2015/06/17 - 2015/06/17
417位(同エリア641件中)
ペコちゃんさん
- ペコちゃんさんTOP
- 旅行記407冊
- クチコミ106件
- Q&A回答1件
- 621,166アクセス
- フォロワー21人
近くの公民館の主催で『万葉集東歌を学習し 武蔵野の歌碑を訪ねる』というテーマのバスツアーがあったので参加しました。
ツアーの行程は、①行田市(さきたま古墳) ⇒ ②坂戸市(土屋神社) ⇒ ③川越市(氷川神社・富士浅間神社) というコースです。
梅雨時なので生憎の天気でしたが、講師の先生の分かりやすい解説で、埼玉県に住んでいながら知らなかった古代からの埼玉の風土や人々の暮らしぶりを知ることが出来ました。
そして、万葉集についても、こういう場所で率直な気持ちを表したと知り、もっと深く万葉集に接してみたいと思いました。
写真は、映画「のぼうの城」のロケで使われた、さきたま古墳群にある丸墓山古墳。
- 旅行の満足度
- 4.5
- 同行者
- 友人
- 一人あたり費用
- 1万円未満
- 交通手段
- 観光バス
PR
-
7時半に公民館を出発し、川越ICから関越を走ります。
高坂SAを過ぎると先生から ” 36度線を通過します ” との案内。 -
東松山・テヘラン・ラスベガス・・・地球上で一番快適に過ごせる緯度だそうです。
これまで何回もここは通っていますが、この看板は知りませんでした。 -
東松山ICで降りて一般道を通り、9時半に行田市の「さきたま古墳公園」に到着。
ここには今から1300年から1500年くらい前に建造された9基の古墳があり、さらに敷地外に浅間塚古墳もあるため、合計10基の古墳を一堂に見ることが出来ます・・・どういう人が葬られているのか分かりませんが、その昔、武蔵の国に大きな勢力を持って支配していた人々なのでしょう。
駐車場から歩いて、最初に「埼玉県立さきたま史跡の博物館」を見学します。 -
雨の中、小学生も社会科見学で訪れています。
-
博物館に向かう途中に「埼玉県名発祥の碑」が設置されています。
昭和62年に建立された碑の題字は、当時の埼玉県知事・畑和(はたやわら)の書。
明治4年に埼玉県(現在の埼玉県の東1/3・県庁は岩槻)と入間県(西2/3・県庁は川越)が設置されましたが、その後の変遷を経て明治9年に現在の埼玉県が誕生しました。
その中で一番広域だったのが埼玉郡で、古来より前玉(さきたま)郡とも表記されていました。
行田の地には巨大古墳群や前玉神社があり、埼玉郡の中心地だったと考えられるので、ここに県名発祥の記念碑を建てた、との説明が書かれています。 -
博物館に入り、右側の国宝展示室で学術員の人から説明を受けながら、さきたま古墳群やその周辺の遺跡から出土した展示物を見ました。
-
当館の一番の見ものは「金錯銘鉄剣(きんさくめいてっけん)」・・・昭和43年に稲荷山古墳から出土した鉄剣は金錯銘鉄剣と称され、他の副葬品とともに国宝に指定されています。
「金錯」とは「金象嵌(きんぞうがん)」の意味で、古墳時代後期の471年に作られ、長さは73.5cm・・・展示室の中央に、腐食防止の窒素ガスを封入したガラスケースに保管・展示されています。(館内は撮影禁止のため、写真はHPより) -
昭和53年に、腐食の進む鉄剣の保護処理のためX線による検査を行ったところ、鉄剣の両面に115文字(表面57文字、裏面58文字)の漢字が金象嵌で書かれていることが判明・・・古墳時代の刀剣に刻まれた銘文としては最長です。
銘文の内容は、 ” ヲワケ(私)の先祖は、代々親衛隊長を務めてきた。私は雄略天皇に仕え、天下を治めるのを補佐した。そこで辛亥(しんがい)の年(西暦471年)7月に、この素晴らしい刀剣を作らせて、私と一族のこれまでの由緒を書き残しておく ” と記されています。
古代から、このような文化や技術があったとは・・・埼玉の歴史に触れて感銘を受けました。
