2013/07/17 - 2013/07/17
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しゅいぐーさん
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出張の帰り道、近江八幡で食事の時間中に、石馬寺や五個荘を回り面談終了後、帰り道沿いに水口城を発見しちょっと寄り道をして帰りました。
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≪石馬寺の縁起≫
今からおよそ1400年前の推古2年(西暦594年)のこと、推古天皇の摂政であった聖徳太子が霊地は近江国にあると占い、永久に鎮護国家、仏法興隆を祈る道場を求めて行く駒の蹄に任せて繖山(きぬがさやま)の麓辺りに来ると、駒は歩みを止めて進まなくなった。 -
そこで、傍らの松の樹に乗馬をつないで山に登ったところ、瑞雲(※)がたなびく風光明媚な風景が広がっており、深く感動して積年の望みをこの地に得たりとして、再び山を下ると、松の樹につないだ馬が傍の池に沈んで、すでに石と化していました。
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聖徳太子はこの奇瑞に大いに霊気を感じ、直ちに山を『御都繖山(ぎょとさんざん)』と名付け寺を建立し、馬が石となった寺、つまり『石馬寺(いしばじ)』と号されました。その際の聖徳太子直筆『石馬寺』三文字の木額、及び太子が駒をつないだ松の樹は本堂に安置しております。
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また、石と化した『石馬』は寺に至る石段下の蓮池に現存しております。霊験として語り継がれる、石馬寺が持つ霊力・霊気をあなたの肌で感じ取って下さい。
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馬に見える?
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寺前・鯉通り
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のんびりできます。
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皇太子殿下も来られたようです。
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金堂の馬場五輪塔(町指定文化財、鎌倉時代後期 正安二年 1300年、花崗岩、高さ 197Cm)
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五輪塔は、東に発心門、南に修行門、西に菩提門、北に涅槃門の梵字を夫々刻んでいる
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五個荘・金堂の案内
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水口城
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近江鉄道水ロ城南駅の北約150mのところにある城跡。江戸幕府3代将軍徳川家光(とくがわいえみつ)が上洛の際の宿館として築城された後、水ロ藩2万5千石の居城となり、湧水を利用した薬研堀(やげんぼり)に水をたたえていたことから「碧水城(へきすいじょう)」の別名がありました。
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明治維新後、水ロ城は廃城となり公売に付され、角櫓(すみやぐら)が付近の商家に売却されたり、石垣の一部が近江鉄道の敷石になるなど建物や石垣の大半が処分されました。旧本丸は学校敷地となり、運動場として利用されてきましたが、昭和47年将軍家宿館遺跡としての価値が評価され、滋賀県の史跡に指定されたのを機会に、郷土のシンボルとしての保存整備への関心が高まりました。
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<水口城資料館>
明治7年に廃城となった水口城が復元されて、現在水口城博物館として公開されています。石垣の上に角櫓が復元され、美しい白壁を堀の水面に映しています。水口城に関する資料を展覧しています。 -
水口城は3代将軍徳川家光が寛永11年(1634)京都上洛の際の宿館として築城されました。築城は幕府直営で行なわれ、作事奉行には、建築や作庭あるいは茶道などで著名な小堀遠州政一があたり、延べ十万人の大工を投入して工事が進められました。城は京都の二条城を小型にしたもので本丸と二の丸の二郭で構成されていました。築城当時の規模は復元模型でうかがい知ることができます。家光以後の将軍の上洛は途絶え、水口城は城番(5千石〜1万石の旗本、大名)が置かれ、これが1年任期で約50年続きました。
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天和2年(1682年)に、石見国より加藤明友(賤が嶽7本槍で有名な加藤嘉明の孫)が入城し、水ロ藩が成立しました。水口城はその居城となりました。明友は入城すると「二の丸」の整備に努めた結果、武家地が北に拡大したために、止むなく東海道の迂回や、寺社や集落、町屋等の移転をおこないました。
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水口藩は甲賀・蒲生を中心に2万5千石を領有し、小藩ながら水口・日野など地方都市を治めました。別名「碧水城」は、湧水を利用した堀に青い水をたたえていたことから、明友が命名しました。
明治維新後、水ロ城は廃城となり、建物や、出丸と乾矢倉を除く石垣の大半が公売に付されました。旧本丸跡は県立学校の敷地となりグランドとして利用されています。
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