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■GW九州縦断ロングドライブ旅(3泊4日)大分県・熊本県・鹿児島県・宮崎県<br /> ちぇすとー!西郷隆盛宿陣跡資料館訪問~の巻<br /><br />【 手記 】<br /> GW九州縦断車旅3日目です。この日は宮崎市内のHを出発して6年ぶりに平和台公園を散策したあと、日向灘を右手に見ながら日向市と延岡市へ向かって走っていきました。<br /> 今まで宮崎市の北部地域は高速道が未整備で時間がかかりすぎたので、なかなか行く機会がなかったのですが、今回は各観光地に立ち寄りながら、日向市から延岡市を抜けて豊後大野市までのんびりと走破して行きました。<br /> 当ブログは走行途中立ち寄った延岡市の「西郷隆盛宿陣跡資料館」です。<br /><br />≪3日目≫<br />▼宮崎市内H出発<br />▼宮崎県立平和台公園…宮崎県宮崎市下北方町<br />▼道の駅日向物産館…宮崎県日向市幸脇<br />▼美々津伝統的建造物群…宮崎県日向市美々津町<br />▼金ケ浜…宮崎県日向市平岩<br />▼西郷隆盛宿陣跡資料館…宮崎県延岡市北川町<br />▼道の駅宇目…大分県佐伯市宇目大字南田原<br />▼ととろの森…大分県佐伯市宇目大字南田原轟<br />▼神楽の里きよかわ(通過)…大分県豊後大野市清川町<br />▼百枝鉄橋…大分県豊後大野市三重町・清川町<br />▼石橋巡り「天然橋」…大分県豊後大野市清川町<br />▼石橋巡り「岩上橋」…大分県豊後大野市清川町<br />▼歳神社のムク…大分県豊後大野市清川町<br />▼石橋巡り「出会橋」…大分県豊後大野市清川町<br />▼石橋巡り「轟橋」…大分県豊後大野市清川町<br />▼石橋巡り「鳴滝橋」…大分県豊後大野市緒方町<br />▼石橋巡り「緒方橋」…大分県豊後大野市緒方町<br />▼石橋巡り「原尻橋」…大分県豊後大野市緒方町<br />▼原尻の滝…大分県豊後大野市緒方町<br />▼石橋巡り「山王橋」…大分県竹田市飛田川地区<br />▼石橋巡り「若宮井路鏡水路橋」…大分県竹田市の千引地区<br />▼石橋巡り「若宮井路笹無田水路橋」…大分県竹田市大字挟田<br />▼大分駅前H泊<br />≪4日目≫へつづく・・・<br /><br />▽西郷隆盛宿陣跡資料館 延岡市HPより<br /> 明治10年に西南戦争が勃発し、西郷隆盛率いる薩軍は政府軍との攻防戦が続きましたが、少数の兵力では勝ち目はなく、西郷軍は北川へと敗走しました。<br /> 北川町の俵野に宿陣をはった西郷は、ついに薩軍解散の命を出し、陸軍大将の軍服を裏庭で焼いたと言われます。<br /> その後、可愛岳突破を敢行し、鹿児島に辿り着いた西郷は城山で自決し、西郷軍は崩壊しました。<br /> 北川町の俵野で解散をし、薩軍最後の宿陣となった児玉熊四郎邸は、昭和8年12月5日に史跡として県指定を受けており、現在も、西郷隆盛宿陣跡資料館として、西郷隆盛の遺品やゆかりの品々を展示しています。<br /><br />▽西郷隆盛と北川町 商工会観光案内より<br />「 西南の役勃発 」<br /> 明治6年、政変に敗れた西郷隆盛が政界を退き、農業でもするつもりで鹿児島に帰ると、主だった側近達、桐野利秋、篠原国幹、村田新八も職を辞し、相次いで鹿児島に帰って来ました。<br /> 鹿児島での西郷は、愛犬を連れて猟を楽しんだり、好きな温泉に入ったりという日々でしたが、時の流れはそんな西郷ののんびりした生活を許してはくれませんでした。<br /> 西郷の創設した私学校で起きた私学校党の爆薬掠奪事件が引き金となって、明治10年2月、俗にいう「西南の役」が勃発、ついに西郷も立ち上がらざるを得なくなったのです。<br /> 明治10年2月15日鹿児島で兵を挙げると、50年ぶりの大雪の中、攻撃目標の熊本へと行軍を開始しました。