2013/05/20 - 2013/05/20
368位(同エリア945件中)
経堂薫さん
現在の日本は47都道府県に分かれてますが、江戸時代までは六十余の州で構成されていました。
各州ごとに筆頭の神社があり、これらは「一之宮」と呼ばれています。
その「諸国一之宮」を公共交通機関(鉄道/バス/船舶)と自分の足だけで巡礼する旅。
20カ所目は武蔵国(埼玉県)の氷川神社を訪ねました。
【氷川神社(ひかわじんじゃ)】
[御祭神]
須佐之男命(すさのおのみこと)
稲田姫命(いなだひめのみこと)
大己貴命(おおなむちのみこと)
[鎮座地]埼玉県さいたま市大宮区高鼻町
[創建]第五代孝昭天皇3年
【追記】
「諸国一之宮“公共交通”巡礼記[武蔵国]氷川神社」を全面改稿し、ブログ「RAMBLE JAPAN」にて「一巡せしもの〜武蔵國一之宮[氷川神社]」のタイトルで連載しております。
ブログ「RAMBLE JAPAN」
http://ramblejapan.blog.jp/
http://ramblejapan.seesaa.net/
(上記のURLの内容は、どちらも同じです)
ご訪問、お待ちしております!
- 同行者
- 一人旅
- 交通手段
- JRローカル 私鉄 徒歩
-
氷川神社といえば長い参道が名物。
氷川神社へは大宮駅から行ったほうが近いのだが、ここは一の鳥居からアプローチしたい。
なので、大宮駅から一つ南のさいたま新都心駅にて下車する。 -
駅を出てペデストリアンデッキを抜け、さいたまスーパーアリーナへ。
外周を巡る歩道を通り、北端へ抜ける。
そこから跨線橋を渡り、JR線の向こう側へ。
朝から霧ともつかない中途半端な雨が降りしきっている。
まだ屋根のある部分は良かったが、屋根のない外周道路に出た途端、四方八方から細かい水の粒が肌にまとわりついてくる。 -
跨線橋、名を「大宮ほこすぎ橋」という。
その秀逸なデザイン性ゆえ、よくテレビのロケに登場する“名勝”でもある。
最大の特徴は全国でも例がないJR営業線上での中木植栽。
確かに木を植えてある鉄道の跨線橋なんて、あまり見たことない。
ではなぜ、わざわざ手間のかかる植栽を施したのか?
それは、さいたま新都心から氷川参道に至るまで“みどりの連続性”を感じさせるコンセプトに基いて設計されたため。
しかも人道橋なので車の往来を気にすることなく、線路の真上から鉄道を鑑賞できる貴重な空間でもある。
「ほこすぎ」の由来は、また後ほど。 -
跨線橋を降りると、そこは県道164号線。
というより旧中仙道といったほうが、この旅には相応しい。
北に向かうと、右側に赤い鳥居が現れた。
氷川神社の参道入口である。 -
入口に立つ一の鳥居。
寒川神社と同様、鳥居の下を車道が通っている。
ただ寒川神社と決定的に異なる点は、ここが埼玉県の県庁所在地であり、県内最大の市街地であること。
参道の両脇には高いビルが立ち並び、樹木の育成に必要な空間が確保できていない。
枝が伸びればマンションの住人の依頼で剪定され、そこから腐敗菌が侵入して樹木そのものが立ち枯れてしまう。
参道は大宮のシンボルではあるのだが、同時に都市化への対応という相反する課題を抱えているのだ。 -
「武蔵國一宮」の石柱。
大宮は氷川神社の門前町というより、中仙道の宿場町として発展してきた。
ここで左に中仙道、右に氷川参道と分岐するのだが、かつては右の参道が中仙道を兼ねていた。
大宮が宿場町に指定された16世紀末の中仙道は一の鳥居から参道を通り、二の鳥居の手前で左折するルートだった。
しかしこの道筋では遠回りなうえ、神域を通過するため不敬にも当たる。
そこで寛永5(1628)年に関東郡代伊奈忠治が指揮を執り、一の鳥居から当時まだ原野だった参道の西側に北進する街道を新設することとなった。
同時に新道の両側を地割りし、門前にあった農家屋敷42軒を新道の両側に移転させた。
こうして中仙道屈指の大宿場町、大宮の基礎が築かれたわけだ。
当時の地割りの大きさは間口7〜8間、奥行き63〜65間程度という宿場町独特の細長い形。
ちなみにこの細長い地割りの形は、今でも概ね変わっていない。 -
距離の目安として一丁ごとに置かれている丁石。
一丁をメートル法に換算すると109.09メートル。
参道は十八丁あるので1963.62メートルとなる。
ただ、あまり細かく測るのも野暮というもの。
