ギャンツェ旅行記(ブログ) 一覧に戻る
1998年8月26日早朝。今日からは、1泊2日の予定で一旦ラサを離れ、ギャンツェへと向う。ホテルの食堂で軽い朝食をとった後、部屋に戻って荷物をまとめると、フロントでチャックアウトの手続きをした。明日の夕方には、またラサに帰ってきて同じホテルに泊まるのだが、部屋をそのままにして行くと余計なホテル代を食ってしまうので、面倒だったが仕方がない。まあ、チベットに持ってきた荷物もそう多くないし、土産物を沢山買ったわけでもない。こちらはバッグ1つの身。いたって身軽だ。<br />ロビーに出ていくと、例のガイド兼監視役とギャミ(中国人)のドライバーが待っていた。この2人が290kmの道のりをランドクルーザーをぶっ飛ばして私をギャンツェに連れて行ってくれる。ドライバーはチベットに到着した時の陽気なチベット人のニマさんに比べると陰気で、始終なんだか不機嫌そうな顔をしている。しきりに唾や痰を吐いていた。<br />今日のラサの天候は小雨。3人を乗せたランドクルーザーはホテルを出発し、北京西路を少し走るとすぐに西蔵人民大会堂のところを左折、民族路に入る。早朝の薄明かりのなか、右側には拉薩飯店(以前のラサ・ホリディイン)やノルブリンカが並んでいた。突き当りを右折し、今度は金珠西路を東へ進む。この道路は3日前、ゴンカル空港からラサへ来た道で、トゥールン・デチェンの手前でヤンパーチャンから先、青海省のゴルムドへ向う道路(青蔵公路)と分岐すると中尼公路(FRIENDSHIP HIGHWAY)と名前を変える。ここをひたすらますっぐ進むとシガツェから先、ラツェ、ティンリー(チョモランマベースキャンプへ向う分岐点)、ニェラム、国境の町ダムを経てネパールに入り、カトマンドゥへと道は通じている。ラサ〜ダム間はバスならおよそ2泊3日の行程。途中、いくつものチェックポストと5000mを越える峠がある。平均標高4000〜4500m。<br />遠く、霧に霞むデプン僧院を眺めながらしばらく進むと、ラサにくる途中に立ち寄ったネタンの大仏があり、その先に一本の釣橋がかかっていた。橋は水量を増したヤルツァンポ河の支流キチュに飲み込まれており、渡ることは出来ないが、もし、これをわたって6時間ほど山道を歩いて登っていくと有名なニンマ派の尼僧院、シュクセ・アニ・ゴンパがある。ここはかつてチベットで最も知られた女性行者、マチク・ラプドゥンが修行場を開いたところであり、代々その転生化身とされるシュクセ・ジェツン・リンポチェが僧院長を務めている。14世紀前半にこの地を訪れたニンマ派最高の学者ロンチェン・ラプチャンパ(1303〜1363)は、チベット密教の開祖パドマサンババ(グル・リンポチェ)が埋蔵したニンマ派の中心教義「ゾクチェン」(大究竟)の「ニンティク」を発掘し、その考え方を「七(宝)蔵」と称する作品群に分けて集成した。、それが今のニンマ派の基礎になっている。1959年には700人の尼僧がいたとされるが、今では250人ほどの尼僧が、マチク・ラプドゥンが始めた「チュ―(断つ)」と呼ばれる、自分の精神と身体を切り離し、身体を鬼魔に布施する修行を行なっている。また、この尼僧院の尼僧も他の例に漏れず、近年チベットで頻発しているデモに参加している。なかでもリンジン・チョーデンの場合、1989年3月8日のデモに参加し逮捕されたが、1週間も経たないうちに釈放された。ところが、彼女がシュクセ・アニ・ゴンパに戻ってきた時は危篤状態で、腎臓は拷問で損傷を受けており、1990年、25歳の若さで死亡した。チベットでの政治犯に対する拷問の巧妙な手口として、体内に傷害を与え拷問の痕跡を見えなくさせるというのがある。体外の損傷をできるだけ少なくし反対に体内の損傷を最大限に高めるよう、拷問者たちが意図的に集中して暴行を与え、損傷がひどく、死に至るとみなされる政治犯は突然、訳もなく釈放されるケースが多い。尼僧に対してはさらに性的暴行も行なわれている。<br />チュシュ(曲水)に至る道路はあちこちで潅水していた。しかし、まだこのあたりは道路はアスファルト舗装されており、ましな方である。この先、とんでもない道を突き進むとはこの時、予想すらしていなかった。シガツェまでは舗装されているはずなのだが・・・<br />前日より、もしかしたら通れないと言われていた、カンパ・ラを越えてヤムドゥク湖畔を通る道に向うため、軍人が監視しているチュシュ(曲水)大橋を渡ると、峠から下ってきたトラックに出会った。ガイドとドライバーが車から降りて、トラックの運転手と何やら相談していたのだが、顔つきはいまいちだ。どうやら行けそうにないらしい。車に戻ってきたガイドはいかにも残念そうに、<br />「ナンカルツェまでは行けるのですが、その先のカロ・ラで道路が完全に崩壊していて、車は全く通ることが出来ません。ギャンツェにはシガツェを回って行くしかありません」<br />と力なく言った。<br />私としても、「トルコ石の湖」という名を持つチベット4大聖湖の一つ、ヤムドゥク湖が見られないのは残念なのだが、彼らにしても、当初のルートを通れば近道なのだが、シガツェ経由のルートはラサからシガツェまでが280km、さらにギャンツェはそこから100km近くかかり、かなりの大回りになるため、服務時間の延長(つまり残業)とガソリンの消費を考えれば出来れば避けたかったに違いない。だが道が無いのだから仕方がない。再びチュシュ(曲水)大橋をひき返し、右折して、ヤルツァンポ河沿いの道路を進んだ。<br />ゴンカル空港の近くでは河川敷が4kmほど広がっていて、ゆったりと流れている大河ヤルツァンポだが、山岳地帯に入っていくにしたがって川幅は次第に狭くなり、流れも轟々たる濁流になっていった。道路は一応舗装されているのだが、崖崩れの土砂が道路を覆っているため、アスファルトは意味をなさない。ランドクルーザーは唸りをあげて土砂の上に出来た轍を突き進んでいく。右手を見れば雲に隠れてはいるがはっきりと雪を頂いた高峰が聳え立っている。V字型に鋭く切り立った谷間に沿って道路は造られているのだが、大きな落石により半分えぐられているところがあったり、谷の上から流れ落ちる水で川が出来ていて分断されていたりしていた。激流が道路を削り取っていて、ほとんど車一台が通れるのがやっとである。崩れているところには墜落防止のフェンスなど無く、ただ赤い色を塗った石を点々と置いて注意を促しているだけである。一歩間違えれば谷底に落ちてしまう。日本であればすぐにでも通行止めになるであろう道路は、ここチベットでは当たり前のことなのか、危うげな応急処置を施した道を何台もの車やバス、大きな荷物を背負ったトラックが平然と行き交っている。しかし、対向車とのすれ違いは大変だ。