<br />「 西郷軍の戦い 」<br /> 熊本では、谷干城司令官率いる政府軍のたてこもる熊本城に総攻撃をかけたものの城を落とすことはできません。城を出た政府軍と熾烈(しれつ)な攻防戦が繰り広げられましたが、3月3日、吉次峠で一番隊長の篠原国幹が戦死、そのほかにも多くの戦死者を出しました。<br /> 戦闘は激しさを増し、西郷軍も必死の戦いを挑みますが、数に勝る政府軍の前には力及ばず、ついに3月15日、頼みの田原坂―吉次峠の防衛ラインが分断され、3月17日には田原坂も政府軍の手に落ちてしまいました。それから西郷軍の敗走が始まったのです。<br />「 敗走する西郷軍 」<br /> 政府軍に追われ、右往左往する西郷軍は、4月27日椎葉越えして人吉へ、さらに加久藤峠(えびの市)を越えて、宮崎方面に敗走を続け、5月31日宮崎入りしました。<br /> 現在の宮崎市広島1丁目近くの農家、黒木某宅に本陣を置き、約2ヶ月滞在したそうです。跡地には「西郷隆盛駐在の地」として「敬天愛人」の石碑と案内板が建っています。<br /> しかし、そこにもそう長く落ちつくことは出来ず、宮崎を出て都農の報恩寺に一泊した後、延岡まで退却、延岡が官軍の手におちる直前、延岡の大貫に在った西郷は、8月11日五ヶ瀬川を下り、東海港を経て、北川を遡り、翌12日野峰の吉祥寺に入りました。隊士たちも続々北川長井村に集結しました。<br /> 8月14日笹首の小野彦治氏方において、西郷軍は最後の決戦となる和田越戦の軍議を開き、この席で、西郷は「明日の和田越戦の指揮は自分が執る」と伝えたと言われています。<br /> 翌8月15日、西郷軍は最後の士気を奮いたたせて和田越えの戦場に臨みました。<br /> 和田越は、西南の役最後の激戦地としてあまりにも有名ですが、西郷軍三千に対して、政府軍は五万、朝から昼過ぎまで続いた戦闘に善戦はしても所詮勝ち目はなく、西郷軍は再び北川へと退きました。<br /> 和田越は、延岡市無鹿町の北側丘陵に当たり、和田越トンネルが抜けています。その入口に「西南の役和田越戦跡」の標柱と、出口には有名な野口雨情の「逢いはせなんだか あの和田越で 薩摩なまりの落人に」の歌碑や案内板が建っています。<br />「 北川での西郷 」<br /> 明治10年8月15日、山県有朋中将ひきいる官軍三万五千と西郷隆盛率いる薩軍三千五百は、最後の戦いとなる和田越の決戦を迎えます。<br /> ここで敗れた薩軍は可愛岳から鹿児島へ抜ける険しい敗走の道しか残されていませんでした。<br /> 西郷隆盛最後の本陣となった俵野の児玉熊四郎宅には、薩軍や西郷ゆかりの品々が残され資料館として開放されています。<br /> 北川町俵野の児玉熊四郎宅に宿陣をはった西郷は、8月17日、ついに薩軍解散の令を出し、陸軍大将の軍服を裏庭で焼いたといわれます。<br /> その夜、可愛岳突破を敢行(かんこう)。先頭に2人の猟夫と数人の樵夫を道案内に立て、険しい岩場や鬱蒼とした樹木の間をくぐり、傷だらけになっての山越えでした。疲れ切って西郷軍が中ノ越に達したのは18日の明け方であったと言われています。行軍に当たって桐野利秋は細心の注意を払い、追手の政府軍に気取られぬよう「煙草を喫まぬこと、敵に遭遇しても発砲せぬこと、談話せぬこと、道標として先頭のものは木の枝に白紙を結んでいくこと」という戒めを守らせたそうです。<br />「 西郷隆盛の最後 」<br /> 鹿児島にたどり着いた西郷隆盛は、9月24日、城山で自決、西郷軍は崩壊しました。日本最後の内戦と言われた西南の役も、ここに終止符を打ったのでした。<br /> 現在、鹿児島市上竜尾町にある南洲墓地には、西郷隆盛はじめ二千四百余名にのぼる戦死者の霊が眠っています。<br /><br />【 雑記 】<br /> ここ最近(2018)、撮影会と飲み会へだけは出動するようにしていますが、外出回数も激減し、ほとんど家ゴロの毎日を送っています。なので、こうして古い写真を引っぱり出して指先を動かし昔の旅行記を作成することはボケ防止にはいいかも。ハハ・・