ざっくり2キロ弱といったところか。 -
欅並木が美しい氷川参道。
だが、今の姿に至るまでには紆余曲折を経てきた。
まだ都市化が進んでいなかった昭和初期には鬱蒼とした杉並木で覆われ「並木十八丁鉾杉つづき」と謳われていたという。
これが跨線橋「大宮ほこすぎ橋」の由来。
さらに前の江戸時代には沿道に松並木を描いた絵図もあるそうだ。
並木が欅に替わったのは、資材難から杉が伐採された戦中戦後のこと。
さらにモータリゼーションの隆盛による振動や排ガスの影響、地下水脈の低下、歩行者による根元の踏み固めなど並木の育成にとって悪条件が重なり、樹勢は低下する一方だった。 -
参道の途中にあったカフェ。
まるでヨーロッパの街角のよう。
ただ、隣は釜飯&とんかつの店だが。
これらの店は例外的存在で、参道に面した飲食店は実は非常に少ない。
その昔、参道は氷川神社の敷地であり神聖な道なので、沿道の建物は基本的に参道に背を向けて建てねばならなかった。
鎌倉幕府の武家屋敷が鶴岡八幡宮の若宮大路に背を向けて建てられたのと同じ道理か。
その名残りが今でも残っているのだろう。
ただ、並木が伐採されることなく今も残されているのは、そのお陰でもあるのだが。 -
大宮中央通りとの交差点。
左へ曲がると正面が大宮駅になる。
一の鳥居からここまでの道幅は江戸時代とそう変わらず狭いまま。
にもかかわらず高度経済成長期には対面通行で、しかも違法駐車の車両で更に狭くなる有様。
さらに中仙道の交通渋滞を避ける車が続々と流入してきたため、歩行者はまともに歩けないほどの危険に晒されていた。
そこで車道と歩道の分離工事を行い歩行者の安全を確保し、同時に車道を完全な一方通行化するとともに違法駐車を一掃。
こうして参道は歩行者が安心して散策できる道になった…はずなのだが。
最近では自転車が我が物顔で歩道を猛スピードで駆け抜けていく。
今度は自転車の歩道走行が禁止されるのではなかろうか。 -
ここから参道の道幅がグッと広くなる。
そして「氷川参道 平成ひろば」という名称が付いている。
わざわざ「平成ひろば」と命名されたのは深い意味がある。
終戦直後、大宮駅前には大規模な闇市が形成された。
闇市は人々の生活を支えた一方、復興計画の障害ともなった。
そこで旧大宮市と同市警、氷川神社の三者が、ここから二の鳥居がある場所まで、闇市を1年間限定で移転させることで合意した。
ところが、それから40年以上も闇市は同地に留まり、164戸の住居と店舗が残ることに。
あくまで時限建造物だけに居住者にしても永住に耐えられるような環境にはなく。
おまけに樹木もほとんど枯死して並木の景観も失われてしまった。 -
これでは市の中心部にスラムを抱えているようなもの。
そこで旧大宮市は昭和60(1985)年から「氷川地区整備事業」を開始する。
半世紀近く(!)仮住まいだった居住者たちは、別に用意された住宅へ移転。
跡地は市が借り上げて約420メートル、面積1.4ヘクタールに及ぶ緑地に整備。
中央に御影石を敷き詰めて遊歩道にし、散策路なども設えた。
両側の緑地帯には欅や榎などを植栽し、枯死した並木を復活。
その外側には一方通行の車道と片側歩道を通した。
整備事業は平成元年七月に完成。
これが「平成ひろば」の由来である。 -
30年前、縁あって大宮の町に通ったことがある。
もちろんここ氷川参道は、まだバラック通りだった。
若かりし時分に見た暗澹たる風情は今も記憶に残る。
ただ、都内にも戦後の闇市が今だに残る一角はある。
例えば新宿西口思い出横丁、渋谷のんべい横丁、吉祥寺ハモニカ横丁、三軒茶屋三角地帯などなど。
こうした“昭和の残滓”のような一角に行くたび、よくぞ残っていたものだと思う。
大宮のバラック通りも壊さず残しておけば良かったのに…などと言う気はサラサラ無いが。
ただ、こうして小奇麗にされたことと引き換えに無機質化された風景によって、いかにも人間臭い歴史が蓄積した風情が淘汰されたことに対して、いにしえの街角を愛する自分としては一抹の寂しさを覚えるのだ。 -
旧国道16号との交差点沿いに立つ二の鳥居。
昭和51(1976)年に明治神宮から奉納されたものだ。
木造で高さ13メートルは、関東一の大きさを誇る。
雨の中、大勢の皆さんが鳥居の周囲を清掃していた。
市の職員だろうか、それともボランティア?