人っ子一人いない山岳地帯の中、あちこちで渋滞が出来ていた。時間は刻々とすぎていく。<br />ラサから3時間半ほど経過したところであろうか、かなりの渋滞が出来ていて、車が数珠つながりになってストップしていた。何事かと身を乗り出してみてみると、なんと橋が落ちていた。傍らにはかなり流れの速い小川が流れている。ゴツゴツした石が転がっているその川を渡ろうとしているバスがあるのだが、深みにはまったのか立ち往生している。動く気配はまるで無い。エンジンの音だけが孤独に谷間にこだましている。川の向こうも大渋滞だ。30分ほどたって、ようやくロープで引っ張られてバスはなんとか渡りきったのだが、今度はこちらの車が渡らなければならない。ドライバーは慎重にハンドルを操作する。車に当たる水流と瓦礫石との激闘を続けること数分。車はようやく川を渡りきった。ドライバーはガッツポーズし、ガイドはしきりに彼の功績を称えていた。<br />ようやく少し開けたところにさしかかると、ここで少し休憩しようということになった。数軒の店が並んでいて、民家も何軒かある。ガイドはさっそくトイレットペーパーを抱えて川沿いに建てられたオンボロ公衆トイレに走りこんだ。そこがどんなトイレなのか興味はあるものの、こちらもかなり疲れている。後部座席に座っていただけだったのだが、恐るべき道路との格闘に継ぐ格闘の連続で身体が少しふらついていたのだ。<br />車から降りて車体に寄りかかってタバコを吸っていると垢にまみれた服を着たチベット人の兄妹が近寄ってきた。カメラを近づけるといささか緊張した面持ちでポーズする。面白がって相手してやると、兄ちゃんは妹の頭を後ろにそらせた。妹はというとニーッという風に顔をしかめてさらにポーズして見せる。そのお礼代わりに日本から持ってきたカロリーメイトをやると、2人して不思議そうにそれを眺めていたが、見本を示そうと思って私が少し食べてみると、2人は最初は恐る恐る、しかしそれがけっこう美味しかったのだろうか、そのうち貪り食った。普段、あのパサパサのツァンパでなれているはずなのに、口一杯放り込んだカロリーメイトに妹の方は咽を詰まらせてむせっていたのが可笑しかった。<br />ガイドが戻ってくると車は再び走り始めた。最大の難所は通り過ぎたものの、ギャンツェへの過酷な道のりはこれだけでは終わらなかった。とりあえず、当面の目的地、シガツェへと車は進む。<br /><br />タドゥカというところにさしかかると、車ごと河を渡るフェリー乗り場があって、河向うには、ヌマガン、タクツェを経てヤンパーチェンに行く道路が見えた。これまで通ってきた道路が出来るまでは、ラサからシガツェにいくにはこの道を通っていたらしい。フェリー乗り場の手前、川沿いに新しく再建された僧院の金色の屋根が光っていた。おそらくユンドゥンリン僧院だろう。1834年に建てられたポン教の僧院で、1950年の中国侵攻前にはチベット各地から700人近いポン教僧侶が集まっていたそうだが、今は閑散としている。中国侵攻時と文革の2度にわたって破壊されたが最近になってようやく再建された。どうりで建物は新しい。だが、今は、周囲にポン教徒はほとんど存在しない。<br />チベットと言えばチベット仏教が有名だが、チベットには仏教が伝えられる以前から信仰されていた民間信仰の集大成があった。それがポン教である。開祖はシェンラプ・ミボ。しかし、いまのポン教の姿は、10世紀前後の混乱期にチベット仏教ニンマ派の教義と習合してできたもので、デプン僧院近くにあったネーチュン僧院の神降ろしのようなシャーマン的要素はない。ポン教徒は15世紀になるとほとんど仏教に近い僧団を結成するようになり、その中心になったのはシェーラプ・ギェルツェンがユンドゥンリンから北へ25km行ったところ、トゥプギェルに1405年に創建したメンリ僧院である。ポン教徒はチベット本土では数少なくなったが、ネパールのドルポにはまだ多くの信者がいる。<br />険しい山岳地帯を抜けると、車はやや広い平原地帯にでた。ここに来ると、ヤルツァンポの川幅は再び広がり、悠々と流れている。ラサを出たときには小雨が降っていたが、ここでは少し晴れまも見える。広々とした平原の真中にポツンと小さな小山があり、日光に照らされて輝いていた。遠くにはニェンチェンタンラにつながる山脈が見える。<br />ふと、河を見ると車が頭から突っ込む形で河に転落していた。それを見たガイドはまたしても「アイヤー!!!」と叫ぶ。ドライバーは見なれているのだろう、平然としていた。<br />シガツェまでは、あと、およそ80km。ヤルツァンポ南岸の道路は、先ほどまでの山岳道路とは打って変わって、直線道路が多くなり、アスファルトの舗装もしっかり見えている。3人を乗せたランドクルーザーは時速100km近い速度でぶっ飛ばす。途中、何度か橋が落ちていて、そのたびに川原の轍を走ったり、道無き道を突き進んだりしたのだが、もう、その程度のことでは動じなくなっていた。恐るべき山岳道路に比べるとここの道路はまるでハイウェーだ。<br />地図を見ると、シガツェ空港なるものが示されているのだが、その姿は見えない。民間の飛行機は利用されていない、純粋な軍用空港だ。チベット各地を旅すると、僧院の多さにも驚かされるが、ゴンカル空港にも戦闘機の姿があったように、軍事施設の多さにもビックリする。その理由はたぶん2つあって、1つは国境地帯の国防の要と言う点。南の隣国ネパールとの間には友好関係が築かれているが、インドとの間ではまだ国境問題のケリがついていない。世界地図を見てみると、チベット自治区とインドが接する2ヶ所の国境線が今でも破線で描かれている。国境がまだ確定していないのだ。ブータンの東側、マクマホンライン(インドのアルナーチャル・プラデーシュ州)と西チベットの北に広がるアクサイチン高原。中国・インド双方が領有権を主張している。そしてもう1つの理由はチベットの独立運動をいつでも武力鎮圧する目的。それを象徴するようにラサを取り囲むようにして人民解放軍の基地が点在している。<br />ハイウェーを1時間ほど走ると、丘の上に城塞が築かれている街が見えて来た。シガツェだ。中央チベットは大きく分けて「ウ」地方と「ツァン」地方に分けられる。「ウ」の中心がラサであるのに対して、「ツァン」の中心がシガツェである。今でもチベット第2の都市である。ただ、ラサの発展に比べるとシガツェはまだ田舎町に見えるが・・・<br />8世紀後半のティソン・デツェン王の時代に唐の都、長安を一時占領するほどの軍事力を誇って全盛期を迎え、インドのナーランダー大僧院の長老で、インド仏教史上の最高の哲学者とみなされているシャーンタラクシタやウッディヤーナのタントリストであるパドマサンババを招いてチベット最初の僧院、サムウェー僧院を建立するなど仏教文化も華やいだ古代チベット王国(吐蕃)であるが、9世紀前半に最後の王、ダルマ・ウイドゥムテン(ランダルマ)が宰相バー・ギェルトレ・タクニャに暗殺されると王朝は崩壊し、権力は地方に分散される。