2014/02/28 - 2014/03/06
40位(同エリア147件中)
白い雲さん
これまでギリシャの認識としては、アクロポリスの丘がすべてでした。古代に都市国家が栄えていたことは、知っていましたがその詳細や具体については、全く知らなかったと言わざるを得ません。
今回の旅で見聞きしたことは、BC2000頃 クレタ島にミノア文明が、BC1500頃 ペロポネソス半島にミケーネ文明が栄え、BC1200頃には北の方からドーリア人が侵入しました。ミケーネ文明の崩壊後は、暗黒時代と呼ばれる時代になりましたが、BC8世紀頃になると都市国家(ポリス)がつぎつぎと成立し、古代ギリシャ文明が花咲いたことでした。
アクロポリスの丘のパルテノン神殿はもちろんのこと、スニオン岬のポセイドン神殿、エギナ島のアフェア神殿そしてデルフィ遺跡が、この時代の文化遺跡も見物しました。
これらの遺跡を見物して、古代のギリシャの繁栄ぶりを少しだけ覗いたような気分になりました。
そんな感想を書きます。
- 旅行の満足度
- 4.5
- 観光
- 4.5
- ホテル
- 3.5
- グルメ
- 2.5
- ショッピング
- 2.5
- 交通
- 3.5
- 同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- 一人あたり費用
- 20万円 - 25万円
- 交通手段
- 観光バス
- 航空会社
- エミレーツ航空
- 旅行の手配内容
- ツアー(添乗員同行あり)
- 利用旅行会社
- JTB
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今のアテネから20kmほどのところにあるピレウス港から、南西に30kmほど離れてエギナ島があります。
今は、ピスタチオの産地として良く知られていますが、BC10世紀からBC7世紀にかけては、貿易の中心地として繁栄したようです。
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この島が栄えていたころのBC6世紀末からBC5世紀にかけて建築されたのがアフェア神殿です。
この神殿は、パルテノン神殿より50年早く建築されたドーリア様式の神殿であるとの説明を聞きました。石灰石の柱が前後に6本ずつ、側面に12本ずつ計32本配置されていたようですが、今は24本となっています。北側の3本以外は、1本石でできているのだそうです。石材は、地元産の石灰石で、古代には赤色に塗られていたという話でした。切り妻屋根の土台部分が残っています。 -
1901年に発見された碑によって、アフェアに捧げられた神殿であることが判明しました。
この地方の伝承に、クレタ島のアフェアという美しい娘が望まない結婚を強要され困っていました。これを助けたのがエギナ島の漁師でした。ところが漁師は助けたことを理由にアフェアに結婚を迫りました。アフェアはこれも拒否して木々が茂る丘(標高160m)に姿を消しました。アフェアは神々に連れて行かれたと信じた漁師が神殿を建設したという話です。 -
アテネから西に180kmほどのところ、パルナッソス山の麓にデルフィの遺跡があります。
19世紀末フランスの考古学者たちが傾斜地の中から発掘しました。
アポロンの神殿跡や競技場、円形劇場、古代アゴラなどが残されていました。
デルフィは、ポイボス・アポーロンを祀る神殿で下される「デルフィの神託」で、ギリシャ各地から人を集めたようです。 -
現在、アテネに通ずる道路の脇にカスタルの泉跡が残っています。ここでは、デルフィの神託を伺いに来た人たちが、身を清めてアポロンの神殿に赴いたということでした。
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表紙の写真は、デルフィ博物館に展示されていたデルフィ遺跡全体の模型です。
遺跡の入口を入るとローマ時代のアゴラ跡が残っています。
ローマ帝国の時代には、ここに商店が並び、訪れる人たちの便宜を図ったようです。 -
石柱が並ぶ反対側の傾斜地を利用して、狭いながらも商店が構えられていた跡も覗えました。
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さらに見学路を登ると、キルケラの牡牛の台座があります。
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アポロンの神殿の手前には、アポロンの祭壇があります。
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アポロン神殿の壁には、1000を超すメッセージが残されています。
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この写真は、復元されたアテネの宝庫です。
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このような宝庫は、各都市国家がアポロンの神殿に貢ぐ捧げ物などを収蔵した建物でした。
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アポロンの神殿の下に見えるアテネの宝庫です。屋根の部分は復元されていませんでした。