Solitary Journey[1382]GW自由気儘な九州ロングドライブ旅<西郷隆盛宿陣跡資料館/薩軍最後の宿陣となった児玉熊四郎邸>宮崎県延岡市

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2014/04/30 - 2014/05/03

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MechaGodzillaⅢ&703

MechaGodzillaⅢ&703さん

■GW九州縦断ロングドライブ旅(3泊4日)大分県・熊本県・鹿児島県・宮崎県
 ちぇすとー!西郷隆盛宿陣跡資料館訪問~の巻

【 手記 】
 GW九州縦断車旅3日目です。この日は宮崎市内のHを出発して6年ぶりに平和台公園を散策したあと、日向灘を右手に見ながら日向市と延岡市へ向かって走っていきました。
 今まで宮崎市の北部地域は高速道が未整備で時間がかかりすぎたので、なかなか行く機会がなかったのですが、今回は各観光地に立ち寄りながら、日向市から延岡市を抜けて豊後大野市までのんびりと走破して行きました。
 当ブログは走行途中立ち寄った延岡市の「西郷隆盛宿陣跡資料館」です。

≪3日目≫
▼宮崎市内H出発
▼宮崎県立平和台公園…宮崎県宮崎市下北方町
▼道の駅日向物産館…宮崎県日向市幸脇
▼美々津伝統的建造物群…宮崎県日向市美々津町
▼金ケ浜…宮崎県日向市平岩
▼西郷隆盛宿陣跡資料館…宮崎県延岡市北川町
▼道の駅宇目…大分県佐伯市宇目大字南田原
▼ととろの森…大分県佐伯市宇目大字南田原轟
▼神楽の里きよかわ(通過)…大分県豊後大野市清川町
▼百枝鉄橋…大分県豊後大野市三重町・清川町
▼石橋巡り「天然橋」…大分県豊後大野市清川町
▼石橋巡り「岩上橋」…大分県豊後大野市清川町
▼歳神社のムク…大分県豊後大野市清川町
▼石橋巡り「出会橋」…大分県豊後大野市清川町
▼石橋巡り「轟橋」…大分県豊後大野市清川町
▼石橋巡り「鳴滝橋」…大分県豊後大野市緒方町
▼石橋巡り「緒方橋」…大分県豊後大野市緒方町
▼石橋巡り「原尻橋」…大分県豊後大野市緒方町
▼原尻の滝…大分県豊後大野市緒方町
▼石橋巡り「山王橋」…大分県竹田市飛田川地区
▼石橋巡り「若宮井路鏡水路橋」…大分県竹田市の千引地区
▼石橋巡り「若宮井路笹無田水路橋」…大分県竹田市大字挟田
▼大分駅前H泊
≪4日目≫へつづく・・・

▽西郷隆盛宿陣跡資料館 延岡市HPより
 明治10年に西南戦争が勃発し、西郷隆盛率いる薩軍は政府軍との攻防戦が続きましたが、少数の兵力では勝ち目はなく、西郷軍は北川へと敗走しました。
 北川町の俵野に宿陣をはった西郷は、ついに薩軍解散の命を出し、陸軍大将の軍服を裏庭で焼いたと言われます。
 その後、可愛岳突破を敢行し、鹿児島に辿り着いた西郷は城山で自決し、西郷軍は崩壊しました。
 北川町の俵野で解散をし、薩軍最後の宿陣となった児玉熊四郎邸は、昭和8年12月5日に史跡として県指定を受けており、現在も、西郷隆盛宿陣跡資料館として、西郷隆盛の遺品やゆかりの品々を展示しています。

