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NHK日曜美術館を見て行きたくなったので、1月2日〜3月2日迄江戸東京博物館で開催されている大浮世絵展を観賞に両国に出かけました。 「あなたの見たい浮世絵に出会えます」のキャッチコピーと「日本が世界に誇る浮世絵は、江戸時代の初期に始まり、歌麿、写楽、北斎、広重などのスター絵師の活躍や、強烈なインパクトを放つ国芳らの登場を経て、小林清親や橋口五葉などの近代の画家に引き継がれました。 本展は、浮世絵研究の成果を世界に発信している「国際浮世絵学会」の創立50周年を記念して、浮世絵の名品を日本国内および世界各地から一堂に集めるものです。好事家ならずとも目にしたことのある代表的な作品約430点により、浮世絵の全史を通覧します。まさに浮世絵の“教科書”、“国際選抜”となる展覧会です。(東京会場には約350点が展示されます。展示替あり。) 会場では、“浮世”を初めて絵画の題材として取り込んだ江戸時代初期の風俗図屏風を筆頭に、菱川師宣の初期浮世絵から、歌麿・写楽が登場した「黄金期」、北斎・広重・国芳が活躍した「展開期」、そして文明開化に沸く明治時代の新聞錦絵、橋口五葉が描いたモダンな女性まで、時代を追ってご紹介します。版画だけでなく、肉筆画も多数展示するとともに、大首絵、役者絵、相撲絵、上方絵などの浮世絵が持つ多彩なジャンルも網羅します。浮世絵の全貌を紹介し、その魅力を再認識していただく展覧会です。」と言う説明に誘われて出かけました。会場は午前十時と早めの入場にもかかわらず満員でした。たっぷり三時間(最低でもこのぐらい時間がかかります)観賞した後出口を出るとチケット売場は長蛇の列でした。是非観賞にお出かけ下さい。浮世絵の世界に感動しますよ。

江戸東京博物館で大浮世絵展観賞

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2014/01/25 - 2014/01/25

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kenichi291

kenichi291さん

NHK日曜美術館を見て行きたくなったので、1月2日〜3月2日迄江戸東京博物館で開催されている大浮世絵展を観賞に両国に出かけました。 「あなたの見たい浮世絵に出会えます」のキャッチコピーと「日本が世界に誇る浮世絵は、江戸時代の初期に始まり、歌麿、写楽、北斎、広重などのスター絵師の活躍や、強烈なインパクトを放つ国芳らの登場を経て、小林清親や橋口五葉などの近代の画家に引き継がれました。 本展は、浮世絵研究の成果を世界に発信している「国際浮世絵学会」の創立50周年を記念して、浮世絵の名品を日本国内および世界各地から一堂に集めるものです。好事家ならずとも目にしたことのある代表的な作品約430点により、浮世絵の全史を通覧します。まさに浮世絵の“教科書”、“国際選抜”となる展覧会です。(東京会場には約350点が展示されます。展示替あり。) 会場では、“浮世”を初めて絵画の題材として取り込んだ江戸時代初期の風俗図屏風を筆頭に、菱川師宣の初期浮世絵から、歌麿・写楽が登場した「黄金期」、北斎・広重・国芳が活躍した「展開期」、そして文明開化に沸く明治時代の新聞錦絵、橋口五葉が描いたモダンな女性まで、時代を追ってご紹介します。版画だけでなく、肉筆画も多数展示するとともに、大首絵、役者絵、相撲絵、上方絵などの浮世絵が持つ多彩なジャンルも網羅します。浮世絵の全貌を紹介し、その魅力を再認識していただく展覧会です。」と言う説明に誘われて出かけました。会場は午前十時と早めの入場にもかかわらず満員でした。たっぷり三時間(最低でもこのぐらい時間がかかります)観賞した後出口を出るとチケット売場は長蛇の列でした。是非観賞にお出かけ下さい。浮世絵の世界に感動しますよ。