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デルフィ遺跡の中心アポロン神殿跡です。
右手前に地下室があってその中で巫女(シビュッラ)によって告げられる託宣(デルフィの神託)が謎のような詩で告げられ、それを取り次ぎ者が、神託を伺いに来た都市国家の王を初めとする指導者たちに伝えました。この神託は政策決定に影響したというのです。 -
託宣は、神の意志として人々に尊重され政策の決定に影響したので、中には賄賂を送って、神託を都合良く変えさせる者もいたと言うことを聞くと、昔も今も変わらないと思ったりしました。
そうした人たちが各都市国家からやってくるので、各都市国家の宝庫は、今でいう大使館のような役割も果たしていたのだそうです。 -
アポロンの神殿の上には、5000人を収容したという円形劇場も残されていました。
託宣を伺うために、各都市国家から大勢の人が集まるので、デルフィは古代ギリシャの中心として、文化面でも栄えたようです。 -
円形劇場は、高度な土木技術によって造られていて、排水溝などがしっかりと造られ、整った文化施設であったようです。
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円形劇場のさらに上には、ピュティアの競技場があります。
各都市国家の代表選手が集まって体力と技を競った場所です。
写真手前には、石を埋め込んだスタートラインが残っていて、ローマ時代を取り上げた大スペクタクル映画「ベン・ハー」の戦車競技を彷彿とさせられました。 -
ピュティア競技場での競技は、各都市国家の威信をかけての大会になっていたので、選手は事前に練習を重ねるため、ピュティア競技場の近くに訓練場も設けられていました。
この競技大会での優勝者は、所属の都市国家では特別な待遇を受ける名誉あるものでした。
また、この競技会を各都市国家は重視しており、たとえ戦争中であっても戦争を一時中断して競技会に選手を送り込んだというのです。今のオリンピックの元だというのであれば、近代オリンピックもそうあれば良いのにと思わずにはいられませんでした。 -
デルフィ遺跡は、ギリシャ政府がフランスの学者たちに発掘物を国外に持ち出さないことを約束させて発掘されたので、貴重な文化遺産がギリシャに残りました。
その文化遺産を真新しい博物館が、観光客に向けて、展示してあります。 -
博物館の入口近くには、竪琴を弾くアポロンを描いた盃が展示されていました。
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アポロン神殿の地下室で、巫女が告げる謎のような詩の託宣を伺いに、多くの都市国家から人々が集まったので、当時、デルフィは世界の中心だと考えられていました。
それを形に表したのでしょうか、アポロン神殿の地下から「大地のヘソ」と呼ばれる巨大な石が発掘され、展示されていました。 -
アポロン神殿の切り妻の破風に飾られた彫刻です。
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アポロン神殿の梁を飾るライオンのレリーフです。
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アポロン神殿の柱の装飾には、この土地に生えるアカンサスの巨大な葉が飾りとして取り付けられています。
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博物館内に入るとすぐの大きな部屋で、最も目立つナクソス人の有翼スフインクス像が立っています。
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円柱上の3体の女性像です。
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クロース(青年)像です。クレオスとビトンという青年たちです。
後ろから見ると、お尻がプリプリと造られいて、いかにも青年を感じます。 -
アギラス像
有名な運動競技選手です。(BC335 ) -
ソクラテスの友人がデルフィで「ソクラテスより賢い人間はいない」という託宣をえて、その哲学的探求をなしたと言われていますが、博物館には「哲学者とその家族」という彫刻が展示されていました。
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その哲学者の家族の中心になっている石像です。そうすると、ソクラテスなのかもしれません。
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デルフィ博物館で最も有名なのが「青銅の御者」です。ほぼ完璧な像の右手には手綱が握られています。この右側の壁面には、この青銅の御者がどのような構成の作品だったかのかを表す馬車の図面が書かれていますが、御者以外の部分は残っていないようです。
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アポロン像の頭部です。金製の飾りが残っていました。
