まれ生んだ実子をその手であやす事も出来ず失意の内に亡くなったその人生はいったい何だったのでしょうか。

  • 二の丸様の顕彰碑です。大きな一枚岩の顕彰碑と二の丸様の石像が併設されています。

    二の丸様の顕彰碑です。大きな一枚岩の顕彰碑と二の丸様の石像が併設されています。

  • 顕彰碑の周りを回ることが出来ますが入り口の鴨居は低くなっています。何か意味があるのでしょうかね。

    顕彰碑の周りを回ることが出来ますが入り口の鴨居は低くなっています。何か意味があるのでしょうかね。

  • 顕彰碑の裏側には絆の一文字が書かれています。この顕彰碑は刻印から2013年に建立されたことがわかりますね。

    顕彰碑の裏側には絆の一文字が書かれています。この顕彰碑は刻印から2013年に建立されたことがわかりますね。

  • 二の丸様が産んだ子どもたちの名前とともに功績として刻まれています。

    二の丸様が産んだ子どもたちの名前とともに功績として刻まれています。

  • 二の丸様の生涯が年表として書かれています。

    二の丸様の生涯が年表として書かれています。

  • 財満家関係者の墓が集められ建立されている財満苑です。二の丸様の顕彰碑の横で今も守っているように感じました。

    財満家関係者の墓が集められ建立されている財満苑です。二の丸様の顕彰碑の横で今も守っているように感じました。

  • 毛利輝元の重鎮、山本市左衛門は二の丸様が財満家に預けられた時にお目付け役として広島から派遣されました。毛利秀就が生まれた後には献身的な功をなしたとされています。輝元から広島に帰るように勧められるも辞退し、亡くなるまで当地で庄屋などを務めたとされます。

    毛利輝元の重鎮、山本市左衛門は二の丸様が財満家に預けられた時にお目付け役として広島から派遣されました。毛利秀就が生まれた後には献身的な功をなしたとされています。輝元から広島に帰るように勧められるも辞退し、亡くなるまで当地で庄屋などを務めたとされます。

  • 財満忠久の家臣、津室弥左衛門の子雅楽介正治は忠久が筑前での戦いで戦死するとその亡骸を持ち帰り、墓を立てその霊を弔いました。

    財満忠久の家臣、津室弥左衛門の子雅楽介正治は忠久が筑前での戦いで戦死するとその亡骸を持ち帰り、墓を立てその霊を弔いました。

  • 大内氏の家臣であった財満家であるが財満宗因軍は毛利元就に攻められ全滅する。<br />津室弥左衛門に連れだされて養育された財満宗因の子忠久は毛利元就に見出され初代小野村領主となった。

    大内氏の家臣であった財満家であるが財満宗因軍は毛利元就に攻められ全滅する。
    津室弥左衛門に連れだされて養育された財満宗因の子忠久は毛利元就に見出され初代小野村領主となった。

  • 戦死した財満忠久の子、就久が毛利輝元の命を受けて二の丸様を隠棲させ秀就公を出生させました。

    戦死した財満忠久の子、就久が毛利輝元の命を受けて二の丸様を隠棲させ秀就公を出生させました。

  • 財満家の氏神、阿武瀬天満宮が祭ってあります。

    財満家の氏神、阿武瀬天満宮が祭ってあります。

  • 元来の阿武瀬天満宮の想像図です。

    元来の阿武瀬天満宮の想像図です。

  • 鳥居の奥には小さな祠があります。

    鳥居の奥には小さな祠があります。

  • 文化三丙寅六月とありますから1806年で文化の大火があった年ですね。

    文化三丙寅六月とありますから1806年で文化の大火があった年ですね。

  • 二の丸様の顕彰碑、財満苑を後ろ側から見た様子です。

    二の丸様の顕彰碑、財満苑を後ろ側から見た様子です。

  • アスファルトの坂を登った所に阿武瀬天満宮があります。

    アスファルトの坂を登った所に阿武瀬天満宮があります。

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