旅行の満足度
4.5
観光
4.5
同行者
カップル・夫婦(シニア)
一人あたり費用
1万円未満
交通手段
JRローカル 私鉄 徒歩
旅行の手配内容
個別手配
  • 折りしも、初場所十四日目の土俵が行われていました。

    折りしも、初場所十四日目の土俵が行われていました。

  • 入口の看板からエントランスまでが長い道のり。係りの人に聞きながらチケット売場に。<br />特別展は撮影禁止です。東洲斎写楽の重要文化財「3代目大谷鬼次の江戸兵衛」、葛飾北斎の「冨嶽三十六景 凱風快晴」、歌川広重のお宝切手で有名な「月に雁」など多数展示されています。展示替えが頻繁にあるようですので、お目当ての作品が展示されている期間に行かれる事が必要です。浮世絵は摺師と作家とのコラボ作品なんですね。間近で見るとその素晴らしさに感動します。  

    入口の看板からエントランスまでが長い道のり。係りの人に聞きながらチケット売場に。
    特別展は撮影禁止です。東洲斎写楽の重要文化財「3代目大谷鬼次の江戸兵衛」、葛飾北斎の「冨嶽三十六景 凱風快晴」、歌川広重のお宝切手で有名な「月に雁」など多数展示されています。展示替えが頻繁にあるようですので、お目当ての作品が展示されている期間に行かれる事が必要です。浮世絵は摺師と作家とのコラボ作品なんですね。間近で見るとその素晴らしさに感動します。  

  • 初めて来ましたが、ものすごく立派な施設にビックリ。眼下に国技館が見えます。

    初めて来ましたが、ものすごく立派な施設にビックリ。眼下に国技館が見えます。

  • 日本橋 「江戸東京博物館では、北側半分を復元している。復元にあたっては、1806年(文化3)と1819年(文政2)の改架記録や当時の絵画をもとにし、用材は橋杭、梁、桁、親柱などは欅(けやき)、高欄・床板などは檜(ひのき)を使った。橋脚部分には欅材を使用し、柱は鹿子打で仕上げてある。鹿子打とは、木材の表皮を手斧でまだらに削る仕上げで、鹿子削ともいう。また、唐銅製の擬宝珠は現存する「万治元戊戌」(1658年)の銘が入った実物をもとに復元してある。擬宝珠とは、橋の高欄の中柱などに取り付ける装飾で、橋の格式の高さを示している。江戸城の城門に架かる橋を除いて、江戸市中で擬宝珠が飾られた橋は、日本橋と京橋、新橋のみであった。」館の説明。 

    日本橋 「江戸東京博物館では、北側半分を復元している。復元にあたっては、1806年(文化3)と1819年(文政2)の改架記録や当時の絵画をもとにし、用材は橋杭、梁、桁、親柱などは欅(けやき)、高欄・床板などは檜(ひのき)を使った。橋脚部分には欅材を使用し、柱は鹿子打で仕上げてある。鹿子打とは、木材の表皮を手斧でまだらに削る仕上げで、鹿子削ともいう。また、唐銅製の擬宝珠は現存する「万治元戊戌」(1658年)の銘が入った実物をもとに復元してある。擬宝珠とは、橋の高欄の中柱などに取り付ける装飾で、橋の格式の高さを示している。江戸城の城門に架かる橋を除いて、江戸市中で擬宝珠が飾られた橋は、日本橋と京橋、新橋のみであった。」館の説明。 

  • 柱は鹿子打で仕上げてある。鹿子打とは、木材の表皮を手斧でまだらに削る仕上げで、鹿子削ともいう。

    柱は鹿子打で仕上げてある。鹿子打とは、木材の表皮を手斧でまだらに削る仕上げで、鹿子削ともいう。

  • 館の説明では「常設展示室は、「江戸ゾーン」「東京ゾーン」「第2企画展示室」で構成されています。5階と6階が吹き抜けになった、約9,000?の大きな展示室を生かし、綿密な調査研究を踏まえて復元した実物大模型や当時の様子を忠実に再現した縮尺模型、当時の人々が実際に使っていた実物資料など豊富に展示されております。江戸東京の都市と文化、そこに暮らす人々の生活を楽しみながら学ぶことができます。」とあります。