▽西郷隆盛と北川町 商工会観光案内より
「 西南の役勃発 」
 明治6年、政変に敗れた西郷隆盛が政界を退き、農業でもするつもりで鹿児島に帰ると、主だった側近達、桐野利秋、篠原国幹、村田新八も職を辞し、相次いで鹿児島に帰って来ました。
 鹿児島での西郷は、愛犬を連れて猟を楽しんだり、好きな温泉に入ったりという日々でしたが、時の流れはそんな西郷ののんびりした生活を許してはくれませんでした。
 西郷の創設した私学校で起きた私学校党の爆薬掠奪事件が引き金となって、明治10年2月、俗にいう「西南の役」が勃発、ついに西郷も立ち上がらざるを得なくなったのです。
 明治10年2月15日鹿児島で兵を挙げると、50年ぶりの大雪の中、攻撃目標の熊本へと行軍を開始しました。
「 西郷軍の戦い 」
 熊本では、谷干城司令官率いる政府軍のたてこもる熊本城に総攻撃をかけたものの城を落とすことはできません。城を出た政府軍と熾烈(しれつ)な攻防戦が繰り広げられましたが、3月3日、吉次峠で一番隊長の篠原国幹が戦死、そのほかにも多くの戦死者を出しました。
 戦闘は激しさを増し、西郷軍も必死の戦いを挑みますが、数に勝る政府軍の前には力及ばず、ついに3月15日、頼みの田原坂―吉次峠の防衛ラインが分断され、3月17日には田原坂も政府軍の手に落ちてしまいました。それから西郷軍の敗走が始まったのです。
「 敗走する西郷軍 」
 政府軍に追われ、右往左往する西郷軍は、4月27日椎葉越えして人吉へ、さらに加久藤峠(えびの市)を越えて、宮崎方面に敗走を続け、5月31日宮崎入りしました。
 現在の宮崎市広島1丁目近くの農家、黒木某宅に本陣を置き、約2ヶ月滞在したそうです。跡地には「西郷隆盛駐在の地」として「敬天愛人」の石碑と案内板が建っています。
 しかし、そこにもそう長く落ちつくことは出来ず、宮崎を出て都農の報恩寺に一泊した後、延岡まで退却、延岡が官軍の手におちる直前、延岡の大貫に在った西郷は、8月11日五ヶ瀬川を下り、東海港を経て、北川を遡り、翌12日野峰の吉祥寺に入りました。隊士たちも続々北川長井村に集結しました。
 8月14日笹首の小野彦治氏方において、西郷軍は最後の決戦となる和田越戦の軍議を開き、この席で、西郷は「明日の和田越戦の指揮は自分が執る」と伝えたと言われています。
 翌8月15日、西郷軍は最後の士気を奮いたたせて和田越えの戦場に臨みました。
 和田越は、西南の役最後の激戦地としてあまりにも有名ですが、西郷軍三千に対して、政府軍は五万、朝から昼過ぎまで続いた戦闘に善戦はしても所詮勝ち目はなく、西郷軍は再び北川へと退きました。
 和田越は、延岡市無鹿町の北側丘陵に当たり、和田越トンネルが抜けています。その入口に「西南の役和田越戦跡」の標柱と、出口には有名な野口雨情の「逢いはせなんだか あの和田越で 薩摩なまりの落人に」の歌碑や案内板が建っています。
「 北川での西郷 」
 明治10年8月15日、山県有朋中将ひきいる官軍三万五千と西郷隆盛率いる薩軍三千五百は、最後の戦いとなる和田越の決戦を迎えます。
 ここで敗れた薩軍は可愛岳から鹿児島へ抜ける険しい敗走の道しか残されていませんでした。
 西郷隆盛最後の本陣となった俵野の児玉熊四郎宅には、薩軍や西郷ゆかりの品々が残され資料館として開放されています。
 北川町俵野の児玉熊四郎宅に宿陣をはった西郷は、8月17日、ついに薩軍解散の令を出し、陸軍大将の軍服を裏庭で焼いたといわれます。
 その夜、可愛岳突破を敢行(かんこう)。先頭に2人の猟夫と数人の樵夫を道案内に立て、険しい岩場や鬱蒼とした樹木の間をくぐり、傷だらけになっての山越えでした。疲れ切って西郷軍が中ノ越に達したのは18日の明け方であったと言われています。行軍に当たって桐野利秋は細心の注意を払い、追手の政府軍に気取られぬよう「煙草を喫まぬこと、敵に遭遇しても発砲せぬこと、談話せぬこと、道標として先頭のものは木の枝に白紙を結んでいくこと」という戒めを守らせたそうです。
「 西郷隆盛の最後 」
 鹿児島にたどり着いた西郷隆盛は、9月24日、城山で自決、西郷軍は崩壊しました。日本最後の内戦と言われた西南の役も、ここに終止符を打ったのでした。
 現在、鹿児島市上竜尾町にある南洲墓地には、西郷隆盛はじめ二千四百余名にのぼる戦死者の霊が眠っています。

【 雑記 】
 ここ最近(2018)、撮影会と飲み会へだけは出動するようにしていますが、外出回数も激減し、ほとんど家ゴロの毎日を送っています。なので、こうして古い写真を引っぱり出して指先を動かし昔の旅行記を作成することはボケ防止にはいいかも。ハハ・・

同行者
一人旅
一人あたり費用
10万円 - 15万円
交通手段
自家用車 徒歩

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  • ■GW九州縦断ロングドライブ旅 西郷隆盛宿陣跡資料館~の巻<br />▽道の駅日向物産館/宮崎県日向市幸脇<br /> GW九州縦断車旅3日目です。この日は宮崎市内のHを出発して6年ぶりに平和台公園を散策したあと、日向灘を右手に見ながら日向市と延岡市へ向かって走っていきました。<br />

    ■GW九州縦断ロングドライブ旅 西郷隆盛宿陣跡資料館~の巻
    ▽道の駅日向物産館/宮崎県日向市幸脇
     GW九州縦断車旅3日目です。この日は宮崎市内のHを出発して6年ぶりに平和台公園を散策したあと、日向灘を右手に見ながら日向市と延岡市へ向かって走っていきました。

  • ▽道の駅日向物産館/宮崎県日向市幸脇<br /> 美々津港をあとにして、道の駅日向物産館へ立ち寄りました。日向市街地から南へ8kmの国道10号沿いにあります。

    ▽道の駅日向物産館/宮崎県日向市幸脇
     美々津港をあとにして、道の駅日向物産館へ立ち寄りました。日向市街地から南へ8kmの国道10号沿いにあります。

  • ▽道の駅日向物産館/宮崎県日向市幸脇<br /> JR日豊本線

    ▽道の駅日向物産館/宮崎県日向市幸脇
     JR日豊本線

  • ▽金ケ浜シーサイドパーク太平洋/宮崎県日向市平岩<br /> 海の神

    ▽金ケ浜シーサイドパーク太平洋/宮崎県日向市平岩
     海の神

  • ▽金ケ浜シーサイドパーク太平洋/宮崎県日向市平岩<br /> <br /> 

    ▽金ケ浜シーサイドパーク太平洋/宮崎県日向市平岩
     
     

