2014/12/19 - 2014/12/19
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名古屋のmisakoさん
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平洲記念館、在原業平ゆかりの寺曹洞宗宝珠寺、知多四国八十六番札所観音寺、大府市の知多四国五番札所地蔵寺に出かけてきました。
平洲記念館 P無料 入館料無料 月曜日休
愛知県東海市の偉人
細井平洲は、享保13年1728年6月28日に尾張国知多郡平島村(愛知県東海市)で生まれました。8歳になると隣村の加家(かけ)の観音寺の寺子屋に通い(母の叔父が住職だったようです)、そこの義観和尚(ぎかんおしょう)に学びました。その後、名古屋、京都へ出て学問にはげみ、やがて17歳で、名古屋の中西淡淵先生の塾に入りました。こうして学問によって身を立てていこうとした平洲は、18歳でさらに、遠く長崎に行き、中国(当時は清国)の人について中国語を学びました。24歳の時、江戸へ出て「嚶鳴館」(おうめいかん)という名の塾を開き、諸国から入門した多くの人を教えました。学者として有名になり、西条、人吉、紀伊、郡山など各藩の学問の先生として迎えられました。なかでも有名なのは明和元年(1764年)37歳の時に、米沢藩主上杉鷹山公(うえすぎようざん)の先生となり、生涯を通して師弟のつながりをもったことです。安永9年(1780年)53歳で、尾張藩主徳川宗睦公(とくがわむねちか)迎えられ、藩校明倫堂創設にあたって督学(学長)となり、尾張の学術を振興しました。平洲先生の学問の特色は、人々の暮らしを豊かにし、国の力を養うのに有益であれば、学派にとらわれずに諸説を吸収し、実践をもっとも大事にしたことです。儒学の流れでは、折衷学派とよばれていますが、現実に即した実学ないしは活学派というべきでしょう。74歳で亡くなられ、墓は東京浅草の天嶽院(てんがくいん)にあります。
平洲の名はペンネームで、生まれ故郷平島村の読み替え、平島=平洲(ひらしま=へいしゅう)〜館内資料説明書より
明倫堂は愛知県立明和高校の前身となった学校です。
- 旅行の満足度
- 4.5
- 観光
- 4.5
- 交通
- 4.5
- 同行者
- カップル・夫婦
- 一人あたり費用
- 1万円未満
- 交通手段
- 自家用車
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平洲記念館につきました
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東海市の偉人、江戸時代の教育者細井平洲先生です
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地元のうどん屋さんからの寄付されたうす
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館内撮影OKでした
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こちらは博物館となって、縄文土器から昭和のころまでの道具が展示されています。
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平洲先生は絵もお上手ですね
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平洲記念館の隣の神明社
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へいしゅうくん
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在原業平と女官あやめの悲恋伝説の残る曹洞宗宝珠寺、近くに業平塚、五輪塔などありますが、立ち寄りませんでしたので、次回はぜひ立ち寄りたいと思います
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観音寺駐車場からの景色
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知多四国86番札所大悲山観音寺1266年創建、真言宗智山派、本尊聖観世音菩薩
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大府市の知多四国五番札所地蔵寺、天正5年、地頭市村伝四郎の勧請により建立
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大きな目の弘法大師様です
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お隣の長草天神社の地酒造酒所、どぶろく祭があるそうです
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境内で子供たちが遊んでいました
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平洲記念館で販売されていたクリアしおり100円、ストラップ300円、服部克久先生審査員の平洲賞童謡・子守歌CD510円うたはNHK歌のお姉さん茂森あゆみ、岩崎宏美さん
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