そして次第に中央チベットの覇権は「ウ」と「ツァン」の間で交互に受け継がれるようになった。1642年にダライラマ政権(ガンデン・ポタン政庁)が成立しても、パンチェンラマをトップとする「ツァン」地方はたびたびラサと対立し、その対立関係は19世紀から20世紀にかけてチベット支配を狙ったイギリスと中国に利用された。1959年のチベット民族蜂起が弾圧され、ダライラマがインドへ逃れた後、パンチェンラマはお飾り的な存在で全国人民代表大会常務副委員長に祭り上げられ、ダライラマに代わる傀儡としてチベット人心安定に利用されるが、パンチェンラマ10世は1989年に亡くなる。その後に引き起こって、今もなお係争中の問題がパンチェンラマ問題であるが、それについてはまた別のところで述べることにする。パンチェンラマが僧院長を務めていたのが、ここシガツェのタシルンポ僧院である。<br />シガツェには着いたものの、ここで立ち寄っている暇はない。一刻も早くギャンツェに行かなくてはならないのだ。新市街の人民銀行のある交差点で左折すると、一路ギャンツェに向う未舗装の道をひた走る。<br />シガツェからギャンツェに向って20kmほど行ったところに、シャル寺という小規模な寺がある。規模は小さいがサキャ派の名刹である。1087年にジェツウンディンジャオジュンネによって創建された。14世紀に招請され管長となったブトン・リンチェンドゥブ(1290〜1364)は顕教と密教の両立を求め、生涯を厳しい戒律を守る出家者として送る。また彼は密教を4種類のタントラに分類した。それは今のチベット密教にも受け継がれている。この寺を中心にチベット仏教の新しい展開をはかったため、彼の考え方を継承する人々をシャル派と呼ぶことがある。また、「シャル版」と呼ばれるチベット大蔵経を編集し後世に大きな影響を与えている。チベット仏教を学ぶ上では避けて通れない重要な寺なのだが残念ながら立ち寄っていく時間的余裕は無い。<br />シガツェからギャンツェへ向う道はヤルツァンポの支流、ニャンチュ河にそって走っている。しかし、未舗装のうえ、至るところで水に浸かっており、その度に道路から離れて荒野を走ったり、水の中を進んだりしなければならなかった。あたりを見渡してみると、チベット一の穀倉地帯であるにもかかわらず、畑は水浸しだった。1998年、長江(揚子江)を襲った大氾濫の影響がチベットにも及んでいることがわかる。途中、ペナム(白朗)という集落があるのだが、そこは1998年当時も水害の被害は大きかったのだが、2000年9月1日付の西藏日報の報道を見ると、2000年にもニャンチュ河が警戒水位を超え、ものすごい勢いで溢れ出したようだ。水量は毎秒650立方メートルに達し、地勢の低い河畔のペナム県では上流から流れ込んできた激流に、120メートル以上に渡って堤が決壊、645戸514人が被災した。被災地区の大部分の家屋は倒壊し、約355ヘクタールにわたって農作物が冠水、深刻な経済損失を被ったとされる。<br />周囲は5000m級の山々が連なっているのだが、それほど高く感じない。シガツェの標高が3836m。この辺りではすでに4000mを超えている。ここに来るまでにラサで十分高度順化していたのでそれほどの息苦しさは感じられなかった。この山から数キロ奥には小さな僧院が点々として存在する。<br />時刻はもう夕方の4時になろうとしていた。朝の8時にラサを出発した我々は8時間以上も車を飛ばしていることになる。この車で8時間という数字は日本ではどれくらいの距離にあたるだろうかと調べてみると、大阪〜熊本間が約8時間である。大阪から熊本まで行くといえばかなりの遠出に感じるが、チベットは広大である。8時間など、隣近所に行くような感覚だろう。しかし、正直言ってかなり疲れた。<br />山と山とに挟まれたニャンチュ河流域の穀倉地帯の遥か彼方に少し小高い丘があり、その上に城塞らしきものが目にとまった。ギャンツェ・ゾンである。かつて栄華を誇り、1904年にチベットに侵入したフランシス・ヤングハズバンド率いるイギリスの軍事使節団とチベット軍が攻防戦を繰り広げた舞台である。ようやくギャンツェに着いた。<br /><br />ラサからランドクルーザーをぶっ飛ばして8時間。ようやくギャンツェに辿りついた我々3人はひとまずホテルで休憩しよということになって、チェックインすることにした。泊ったホテルはギャンツェの南端に位置する高級ホテル、ギャンツェ(江孜)飯店だ。ホテルは他にも江孜服装招待所や江孜県政府賓館といった安宿もあるのだが、中国の大手旅行会社を通じて正規のチベット旅行を手配した場合、一人旅でも一応ツアーの形を取らされるので、外国人向けのギャンツェ(江孜)飯店に宿泊させられる。エントランスを入るとトップライトのある明るいロビーが広がっていて、高級感が漂っていた。しかし、どういうわけか我々のほかには宿泊者の姿が見えない。建物は綺麗だが、人気の無いがらんとしたホテルの中をうろうろすると、気分はなんだか廃墟になった幽霊ホテルに泊るような気がしてならない。通された部屋は3階にある。ボーイに案内されて階段を上がろうとすると足が異常に重たかった。一歩一歩足を踏み出そうとするのだが思うように上がらない。息遣いもいつしか荒くなってきた。標高3660mのラサで3日間高度順化したものの、ギャンツェは町自体が4040mある。富士山頂よりも264m高い。例えて言えば富士山頂に新宿の東京都庁舎を建てて、その屋上にいるとでも言えばいいだろうか・・・<br />ゼーゼー言いながら部屋に着くとベッドにゴロンと横になった。窓からはギャンツェ近郊の山並が広がっているのが見える。おそらく5000m級の山々であろうが、チベットで5000mの山など小山に過ぎない。名前などはもちろんついていない(聖山を除く)。部屋に入ってまず確認しなければならないのは、トイレの水がちゃんと流れるかだ。ラサのホテルのトイレはチョロチョロとしか流れなかったので、「大」をした後は風呂の水を溜めてトイレにザバッと流し込んで処理をした。ラサでさえそうである。ましてやギャンツェでは・・・と思っていたところ、予想外にいきよいよく流れた。なんだか嬉しくなって、驚きと喜びとでしばしトイレでくつろいだものである。<br />4時半にガイドと待ち合わせをして、この日のハイライト、パンコル・チューデ(白居寺)にお参りをする。パンコル・チューデは1418年ラプテン・クンサン・パクパによって創建された特定の宗派に属さない僧院で、各派共同の総合仏教センターとして発展してきたが、現在はゲルク派とサキャ派が中心なって共同管理している。