  • ▽金ケ浜シーサイドパーク太平洋/宮崎県日向市平岩<br /> <br /> 

    ▽金ケ浜シーサイドパーク太平洋/宮崎県日向市平岩
     
     

  • ▽金ケ浜シーサイドパーク太平洋/宮崎県日向市平岩<br /> <br /> 

    ▽金ケ浜シーサイドパーク太平洋/宮崎県日向市平岩
     
     

  • ▽金ケ浜海水浴場/宮崎県日向市平岩<br /> サーフィンスポットとして有名な金ヶ浜。

    ▽金ケ浜海水浴場/宮崎県日向市平岩
     サーフィンスポットとして有名な金ヶ浜。

  • ▽金ケ浜海水浴場/宮崎県日向市平岩<br /> 休憩がてら、しばらく波に乗るサーファーを見ていました。

    ▽金ケ浜海水浴場/宮崎県日向市平岩
     休憩がてら、しばらく波に乗るサーファーを見ていました。

  • ▽金ケ浜海水浴場/宮崎県日向市平岩<br /> 気持ちよさそう~

    ▽金ケ浜海水浴場/宮崎県日向市平岩
     気持ちよさそう~

  • ▽金ケ浜海水浴場/宮崎県日向市平岩<br /> 

    ▽金ケ浜海水浴場/宮崎県日向市平岩
     

  • ▽西郷隆盛宿陣跡資料館/宮崎県延岡市北川町<br /> 道中、資料館の看板があり興味もありましたので入館してみました。

    ▽西郷隆盛宿陣跡資料館/宮崎県延岡市北川町
     道中、資料館の看板があり興味もありましたので入館してみました。

  • ▽西郷隆盛宿陣跡資料館/宮崎県延岡市北川町<br />~延岡市HPより~<br /> 明治10年に西南戦争が勃発し、西郷隆盛率いる薩軍は政府軍との攻防戦が続きましたが、少数の兵力では勝ち目はなく、西郷軍は北川へと敗走しました。<br /> 

    ▽西郷隆盛宿陣跡資料館/宮崎県延岡市北川町
    ~延岡市HPより~
     明治10年に西南戦争が勃発し、西郷隆盛率いる薩軍は政府軍との攻防戦が続きましたが、少数の兵力では勝ち目はなく、西郷軍は北川へと敗走しました。
     

  • ▽西郷隆盛宿陣跡資料館/宮崎県延岡市北川町<br /> 北川町の俵野に宿陣をはった西郷は、ついに薩軍解散の命を出し、陸軍大将の軍服を裏庭で焼いたと言われます。<br /> 

    ▽西郷隆盛宿陣跡資料館/宮崎県延岡市北川町
     北川町の俵野に宿陣をはった西郷は、ついに薩軍解散の命を出し、陸軍大将の軍服を裏庭で焼いたと言われます。
     

  • ▽西郷隆盛宿陣跡資料館/宮崎県延岡市北川町<br /> その後、可愛岳突破を敢行し、鹿児島に辿り着いた西郷は城山で自決し、西郷軍は崩壊しました。<br /> 

    ▽西郷隆盛宿陣跡資料館/宮崎県延岡市北川町
     その後、可愛岳突破を敢行し、鹿児島に辿り着いた西郷は城山で自決し、西郷軍は崩壊しました。
     

  • ▽西郷隆盛宿陣跡資料館/宮崎県延岡市北川町<br /> 北川町の俵野で解散をし、薩軍最後の宿陣となった児玉熊四郎邸は、昭和8年12月5日に史跡として県指定を受けており、現在も、西郷隆盛宿陣跡資料館として、西郷隆盛の遺品やゆかりの品々を展示しています。<br /><br />

    ▽西郷隆盛宿陣跡資料館/宮崎県延岡市北川町
     北川町の俵野で解散をし、薩軍最後の宿陣となった児玉熊四郎邸は、昭和8年12月5日に史跡として県指定を受けており、現在も、西郷隆盛宿陣跡資料館として、西郷隆盛の遺品やゆかりの品々を展示しています。

  • ▽西郷隆盛宿陣跡資料館/宮崎県延岡市北川町<br /> 

    ▽西郷隆盛宿陣跡資料館/宮崎県延岡市北川町
     

  • ▽西郷隆盛宿陣跡資料館/宮崎県延岡市北川町<br />~西郷隆盛と北川町商工会観光案内より~<br />「西南の役勃発」明治6年、政変に敗れた西郷隆盛が政界を退き、農業でもするつもりで鹿児島に帰ると、主だった側近達、桐野利秋、篠原国幹、村田新八も職を辞し、相次いで鹿児島に帰って来ました。<br /> 