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青銅の蓋の付いた香炉です。
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銀で作られた牡牛の像ですが、木製部分が腐食してしまって、残っているのは銀で作られた部分だけです。
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アテネの街中からは、アクロポリスの丘を至るところから見ることができます。海抜150mで市街地から70mのところにそびえています。
この丘の頂上には、アテネの守護神・女神アテ-ナーを祀るパルテノン神殿があります。
BC447に建設が始まり、BC438 に完工したといいます。しかし、装飾の取り付けはその後も続けられたようです。
建築様式は、古代ギリシャ建築を代表するドーリア様式の建物です。基盤は、長さ69.5m、幅30.9mで、胞室は長さが29.8m、幅19.2mです。内部は、屋根を支える2列の柱、外周のドーリァ式円柱は、直径1.9m、高さ10.4mもあります。石柱は、外周に46本、内部に19本配置されています。 -
プロピレア(入場門)です。
アクロポリスの丘の西側に位置しています。BC6世紀に完成していたのですが、ペルシャ戦争(BC480)で破壊され、その後修復に取りかかりましたが、未だに一部未完成です。
中央にドーリア式の柱が6本、左右に3本ずつイオニア式の柱が立っています。 -
プロピレア(入場門)の左手にありますアグリッパの台座とピナコテクです。
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プロピレア(入場門)の右手にありますアテナ・ニケ神殿です。
BC427に着工されましたが、勝利の女神ニケが飛んで他所へ行かないように、翼の無い二ケを祀ったということです。 -
プロピレア(入場門)を通り抜けると、前方にパルテノン神殿が見えます。
アテネの守護神・ アテ-ナーを祀る神殿として造られました。
ペンテリコン山の大理石が使われたということです。古代ギリシャのドーリア式建造物の代表です。
BC480 には、ペルシャ戦争で破壊され再建されたものの、その後はローマ帝国の支配下でキリスト教の聖堂となったり、オスマン帝国の支配下ではモスクに使われたりしました。1687年9月26日には火薬庫として使われていたところをベネツィア共和国の攻撃を受けて爆発し大きな損害を被りました。1806年には、エルギン伯爵が残った彫刻を外して持ち去り、現在、それが大英博物館に展示されています。 -
写真は、東側から見たパルテノン神殿です。上部にペディメント(切り妻型屋根の破風)が一部残っているのが見えます。
基盤は、スタイロベートといって東西の端では60mm、南北では110mm上向きに湾曲して造られています。 -
パルテノン神殿は、胞室という内側の部屋が設けられていて、外周の柱と内側の柱の間に写真jのような空間があります。
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パルテノン神殿の北側にエレクティオン神殿があります。
なんといっても、見所はカリアテッド(女性柱)です。6体の乙女の姿をした柱が屋根部分を支えています。6体ありますがレプリカです。本物は5体が新アクロポリス博物館に、1体は大英博物館に展示されています。 -
円柱は、いくつかの石材を継ぎ足して造られます。中央に四角い穴が空けられていて、ここに材木を埋め込み上下の石材がずれないように組み立てるようです。
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夕日が美しいというスニオン岬にポセイドン神殿が残されています。スニオン岬は、エーゲ海を一望できる位置にあります。
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スニオン岬の案内図です。
エーゲ海に向かって突き出しているこの岬は、エーゲ海から攻め込む敵を発見しやすいところから、砦として使用されたこともあり、そのとき造られた城壁が描かれています。訪れたときは、修復の工事も行われていました。 -
ポセイドン神殿の建設は、BC444といわれ、建築様式はドーリア式だそうです。
現在、16本の大理石の柱が残っています。 -
古典的な神話に登場する海の神・ポセイドンを祀る神殿です。
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後の時代にこの神殿を訪れた人たちが、自分の名前やコメントを数多く残しています。
1810年にこの神殿を訪れたバイロン郷(1788〜1824)が石柱に”Byron"と落書きを残しています。 -
訪れたのは、午前9時くらいだったので、修復工事をする人の姿だけで入口で入場料を徴収する人もまだ出勤していない有様でした。帰りに入場料を払えばいいだろうと、先に見学をしました。
そんな中で、私たちを迎えてくれた野鳥です。名前は分かりません。人なつこくて、かなり近くまで寄っても平然とした様子でした。
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