博物館では、ほかにも埴輪やきれいな勾玉や甲冑などを見ることができます。 -
博物館の前には移築民家があります。
-
「旧遠藤家」は、江戸時代末期に建てられた稲作農家の民家を幸手市から移築しました。
屋根に煙出しの高窓が設置されています。 -
昔の家は、今と違い骨組みがしっかりしているので、いつまでも長持ちしそうです。
-
石臼など懐かしい風景です。
-
「旧山崎家」は、行田市内にあった農家住宅・・・明治初期の建築で、二階部分で蚕を飼っていました。
黄色のユリが満開です。 -
移築民家の奥には、瓦塚古墳が見えます。
-
博物館を後にして、古墳群の見学に向かいます。
「石田堤」は、天正18年(1590年)に豊臣秀吉の命を受けた石田三成が、忍城を水攻めした際の堤の一部です。 -
長さ28kmに及ぶ堤を、僅か5日間で築き、利根川や荒川の水を引き入れましたが、結果的には堤が決壊し、光成の水攻めは失敗に終わります。
しかし、北条氏の降伏により、忍城は開城することになりました。
「のぼうの城」の映画のシーンが蘇ります。 -
古墳群は5世紀末から7世紀にかけて造られました。
最初に「丸墓山古墳」に登ります。
高さは19mなのですが、山がない行田市では一番高い山です。 -
丸墓山古墳は6世紀前半の築造で、直径が105mあり円墳では日本最大です。
-
頂上には桜の大木があり、満開の時は見事だそうです。
-
今日は雨ですが、頂上からは忍城の御三階櫓が霞んで見えます。
-
北条方の成田氏が守る忍城を包囲した石田三成は、古墳の頂上に陣を張り、城周辺を水浸しにしたものの、城は落ちる気配がありません。
「殿、如何しますか」「まあ待て。城が落ちるのも時間の問題じゃ」と言ったかどうか。 -
19mの高さとは言え、雨の日の上り下りは大変です。
-
下から見上げると、かなり大きな古墳・・・古代の人は手間をかけて、よくぞここまで土を盛り上げたものですね。
-
次の古墳に向かっていると、花の良い香りがしてきました。
-
タイサンボクの花が見頃を迎えています。
-
次に向かったのは「稲荷山古墳」・・・5世紀後半の築造で、博物館で見た国宝の「金錯銘鉄剣」が出土した全長120mの前方後円墳で、後円部の径は62m。
しかし、前方部は昭和12年に壊されてしまい、2004年に復元されました。(案内板の青の部分) -
前方後円墳の後円の所から登っていきます。
古墳に登れるのは、この稲荷山古墳と、先ほどの丸墓山古墳だけです。 -
後円墳の頂上部分に埋葬施設が復元されています。
-
これが後円部に復元された埋葬施設で、舟形に彫った竪穴に河原石を貼り付け、その上に棺を置きました。
棺や遺体は長年の風化により消えてなくなっていましたが、副葬品は案内板のように残っており、そこから出てきたのが、あの金錯銘鉄剣です。
大量の円筒埴輪や形象埴輪や須恵器と共に、神獣鏡や馬具や武具も出土しており、首長級の武人の墓ではないか、と言われています。 -
埋葬施設を見た後、反対側の階段を下りて前方の部分を歩きます。
-
かつて大型古墳の周りには、写真のような陪臣の小型古墳がありましたが、昭和初期に周囲の沼地の干拓でかなり取り壊されてしまっています。
-
「二子山古墳」は6世紀前半に築造された前方後円墳で、全長138m、後円部径66mという武蔵国最大の前方後円墳です。
因みに、5世紀中ごろ築造された大阪の仁徳天皇陵(日本最大の前方後円墳)は全長約486m。 -
見るからに大きな古墳で圧倒されされます。
昭和43年に復元された水堀は、水位の上がり下がりによって、古墳の縁が崩れてしまうということで、水堀の埋め立てが始まりました。
本格的な発掘調査がされていないため、埋葬施設などの詳細は分っていません。 -
古墳群を見た後は、「浅間塚古墳」の上に建てられた「前玉神社」に行きました。