    ▽西郷隆盛宿陣跡資料館/宮崎県延岡市北川町
    ~西郷隆盛と北川町商工会観光案内より~
    「西南の役勃発」明治6年、政変に敗れた西郷隆盛が政界を退き、農業でもするつもりで鹿児島に帰ると、主だった側近達、桐野利秋、篠原国幹、村田新八も職を辞し、相次いで鹿児島に帰って来ました。
     

  • ▽西郷隆盛宿陣跡資料館/宮崎県延岡市北川町<br /> 鹿児島での西郷は、愛犬を連れて猟を楽しんだり、好きな温泉に入ったりという日々でしたが、時の流れはそんな西郷ののんびりした生活を許してはくれませんでした。<br /> 

    ▽西郷隆盛宿陣跡資料館/宮崎県延岡市北川町
     鹿児島での西郷は、愛犬を連れて猟を楽しんだり、好きな温泉に入ったりという日々でしたが、時の流れはそんな西郷ののんびりした生活を許してはくれませんでした。
     

  • ▽西郷隆盛宿陣跡資料館/宮崎県延岡市北川町<br /> 西郷の創設した私学校で起きた私学校党の爆薬掠奪事件が引き金となって、明治10年2月、俗にいう「西南の役」が勃発、ついに西郷も立ち上がらざるを得なくなったのです。<br /> 

    ▽西郷隆盛宿陣跡資料館/宮崎県延岡市北川町
     西郷の創設した私学校で起きた私学校党の爆薬掠奪事件が引き金となって、明治10年2月、俗にいう「西南の役」が勃発、ついに西郷も立ち上がらざるを得なくなったのです。
     

  • ▽西郷隆盛宿陣跡資料館/宮崎県延岡市北川町<br /> 明治10年2月15日鹿児島で兵を挙げると、50年ぶりの大雪の中、攻撃目標の熊本へと行軍を開始しました。<br />

    ▽西郷隆盛宿陣跡資料館/宮崎県延岡市北川町
     明治10年2月15日鹿児島で兵を挙げると、50年ぶりの大雪の中、攻撃目標の熊本へと行軍を開始しました。

  • ▽西郷隆盛宿陣跡資料館/宮崎県延岡市北川町<br />「西郷軍の戦い」熊本では、谷干城司令官率いる政府軍のたてこもる熊本城に総攻撃をかけたものの城を落とすことはできません。城を出た政府軍と熾烈(しれつ)な攻防戦が繰り広げられましたが、3月3日、吉次峠で一番隊長の篠原国幹が戦死、そのほかにも多くの戦死者を出しました。<br />

    ▽西郷隆盛宿陣跡資料館/宮崎県延岡市北川町
    「西郷軍の戦い」熊本では、谷干城司令官率いる政府軍のたてこもる熊本城に総攻撃をかけたものの城を落とすことはできません。城を出た政府軍と熾烈(しれつ)な攻防戦が繰り広げられましたが、3月3日、吉次峠で一番隊長の篠原国幹が戦死、そのほかにも多くの戦死者を出しました。

  • ▽西郷隆盛宿陣跡資料館/宮崎県延岡市北川町<br /> 戦闘は激しさを増し、西郷軍も必死の戦いを挑みますが、数に勝る政府軍の前には力及ばず、ついに3月15日、頼みの田原坂―吉次峠の防衛ラインが分断され、3月17日には田原坂も政府軍の手に落ちてしまいました。それから西郷軍の敗走が始まったのです。<br />

    ▽西郷隆盛宿陣跡資料館/宮崎県延岡市北川町
     戦闘は激しさを増し、西郷軍も必死の戦いを挑みますが、数に勝る政府軍の前には力及ばず、ついに3月15日、頼みの田原坂―吉次峠の防衛ラインが分断され、3月17日には田原坂も政府軍の手に落ちてしまいました。それから西郷軍の敗走が始まったのです。

  • ▽西郷隆盛宿陣跡資料館/宮崎県延岡市北川町<br /> 

    ▽西郷隆盛宿陣跡資料館/宮崎県延岡市北川町
     

  • ▽西郷隆盛宿陣跡資料館/宮崎県延岡市北川町<br />「敗走する西郷軍」政府軍に追われ、右往左往する西郷軍は、4月27日椎葉越えして人吉へ、さらに加久藤峠(えびの市)を越えて、宮崎方面に敗走を続け、5月31日宮崎入りしました。<br />

    ▽西郷隆盛宿陣跡資料館/宮崎県延岡市北川町
    「敗走する西郷軍」政府軍に追われ、右往左往する西郷軍は、4月27日椎葉越えして人吉へ、さらに加久藤峠(えびの市)を越えて、宮崎方面に敗走を続け、5月31日宮崎入りしました。

