2013/04/09 - 2013/04/09
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kotetsupatapataさん
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しょっちゅう通るくせに初めて降り立った近江八幡
つい5日前も通ったばっかりです(;一_一)
近江八幡といって思い浮かべるもの・・ う~ん八幡商業(@_@;) ←高校野球の強豪校だよね(爆)
あと何だろう?
今日はそんな近江八幡を満喫したいと思います
- 旅行の満足度
- 5.0
- 観光
- 5.0
- グルメ
- 4.5
- 同行者
- 一人旅
- 一人あたり費用
- 1万円未満
- 交通手段
- JRローカル
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地元愛知の桜は先日の爆弾低気圧の強風でほとんど散ってしまったため、多分八幡堀の桜もほとんど散ったかな〜、と半ば諦めに近い気持ちで滋賀まで来ましたが、意外にも米原辺りの桜の木が満開だったので、もしかしたら期待がもてそう?
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近江八幡駅では1日500円で自転車を借りる事が出来ます。
八幡堀までは歩くには少し距離がありますが、周辺の見所がコンパクトに集まっているので、大変重宝いたします。
駅前の観光案内所で「近江八幡観光パスポート」を1,000円で購入していざ出発! -
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八幡山を見上げます
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駅で借りたケッタです(*^_^*)
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「おっちゃんこれあげる(*^。^*)」
「たわけ! こんなんいらんわ〜(`´) 現金よこさんか!」 -
=白雲館=
白雲館は明治10年(1877年)に八幡東学校として建てられたものです。
木造2階建て、寄棟、桟瓦葺。6角塔屋付、外壁は白漆喰仕上げ、縦長の窓、玄関ポーチと上部のバルコニー、隅石積など当時の洋風建築の要素を取り入れる一方でバルコニーの屋根に棟唐破風が見られるといった所謂擬洋風建築と言われています。
明治28年から主に八幡町役場や蒲生郡役所、電報電話局、食料事務所八幡出張所といった公共施設として利用され現在は観光案内所や市民ギャラリーとなっています。
明治時代初期に建てられた擬洋風学校建築の遺構として貴重な存在で国登録有形文化財に指定されています。 -
★日牟禮八幡宮(ひむれはちまんぐう)★
白雲館の道の反対側に立つ日牟禮八幡宮の鳥居が立っています
この辺りが近江八幡の観光の中心です
誉田別尊(ほんたわけのみこと)・息長足姫尊(おきながたらしひめのみこと)・比売神(ひめかみ)の三神を祭神とする旧八幡町の総社です -
★日牟禮八幡宮(ひむれはちまんぐう)★
有名な和菓子の老舗「たねや」さんも八幡堀を渡った所にあります。
道の反対側にはこれまた行列店の「クラブ・ハリエ」も 噂通り今日も凄い人が店内に吸い込まれていきます -
★日牟禮八幡宮(ひむれはちまんぐう)★
楼門 -
★日牟禮八幡宮(ひむれはちまんぐう)★
拝殿
しっかりお祈りしましょ(*_*)
とりあえずは・・ 今日から始まる読売との三連戦の勝ち越しを祈りました!(^^)! -
★日牟禮八幡宮(ひむれはちまんぐう)★
本殿 -
天気のいい内にロープウェイで山頂を目指します。
通常料金は往復800円ですが、パスポートに料金は含まれています。 -
15分おきに運行 約4分で山頂駅です
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ロープウェイの駅から坂道を歩きこと約5分
視界が開けてきました
ここが西の丸址で琵琶湖が一望のもとです -
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遠くうっすら見えているのが比叡山です
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☆八幡山城跡☆
標高285mの八幡山山頂にあります。安土城が落城してから3年後、豊臣秀吉の姉の子である(ようするに甥っ子)豊臣秀次が築いた城です。
最頂部に本丸をもうけ、その南東に二の丸、西に西の丸、北に北の丸、南西の尾根上一段低く出丸を配置する構造で、山頂から八の字形に広がる尾根上の小曲輪と、尾根に挟まれた南斜面中腹に秀次館跡と家臣団館跡群と思われる曲輪群が階段状に残っています。
その後、京極高次が大溝1万石から2万8千石の領主として近江八幡城に入城しました。
高次は秀次の政策を継承していましたが、1595年(文禄4年)大津城に移封され、近江八幡城は廃城となりました。
現在は石垣を残すのみですが、本丸跡には秀次菩提寺の村雲御所瑞龍寺が京都から移築されています -
北の丸址から水郷地帯を望みます
写真中央のこんもりした丘の麓が安土城跡です -
★瑞龍寺(村雲御所)★
八幡城本丸跡の寺院。日蓮宗。安土・桃山時代に、豊臣秀次の母であり秀吉の姉である瑞龍院日秀尼公が、秀吉に自害させられた秀次の菩提のために、京都の村雲に創建しました。そのため俗に、村雲御所と呼ばれています。
のち、昭和36年(1961)に現在地に移されました。日蓮宗では唯一の門跡寺院として格式が高いです。
☆豊臣秀次☆
豊臣秀吉の姉瑞竜院日秀の子(秀吉の甥っ子)。
天正12(1584)年4月の小牧・長久手の戦では,指揮を誤って家中に多数の戦死者を出して秀吉から叱責されましたが,同13年には羽柴の名字を許され,秀吉の諱の1字をもらって秀次と名乗りました。