ホテルから市街(といっても1kmほどのメインストリートの両側に商店などが並んでいるだけだが・・・)を通り抜け、突き当たったところに正門がある。正門前では一人の少女が赤ん坊を抱いて、巡礼者からの喜捨を求めていた。正門を入って事務所のようなところで大集会堂とチベット最大の仏塔パンコル・チョルテン(ギャンツェ・クンブム)の見学と、あわせて40元の入場料を払うと、まずは大集会堂へ向う。<br />入り口にはチベットの僧院に共通している六道(地獄道、餓鬼道、畜生道、修羅道、人間道、天道)輪廻の曼荼羅が描かれている。堂内に入るとバターランプ独特の臭いの充満する空間で20人くらいの僧侶達が読経をしている最中だった。がらんとしている堂内に地響きのような読経の声が木霊している。奥に行くと本尊の三世仏(過去、現在、未来の三仏)を祀っている部屋があった。それほど大きな部屋では無く、高さおよそ8mくらいの仏像が部屋を取り囲むようにして安置されている。荘厳な雰囲気の部屋の中にしばらく佇んでいると、背後からの読経の声と共に遥か仏教世界にトリップしていくような気がして、頭がボーッとなってきた。ここで2時間くらい瞑想でもしてみたら、もしかしたらLSDなど遠く及ばない超越体験が出きるだろうと思わせる。<br />大集会堂に続いて、次はいよいよパンコル・チョルテン(ギャンツェ・クンブム)である。高さは約33m。「クンブム」は「10万」の意味で、8階建ての建物は仏塔建築史上の最高傑作とされている。塔の内部には、諸尊像や壁画で飾られた79の部屋があり、右回りに螺旋状に上へと上がっていく。私がラサからランドクルーザーをチャーターし、高いオプション料金(相手はボッタクリCITSだ)を支払い、わざわざギャンツェまで来た理由はこれを見るためである。しかし閉門時間が迫っていた。ゆっくり見て回るには1日2日くらいはこのギャンツェに滞在しないといけないが、しがないサラリーマンの夏休みではチベット滞在には限界がある。ましてやラサ以外の地方都市(そのほとんどは外国人未開放)に行くことは初めからかなりの無理があった。それでも、建築の設計を生業としていた当時の私は、ラサのポタラ宮と共にこのパンコル・チョルテンだけは是非とも見ておきたかったのである。わずか30分程度の仏塔の見学に片道8時間である。<br />塔の入り口では3人の僧侶と寺小僧が日本人女性に塔内部の写真を見せながら何やら説明をしていた。その僧侶の一人と立ち話をしたガイドは僧侶の話を聞くと、急に親の死亡でも聞かされたかのような表情で「信じられない!!!」といった顔をした。理由を聞いてみると、その僧侶はなんと北京からこのギャンツェのパンコル・チューデに留学に来ているギャミ(中国人=漢民族)だという。北京や上海のような都会に憧れているこのガイドはいつも自分がチベットに来ていることを窓際に追いやられた定年前(年はずっと若かったが)のサラリーマンのように嘆いているふしが見うけられていたものである。いつかは中国沿岸部の都会に行ってキャリアウーマンになりたいと思っていたのだろう。そんな人間に、憧れの北京からわざわざこのチベットのド田舎に留学に来ているということは、想像も出来ない事実なのかも知れない。かなり混乱していたようだった。<br />チケットを見せて持っていたカメラを預けると、一部屋一部屋を見て回る。しかし、すべてを見るのは不可能だ。東北大学の奥山直司氏によれば、1階から4階までの基壇は合計68の小部屋からなり、その上に覆鉢、平頭、相輪と呼ばれる構造物が乗り、最上階に本尊・持金剛が鎮座する。各階の各小部屋の仏像・神々は、入り口の釈迦像に始まって、順に、ゲルク派の分類になるが、所作タントラ、行タントラ、瑜伽タントラ(以上、生起次第=キェーリム)、無上瑜伽タントラ(究竟次第=ゾクリム)の密教タントラの発生から発展形、到達点に至る、各曼荼羅の歴史をふまえて配置され、密教史の一大絵巻をあますことなく展開しているとのことである。そして巡礼者は、頂上に辿りつくまでに、仏教宇宙を体感し、数々の聖典の功徳を得て、成仏への階段を登っていく仕掛けになっている。チベット密教美術のパンテオンである。<br />1階の釈迦像を見て、狭い階段を登ると2階の回廊に出る。回廊に沿っていくつもの部屋があるのだが、全部は見ている余裕は無い。適当に部屋を選んで見て回る。部屋の内部は暗く、わずかに燈された灯明だけが壁画や仏像をみる手がかりとなった。描かれている壁画や安置されている仏像は様々だが、上階に行くにしたがって、後期密教の無上瑜伽タントラ色が濃くなり、密教特有の本尊が神妃を抱いている父母仏(ヤブユム)が見られるようになる。ちなみに、究竟次第における「秘密灌頂」では、究竟次第の実修を得ようとする修行僧が、師僧に性的瑜伽(ヨーガ)タントラ行のパートナーとしての女性を献上する。師僧はこの女性と交わる観想を行うことで、通常の男女が性交時に感じるように、チャンダリー(臍のチャクラ)がヴァイブレートされて熱を発する。これを「チャンダリーの火」と呼ぶ。神妃と交わり神々を生起させる忿怒尊と化すことで、体内を巡る風(ルン)をコントロールし、「チャンダリーの火」を通常の性交では得られないくらい大きく活性化させ、空性観に基づく、とらわれのない大きな快感を呼び起こす。この観想が完成することで得られる境涯が「伹生の大楽」である。しかし、ここで実際の女性が献じられることはまずありえない。また、この「秘密灌頂」は性的要素が濃いため、厳格に秘密裏に行なわれる。<br />1階から2階、2階から3階へと、順に巡ってきたのだが、その足取りは極めて重たかった。疲れている上に、標高4040mからさらに上へと登っていくのである。ホテルでもそうだったが、ここでも1階登ることに息が切れ、深呼吸しなければとても上には上がれない。時計を見ると、そろそろ閉門時間が迫っていた。3階の途中で、残念ながら引き返すことにした。ちゃんと見た部屋は10に満たない。全体の1/9である。<br />パンコル・チューデの正門を出ると、入った時にそこにいた少女がまだ赤ん坊を抱いて立っていた。ポケットをさぐって小銭を探してみると、ちょうど2元あったので、少女に握らせた。恵んでやったという気持ちは全く無かった。こちらは「これでもか?」というくらいの壮大な仏教世界に浸ってきた身である。おそらく巡礼者からのわずかな喜捨だけで生計を立てているのであろうこの少女の上に、この世の無常と空性を教えてくれる仏の姿が重なった。<br /><br /><br />http://www.digbook.jp/product_info.php/products_id/15904