  • ▽西郷隆盛宿陣跡資料館/宮崎県延岡市北川町<br /> 現在の宮崎市広島1丁目近くの農家、黒木某宅に本陣を置き、約2ヶ月滞在したそうです。跡地には「西郷隆盛駐在の地」として「敬天愛人」の石碑と案内板が建っています。<br /> 

    ▽西郷隆盛宿陣跡資料館/宮崎県延岡市北川町
     現在の宮崎市広島1丁目近くの農家、黒木某宅に本陣を置き、約2ヶ月滞在したそうです。跡地には「西郷隆盛駐在の地」として「敬天愛人」の石碑と案内板が建っています。
     

  • ▽西郷隆盛宿陣跡資料館/宮崎県延岡市北川町<br /> しかし、そこにもそう長く落ちつくことは出来ず、宮崎を出て都農の報恩寺に一泊した後、延岡まで退却、延岡が官軍の手におちる直前、延岡の大貫に在った西郷は、8月11日五ヶ瀬川を下り、東海港を経て、北川を遡り、翌12日野峰の吉祥寺に入りました。隊士たちも続々北川長井村に集結しました。<br /> 

    ▽西郷隆盛宿陣跡資料館/宮崎県延岡市北川町
     しかし、そこにもそう長く落ちつくことは出来ず、宮崎を出て都農の報恩寺に一泊した後、延岡まで退却、延岡が官軍の手におちる直前、延岡の大貫に在った西郷は、8月11日五ヶ瀬川を下り、東海港を経て、北川を遡り、翌12日野峰の吉祥寺に入りました。隊士たちも続々北川長井村に集結しました。
     

  • ▽西郷隆盛宿陣跡資料館/宮崎県延岡市北川町<br /> 8月14日笹首の小野彦治氏方において、西郷軍は最後の決戦となる和田越戦の軍議を開き、この席で、西郷は「明日の和田越戦の指揮は自分が執る」と伝えたと言われています。<br /> 翌8月15日、西郷軍は最後の士気を奮いたたせて和田越えの戦場に臨みました。<br />

    ▽西郷隆盛宿陣跡資料館/宮崎県延岡市北川町
     8月14日笹首の小野彦治氏方において、西郷軍は最後の決戦となる和田越戦の軍議を開き、この席で、西郷は「明日の和田越戦の指揮は自分が執る」と伝えたと言われています。
     翌8月15日、西郷軍は最後の士気を奮いたたせて和田越えの戦場に臨みました。

  • ▽西郷隆盛宿陣跡資料館/宮崎県延岡市北川町<br /> 和田越は、西南の役最後の激戦地としてあまりにも有名ですが、西郷軍三千に対して、政府軍は五万、朝から昼過ぎまで続いた戦闘に善戦はしても所詮勝ち目はなく、西郷軍は再び北川へと退きました。<br />

    ▽西郷隆盛宿陣跡資料館/宮崎県延岡市北川町
     和田越は、西南の役最後の激戦地としてあまりにも有名ですが、西郷軍三千に対して、政府軍は五万、朝から昼過ぎまで続いた戦闘に善戦はしても所詮勝ち目はなく、西郷軍は再び北川へと退きました。

  • ▽西郷隆盛宿陣跡資料館/宮崎県延岡市北川町<br /> 和田越は、延岡市無鹿町の北側丘陵に当たり、和田越トンネルが抜けています。その入口に「西南の役和田越戦跡」の標柱と、出口には有名な野口雨情の「逢いはせなんだか あの和田越で 薩摩なまりの落人に」の歌碑や案内板が建っています。<br />

    ▽西郷隆盛宿陣跡資料館/宮崎県延岡市北川町
     和田越は、延岡市無鹿町の北側丘陵に当たり、和田越トンネルが抜けています。その入口に「西南の役和田越戦跡」の標柱と、出口には有名な野口雨情の「逢いはせなんだか あの和田越で 薩摩なまりの落人に」の歌碑や案内板が建っています。

  • ▽西郷隆盛宿陣跡資料館/宮崎県延岡市北川町<br /> 

    ▽西郷隆盛宿陣跡資料館/宮崎県延岡市北川町
     

  • ▽西郷隆盛宿陣跡資料館/宮崎県延岡市北川町<br />「北川での西郷」明治10年8月15日、山県有朋中将ひきいる官軍三万五千と西郷隆盛率いる薩軍三千五百は、最後の戦いとなる和田越の決戦を迎えます。<br /> ここで敗れた薩軍は可愛岳から鹿児島へ抜ける険しい敗走の道しか残されていませんでした。<br /> 

    ▽西郷隆盛宿陣跡資料館/宮崎県延岡市北川町
    「北川での西郷」明治10年8月15日、山県有朋中将ひきいる官軍三万五千と西郷隆盛率いる薩軍三千五百は、最後の戦いとなる和田越の決戦を迎えます。
     ここで敗れた薩軍は可愛岳から鹿児島へ抜ける険しい敗走の道しか残されていませんでした。
     