前玉神社の創建ははっきり分かっていませんが、5~6世紀ではないかと考えられています。
境内入口にある大鳥居は、1676年に建立されたもの。 -
大鳥居の横には、樹齢600年、樹高20mの槙(イヌマキ)の大木があります。
-
前玉神社は女神と男神が祀られていることから、恋愛成就の神社としても知られています。
大鳥居をくぐると、二の鳥居があります。 -
これが、高さ8.7m、周囲92mほどの浅間塚古墳・・・この上に前玉神社が建てられています。
-
「下の宮」の浅間神社は、忍城にあった浅間神社を勧請ししたもの。
江戸時代には富士浅間信仰が盛んになり、多くの参拝者で賑わいました。 -
そのそばに、西行上人の歌碑があります。
『和らぐる 光を花にかざされて 名をあらはせる さきたまの宮』 -
「上の宮」の前玉神社の本殿。
-
本殿に上がる階段の両側に、元禄10年(1697年)に神社の氏子たちが所願成就を祈念して奉納した高さ180mの2つの燈籠(万葉灯籠)があり、この地を詠んだ万葉集の歌が刻まれています・・・江戸時代にも万葉集がたしなまれて、地元に関係した歌を灯籠に刻んだのでしょう。
右側は「埼玉の津」の碑 (巻十四 三三八〇)。
『埼玉の 津にをる船の風をいたみ 綱は絶ゆとも 言(こと)な絶えそね』
(埼玉の船着き場に繋いだ船の綱が強風に負けて綱が切れてしまっても、愛の言葉だけは絶えないでほしい)
この歌は男歌か女歌か分かりませんが、おそらく内容が受け身なので女性の歌だと思います・・・万葉集には恋の歌が多くありますが、古代の人達の愛の表現は素敵ですね。 -
左側は「小埼沼」の碑 (巻九 一七四四)。
『埼玉の 小埼の沼に鴨ぞ翼(はね)きる 己(おの)が尾にふりおける 霜を掃(はら)ふとにあらし』
(埼玉の小埼の沼で、鴨が羽ばたきをして水しぶきを上げている。自分の尾にふり降りた霜を払おうとしていようだ)
万葉集は、日本でもっとも古い歌集で、奈良時代の終わり頃にできたと考えられています。
天皇、貴族から下級官人、防人などさまざまな身分の人間が詠んだ歌を4,500首以上も集めたもので、全部で20巻・・・大伴家持の私撰ともいわれていまが、誰が・何のために・どのようにして編纂したかは、はっきりとしていません。 -
さきたま古墳を見学した後に、昼食の蕎麦屋さんに行きましたが、大型バスなので店の向かいにある「行田八幡神社」の駐車場を借りることになりました。
当神杜は、源頼義・義家が奥州討伐のためこの地に滞陣した時に、戦勝を祈願して勧請されたと伝えられています。 -
ここは「癌封じ」「ぼけ封じ」「難病封じ」のご祈祷で有名な神社ですが、目の病気の治癒を願う「目の神様」も祀られています。
-
何回か火事で損壊しましたが、現在の社殿は平成元年、参集殿は平成12年に建てられました。
-
昼食前に参拝。
-
桃は中国では不老長寿、日本では魔除けの果実とされています。
境内に祀られた「なで桃」を心を込めて撫でて、桃に宿る神力を貰いましょう。 -
当神社の祭神・応神天皇は戌の月の亥の日に生まれ、100歳を超える長寿であったことから、当神社は戌亥八幡とも呼ばれ、こんな像も飾られています。
-
行田八幡神社の参拝も終わり、おそば・天ぷらの「田丸屋」で昼食。
-
そばの量は少なかったのですが、美味しい天ぷらそばでした。
-
昼食後は、道の駅「いちごの里よしみ」に立ち寄り・・・平成17年に出来た施設で、埼玉県で15(いちご)番目に登録された道の駅です。
-
物産館をはじめ、新鮮な地元の野菜などが売られている農産物直売所も賑わっています。
名前のとおり「いちご」に拘った道の駅で、1月~5月頃は、いちごを買い求める客が大勢やって来ます。 -
吉見町から坂戸市の「土屋神社」に行きました。
土屋神社は、古墳時代終末期(7世紀後半)に造られた円墳(浅羽野1号墳)の上にあります。 -
熱心に説明してくれる講師の先生は、何と、83歳!