ギャンツェ訪問

8いいね!

1998/08/26 - 1998/08/27

8位(同エリア12件中)

0

0

PEMA

PEMAさん

1998年8月26日早朝。今日からは、1泊2日の予定で一旦ラサを離れ、ギャンツェへと向う。ホテルの食堂で軽い朝食をとった後、部屋に戻って荷物をまとめると、フロントでチャックアウトの手続きをした。明日の夕方には、またラサに帰ってきて同じホテルに泊まるのだが、部屋をそのままにして行くと余計なホテル代を食ってしまうので、面倒だったが仕方がない。まあ、チベットに持ってきた荷物もそう多くないし、土産物を沢山買ったわけでもない。こちらはバッグ1つの身。いたって身軽だ。
ロビーに出ていくと、例のガイド兼監視役とギャミ(中国人)のドライバーが待っていた。この2人が290kmの道のりをランドクルーザーをぶっ飛ばして私をギャンツェに連れて行ってくれる。ドライバーはチベットに到着した時の陽気なチベット人のニマさんに比べると陰気で、始終なんだか不機嫌そうな顔をしている。しきりに唾や痰を吐いていた。
今日のラサの天候は小雨。3人を乗せたランドクルーザーはホテルを出発し、北京西路を少し走るとすぐに西蔵人民大会堂のところを左折、民族路に入る。早朝の薄明かりのなか、右側には拉薩飯店(以前のラサ・ホリディイン)やノルブリンカが並んでいた。突き当りを右折し、今度は金珠西路を東へ進む。この道路は3日前、ゴンカル空港からラサへ来た道で、トゥールン・デチェンの手前でヤンパーチャンから先、青海省のゴルムドへ向う道路(青蔵公路)と分岐すると中尼公路(FRIENDSHIP HIGHWAY)と名前を変える。ここをひたすらますっぐ進むとシガツェから先、ラツェ、ティンリー(チョモランマベースキャンプへ向う分岐点)、ニェラム、国境の町ダムを経てネパールに入り、カトマンドゥへと道は通じている。ラサ〜ダム間はバスならおよそ2泊3日の行程。途中、いくつものチェックポストと5000mを越える峠がある。平均標高4000〜4500m。
遠く、霧に霞むデプン僧院を眺めながらしばらく進むと、ラサにくる途中に立ち寄ったネタンの大仏があり、その先に一本の釣橋がかかっていた。橋は水量を増したヤルツァンポ河の支流キチュに飲み込まれており、渡ることは出来ないが、もし、これをわたって6時間ほど山道を歩いて登っていくと有名なニンマ派の尼僧院、シュクセ・アニ・ゴンパがある。ここはかつてチベットで最も知られた女性行者、マチク・ラプドゥンが修行場を開いたところであり、代々その転生化身とされるシュクセ・ジェツン・リンポチェが僧院長を務めている。14世紀前半にこの地を訪れたニンマ派最高の学者ロンチェン・ラプチャンパ(1303〜1363)は、チベット密教の開祖パドマサンババ(グル・リンポチェ)が埋蔵したニンマ派の中心教義「ゾクチェン」(大究竟)の「ニンティク」を発掘し、その考え方を「七(宝)蔵」と称する作品群に分けて集成した。、それが今のニンマ派の基礎になっている。1959年には700人の尼僧がいたとされるが、今では250人ほどの尼僧が、マチク・ラプドゥンが始めた「チュ―(断つ)」と呼ばれる、自分の精神と身体を切り離し、身体を鬼魔に布施する修行を行なっている。また、この尼僧院の尼僧も他の例に漏れず、近年チベットで頻発しているデモに参加している。なかでもリンジン・チョーデンの場合、1989年3月8日のデモに参加し逮捕されたが、1週間も経たないうちに釈放された。ところが、彼女がシュクセ・アニ・ゴンパに戻ってきた時は危篤状態で、腎臓は拷問で損傷を受けており、1990年、25歳の若さで死亡した。チベットでの政治犯に対する拷問の巧妙な手口として、体内に傷害を与え拷問の痕跡を見えなくさせるというのがある。体外の損傷をできるだけ少なくし反対に体内の損傷を最大限に高めるよう、拷問者たちが意図的に集中して暴行を与え、損傷がひどく、死に至るとみなされる政治犯は突然、訳もなく釈放されるケースが多い。尼僧に対してはさらに性的暴行も行なわれている。
チュシュ(曲水)に至る道路はあちこちで潅水していた。しかし、まだこのあたりは道路はアスファルト舗装されており、ましな方である。この先、とんでもない道を突き進むとはこの時、予想すらしていなかった。シガツェまでは舗装されているはずなのだが・・・
前日より、もしかしたら通れないと言われていた、カンパ・ラを越えてヤムドゥク湖畔を通る道に向うため、軍人が監視しているチュシュ(曲水)大橋を渡ると、峠から下ってきたトラックに出会った。ガイドとドライバーが車から降りて、トラックの運転手と何やら相談していたのだが、顔つきはいまいちだ。どうやら行けそうにないらしい。車に戻ってきたガイドはいかにも残念そうに、
「ナンカルツェまでは行けるのですが、その先のカロ・ラで道路が完全に崩壊していて、車は全く通ることが出来ません。ギャンツェにはシガツェを回って行くしかありません」
と力なく言った。
私としても、「トルコ石の湖」という名を持つチベット4大聖湖の一つ、ヤムドゥク湖が見られないのは残念なのだが、彼らにしても、当初のルートを通れば近道なのだが、シガツェ経由のルートはラサからシガツェまでが280km、さらにギャンツェはそこから100km近くかかり、かなりの大回りになるため、服務時間の延長(つまり残業)とガソリンの消費を考えれば出来れば避けたかったに違いない。だが道が無いのだから仕方がない。再びチュシュ(曲水)大橋をひき返し、右折して、ヤルツァンポ河沿いの道路を進んだ。
ゴンカル空港の近くでは河川敷が4kmほど広がっていて、ゆったりと流れている大河ヤルツァンポだが、山岳地帯に入っていくにしたがって川幅は次第に狭くなり、流れも轟々たる濁流になっていった。道路は一応舗装されているのだが、崖崩れの土砂が道路を覆っているため、アスファルトは意味をなさない。ランドクルーザーは唸りをあげて土砂の上に出来た轍を突き進んでいく。右手を見れば雲に隠れてはいるがはっきりと雪を頂いた高峰が聳え立っている。V字型に鋭く切り立った谷間に沿って道路は造られているのだが、大きな落石により半分えぐられているところがあったり、谷の上から流れ落ちる水で川が出来ていて分断されていたりしていた。激流が道路を削り取っていて、ほとんど車一台が通れるのがやっとである。崩れているところには墜落防止のフェンスなど無く、ただ赤い色を塗った石を点々と置いて注意を促しているだけである。一歩間違えれば谷底に落ちてしまう。日本であればすぐにでも通行止めになるであろう道路は、ここチベットでは当たり前のことなのか、危うげな応急処置を施した道を何台もの車やバス、大きな荷物を背負ったトラックが平然と行き交っている。しかし、対向車とのすれ違いは大変だ。人っ子一人いない山岳地帯の中、あちこちで渋滞が出来ていた。時間は刻々とすぎていく。
ラサから3時間半ほど経過したところであろうか、かなりの渋滞が出来ていて、車が数珠つながりになってストップしていた。何事かと身を乗り出してみてみると、なんと橋が落ちていた。傍らにはかなり流れの速い小川が流れている。ゴツゴツした石が転がっているその川を渡ろうとしているバスがあるのだが、深みにはまったのか立ち往生している。動く気配はまるで無い。エンジンの音だけが孤独に谷間にこだましている。川の向こうも大渋滞だ。30分ほどたって、ようやくロープで引っ張られてバスはなんとか渡りきったのだが、今度はこちらの車が渡らなければならない。ドライバーは慎重にハンドルを操作する。車に当たる水流と瓦礫石との激闘を続けること数分。車はようやく川を渡りきった。ドライバーはガッツポーズし、ガイドはしきりに彼の功績を称えていた。
ようやく少し開けたところにさしかかると、ここで少し休憩しようということになった。数軒の店が並んでいて、民家も何軒かある。ガイドはさっそくトイレットペーパーを抱えて川沿いに建てられたオンボロ公衆トイレに走りこんだ。そこがどんなトイレなのか興味はあるものの、こちらもかなり疲れている。後部座席に座っていただけだったのだが、恐るべき道路との格闘に継ぐ格闘の連続で身体が少しふらついていたのだ。
車から降りて車体に寄りかかってタバコを吸っていると垢にまみれた服を着たチベット人の兄妹が近寄ってきた。カメラを近づけるといささか緊張した面持ちでポーズする。面白がって相手してやると、兄ちゃんは妹の頭を後ろにそらせた。妹はというとニーッという風に顔をしかめてさらにポーズして見せる。そのお礼代わりに日本から持ってきたカロリーメイトをやると、2人して不思議そうにそれを眺めていたが、見本を示そうと思って私が少し食べてみると、2人は最初は恐る恐る、しかしそれがけっこう美味しかったのだろうか、そのうち貪り食った。普段、あのパサパサのツァンパでなれているはずなのに、口一杯放り込んだカロリーメイトに妹の方は咽を詰まらせてむせっていたのが可笑しかった。
ガイドが戻ってくると車は再び走り始めた。最大の難所は通り過ぎたものの、ギャンツェへの過酷な道のりはこれだけでは終わらなかった。とりあえず、当面の目的地、シガツェへと車は進む。