    館の説明では「常設展示室は、「江戸ゾーン」「東京ゾーン」「第2企画展示室」で構成されています。5階と6階が吹き抜けになった、約9,000?の大きな展示室を生かし、綿密な調査研究を踏まえて復元した実物大模型や当時の様子を忠実に再現した縮尺模型、当時の人々が実際に使っていた実物資料など豊富に展示されております。江戸東京の都市と文化、そこに暮らす人々の生活を楽しみながら学ぶことができます。」とあります。

  • 館の説明でえは「1872年(明治5)の「東京日日新聞」を皮切りに、次々と新聞が創刊され、東京の近代ジャーナリズムが開幕した。「朝野新聞」は、1874年(明治7)に創刊され、社長の成島柳北、主筆の末広鉄腸らが新政府を辛辣に批評し、人気を博した。東京では1887年(明治20)までに150紙にのぼる新聞が発行されたが、それらが竣工したばかりの銀座煉瓦街に集まり、銀座はジャーナリズムの中心地となっていった。<br /> 江戸東京博物館では、この頃の銀座煉瓦街における代表的な建物である朝野新聞社の社屋を実物大で復元している。模型の復元年代は明治10年代であるが、当時、とりわけ銀座4丁目の交差点には、「朝野新聞」「曙新聞」「東京横浜毎日新聞」という代表的な政論新聞が社屋を構え、自由民権運動の高揚にともなって、互いに論陣を張っていた。なお、朝野新聞社の社屋は後に改築されて服部時計店となり、現在は和光となっている。」

    館の説明でえは「1872年(明治5)の「東京日日新聞」を皮切りに、次々と新聞が創刊され、東京の近代ジャーナリズムが開幕した。「朝野新聞」は、1874年(明治7)に創刊され、社長の成島柳北、主筆の末広鉄腸らが新政府を辛辣に批評し、人気を博した。東京では1887年(明治20)までに150紙にのぼる新聞が発行されたが、それらが竣工したばかりの銀座煉瓦街に集まり、銀座はジャーナリズムの中心地となっていった。
     江戸東京博物館では、この頃の銀座煉瓦街における代表的な建物である朝野新聞社の社屋を実物大で復元している。模型の復元年代は明治10年代であるが、当時、とりわけ銀座4丁目の交差点には、「朝野新聞」「曙新聞」「東京横浜毎日新聞」という代表的な政論新聞が社屋を構え、自由民権運動の高揚にともなって、互いに論陣を張っていた。なお、朝野新聞社の社屋は後に改築されて服部時計店となり、現在は和光となっている。」

  • 館の説明では「江戸堺町(現・中央区日本橋人形町三丁目)にあった歌舞伎の芝居小屋・中村座の正面部分を、原寸大(間口11間(約20m)・奥行3間(約5.5m))で復元した。中村座は幕府に興行を許可された江戸三座のひとつで、他には市村座および森田座が存在した。芝居見物は人々にとって最大の娯楽であり、庶民はもちろんのこと、武家たちも日常を忘れて歌舞伎の世界に心を遊ばせた。  <br /> 屋根の上には、防災の備えとして雨水を貯めておく天水桶が設置され、中央には芝居興行の公許の印である櫓がかかげられている。櫓には、正面に中村座の座紋の「角切銀杏」、両脇に「きやうげんづくし 中むらかん三良」と染め抜かれた櫓幕が張られている。座紋の意匠は、中村勘三郎が芝居興行を幕府に願い出た折、鶴がイチョウを載せた折敷をくわえて富士山の頂上から家に舞い降りた吉夢を見たことから定めたという。櫓の下にある櫓下看板には、中村座を代表する役者「さるわかかん三良」(猿若勘三郎=中村勘三郎)「瀬川路考」「岩井半四郎」の3名が記され、その左右には絵看板や文字看板、座紋入りの提灯などで飾り立てられている。当模型の看板類は1805年(文化2)11月の顔見世興行「清和源氏二代将」を想定して作成した。顔見世興行とは、役者たちの顔ぶれが一新する重要な芝居年中行事で、芝居小屋が一年のうちで最も華やかな装いをみせた。小屋1階正面には、客席へ向かう入口が設けられ、芝居客は席のランクによって桟敷口と鼠木戸に分けられて入場した。安い席の客は、鼠木戸入ってすぐの仕切場で札(=チケット)を購入したが、この仕切場がある1階内部の土間も復元されている。」

