2013/12/08 - 2013/12/09
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サンフランさん
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見附を早朝出発
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- JRローカル 徒歩
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12月8日、見附の問屋場跡、現在は静岡銀行を出発
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脇本陣大三河や門
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この門の特徴が説明されています。
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見附宿西木戸
まあ最近の作り物ですよ -
府八幡宮前を通ります。
「毎年10月第1土曜・日曜に中泉地区でお祭りが行われ、山車が引き回されます」(磐田の散歩道パンフレット) -
中泉、東海道はなぜか磐田の駅前でくの字に右に曲がっている。この集落へ寄るための政治路線かと思いたくなる。
「旧中泉村は、江戸時代には三百三軒の家があった」 -
国道へでて、豊田町で小さな川に架かる一言橋を渡ると、道の左の磐田化学工業の敷地内に、くろんぼ坊様という黒坊大権現が丁重に祀られていた。
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松向寺に近く、これも常夜灯!
宮之一色一里塚跡は見落とした。 -
若宮八満宮前を通過
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夢舞台東海道 長森立場の道標
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源平新田で道を失う。とりあえず右へ。天竜川に近づき、天竜橋跡が川から離れたところの児童公園に天竜橋の碑。たぶんこの辺で渡ったのであろう。
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現在の天竜川を渡る。
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六所神社
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境内には碑がたくさん
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木橋跡の立て札
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ご丁寧に東海道と旧東海道の道標が神社の脇にある。
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天竜川橋きこう碑
「浅野茂平の業績を刻んだ石碑である」(浜松市東区役所)
明治天皇の東行に合わせて掛けられたようです。 -
東橋の跡の立て札
「かつてこの辺に東海道を往来する人々が渡った土橋があり、付近は木材の集積地で。明治後期には、.... -
松林禅寺、名刹のようです。薬師堂は徳川家光が命じて建てたものとか! 現存しているようですが、先を急ぎます。
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中野町、民家の駐車場に、かやんば高札場跡の標柱
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金原明善の生家
金原明善翁生家 美術館・博物館
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中をちらりと拝見して、先を急ぐ
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安間の一里塚跡
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天竜川駅に近く、再び六所神社
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再び常夜灯
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停車場近道?
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夕闇の中に東海道の道標
ありがたい -
この辺の東海道は県道257号
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法橋の松をみにわき道へ
「この松は、天竜川町日蓮宗妙恩寺の開基、金原法橋遺愛の松で広大な庭前にあったものと伝えられている。地上2mの樹周りは約5m、枝張りは東南より西北まで約18m、東西約12mであり、樹高はおよそ14mである。樹齢は約700年といわれている」(浜松市教育委員会) -
53次、浜松宿の図
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夢舞台、浜松市植松原
松原などはない。 -
馬込橋のたもとに浜松宿、外木戸跡
浜松宿 名所・史跡
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浜松市内に入って、残る夢告地蔵
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浜松宿高札場あとは、ビルの谷間に、...
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こちらには高札場の立て札が立て直されています。
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佐藤本陣あと
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江馬殿小路あと
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江馬殿小路あとの説明板
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杉浦本陣あと
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梅屋本陣あと
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番所跡に小さい碑が浜松駅東口に行く、交差点の角に
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東海道から外れてしばし浜松城へ
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徳川家康公が!
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浜松城の天守
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「浜松城は徳川家康が遠州攻略の拠点として築いた城で1570年6月に入城し17年間在城した。東西600m、南北650mの規模で、南の東海道に大手門が、東から西へ3の丸、二の丸、本丸、天守となり、順次高さを増す。石垣は野づら積みと呼ばれる堅固な造りで古い石垣の特徴を良く残している」(浜松市)
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家康の散歩道を東海道へ戻る
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現代の浜松にそびえるタワー
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浜松のマンホール
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もうひとつの浜松マンホール
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浜松でゆっくりしたので、先を急ぐ。257号から成子の交差点を右に曲がり、雄踏街道へ少し入る。
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すぐ菅原町交差点を曲がるのが東海道らしい。交差点にある地蔵たち。
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若林の一里塚があるようなことが書かれているが、見つからない。東海道線をくぐって、再び257号へでしまった。GOOGLE VIEWERでみていたら何か標柱があるのですが読み取れなかった。これだ! 「八丁畷」とあるのをいたずらで消してある。
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八丁畷というからには、直線のはずで? なるほどなるほど!