丁寧に丁寧に、参道を掃き清めている。 -
二の鳥居の前に立つ社号標。
「大宮」の地名は“大いなる宮居”氷川神社に由来することは言うまでもない。
平成13(2001)年に浦和市と大宮市、与野市の3市が合併して新たな県都が誕生した。
新市名は一般公募され、最終候補の中から2位の「さいたま市」が選ばれた。
ちなみに1位は圧倒的多数で埼玉市、大宮市は3位、浦和市は6位だった。
人口50万人規模の大都市による対等合併は全国的にも例がなく、しかも両市は隣接している割にカラーが全く異なる。
県庁所在地の浦和は政治・文教都市、交通の要衝に位置する大宮は経済都市。
合併に際しては様々な確執があったように記憶している。
個人的には「氷川市」にすれば丸く収まるんじゃないかと思っていたが。
しかし、氷川市は19位で最終候補にすら入らなかった。
神社の名前を市に付けるのは不適当という「政教分離」の原則のせいか?
揉め事の解決に神様の手を借りればよかったのに、と思う。 -
「氷川参道のまちづくり」(2010年刊)によると、氷川参道には現在約650本の高木が立ち並んでいるという。
内訳は欅が約65%、椎が約10%、このほか楠木、榎、桜など37種類の樹木から構成されているそうだ。
このうち20本が天然記念物として市から文化財の指定を受けている。
先述の通り参道は並木の育成に適した環境になく、育成力を失った樹木から立ち枯れているのが現状だ。
氷川神社では楼門内で献木の寄付を募っている。
ぜひ協力したいところではある。 -
二の鳥居から参道を半分ほど過ぎた辺りにある石灯籠。
「武藏國一宮 東國總鎮守 氷川両本宮」と刻字されている。
氷川神社と言えば普通この「武藏國一宮」を指すのだが、同時に旧武蔵国…埼玉県・東京都・神奈川県東部…を中心に280数社を数える氷川信仰の神社も意味している。
大宮の氷川神社は、これらの総本社に当たるわけだ。
そして旧武蔵国から一歩出ると途端に見かけなくなるという、実はとてもリージョナルな神様である。
なので埼玉県や東京都で氷川神社について話していると、話が噛み合わないことが出てくる。
「氷川神社の近くだよ」と言われ、こちらは大宮の総本社のことだと思ったら、相手の言う氷川神社は港区赤坂のそれだったりする。
それぐらい武蔵國の隅々にまで根を張った「東國總鎮守」なのだ。 -
一の鳥居から歩くこと約2キロ、ようやく三の鳥居に到着した。
一の鳥居、二の鳥居に比べれば、だいぶこぢんまりとしている。
というより一の鳥居と二の鳥居の大きさが破格なだけだろう。
三の鳥居の大きさが標準的なのだ。 -
三の鳥居をくぐり御神域へ入る。
まずは右手前方の神楽殿が視界に目に飛び込んできた。
隣接する額殿には「太々御神楽」と記された古い扁額が幾つも掲げられている。
建物そのものは新しいが、神楽は太古の昔から舞われてきたのだろう。 -
神楽殿の左に隣接する額殿。
江戸時代後期に建造された由。
関東大震災や東日本大震災を耐え抜いたものの、さすがに老朽化には勝てず。
倒壊を防ぐため、屋内に筋交いの柱が設えてある。
掲げられている扁額はいずれも時代が古そうなものばかり。
文化財保護の観点からもキチンした保存策が施されるべきでは?
