2015/05/13 - 2015/05/13
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ごろごろ56さん
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「お城」と聞けば、多くの方は、江戸時代の大名様の居城をイメージされることと思います。ですが実際のところ、城跡とされるのは、日本全国におおよそ二万五千存在するのだとか。その多くは、隣接する敵勢力との境界線近くに築かれた砦であり、要塞であったのではないでしょうか。
ここ葦北郡は、戦国時代期においては、海への出口として確保しておきたい、球磨地方の豪族・相良氏と、版図拡大のため北進をもくろむ薩摩・島津氏との間で、激しい争奪戦が繰り広げられた土地です。ここ佐敷城も、いくたびも支配者が移り変わった・・・・
と思っていたのですが。
現在の佐敷城跡とされる場所は、戦国時代末期、加藤清正によって築かれたものであるとのこと。城として存続したのは、わずか30年足らずであったにもかかわらず、二度も戦いの舞台となったとのこと。
まさしく、戦国時代における「要塞」。守る側、攻める側それぞれの武将となった気分で、いざ!登城。
- 旅行の満足度
- 4.0
- 観光
- 4.0
- 同行者
- 一人旅
- 一人あたり費用
- 1万円未満
- 交通手段
- 徒歩
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-
肥薩おれんじ鉄道・佐敷駅から望む、佐敷城跡です。
標高90m足らずの山に築かれた山城の跡ですが、今ではすっかり芦北町の“ランドマーク”でしょうか。
夜間にはライトアップもされているとか。(残念ながら、わが家からは佐敷城跡が見えません・・・) -
こちらは、佐敷太郎峠から下ってくる、旧薩摩街道の坂道から望む、佐敷城跡です。
葦北郡は、豊臣秀吉から加藤清正に与えられた領地の一部なのですが、主城・熊本城からは、小西行長の領地をはさんだ“飛び地”だったとのこと。
一朝有事の際は、孤立無援の戦いを強いられる・・・という覚悟をもって、築かれたことでしょう。 -
もう少し標高が高い地点から見下ろした、城跡です。
加藤清正が“仮想敵”と想定したのは、もちろん薩摩の島津氏。
画面奥の山々を越えて、薩摩の軍勢が押し寄せる様が思い描かれていたことでしょう。
(島津びいきの方、悪役扱いでスミマセン・・・)) -
こちらが佐敷城跡を一躍有名にさせた(?)、発掘調査により出土した「天下泰平國土安穏」瓦の拡大モニュメント。
芦北町社会教育センターの敷地内にありますので、一見あれ。
江戸時代の「一国一城令」により、佐敷城も破壊(城割)されたとのことですが、当時の人々も、戦国時代の終わりと太平の世が続くことを祈っていたのでしょうか。 -
モニュメントの横にある、武徳殿(旧武道館)も目に留めておきましょう。
その手前の二基の石塔は、佐敷城の城代を勤めた加藤重次氏に関連するもの、とのこと。 -
社会教育センターの駐車場から見上げる、佐敷城跡。
決して高い山ではありませんが、なかなか急峻な崖を見せております。 -
登城の前に・・。
社会教育センターの定番・郷土資料コーナーで、“情報収集”。
加藤清正が、今の「佐敷城跡」とされる城を築く以前は、芦北高校裏手の山に城があったとされるそうです。
イヤ、でもそれ以前から、当然なんらかの城砦はあったのでは・・・と思うのですが・・・・。
そして、現在の佐敷駅付近まで海が広がっていたとのこと。
今でこそ、肥薩おれんじ鉄道も国道3号線も、佐敷から湯浦まで平坦地の中を進んでおりますが、当時の薩摩街道は、わざわざ峠を越えて行かなければなりませんでした。
こんな当時の地理情報を、しっかりイメージしてみましょう。 -
そしてそして。
戦いのありようを大きく変えたのは、やっぱり火縄銃。
悪天候では使えない・・、高価な武器である・・・という制約は多かったにせよ、築城法にも大きな影響を及ぼしたのは間違いありません。
あくまで私の推論ですが、
火縄銃に対する「弾避け」として、最も有効なアイテムは「土」であったのでは。下手に石垣の石に弾が当たれば、跳ね返って飛び回って、タイヘン〜〜!!。城内随所に土俵が積まれていたのではないでしょうか。
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さて、ようやく出陣!。