    館の説明では「江戸堺町(現・中央区日本橋人形町三丁目)にあった歌舞伎の芝居小屋・中村座の正面部分を、原寸大(間口11間(約20m)・奥行3間(約5.5m))で復元した。中村座は幕府に興行を許可された江戸三座のひとつで、他には市村座および森田座が存在した。芝居見物は人々にとって最大の娯楽であり、庶民はもちろんのこと、武家たちも日常を忘れて歌舞伎の世界に心を遊ばせた。  
     屋根の上には、防災の備えとして雨水を貯めておく天水桶が設置され、中央には芝居興行の公許の印である櫓がかかげられている。櫓には、正面に中村座の座紋の「角切銀杏」、両脇に「きやうげんづくし 中むらかん三良」と染め抜かれた櫓幕が張られている。座紋の意匠は、中村勘三郎が芝居興行を幕府に願い出た折、鶴がイチョウを載せた折敷をくわえて富士山の頂上から家に舞い降りた吉夢を見たことから定めたという。櫓の下にある櫓下看板には、中村座を代表する役者「さるわかかん三良」(猿若勘三郎=中村勘三郎)「瀬川路考」「岩井半四郎」の3名が記され、その左右には絵看板や文字看板、座紋入りの提灯などで飾り立てられている。当模型の看板類は1805年(文化2)11月の顔見世興行「清和源氏二代将」を想定して作成した。顔見世興行とは、役者たちの顔ぶれが一新する重要な芝居年中行事で、芝居小屋が一年のうちで最も華やかな装いをみせた。小屋1階正面には、客席へ向かう入口が設けられ、芝居客は席のランクによって桟敷口と鼠木戸に分けられて入場した。安い席の客は、鼠木戸入ってすぐの仕切場で札(=チケット)を購入したが、この仕切場がある1階内部の土間も復元されている。」

  • 館の解説では「寛永の頃(1624〜44年)、江戸城の大手門前には越前福井藩主松平伊予守忠昌(1597〜1645年)の上屋敷があった。広大な敷地内には華麗に装飾された豪壮な諸建築が建ち、敷地の四周には戦国の余風を色濃く残す特異な櫓風建築があった。松平忠昌邸だけではなく、当時の江戸における大名屋敷の多くは、いわゆる桃山風を継承した絢爛豪華なものであった。江戸東京博物館では、寛永期における松平忠昌邸を1/30模型として復元している。復元にあたっては「伊予殿屋敷指図」(岡山大学池田家文庫所蔵)、「江戸図屏風」(国立歴史民俗博物館所蔵)、「甲良向念覚書」(東京都立中央図書館所蔵)などを利用した。松平忠昌邸の実寸は、正面となる東側が京間96間(約189m)に対して北側53間(約105m)の長方形に、南西部分に39間(約77m)×12間(約24m)の小さな長方形を足したL字形の敷地(約6,600坪)であった。この松平忠昌邸で最も目をひくのが、正面にあった御成門である。将軍が御成する際に使用する特別な門で、黒塗で金銀の装飾をほどこした華麗な門であった。御成門の脇には台所門があった。名前の由来は不明であるが、藩主はこの門から出入りした。藩士やその他の者の普段の出入りは、東側や北側にある小門を利用したようである。また、能舞台も目をひく。幕府が能を奨励したため、諸大名もそれにならい、自領の城中や、江戸屋敷内に能舞台を設けていた。忠昌邸にも舞台・橋懸・楽屋などからなる能舞台が設けられていた。1657年(明暦3)正月の大火によって、江戸城や江戸の町ともども、多くの大名屋敷が灰燼に帰した。松平忠昌邸もこの時焼失している。そして以後、このような華麗な大名屋敷は姿を消していく。」