額殿は解体のうえ修理し、上からスッポリ覆いをして風雨が当たらないようにし、覆いの内壁には扁額を並べて掲げたうえで説明書を添付する。
敷地はタップリあるのだから、これぐらいの施設は簡単に作れるように思えるのだが。 -
参道を挟んだ反対側へ。
社務所の前に並んでいたのは力石。
重機などという“文明の利器”が影も形もなかった昔。
“人力”が物流を支え、力あるものがチヤホヤされた時代。
力自慢の若者たちがこの石を担いで本殿の回りを一周し、見事に担ぎ通した者は姓名を刻んで神前に奉納、その栄誉を称えられたという。 -
力石の右隣りに位置する巫女神楽殿。
毎月1日の月次祭と15日の献詠祭には神楽が奉納される。
話は変わって、ここ氷川神社の鎮座地は「さいたま市大宮区高鼻町」という。
この「高鼻」という地名は古来からのもの。
この地は古地図によると縄文海進の名残であるとされる見沼(御沼)の縁に当たり、沼に突き出た台地だったそうだ。
その姿が「高い鼻」のように見えたのが由来だろう。
見沼の水害を鎮めるべく「高い鼻」に鎮座した氷川神社は古代、水と農耕の神として崇められていた。 -
さらに境内を奥に進むと、緑豊かな木立に囲まれた神池が広がる。
池の右から三分の二のあたりに神橋が架けられ、左側に浮かぶ島には宗像神社が祀られている。
さて、氷川神社の創立は今から約二千四百年以上も前のこと。
第五代孝昭天皇の御代三年四月未の日と社記は伝えている。
第十二代景行天皇の御代、日本武尊が参り東夷鎮定を祈願。
第十三代成務天皇の御代、出雲族の兄多毛比命(えたもひのみこと)が武蔵国造に赴任。
この地に故郷出雲國の簸川(ひのかわ)上流にある出雲大社の分霊を移し祀ったところから「簸川神社」と命名。
後に転じて「氷川神社」となった…と言われている。
その逆もある。
例えば東京都文京区の「簸川神社」は大正時代、社号を「氷川神社」から元に戻した(?)末社である。 -
神池に架かる神橋。
この先に社殿群が鎮まる。
小野神社のところでも触れたが、氷川神社は中世まで武蔵國三之宮だった。
中世に入り源頼朝が鎌倉幕府を開府すると、古代史のスーパーヒーロー素盞鳴尊を祀る氷川神社は武家政権から格別な尊仰を受けた。
源氏の後も足利氏、後北条氏、そして徳川氏と尊仰の念は絶えることがなく、それに伴い氷川神社も“武蔵國一之宮”の地位を自ずと確立していくこととなる。 -
神橋を渡ると正面には朱も鮮やかな楼門が聳立している。
さて、徳川幕府の消滅で武家政権の歴史が終焉したものの、氷川神社は明治維新を迎えて一層の発展を見せる。
明治天皇が御所を京都から江戸改め東京に遷されたことに伴い、明治元(1868)年10月28日に行幸され自ら祭儀を執り行い、武蔵国の鎮守勅祭の社に定められた。
更に同3(1871)年11月1日、再び行幸。
この時の行列は京都からの遷都と同様に非常に荘厳なものだったと伝わっている。
数度に及ぶ明治天皇の御親祭は、桓武天皇が平安遷都の折に山城國一之宮の賀茂社をお祀りした先例を踏まえたものと云われている。
その模様を謹写した山田衛居筆の氷川神社行幸絵巻物は、今も社宝として大切に保存されているそうだ。 -
楼門を潜り抜けると目に飛び込んでくる舞殿。
氷川神社の社殿群は神話時代はさておき、現実的な歴史上でも幾度も造営が繰り返されてきた記録がある。
最も古い社殿造営の記録は治承4(1180)年、源頼朝が土肥次郎実平に命じて社殿を再建せしめたというもの。
文禄5(1595)年8月には徳川氏が伊奈備前守忠次を奉行に任じ、社頭一切を造営。
寛文7(1667)年3月にも阿部豊後守に命じて社頭の整備や社殿の建立などを行なっている。
明治時代にも「帝都守護の総鎮守」に相応しい偉容を整えるべく大規模に改築。
現在の社殿は昭和15(1940)年6月に竣成したものだ。 -
舞殿の横をクルリと巡り、正面奥の拝殿へ。
「氷川」とは出雲國に流れる「簸川」が語源だと先に触れた。
「簸川」とは現在の島根県斐伊(ひい)川とされる。
素戔嗚尊(すさのおのみこと)が八岐大蛇(やまたのおろち)を退治した伝説で知られる出雲神話の川だ。
御祭神は須佐之男命、稲田姫命、大己貴命の三柱。