社会教育センターの裏手から登り口があります。
もちろん(というべきか)、本丸近くまで車で登れてしまう車道もありますが、私としては、オススメは「歩いて登る」。 -
実は、私がまだ二十代であった20年ほど前には、現在のように大々的に整備されておらず、石垣も復元されておりませんでした。それ以降に行われた発掘調査によって、大きく史跡としての価値が上昇したものであるようです。
この案内看板は、そうだ・・・20年ほど前にも見た記憶があるぞ・・・。
この案内文を読む限り、豊臣秀吉の島津征伐の際、落とされた・・・と解釈できるのですが、加藤清正によって築かれた城とすると、年代的に合わない・・・となってしまいます。
とはいえ、加藤清正によって築かれる以前に、この山に城郭があった・・・と考えるのが自然だと思うのですが、皆様の推理は如何に?。
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標高100mにも満たない小山にしては、ずいぶんと急な傾斜!。
これはぜったい!、人為的に削られた痕跡である、と思うと、ワクワクしませんか?。
上から飛んでくる、落ちてくるのは、鉄砲玉?、矢?、石?。・・・・それとも・・・糞尿?。現在のテレビドラマや映画では再現できない、生々しい戦闘シーンを妄想してみましょう。 -
見えて来たぞ!、石垣。
これも当然のことながら、戦国時代当時、こんな樹木が生い茂っているはずもなく、裸の斜面にいろいろな障害物が設けられていたことと思います。
あっ、石垣について、最近思ったこと。
九州南部地方は、関東地方と比べて、梅雨時期の雨の降りようが、やはり格段に激しいように思います。実際、先日の大雨により、この佐敷城跡においても、斜面の崩壊があったようです。
自然の地形を崩して、急な斜面(壁面)を造っても、大雨が降れば、たちまち崩壊してしまう・・・。石垣を積めば、雨対策になる・・・・。 -
城内への侵入口を求めて!。
攻防の要は、やはり城門でしょうか。城門前へ、匍匐前進で移動・・(妄想)。 -
こちらが、大手門(追手門)跡。
どんな防御のための構造物が設けられていたのでしょうか。
石段はかなり段差があり、昇り降りしづらいのですが、これも、つまづきやすいよう意図的に組まれたのでしょうか・・。 -
この大手門跡から、「天下泰平國土安穏」の文字が焼かれた瓦が出土したとのこと。城割(破却)の際、埋められたものと推察されております。
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たいへん惜しむらくは。
この大手門に通じる登城道は、まったく復元されていないのは残念な限りです。そりゃあ、何百年間も経過すれば、舗装もされてない道は跡形もなくなってしまうのでしょうが、平時においては物資の搬入路、有事の際は攻防の要であったのでしょうから・・・。 -
一応、「本丸跡」「二の丸跡」「三の丸跡」と区分けされておりますが。
江戸時代の大名家の居城であり、藩政の中心であるお城のイメージからすると、
“とても狭い”です。 -
その広さを、少しでもイメージしやすいよう、自分の影を入れて、写真を撮ってみます。
この城の守り手として、武器・食料・水を備蓄した上で立て籠もるとして、兵士の数は、せいぜい数十人でしょうか。
その人数でもって、押し寄せる敵を寄せ付けない・・・とすると、かなりハードじゃわい・・・。 -
攻め手は、佐敷川周辺の平地に布陣。
夜になると、煌々とかがり火が焚かれ・・・という情景を見下ろすことになったのでしょうか・・・。
実際、関が原の戦いの際、東軍に属したこの城は、西軍に組した島津の軍勢によって包囲されたのだとか。 -
こちらが、搦手(からめて)門跡。
こちら側は、当時は海に面していたとのことですから、ここを下ると船着場があったのかどうか・・・。 -
こちらは、駐車場に設けられた“豪華”トイレ。
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そのトイレに、“平成の発掘調査”による成果が説明されておりますので、ぜひご一読を。
まだまだ「歴史」には解っていないことが多く、これから改めて“解ってくる”ことも多いのだろうな・・・・ということを、実感できます。 -
以前は、単なる「城山」でしたが、今では「国指定史跡 佐敷城跡」。
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