タドゥカというところにさしかかると、車ごと河を渡るフェリー乗り場があって、河向うには、ヌマガン、タクツェを経てヤンパーチェンに行く道路が見えた。これまで通ってきた道路が出来るまでは、ラサからシガツェにいくにはこの道を通っていたらしい。フェリー乗り場の手前、川沿いに新しく再建された僧院の金色の屋根が光っていた。おそらくユンドゥンリン僧院だろう。1834年に建てられたポン教の僧院で、1950年の中国侵攻前にはチベット各地から700人近いポン教僧侶が集まっていたそうだが、今は閑散としている。中国侵攻時と文革の2度にわたって破壊されたが最近になってようやく再建された。どうりで建物は新しい。だが、今は、周囲にポン教徒はほとんど存在しない。
チベットと言えばチベット仏教が有名だが、チベットには仏教が伝えられる以前から信仰されていた民間信仰の集大成があった。それがポン教である。開祖はシェンラプ・ミボ。しかし、いまのポン教の姿は、10世紀前後の混乱期にチベット仏教ニンマ派の教義と習合してできたもので、デプン僧院近くにあったネーチュン僧院の神降ろしのようなシャーマン的要素はない。ポン教徒は15世紀になるとほとんど仏教に近い僧団を結成するようになり、その中心になったのはシェーラプ・ギェルツェンがユンドゥンリンから北へ25km行ったところ、トゥプギェルに1405年に創建したメンリ僧院である。ポン教徒はチベット本土では数少なくなったが、ネパールのドルポにはまだ多くの信者がいる。
険しい山岳地帯を抜けると、車はやや広い平原地帯にでた。ここに来ると、ヤルツァンポの川幅は再び広がり、悠々と流れている。ラサを出たときには小雨が降っていたが、ここでは少し晴れまも見える。広々とした平原の真中にポツンと小さな小山があり、日光に照らされて輝いていた。遠くにはニェンチェンタンラにつながる山脈が見える。
ふと、河を見ると車が頭から突っ込む形で河に転落していた。それを見たガイドはまたしても「アイヤー!!!」と叫ぶ。ドライバーは見なれているのだろう、平然としていた。
シガツェまでは、あと、およそ80km。ヤルツァンポ南岸の道路は、先ほどまでの山岳道路とは打って変わって、直線道路が多くなり、アスファルトの舗装もしっかり見えている。3人を乗せたランドクルーザーは時速100km近い速度でぶっ飛ばす。途中、何度か橋が落ちていて、そのたびに川原の轍を走ったり、道無き道を突き進んだりしたのだが、もう、その程度のことでは動じなくなっていた。恐るべき山岳道路に比べるとここの道路はまるでハイウェーだ。
地図を見ると、シガツェ空港なるものが示されているのだが、その姿は見えない。民間の飛行機は利用されていない、純粋な軍用空港だ。チベット各地を旅すると、僧院の多さにも驚かされるが、ゴンカル空港にも戦闘機の姿があったように、軍事施設の多さにもビックリする。その理由はたぶん2つあって、1つは国境地帯の国防の要と言う点。南の隣国ネパールとの間には友好関係が築かれているが、インドとの間ではまだ国境問題のケリがついていない。世界地図を見てみると、チベット自治区とインドが接する2ヶ所の国境線が今でも破線で描かれている。国境がまだ確定していないのだ。ブータンの東側、マクマホンライン(インドのアルナーチャル・プラデーシュ州)と西チベットの北に広がるアクサイチン高原。中国・インド双方が領有権を主張している。そしてもう1つの理由はチベットの独立運動をいつでも武力鎮圧する目的。それを象徴するようにラサを取り囲むようにして人民解放軍の基地が点在している。
ハイウェーを1時間ほど走ると、丘の上に城塞が築かれている街が見えて来た。シガツェだ。中央チベットは大きく分けて「ウ」地方と「ツァン」地方に分けられる。「ウ」の中心がラサであるのに対して、「ツァン」の中心がシガツェである。今でもチベット第2の都市である。ただ、ラサの発展に比べるとシガツェはまだ田舎町に見えるが・・・
8世紀後半のティソン・デツェン王の時代に唐の都、長安を一時占領するほどの軍事力を誇って全盛期を迎え、インドのナーランダー大僧院の長老で、インド仏教史上の最高の哲学者とみなされているシャーンタラクシタやウッディヤーナのタントリストであるパドマサンババを招いてチベット最初の僧院、サムウェー僧院を建立するなど仏教文化も華やいだ古代チベット王国(吐蕃)であるが、9世紀前半に最後の王、ダルマ・ウイドゥムテン(ランダルマ)が宰相バー・ギェルトレ・タクニャに暗殺されると王朝は崩壊し、権力は地方に分散される。そして次第に中央チベットの覇権は「ウ」と「ツァン」の間で交互に受け継がれるようになった。1642年にダライラマ政権(ガンデン・ポタン政庁)が成立しても、パンチェンラマをトップとする「ツァン」地方はたびたびラサと対立し、その対立関係は19世紀から20世紀にかけてチベット支配を狙ったイギリスと中国に利用された。1959年のチベット民族蜂起が弾圧され、ダライラマがインドへ逃れた後、パンチェンラマはお飾り的な存在で全国人民代表大会常務副委員長に祭り上げられ、ダライラマに代わる傀儡としてチベット人心安定に利用されるが、パンチェンラマ10世は1989年に亡くなる。その後に引き起こって、今もなお係争中の問題がパンチェンラマ問題であるが、それについてはまた別のところで述べることにする。パンチェンラマが僧院長を務めていたのが、ここシガツェのタシルンポ僧院である。
シガツェには着いたものの、ここで立ち寄っている暇はない。一刻も早くギャンツェに行かなくてはならないのだ。新市街の人民銀行のある交差点で左折すると、一路ギャンツェに向う未舗装の道をひた走る。
シガツェからギャンツェに向って20kmほど行ったところに、シャル寺という小規模な寺がある。規模は小さいがサキャ派の名刹である。1087年にジェツウンディンジャオジュンネによって創建された。14世紀に招請され管長となったブトン・リンチェンドゥブ(1290〜1364)は顕教と密教の両立を求め、生涯を厳しい戒律を守る出家者として送る。また彼は密教を4種類のタントラに分類した。それは今のチベット密教にも受け継がれている。この寺を中心にチベット仏教の新しい展開をはかったため、彼の考え方を継承する人々をシャル派と呼ぶことがある。また、「シャル版」と呼ばれるチベット大蔵経を編集し後世に大きな影響を与えている。チベット仏教を学ぶ上では避けて通れない重要な寺なのだが残念ながら立ち寄っていく時間的余裕は無い。
シガツェからギャンツェへ向う道はヤルツァンポの支流、ニャンチュ河にそって走っている。しかし、未舗装のうえ、至るところで水に浸かっており、その度に道路から離れて荒野を走ったり、水の中を進んだりしなければならなかった。あたりを見渡してみると、チベット一の穀倉地帯であるにもかかわらず、畑は水浸しだった。1998年、長江(揚子江)を襲った大氾濫の影響がチベットにも及んでいることがわかる。途中、ペナム(白朗)という集落があるのだが、そこは1998年当時も水害の被害は大きかったのだが、2000年9月1日付の西藏日報の報道を見ると、2000年にもニャンチュ河が警戒水位を超え、ものすごい勢いで溢れ出したようだ。水量は毎秒650立方メートルに達し、地勢の低い河畔のペナム県では上流から流れ込んできた激流に、120メートル以上に渡って堤が決壊、645戸514人が被災した。被災地区の大部分の家屋は倒壊し、約355ヘクタールにわたって農作物が冠水、深刻な経済損失を被ったとされる。
周囲は5000m級の山々が連なっているのだが、それほど高く感じない。シガツェの標高が3836m。この辺りではすでに4000mを超えている。ここに来るまでにラサで十分高度順化していたのでそれほどの息苦しさは感じられなかった。この山から数キロ奥には小さな僧院が点々として存在する。
時刻はもう夕方の4時になろうとしていた。朝の8時にラサを出発した我々は8時間以上も車を飛ばしていることになる。この車で8時間という数字は日本ではどれくらいの距離にあたるだろうかと調べてみると、大阪〜熊本間が約8時間である。大阪から熊本まで行くといえばかなりの遠出に感じるが、チベットは広大である。8時間など、隣近所に行くような感覚だろう。しかし、正直言ってかなり疲れた。
山と山とに挟まれたニャンチュ河流域の穀倉地帯の遥か彼方に少し小高い丘があり、その上に城塞らしきものが目にとまった。ギャンツェ・ゾンである。かつて栄華を誇り、1904年にチベットに侵入したフランシス・ヤングハズバンド率いるイギリスの軍事使節団とチベット軍が攻防戦を繰り広げた舞台である。ようやくギャンツェに着いた。