    館の解説では「寛永の頃(1624〜44年)、江戸城の大手門前には越前福井藩主松平伊予守忠昌(1597〜1645年)の上屋敷があった。広大な敷地内には華麗に装飾された豪壮な諸建築が建ち、敷地の四周には戦国の余風を色濃く残す特異な櫓風建築があった。松平忠昌邸だけではなく、当時の江戸における大名屋敷の多くは、いわゆる桃山風を継承した絢爛豪華なものであった。江戸東京博物館では、寛永期における松平忠昌邸を1/30模型として復元している。復元にあたっては「伊予殿屋敷指図」(岡山大学池田家文庫所蔵)、「江戸図屏風」(国立歴史民俗博物館所蔵)、「甲良向念覚書」(東京都立中央図書館所蔵)などを利用した。松平忠昌邸の実寸は、正面となる東側が京間96間(約189m)に対して北側53間(約105m)の長方形に、南西部分に39間(約77m)×12間(約24m)の小さな長方形を足したL字形の敷地(約6,600坪)であった。この松平忠昌邸で最も目をひくのが、正面にあった御成門である。将軍が御成する際に使用する特別な門で、黒塗で金銀の装飾をほどこした華麗な門であった。御成門の脇には台所門があった。名前の由来は不明であるが、藩主はこの門から出入りした。藩士やその他の者の普段の出入りは、東側や北側にある小門を利用したようである。また、能舞台も目をひく。幕府が能を奨励したため、諸大名もそれにならい、自領の城中や、江戸屋敷内に能舞台を設けていた。忠昌邸にも舞台・橋懸・楽屋などからなる能舞台が設けられていた。1657年(明暦3)正月の大火によって、江戸城や江戸の町ともども、多くの大名屋敷が灰燼に帰した。松平忠昌邸もこの時焼失している。そして以後、このような華麗な大名屋敷は姿を消していく。」

  • 展示されているのは複製。

    展示されているのは複製。

  • 館の説明では「寛永の町人地 江戸初期の日本橋北詰付近の町人地を復元した。縮尺は「寛永の大名屋敷」松平忠昌の上屋敷と同様に1/30とし、同邸とほぼ同じ面積を復元した。両模型を比較すると、大名屋敷一家分の敷地にいかに多くの町人たちの家が建てられていたかがわかる。復元にあたっては、「江戸図屏風」(国立歴史民俗博物館所蔵)、「江戸名所図屏風」(出光美術館所蔵)、「武州豊島郡江戸庄図」(国立国会図書館所蔵)などを参考とし、寛永期の日本橋周辺の賑やかな様子を表現している。<br /> 「江戸図屏風」などを見ると江戸城や武家屋敷とともに商家を中心とした町人地も詳細に描写されており、往来には武士や町人、大道芸などを演じる人々が見られ、商家の裏手に回れば洗濯をしたり、世間話をする女性などが生き生きと描かれている。これらの様子を踏まえ、制作にあたっては、町を構成する屋敷や庭園・植栽、井戸・下水などから建物内外の生活・生産用具・小物まで詳細に復元した。さらに、当初は家並みだけの模型であったが、開館10周年を向かえるにあたり約800体の人形を配し、江戸時代初頭の情景を再現した。 <br /> 本模型のみどころの一つとして、町の入口に造られた瓦葺・白漆喰塗りの城郭風建築を見ることができる。これは大名屋敷の櫓同様、江戸市中で見られたもので、日本橋北詰付近のものは3階建てであった。町の入口に造られていることから、町の有力者の屋敷であるとか、町のシンボル的なものとの説が出されているが、いまだその役割ははっきりわかっていない。これら屋敷に住む者たちは「角屋敷の者」と呼ばれ、幕府からは別格の扱いを受けていたという。しかし、この櫓は1649年(慶安2)に建設が禁止され、明暦大火(1657年)後は再建されずに姿を消していることから、江戸時代初頭にしか見ることができない、めずらしい建築物であるといえよう。」