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高塚の手前に地蔵堂、馬頭観音、高札場跡も
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秀衛の松も
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高札場跡の標柱は電信柱の後ろに隠れるように、....
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熊野神社の歩道橋の下にも高札場跡
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これより東浜松領の境界石
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堀北領境界石
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麦飯長者あと
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立場跡
ここは立場本陣とも呼ばれた。明治元年(1868)には、東京へ行幸の際に御小休されたk録も残っている。筋向いには茶屋の浅田やがありました」(篠原地区自治会) -
住宅の前に一里塚あと
日本橋より67里とある。 -
この蔵は見事!
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この形の常夜灯が多い。
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蛍光灯が付いている常夜灯!
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少し奥まったところに引佐山六悲院観音堂あと
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街道らしい風景が少し残っています。
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この辺は常夜灯が多い!
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春日神社
由緒は、「1381年甲州行脚の沙門律師日朝、当地へ廻国の折、神仏深理と悟し民族挙げて1社を建立を願うに依りて後小松天皇の1395年、春日大名神の神礼を奉祀勤請する後、1584年以来数度の改築あり、1648年徳川将軍より朱印六石下賜り、代々拝領する。1873年明治の村社に列し全七社を合祀する。昭和8年(1873年)本殿、拝殿などを改築現在に至る」(門前の掲示より) -
舞阪の松並木、東海道線の舞阪駅はこの辺ですが、....
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松並木が続く
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延々と続く
宿はまだか? 日も落ちてきた。 -
舞阪橋跡
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見附石垣が残されてる。
「この石垣は舞坂宿の東はずれに位置している。石垣の起源は明らかでないが、1709年の古地図には既に存在していいる。見附は大名が通行のときなどには、人馬の出入りを監視するとともに治安の維持にあたった」(舞阪町教育委員会) -
どうやら宿に入ったようだ。
新町の常夜灯が左に、石碑は一里塚跡 -
ようやく案内図が、
舞阪宿は見附の石垣から渡船場の雁木まで約800m、本陣、問屋場など宿場の主要施設は西町にあった」 -
さらに宝珠院の前に仲町の常夜灯
1809年に舞坂宿の大半を焼く大きな火災があり、復興は大変だった。秋葉信仰の高まりとともに、仲町の願いにより、4年後にこの常夜灯が建立されました。両皇大神宮、秋葉大権現、津嶋牛頭天王の銘が刻まれています。高さは2.7mあります」(舞阪町教育委員会) -
脇本陣は4時で閉館。
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53次舞阪の図
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舞阪宿本陣あとを出発
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常夜灯が
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北雁木、江戸時代は弁天島は渡しだった。
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渡しの船着場にはいまは蠣舟が!
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説明を読んでいる時間はない。先をいそぐ
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弁天島海岸
やしの木はいらないと思う。 -
弁天神社
かつては海岸線は三保の松原のようであったとか! -
弁天島駅前を通過
GOOGLE VIEWER で下調べしたときに右側の土手になんかある? よく見えなかった。 -
これだ! 山頭火の歌碑のようだ。
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新居関所跡
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新居関跡 名所・史跡
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休日のため関所は通過できません。
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本陣跡
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かせた本陣跡
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寄せ馬あと
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新井の一里塚があるとのことですが、見つかりません。
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ここかと思って入ってみたら、....
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この荒れた社は?
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棒鼻あと。これで新井宿は終わり?
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荒居町のマンホール
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道なりに行くと右の歩道トンネルの横に「橋本」の夢舞台道標。ここで国道へ出てしまった。白須賀へ向かう。
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教恩寺の角から旧道へ
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松林が始まる。
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藤原為家の歌碑が左に
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立場跡
新居と白須賀宿の中間で旅人や人足が休む立場がこの辺りにあったようだ。 -
格子戸の民家
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常夜灯、白須賀は近い?
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明治天皇御野立所あと
明治元年(1868)9月20日、岩倉具視らを従え、東京へ行幸のため京都を出発した明治天皇が、10月1日、豊橋から新居へ向かう途中に休憩したところ。明治天皇は、新井宿の飯田本陣宿泊、10月13日に東京に到着した」(立て札より) -
火鎮神社の山門を見て、ご祭神は徳川家康公など、由緒、「本神社は三座を祀り、由緒ただしき神社なりしが、応永以来、海?及び安永年間社家火災のため、古文書散出し、由緒を詳に能ざるも、徳川家康のそう敬厚く除地壱町四方余、丸太船壱双のお墨付を賜り、地方一般のそう敬を蒐めてご隆盛を極む。大正14年村社に列せられ神饌幣帛料供進神社に指定される」(立て札より)
これは難しい神道の言葉が並んでいる。 -
白須賀宿の案内図が、...