ラサからランドクルーザーをぶっ飛ばして8時間。ようやくギャンツェに辿りついた我々3人はひとまずホテルで休憩しよということになって、チェックインすることにした。泊ったホテルはギャンツェの南端に位置する高級ホテル、ギャンツェ(江孜)飯店だ。ホテルは他にも江孜服装招待所や江孜県政府賓館といった安宿もあるのだが、中国の大手旅行会社を通じて正規のチベット旅行を手配した場合、一人旅でも一応ツアーの形を取らされるので、外国人向けのギャンツェ(江孜)飯店に宿泊させられる。エントランスを入るとトップライトのある明るいロビーが広がっていて、高級感が漂っていた。しかし、どういうわけか我々のほかには宿泊者の姿が見えない。建物は綺麗だが、人気の無いがらんとしたホテルの中をうろうろすると、気分はなんだか廃墟になった幽霊ホテルに泊るような気がしてならない。通された部屋は3階にある。ボーイに案内されて階段を上がろうとすると足が異常に重たかった。一歩一歩足を踏み出そうとするのだが思うように上がらない。息遣いもいつしか荒くなってきた。標高3660mのラサで3日間高度順化したものの、ギャンツェは町自体が4040mある。富士山頂よりも264m高い。例えて言えば富士山頂に新宿の東京都庁舎を建てて、その屋上にいるとでも言えばいいだろうか・・・
ゼーゼー言いながら部屋に着くとベッドにゴロンと横になった。窓からはギャンツェ近郊の山並が広がっているのが見える。おそらく5000m級の山々であろうが、チベットで5000mの山など小山に過ぎない。名前などはもちろんついていない(聖山を除く)。部屋に入ってまず確認しなければならないのは、トイレの水がちゃんと流れるかだ。ラサのホテルのトイレはチョロチョロとしか流れなかったので、「大」をした後は風呂の水を溜めてトイレにザバッと流し込んで処理をした。ラサでさえそうである。ましてやギャンツェでは・・・と思っていたところ、予想外にいきよいよく流れた。なんだか嬉しくなって、驚きと喜びとでしばしトイレでくつろいだものである。
4時半にガイドと待ち合わせをして、この日のハイライト、パンコル・チューデ(白居寺)にお参りをする。パンコル・チューデは1418年ラプテン・クンサン・パクパによって創建された特定の宗派に属さない僧院で、各派共同の総合仏教センターとして発展してきたが、現在はゲルク派とサキャ派が中心なって共同管理している。ホテルから市街(といっても1kmほどのメインストリートの両側に商店などが並んでいるだけだが・・・)を通り抜け、突き当たったところに正門がある。正門前では一人の少女が赤ん坊を抱いて、巡礼者からの喜捨を求めていた。正門を入って事務所のようなところで大集会堂とチベット最大の仏塔パンコル・チョルテン(ギャンツェ・クンブム)の見学と、あわせて40元の入場料を払うと、まずは大集会堂へ向う。
入り口にはチベットの僧院に共通している六道(地獄道、餓鬼道、畜生道、修羅道、人間道、天道)輪廻の曼荼羅が描かれている。堂内に入るとバターランプ独特の臭いの充満する空間で20人くらいの僧侶達が読経をしている最中だった。がらんとしている堂内に地響きのような読経の声が木霊している。奥に行くと本尊の三世仏(過去、現在、未来の三仏)を祀っている部屋があった。それほど大きな部屋では無く、高さおよそ8mくらいの仏像が部屋を取り囲むようにして安置されている。荘厳な雰囲気の部屋の中にしばらく佇んでいると、背後からの読経の声と共に遥か仏教世界にトリップしていくような気がして、頭がボーッとなってきた。ここで2時間くらい瞑想でもしてみたら、もしかしたらLSDなど遠く及ばない超越体験が出きるだろうと思わせる。
大集会堂に続いて、次はいよいよパンコル・チョルテン(ギャンツェ・クンブム)である。高さは約33m。「クンブム」は「10万」の意味で、8階建ての建物は仏塔建築史上の最高傑作とされている。塔の内部には、諸尊像や壁画で飾られた79の部屋があり、右回りに螺旋状に上へと上がっていく。私がラサからランドクルーザーをチャーターし、高いオプション料金(相手はボッタクリCITSだ)を支払い、わざわざギャンツェまで来た理由はこれを見るためである。しかし閉門時間が迫っていた。ゆっくり見て回るには1日2日くらいはこのギャンツェに滞在しないといけないが、しがないサラリーマンの夏休みではチベット滞在には限界がある。ましてやラサ以外の地方都市(そのほとんどは外国人未開放)に行くことは初めからかなりの無理があった。それでも、建築の設計を生業としていた当時の私は、ラサのポタラ宮と共にこのパンコル・チョルテンだけは是非とも見ておきたかったのである。わずか30分程度の仏塔の見学に片道8時間である。
塔の入り口では3人の僧侶と寺小僧が日本人女性に塔内部の写真を見せながら何やら説明をしていた。その僧侶の一人と立ち話をしたガイドは僧侶の話を聞くと、急に親の死亡でも聞かされたかのような表情で「信じられない!!!」といった顔をした。理由を聞いてみると、その僧侶はなんと北京からこのギャンツェのパンコル・チューデに留学に来ているギャミ(中国人=漢民族)だという。北京や上海のような都会に憧れているこのガイドはいつも自分がチベットに来ていることを窓際に追いやられた定年前(年はずっと若かったが)のサラリーマンのように嘆いているふしが見うけられていたものである。いつかは中国沿岸部の都会に行ってキャリアウーマンになりたいと思っていたのだろう。そんな人間に、憧れの北京からわざわざこのチベットのド田舎に留学に来ているということは、想像も出来ない事実なのかも知れない。かなり混乱していたようだった。
チケットを見せて持っていたカメラを預けると、一部屋一部屋を見て回る。しかし、すべてを見るのは不可能だ。東北大学の奥山直司氏によれば、1階から4階までの基壇は合計68の小部屋からなり、その上に覆鉢、平頭、相輪と呼ばれる構造物が乗り、最上階に本尊・持金剛が鎮座する。各階の各小部屋の仏像・神々は、入り口の釈迦像に始まって、順に、ゲルク派の分類になるが、所作タントラ、行タントラ、瑜伽タントラ(以上、生起次第=キェーリム)、無上瑜伽タントラ(究竟次第=ゾクリム)の密教タントラの発生から発展形、到達点に至る、各曼荼羅の歴史をふまえて配置され、密教史の一大絵巻をあますことなく展開しているとのことである。そして巡礼者は、頂上に辿りつくまでに、仏教宇宙を体感し、数々の聖典の功徳を得て、成仏への階段を登っていく仕掛けになっている。チベット密教美術のパンテオンである。
1階の釈迦像を見て、狭い階段を登ると2階の回廊に出る。回廊に沿っていくつもの部屋があるのだが、全部は見ている余裕は無い。適当に部屋を選んで見て回る。部屋の内部は暗く、わずかに燈された灯明だけが壁画や仏像をみる手がかりとなった。描かれている壁画や安置されている仏像は様々だが、上階に行くにしたがって、後期密教の無上瑜伽タントラ色が濃くなり、密教特有の本尊が神妃を抱いている父母仏(ヤブユム)が見られるようになる。ちなみに、究竟次第における「秘密灌頂」では、究竟次第の実修を得ようとする修行僧が、師僧に性的瑜伽(ヨーガ)タントラ行のパートナーとしての女性を献上する。師僧はこの女性と交わる観想を行うことで、通常の男女が性交時に感じるように、チャンダリー(臍のチャクラ)がヴァイブレートされて熱を発する。これを「チャンダリーの火」と呼ぶ。神妃と交わり神々を生起させる忿怒尊と化すことで、体内を巡る風(ルン)をコントロールし、「チャンダリーの火」を通常の性交では得られないくらい大きく活性化させ、空性観に基づく、とらわれのない大きな快感を呼び起こす。この観想が完成することで得られる境涯が「伹生の大楽」である。しかし、ここで実際の女性が献じられることはまずありえない。また、この「秘密灌頂」は性的要素が濃いため、厳格に秘密裏に行なわれる。
1階から2階、2階から3階へと、順に巡ってきたのだが、その足取りは極めて重たかった。疲れている上に、標高4040mからさらに上へと登っていくのである。ホテルでもそうだったが、ここでも1階登ることに息が切れ、深呼吸しなければとても上には上がれない。時計を見ると、そろそろ閉門時間が迫っていた。3階の途中で、残念ながら引き返すことにした。ちゃんと見た部屋は10に満たない。全体の1/9である。
パンコル・チューデの正門を出ると、入った時にそこにいた少女がまだ赤ん坊を抱いて立っていた。ポケットをさぐって小銭を探してみると、ちょうど2元あったので、少女に握らせた。恵んでやったという気持ちは全く無かった。こちらは「これでもか?」というくらいの壮大な仏教世界に浸ってきた身である。おそらく巡礼者からのわずかな喜捨だけで生計を立てているのであろうこの少女の上に、この世の無常と空性を教えてくれる仏の姿が重なった。