稲田姫命は須佐之男命の御妃で、大己貴命は子。
江戸時代まで御祭神は須佐之男命のみで、稲田姫命は氷川女體神社に、大己貴命は簸王子社(氷王子社、中氷川神社)に、それそれ祀られていた。
ここへ他の二柱が祀られるようになったのは明治15(1882)年のこと。
このあたりの沿革については、また稿を改めたい。 -
今回の参拝と直接関係ないのだが、横浜港に係留されている氷川丸について触れておきたい。
氷川丸の船名は無論ここ氷川神社に由来する。
日本郵船が昭和5(1930)年に米シアトル航路に就航させた1万2000トン級の巨大貨客船。
船内の神棚には氷川神社の御祭神が祀られ、船内の装飾にもご神紋の八雲が随所にあしらわれている。
歴代の船長以下乗組員は毎年大宮氷川神社へ参拝するのが習わしだったそうだ。
そのお陰か、三度の触雷にも戦時中の銃撃にも敵潜水艦との遭遇にも、沈むことなく戦後まで生き残ることに。
埼玉県には海がないので、氷川丸は海上の「飛び地」みたいなものかも知れない。 -
神橋から見た境内。
こうして見ると手狭に見えるが、敷地は約3万坪と広大。
隣接する大宮公園も元は神領で、その面積からも御神威の強大さが伺える。 -
三の鳥居を出て境内を辞す。
氷川参道を引き返すのではなく、左側へと続く緩やかな勾配を下っていく。
すると「そば・うどん」と記された巨大な行灯を発見。
門前蕎麦屋の大村庵。
やはり参拝したからには蕎麦で締めよということか。 -
鴨汁蕎麦とグラスビールを注文。
平日とあって昼時でもそれほど混雑していない。
蕎麦は国内産の蕎麦粉を石臼で挽き、手で捏ね、包丁切り…とある。
鴨汁蕎麦が目の前に来る。
挽きぐるみの黒い田舎蕎麦を予想していたが、意に反して更科系の白い蕎麦。
冷たい蕎麦と暖かい鴨つけ汁の相性も絶妙で、これがまた冷えたビールによく合う。 -
大村庵を出て、引き続き緩やかな勾配を先へと下る。
正面には大宮公園の入口。
明治維新を迎えると太政官(新政府)は神社仏閣の領地の大部分を国有化し、その境内地など名所旧跡に公園を設定することを決定した。
そんな流れの中で明治18(1885)年、氷川神社の旧神領に「氷川公園」が誕生。
同31(1898)年からは埼玉県の管理下に置かれ、名称も「大宮公園」に変更。
公園の広さは67.8ヘクタール。
1ha=1万平方m=約3000坪で換算すると…なんと約20万3400坪!
氷川神社境内の約3万坪と比すと、約7倍もの広さを有することになる。 -
敷地内には様々な公共施設が立ち並んでいる。
昭和9(1934)年開業という、来年開業80周年を迎える埼玉県営大宮公園野球場。
同年こけら落としで「日米野球」が開催され、ベーブ・ルースやルー・ゲーリッグもプレーしたという。
現在では埼玉西武ライオンズが年に数回、公式戦を開催している。 -
次に昭和14(1939)年に開設された「大宮公園陸上競技場兼双輪場」。
翌年開催予定だった東京五輪の自転車競技会場として建設されたが、五輪は第二次大戦のため中止。
それから10年後の同24(1949)年、「大宮競輪場」として東日本で最初に競輪の開催を始めた。 -
最後は「NACK5スタジアム大宮」こと、さいたま市大宮公園サッカー場。
昭和35(1960)年に開業した日本初のサッカー専用球技場で、現存するものとしては国内最古だそう。
当時は野球一色だったので、専用サッカー場の建設そのものが非常に珍しかったと思える。 -
サッカー場、野球場、競輪場と、施設の間をすり抜けるかのようにテクテク歩く。
本日は競輪の開催日で、公園内を多数の観客が同じように歩いていた。
ほかにも公園内には児童遊園や小さな動物園、大きな池や湖畔の食堂などがあり、非常に落ち着いた雰囲気。
また改めて公園を目的に来訪したい気持ちにさせられた。
公園の敷地を抜け、中学校の横を歩いているうちに、東武野田線大宮公園駅に到着。
短時間の中に様々な要素が凝縮された、濃厚なひとときを過ごすことができた。
氷川大神に感謝を捧げつつ、大宮公園を後にしたのだった。
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