  • ▽西郷隆盛宿陣跡資料館/宮崎県延岡市北川町<br /> 西郷隆盛最後の本陣となった俵野の児玉熊四郎宅には、薩軍や西郷ゆかりの品々が残され資料館として開放されています。<br /> 北川町俵野の児玉熊四郎宅に宿陣をはった西郷は、8月17日、ついに薩軍解散の令を出し、陸軍大将の軍服を裏庭で焼いたといわれます。<br />

    ▽西郷隆盛宿陣跡資料館/宮崎県延岡市北川町
     西郷隆盛最後の本陣となった俵野の児玉熊四郎宅には、薩軍や西郷ゆかりの品々が残され資料館として開放されています。
     北川町俵野の児玉熊四郎宅に宿陣をはった西郷は、8月17日、ついに薩軍解散の令を出し、陸軍大将の軍服を裏庭で焼いたといわれます。

  • ▽西郷隆盛宿陣跡資料館/宮崎県延岡市北川町<br /> その夜、可愛岳突破を敢行(かんこう)。先頭に2人の猟夫と数人の樵夫を道案内に立て、険しい岩場や鬱蒼とした樹木の間をくぐり、傷だらけになっての山越えでした。疲れ切って西郷軍が中ノ越に達したのは18日の明け方であったと言われています。<br />

    ▽西郷隆盛宿陣跡資料館/宮崎県延岡市北川町
     その夜、可愛岳突破を敢行(かんこう)。先頭に2人の猟夫と数人の樵夫を道案内に立て、険しい岩場や鬱蒼とした樹木の間をくぐり、傷だらけになっての山越えでした。疲れ切って西郷軍が中ノ越に達したのは18日の明け方であったと言われています。

  • ▽西郷隆盛宿陣跡資料館/宮崎県延岡市北川町<br /> 行軍に当たって桐野利秋は細心の注意を払い、追手の政府軍に気取られぬよう「煙草を喫まぬこと、敵に遭遇しても発砲せぬこと、談話せぬこと、道標として先頭のものは木の枝に白紙を結んでいくこと」という戒めを守らせたそうです。<br />

    ▽西郷隆盛宿陣跡資料館/宮崎県延岡市北川町
     行軍に当たって桐野利秋は細心の注意を払い、追手の政府軍に気取られぬよう「煙草を喫まぬこと、敵に遭遇しても発砲せぬこと、談話せぬこと、道標として先頭のものは木の枝に白紙を結んでいくこと」という戒めを守らせたそうです。

  • ▽西郷隆盛宿陣跡資料館/宮崎県延岡市北川町<br />「西郷隆盛の最後」鹿児島にたどり着いた西郷隆盛は、9月24日、城山で自決、西郷軍は崩壊しました。日本最後の内戦と言われた西南の役も、ここに終止符を打ったのでした。<br /> 

    ▽西郷隆盛宿陣跡資料館/宮崎県延岡市北川町
    「西郷隆盛の最後」鹿児島にたどり着いた西郷隆盛は、9月24日、城山で自決、西郷軍は崩壊しました。日本最後の内戦と言われた西南の役も、ここに終止符を打ったのでした。
     

  • ▽西郷隆盛宿陣跡資料館/宮崎県延岡市北川町<br /> 現在、鹿児島市上竜尾町にある南洲墓地には、西郷隆盛はじめ二千四百余名にのぼる戦死者の霊が眠っています。<br /><br />

    ▽西郷隆盛宿陣跡資料館/宮崎県延岡市北川町
     現在、鹿児島市上竜尾町にある南洲墓地には、西郷隆盛はじめ二千四百余名にのぼる戦死者の霊が眠っています。

  • ▽西郷隆盛宿陣跡資料館/宮崎県延岡市北川町<br /> 最後の軍議の様子をろう人形で再現したものです。

    ▽西郷隆盛宿陣跡資料館/宮崎県延岡市北川町
     最後の軍議の様子をろう人形で再現したものです。

  • ▽延岡南道路からR326号線<br /> さてとドリンク飲んで、眠気を覚まし気合一発!<br />

    ▽延岡南道路からR326号線
     さてとドリンク飲んで、眠気を覚まし気合一発!

  • ▽延岡南道路からR326号線<br /> 西郷隆盛宿陣跡資料館をあとにして「道の駅宇目」へ向かっています。

    ▽延岡南道路からR326号線
     西郷隆盛宿陣跡資料館をあとにして「道の駅宇目」へ向かっています。

  • ▽ととろの森/大分県佐伯市宇目町<br /> 旅日記は「密かな観光スポット・ととろのバス停」へ続きます。<br /><br />  THE END.  それでは、また~。

    ▽ととろの森/大分県佐伯市宇目町
     旅日記は「密かな観光スポット・ととろのバス停」へ続きます。

      THE END.  それでは、また~。

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