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宮城県大崎市国道47号線沿いに残る尿前の関跡。<br /><br /> 猛暑の中、ここ千数百メートルの古道は涼しい。<br /><br />あたりはうっそうとした杉木立の中、せみの声を浴びながら、緑の絨毯を踏む。<br /><br /><br /><br />ガイドブック<br /><br />ワイド版岩波文庫79「芭蕉 おくのほそ道」 岩波書店発行 2012年第16刷

おくのほそ道 1  鳴子温泉から中山平温泉へと抜ける国道47号線沿いに、ひっそりと今も残る出羽街道・尿前の関跡

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2015/08/14 - 2015/08/14

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地中海人

地中海人さん

宮城県大崎市国道47号線沿いに残る尿前の関跡。

 猛暑の中、ここ千数百メートルの古道は涼しい。

あたりはうっそうとした杉木立の中、せみの声を浴びながら、緑の絨毯を踏む。



ガイドブック

ワイド版岩波文庫79「芭蕉 おくのほそ道」 岩波書店発行 2012年第16刷

旅行の満足度
4.5
同行者
カップル・夫婦(シニア)
交通手段
自家用車
  • 国道47号江合川沿い鳴子温泉の街を西へ、鳴子狭入り口を過ぎ坂の途中、左は日本こけし館への登り口の向かいに駐車場があります。<br /><br />「奥細道菅菰抄」には「尿前は、今尿戸前と書。義経の若君の、始めて尿をし給へる処なるべし。小児の尿を奥羽にては、シトといふ。他国にてシヽと云に同じ。」とある。<br /><br />

    国道47号江合川沿い鳴子温泉の街を西へ、鳴子狭入り口を過ぎ坂の途中、左は日本こけし館への登り口の向かいに駐車場があります。

    「奥細道菅菰抄」には「尿前は、今尿戸前と書。義経の若君の、始めて尿をし給へる処なるべし。小児の尿を奥羽にては、シトといふ。他国にてシヽと云に同じ。」とある。

  • ここから木の階段を下る。<br /><br />写真の奥の薄緑色の空間は鳴子温泉上の野スキー場です。<br /><br />子供のころ、国鉄陸羽東線鳴子駅からスキー板を担ぎ、列をなしてあそこまで皆歩いたものです。

    ここから木の階段を下る。

    写真の奥の薄緑色の空間は鳴子温泉上の野スキー場です。

    子供のころ、国鉄陸羽東線鳴子駅からスキー板を担ぎ、列をなしてあそこまで皆歩いたものです。

  • ここを下るの初めてです。

    ここを下るの初めてです。

  • 一体何段あるのだろうか、と思っていたら、

    一体何段あるのだろうか、と思っていたら、

  • 急にひんやりとしてきた。車を降りたところはこの日30度を超えていたが。

    急にひんやりとしてきた。車を降りたところはこの日30度を超えていたが。

  • 真ん中にロープが張ってあり、楽ですね。

    真ん中にロープが張ってあり、楽ですね。

  • あまり歩かれていないようです。

    あまり歩かれていないようです。

  • あたりはせみの声のみ。

    あたりはせみの声のみ。

  • 出羽街道中山越とあります。

    出羽街道中山越とあります。

  • おくのほそ道には「南部道遥かにみやりて、岩出の里(現岩出山町)に泊る。小黒崎・みづの小島を過ぎてなるごの湯より尿前の関にかかりて、出羽の国に越んとす。此路旅人稀なる所なれば、関守にあやしめられて、漸として関をこす。大山をのぼって日既に暮ければ、封人の家を見かけて舎を求む。三日風雨あれて、よしなき山中に逗留す。」とあります。<br /><br />大深沢や小深沢の山道の上り下りは、難儀したでしょうね。<br /><br />今は日本こけし館の下を通るトンネル、紅葉の鳴子狭を見下ろす大深沢橋。

    おくのほそ道には「南部道遥かにみやりて、岩出の里(現岩出山町)に泊る。小黒崎・みづの小島を過ぎてなるごの湯より尿前の関にかかりて、出羽の国に越んとす。此路旅人稀なる所なれば、関守にあやしめられて、漸として関をこす。大山をのぼって日既に暮ければ、封人の家を見かけて舎を求む。三日風雨あれて、よしなき山中に逗留す。」とあります。

    大深沢や小深沢の山道の上り下りは、難儀したでしょうね。

    今は日本こけし館の下を通るトンネル、紅葉の鳴子狭を見下ろす大深沢橋。

  • 尿前の関をうかがえるのは復元された門のみ。

    尿前の関をうかがえるのは復元された門のみ。

  • この近辺には、古代、秀衡のころには既に柵があり、義経をここまで迎えに来たという説もある。秀衡の威光がここまであったのでしょう。<br /><br />柵とは、玉造柵? 現・宮城県相当地域内に蝦夷対策として大和政権により4つの城柵が設けられたことがわかっていて、『続日本紀』の天平9年(737年)の記事には多賀柵(現在の多賀城)、玉造柵、色麻柵、新田柵、牡鹿柵の名が。柵はキと読み、後代になって城となる。

    この近辺には、古代、秀衡のころには既に柵があり、義経をここまで迎えに来たという説もある。秀衡の威光がここまであったのでしょう。

    柵とは、玉造柵? 現・宮城県相当地域内に蝦夷対策として大和政権により4つの城柵が設けられたことがわかっていて、『続日本紀』の天平9年(737年)の記事には多賀柵(現在の多賀城)、玉造柵、色麻柵、新田柵、牡鹿柵の名が。柵はキと読み、後代になって城となる。

  • 江戸時代に至り、ここに、伊達岩出山藩によりかなり大きな番所が置かれたようです。

    江戸時代に至り、ここに、伊達岩出山藩によりかなり大きな番所が置かれたようです。

  • 花山の御番所と異なり、建物は残っておりません。<br /><br /><br />花山の御番所については<br />http://4travel.jp/travelogue/11038025

    花山の御番所と異なり、建物は残っておりません。


    花山の御番所については
    http://4travel.jp/travelogue/11038025

  • 芭蕉がここを訪れたのは、元禄2年(1689年)5月15日(7月1日)。曾良旅日記によれば、当日は小雨。<br /><br />この後、大深沢、小深沢を上り下りし、現在の境田・封人の家・和泉庄屋新右エ門兄宅に逗留した。封人の家は当時のままに保存されているという。

    芭蕉がここを訪れたのは、元禄2年(1689年)5月15日(7月1日)。曾良旅日記によれば、当日は小雨。

    この後、大深沢、小深沢を上り下りし、現在の境田・封人の家・和泉庄屋新右エ門兄宅に逗留した。封人の家は当時のままに保存されているという。

  • この日は、赤倉温泉のひやま山荘に一人湯につかった。<br /><br />赤倉温泉街から離れたところにある一軒家。

    この日は、赤倉温泉のひやま山荘に一人湯につかった。

    赤倉温泉街から離れたところにある一軒家。

  • 泳げる温泉プールがあります。

    泳げる温泉プールがあります。

  • ゴルフ練習場の奥に見えるのが赤倉温泉スキー場。<br />

    ゴルフ練習場の奥に見えるのが赤倉温泉スキー場。

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