    館の説明では「寛永の町人地 江戸初期の日本橋北詰付近の町人地を復元した。縮尺は「寛永の大名屋敷」松平忠昌の上屋敷と同様に1/30とし、同邸とほぼ同じ面積を復元した。両模型を比較すると、大名屋敷一家分の敷地にいかに多くの町人たちの家が建てられていたかがわかる。復元にあたっては、「江戸図屏風」(国立歴史民俗博物館所蔵)、「江戸名所図屏風」(出光美術館所蔵)、「武州豊島郡江戸庄図」(国立国会図書館所蔵)などを参考とし、寛永期の日本橋周辺の賑やかな様子を表現している。
     「江戸図屏風」などを見ると江戸城や武家屋敷とともに商家を中心とした町人地も詳細に描写されており、往来には武士や町人、大道芸などを演じる人々が見られ、商家の裏手に回れば洗濯をしたり、世間話をする女性などが生き生きと描かれている。これらの様子を踏まえ、制作にあたっては、町を構成する屋敷や庭園・植栽、井戸・下水などから建物内外の生活・生産用具・小物まで詳細に復元した。さらに、当初は家並みだけの模型であったが、開館10周年を向かえるにあたり約800体の人形を配し、江戸時代初頭の情景を再現した。
     本模型のみどころの一つとして、町の入口に造られた瓦葺・白漆喰塗りの城郭風建築を見ることができる。これは大名屋敷の櫓同様、江戸市中で見られたもので、日本橋北詰付近のものは3階建てであった。町の入口に造られていることから、町の有力者の屋敷であるとか、町のシンボル的なものとの説が出されているが、いまだその役割ははっきりわかっていない。これら屋敷に住む者たちは「角屋敷の者」と呼ばれ、幕府からは別格の扱いを受けていたという。しかし、この櫓は1649年(慶安2)に建設が禁止され、明暦大火(1657年)後は再建されずに姿を消していることから、江戸時代初頭にしか見ることができない、めずらしい建築物であるといえよう。」

  • 徳川家康坐像。

    徳川家康坐像。

  • 報道関係者相撲関係者出入り口で人だかり。相撲ファンが入り待ち・出待ちをする場所だそうです。東京本場所の時は2〜3回は来ると言う方がお隣で、親切に教えてくれました。関脇までの関取がここを通るのだそうです。

    報道関係者相撲関係者出入り口で人だかり。相撲ファンが入り待ち・出待ちをする場所だそうです。東京本場所の時は2〜3回は来ると言う方がお隣で、親切に教えてくれました。関脇までの関取がここを通るのだそうです。

  • 旭天鵬関は車で場所入り。後姿だけ。

    旭天鵬関は車で場所入り。後姿だけ。

  • 豊ノ島関が通れば本日の入りは終了らしい。

    豊ノ島関が通れば本日の入りは終了らしい。

  • 国技館入口を見てそろそろ引き上げます。佐渡ヶ嶽親方が木戸口に座っていました。

    国技館入口を見てそろそろ引き上げます。佐渡ヶ嶽親方が木戸口に座っていました。

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