2014/01/26 - 2014/01/26
137位(同エリア249件中)
ひま人さん
NHK大河ドラマ「軍師 官兵衛」の父祖の地は、近江とも播磨とも言われますが、祖父の代に備前へ移住し、播磨広峯神社の御師が配る神符とともに黒田家秘伝の目薬を販売してお家再興の礎を築き、小寺氏に仕官しました。息子職隆(もとたか)、孫官兵衛(後に如水)とともに小寺氏に仕え、官兵衛は新時代を予見して後に秀吉の配下となり「軍師」として名声を高めました。その良き師匠でもあったのが竹中半兵衛で、2人は「二兵衛」「両兵衛」と並び称されたとも伝えられます。今回は官兵衛生涯最愛の妻・光姫(てるひめ)出生を伝える観音寺(志方城址)、三木城攻めの跡と竹中半兵衛墓所、仏殿とも思える拝殿・本殿を有し、御師の屋敷も数件残す姫路山間の広峰神社など、ドラマ前半の舞台を巡りました。
写真は、当日偶然にも、観音寺(志方城址)から、光姫の輿入れの行列に会い、大勢の見物客で賑わっていました。又、この日は大河ドラマも、光姫の輿入れが放映されていました。
- 旅行の満足度
- 4.0
- 観光
- 4.0
- 同行者
- 友人
- 一人あたり費用
- 1万円未満
- 交通手段
- 高速・路線バス 観光バス JRローカル 私鉄 徒歩
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志方城跡。城主・櫛橋家は伊朝を元祖とし代々赤松氏の家臣でした。伊朝より五代の孫、櫛橋左京亮則伊は、赤松政則に仕えて大いに重んじられ、祖父の例にならって播備作三国の財産出納の役を務め文明13年(1481年)志方・天神山に城を築き、明応元年(1492年)この地方に志方城を築きました。以来、伊家、伊定、政伊と父子四代続き、天正6年(1578年)羽柴秀吉の攻略に会って落城しました。伊定(これさだ)の娘、光(てる)は秀吉の軍師として活躍した黒田官兵衛の妻となり、結婚した翌年嫡男が生まれました。後の福岡藩主・黒田長政です。
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観音寺本堂。曹洞宗、本尊は観世音菩薩です。この寺は志方城落城の後、天正15年(1587年)、宝岩宗珍和尚が城主の墓碑を守るために城の本丸跡に禅寺を建立したのが始まりです。
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観音寺本堂。
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観音寺寺額。
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光姫輿入れの行列。
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輿入れの行列。光姫のモデルは、地元中学3年生だそうです。
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輿入れの行列。志方町内を巡回し志方城祉内の小学校に戻ってくるコースでした。多くの見物客と出店で賑わっていました。
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二の丸の志方小学校前に城主・櫛橋家の墓所があります。
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竹中半兵衛墓所。羽柴秀吉が播磨攻略の際、二人の軍師で作戦に当たらせていた。一人は黒田官兵衛、もう一人は竹中半兵衛であった。三木城攻防戦たけなわの頃、竹中半兵衛は胸を病んでいた。秀吉のすすめで京都で療養していたが、折からはかばしく進展しない戦況を案ずるあまり、カゴにのって戦場へ逆戻り、夜半に本営にのりつけた。「なぜ、帰ってきたのだ。」と問う秀吉に不敵な笑みを浮かべ「陣中で死にたかったまででござる。」暗闇の中でキラリと目を輝かせたという。
天正7年6月、半兵衛は陣中でなくなった。36歳であった。秀吉は遺体に取りすがり、人前もはばからず泣き崩れたという。 -
三木市、国登録有形文化財「旧玉置家住宅」。正面側(母屋、店部分)。この建物は、文政9年(1826年)に上州館林藩の財政立て直し策を図るため、切手会所(今の銀行)として建てられたのが始まりです。江戸末期から明治にかけての生活様式が見られる。敷地1382?、延べ床面積484?。
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旧玉置家住宅、外庭側・北蔵と離れ座敷。
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三木市立金物資料館。鉄筋平屋建て・校倉様式 176?。金物産業も時代の要請につれて、伝統的手工業から機械による生産方法に進み、古来から伝わる製法や金物製品等が散逸してしまう恐れが出てきたため、これら貴重な資料を収集・保存するために昭和51年6月に開館したものです。
この内、鍛冶用具324点、製品300点が登録有形民俗文化財に登録されています。 -
唱歌「村のかじ屋」記念碑。「金物の町」としてのイメージを永く残すため、金物資料館前庭に設置されている。
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金物神社。昭和10年創建。金物に縁のある古代の三神、天目一箇命(あめのまひとつのみこと、鍛冶の祖神)、金山毘古命(かなやまひこのみこと、鉄鋼の祖神)、伊斬許理度売命(いしこりどめのみこと、鋳物の祖神)を金物業者共同の守護神として奉斎しています。
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古式鍛錬場。古式にのっとり毎月第1日曜日に実演が行われています。
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三木城主・別所長治の首塚。
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雲龍寺。別所長治の命日1月17日には法要が営まれ、飢餓に喘いだ城兵が藁を食したという故事にちなんで藁に見立てたうどんが振る舞われる。
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別所長治像(べっしょながはる)、三木城本丸跡。元亀元年(1570年)、父・安治の病死により叔父の吉親・重宗を後見役に若くして家督を継ぐ。長治は早くから織田信長に従っておったが、信長が中国地方の毛利氏を制圧しようと、羽柴秀吉を総大将に不満を感じ、信長に反逆した。多くの周辺国も同調し、東播磨国一帯が反織田となる。これにより、長治は信長の命を受けた秀吉の軍勢に攻められることとなる。長治は三木城に籠って徹底抗戦して秀吉を手こずらせるが、やがて秀吉の「三木の干し殺し」戦法に遭い、毛利氏からの援軍も途絶えて、遂に籠城してから2年後の天正8年(1580年)、城兵達の命を助けることと引き換えに妻子兄弟とともに自害した。
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別所長治辞世の句碑、三木城本丸跡。
「今はただうらみもあらじ 諸人のいのちにかはる 我身とおもへば」 -
三木城本丸跡。
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広峰神社。崇神天皇(BC97-BC30)の御代に広峰山建てたとある古社。
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広峰神社拝殿。
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広峰神社、拝殿(左側)と本殿(右側)。拝殿は入母屋造り、本瓦葺で、本殿は入母屋造り・檜皮葺で、室町時代の建築で重要文化財に指定されています。拝殿と本殿が軒を接するほど密着して建てられているのが特徴です。
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御師屋敷(おしやしき)。当時の広峰神社は、豪壮な土塀に囲まれ、社家は神社を囲むように点在し、どの屋敷も崖に面し、石垣を高々と積み上げ勇壮な構えであった。広峰神社の御師たちは、神主を中心とする武家団という性格もあって、いざとなれば神社を本陣として34の御師屋敷を砦とし、敵を防ぐ自衛手段であったようです。現在は、2軒のみ当時の面影を僅かに残しています。
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めぐすりの木。官兵衛の祖父・重隆の代に黒田家は備前・福岡から姫路に移り、広峰神社の御師が配る神符(おふだ)とともに黒田家秘伝の目薬を売って財を蓄え黒田家発展の基礎を築きました。この木から「めぐすり」を調合したらしい。
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