本殿の真下には古墳の石室があります。 -
神社の神木杉は樹齢千年以上の老木で、幹周りが8.5m、樹高28m。
天上に張り出した枝の多くは葉を付けていないので、枯死したように見えますが、いくつかの枝には青々とした葉がついており、幹の下部は堂々とした威厳があります。 -
土屋神社に隣接する土屋公園内に設置された万葉歌碑。
『くれなゐの 浅葉の野らに刈る草(かや)の 束の間も吾(わ)を忘らすな』(巻十一 二七六三)
(浅羽野に生える草は、すぐに刈り取られてしまうけど、そういう束の間にも私を忘れないで下さい)
「紅(くれなゐ)の」は浅野の枕詞で、「浅葉の野」は、ここの地名「浅羽野」に由来しているとも言われています・・・素朴な男女の心情を表した良い歌ですね。 -
最後は川越に向かい、「氷川神社」を訪れました。
平成2年に建立された高さ15mの大鳥居は、木製のものとしては国内随一の規模です。
笠木の幅は20mで、柱の周囲は3.45mで、扁額は勝海舟の直筆によるものです。 -
氷川神社は、欽明天皇の541年に入間川で夜な夜な光るものがあり、これを氷川神の霊光だと捉え、当地に氷川神社を勧請したと伝えられており、歴代の川越藩主の崇敬を受け、社殿造営が行われました。
本殿は、1849年(寛永2年)に松平斉典の寄進により完成しました。 -
川越氷川神社には普通のおみくじもありますが、やっぱりコレでしょう。
赤い鯛がいっぱい泳いでいる右側のおみくじは「一年安鯛みくじ」・・・おみくじはひくのではなく、釣竿を使って、鯛を釣るのです・・・めでたいですね。
左側のピンク色の鯛は「あい鯛みくじ」・・・良縁を望む人のための良縁祈願・・・尾っぽには、恋みくじが入っています。
釣ったおみくじは、神社内に結びつけず持って帰ります・・・手元に置いて、良縁となりますように・・・ -
大鳥居から一番奥にあるのが「柿本人麻呂神社」・・・万葉の歌人・柿本人麻呂を祭神とする社です。
人麻呂の子孫といわれる綾部家の先祖が、戦国時代に川越に移住した際、氷川神社へ祀ったと伝わります。(因みに、十代目・綾部 利右衛門は、初代川越市長) -
柿本人麻呂(660年頃~720年頃)は万葉集第一の歌人で歌聖と言われ、万葉集に100ほどの歌を残しています。
歌道上達、学業成就のみならず、人麻呂を「人丸」と表記することから、火止マル(ひとまる)で火防、人産マル(ひとうまる)で安産の神様としても古くから信仰を集めています。 -
神社の右側にある、山上憶良の「令反惑情(まどえるこころを かえさしむる)長歌碑」・・・ 明治16年に建立された碑で、高さ1.7m、幅1m。
石碑の文字は、残念がらほとんど読み取れませんでした。 -
社殿の前にある狛犬は、享保三年(1718)に建立されたもの。
頭上に窪みがあり、灯を灯すためのものではないかと思われます。 -
最後の見学は、国道16号線のそばにある「浅間神社」・・・平安時代の武将・源頼義が奥州征伐の途中に分霊をしたことが始まりです。
神社の本殿は関東大震災で倒壊しましたが、すぐに再建されました。
行田の前玉神社と同様、この神社も浅間神社古墳の上に鎮座しています・・・古墳の高さは約5m、周囲が42mで、6世紀中頃の古墳です。
別名「母塚」と呼ばれ、ここより300m程歩いた場所には父塚(愛宕神社古墳)があります。
川越には小仙波古墳群があり、全部で6基ある中の1つがここ・・・川越にも古墳があるとは驚きです。 -
境内に「占肩の鹿見塚(うらかたのししみづか)」の石碑があります。
占肩の鹿見塚は、大正3年に東武東上線の開通工事の際に壊されたので、ここに碑を建てました。
万葉集(巻十四 三三七四)東歌に、
『武蔵野に 占(うら)へ肩灼き(かたやき) 真実(まさて)にも 告(の)らぬ君が名 占(うら)に出にけり』
” 武蔵野で、鹿の肩骨を焼いて占いをしたら、誰にも言ったことがないあたな(男性)の名前が、占いに出てしまいました(隠していたのに人に知られてしまった) ” という女性の歌があります。
古代には、鹿の肩骨を焼き、そのヒビ割れの形によって吉凶を占った習慣があったそうで、武蔵野に住む古代人は、鹿見塚(物見台)から鹿を見つけて狩りをしていました。
この歌を詠んだ女性は、この場所でどんな思いだったのでしょうか? -
墳頂の社殿裏には、浅間神社らしく富士塚があります。
溶岩を積み上げた本殿の両端には、神の使いであるお猿が本殿を守っています。 -
当神社の冨士詣は、千七百年代に盛んになって現在まで続いている富士山信仰・・・遠く駿河までお参りに行けない人々がこの神社に足を運び、神社裏手にある冨士の噴火口を模したこの穴にお賽銭を投じて、安産や開運を祈願します。
-
今回のバスハイクは仲間と3名で参加しました。(全体の参加者は35名)
埼玉の歴史と埼玉にゆかりのある万葉集に触れ、充実した一日となりました。
利用規約に違反している投稿は、報告する事ができます。
コメントを投稿する前に
十分に確認の上、ご投稿ください。 コメントの内容は攻撃的ではなく、相手の気持ちに寄り添ったものになっていますか?
サイト共通ガイドライン(利用上のお願い)報道機関・マスメディアの方へ 画像提供などに関するお問い合わせは、専用のお問い合わせフォームからお願いいたします。
旅の計画・記録
マイルに交換できるフォートラベルポイントが貯まる
フォートラベルポイントって?
0
68