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民家の軒下に元町の一里塚跡と高札場あと
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神明神社
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これはすばらしい門のお宅
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格子戸の町屋が続く。ここからが塩見坂ののぼり。
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登りきったところに、おんやど白須賀の案内所があるが、休みだった。うろうろしていたら大根を軽トラに積んだ農家のおじさんがやってきて、「休みで申し訳ない」と言って、白須賀の案内パンフレットと最中をくれた。おまけに、100円玉がなくて、みかんが買えない」 といったら100円になるようにい40円恵んでくれた。世の中には親切な方がいるもんだ! 棚においてあったみかんは5〜6個袋に入って100円也。
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白須賀宿の浮世絵図
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塩見坂上の石碑群
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「塩見坂上には明治天皇が明治元年10月1日に休憩されたのを記念に建てられた明治天皇御聖跡碑をはじめ、白須賀出身の国学者、夏目みか麿と息子の狩野諸平、正直者の藤屋五平、義僕平八郎らの顕彰碑や忠魂碑が建てられています」(立て札より)
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白須賀の曲尺手
「曲尺手は直角に曲げられた道のことで、軍事的な役割を持つほか、大名行列同士が、道中かちあわないようにする役割も持っていました。江戸時代、格式が違う大名がすれ違うときは、格式の低い大名が駕籠から降りて挨拶するしきたりでした。しかし、主君を駕籠から降ろすことは、行列を指揮する供頭にとっては一番の失態で、斥候を行列が見えない曲尺手へだして、行列がかち合いそうなら休憩を装い、最寄の寺へ緊急非難しました」(立て札より) -
白須賀宿本陣跡
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白須賀宿の問屋場跡
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夏目みかまろ邸跡。白須賀生まれの国学者! 夏目といえば、漱石?
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大木の下に「白須賀宿火防」の立て札。
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名も知らぬ庚申堂です。入って左側の「みざる、言わざる、きかざる」の3猿の像があります。いただいた案内パンフレットによると、尼僧さんがおられたことがあるらしいです。でも居住空間はなさそうです。
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白須賀には加宿があったらしい。境宿
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白須賀宿の案内板が出口を示しているようだ。
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豊橋市に入る。
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一里山の七本松
最近植えたもの? -
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路端の地蔵と常夜灯?
これが一里山の一里塚あとらしい。
江戸時代には、道中奉行の管理下で吉田藩が松並木とともに保護維持に当たったが、明治以降必要性が失われ荒廃していた。もと道路を挟んで左右に1基ずつあったが、南側は破壊され、痕跡も大正時代に消滅、現在保存されてるこの塚は東西11米、南北14米、高さ3米で、旧東海道の面影を残す」(豊橋市教育委員会) -
工場前に、1本の道標が、...
東海道線をくぐって二川宿へ -
二川宿に入る。川口やさんが二川宿案内所になっている。年配の女性が対応してくれた。二川はすでに江戸時だの風情がなくなっているが、50年前までは江戸時代の連子格子の町家が並んでいる街だったとの事。記名簿に記入して、案内図をいただく。
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50年前の二川宿
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二川宿の案内図をいただきました。
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駒やは改修工事中
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駒屋の棟つづきの民家
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二川宿脇本陣
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本陣跡が資料館として残されている。残念ながら休館日だった。
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春田や
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旅籠、壷屋
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高札場あとには喫茶店が、....
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二川宿の立て札がある。「ゆっくりはしろう」
ゆっくり歩いています。 -
西問屋場跡
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まだまだ連子格子の町家が続きます。
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JR二川駅を過ぎて、火打坂をのぼる。右は東海道
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吉田宿近く、なにやら大きな寺院! 3重の塔?
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吉田宿の大常夜灯に到着。
この常夜灯は1805年吉田宿東総門前に建てられたものである。以来、新町の大燈籠として吉田の名物のひとつとなり、近隣の町民を始め市民に親しまれてきましたが、三河地震(1944年)による倒壊とそれに続く戦火にあって放置されてきました。この状況を憂い手昭和55年豊橋公園内に復元されていたが、平成13年、江戸時代に建てられたこの付近に再復元したものである」(豊橋市常夜灯保存委員会) -
豊橋市公会堂
今日はここまで
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