http://www.digbook.jp/product_info.php/products_id/15904

旅行の満足度
5.0
観光
4.0
ホテル
4.0
グルメ
2.5
ショッピング
1.5
交通
2.5
同行者
一人旅
一人あたり費用
30万円 - 50万円
交通手段
タクシー 徒歩
旅行の手配内容
個別手配

この旅行記のタグ

8いいね!

利用規約に違反している投稿は、報告する事ができます。 問題のある投稿を連絡する

コメントを投稿する前に

十分に確認の上、ご投稿ください。 コメントの内容は攻撃的ではなく、相手の気持ちに寄り添ったものになっていますか?

サイト共通ガイドライン(利用上のお願い)

報道機関・マスメディアの方へ 画像提供などに関するお問い合わせは、専用のお問い合わせフォームからお願いいたします。

旅の計画・記録

マイルに交換できるフォートラベルポイントが貯まる
フォートラベルポイントって?

中国で使うWi-Fiはレンタルしましたか?

フォートラベル GLOBAL WiFiなら
中国最安 273円/日~

  • 空港で受取・返却可能
  • お得なポイントがたまる

中国の料金プランを見る

フォートラベル公式LINE@

おすすめの旅行記や旬な旅行情報、お得なキャンペーン情報をお届けします!
QRコードが読み取れない場合はID「@4travel」で検索してください。

\その他の公式SNSはこちら/

PAGE TOP