近江,大和などに43万石を与えられ近江八幡山の城主となり,同年従三位中納言に叙任,近江中納言と呼ばれた。その後秀吉から関白職を譲られて豊臣家の相続をも約束されましたが、秀吉の側室淀殿が秀頼を生むと秀次の地位は動揺を来し,とどのつまりは乱行を噂されて、わずか27歳で切腹に追い込まれました。
男女ふたりの子供と妻および側室三十数人も京都三条河原で斬られています。
若くして悲運の最期を遂げた秀次ですが、近江八幡の開町の祖として市民に今なお慕われているようです -
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瑞龍寺より近江八幡の市街地を望みます
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八幡堀もかわらミュージアム近くまで来るとあまり人がこないようです
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折角滋賀まで来たので近江牛でも・・ って滋賀に来る度に言っている気がしますが(爆)
とはいえ一人なのでステーキやすき焼きといったものではちょっと・・
という事で、本日は「かわらミュージアム」の敷地内にある喫茶店『瓦亭』にて、近江牛カレーに決定(*^^)v -
こちらが近江牛カレー 780円也です
ちなみに左に見える赤いのは福神漬けではなく、近江特産“赤こんにゃく”です。 又肉の塊かと思って口にしたものは、そちらも特産の“丁子麩”というお麩でした。
肉もしっかり染み込んでいて美味しかったです!(^^)! -
「近江八幡パスポート」に入場料が含まれているので、折角ですから入館しましょう
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♪桜の八幡堀♪
豊臣秀次が八幡山のふもとに城下町を開いたとき、当時の交通幹線であった琵琶湖を往来する荷船をすべて八幡に寄港させるために設けられた運河が八幡堀です。 -
♪桜の八幡堀♪
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♪桜の八幡堀♪
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♪桜の八幡堀♪
よく時代劇や2時間サスペンスドラマの撮影で使われるようです -
♪桜の八幡堀♪
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♪桜の八幡堀♪
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♪桜の八幡堀♪
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イチオシ
♪桜の八幡堀♪
抜群のタイミングで風が吹き、思い描いていたような光景が!(^^)!
これだがね〜 八幡堀の桜吹雪と遊覧船! -
♪桜の八幡堀♪
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♪桜の八幡堀♪
花筏(^.^) -
♪桜の八幡堀♪
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♪桜の八幡堀♪
う〜ん満腹(*^_^*) -
=旧八幡郵便局=
ウィリアム・メレル・ヴォーリズによって大正10年(1921)に郵便局の局舎として建てられたもので、昭和36年で郵便局としての利用されていました。 -
近江八幡といえば、近江商人の町としても有名です。
近江商人とは近江で商いを行う商人ではなく、近江を本宅・本店とし、他国へ行商した商人の総称で、個別には「高島商人、八幡商人、日野商人、湖東商人」などと呼ばれ、それぞれ特定の地域から発祥し、活躍した場所や取り扱う商品にも様々な違いがあるのも特徴です。
八幡商人の特徴としては、近江商人の中でも最も早い時期に活動し、海外進出を果たしたのもこの地の出身者でした。日本全国の城下町建設ブームに乗った商人にふさわしく、リスクを云々するよりも、チャンスに賭ける機敏で胆力のある商人であったこと、それに創業期こそ行商でしたが、やがて三都をはじめ比較的大きな都市に、数は少ないが大規模な店を構え、東西物産の交易にあたったことなどです。
今も当時の古い街並みがよく保存されています。 -
=岡田彌三右衛門邸(非公開)=
岡田家は古くから豪商として知られ、特に北海道の開発に尽力し、漁場の開発や炭鉱、農場、道路の開削工事、登別温泉の発見など多岐にわたり大正7年には功労者として追彰状が贈られています。現在の建物は木造2階建、切妻、平入、桟瓦葺、正面1階は前面格子戸で下屋庇が下げられ、2階は真壁造りで白漆喰仕上げになっています。 -
マンホール近江八幡バージョン
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=朝鮮人街道=
豊臣秀吉の朝鮮侵略以後、断絶が続いていた日朝関係の回復を願った徳川家康は、対馬藩を通じて朝鮮へ幾度と使者を送り、国交の回復に努めました。紆余曲折があったものの、慶長12年(1607年)、正式に使節を迎え入れることとなり、以後、文化8年(1811年)までの間、計12回の通信使が日本にやってきました
通信使の一行はソウルを出発しプサンより海路で対馬から瀬戸内海、淀川から京都へ到着、その後は陸路で中山道・東海道を通過し江戸を目指すという行程でその長さは約2000kmに及び、その期間は往復で約1年もの歳月を費やしました。
その内「朝鮮人街道」と呼ばれるのは、現在の野洲町小篠原から安土・八幡を経て彦根市鳥居本までの約40kmに限られています。
滋賀県内での通信使の行程は基本的には京都を発ち、大津で食事、守山で宿泊、翌日は、八幡で食事、彦根で宿泊という行程だったそうです。 -
=郷土博物館=
郷土博物館は明治19年(1886)に西村太郎右衛門宅邸跡に八幡警察署として建てられたもので、木造2階建、寄棟、桟瓦葺、縦長の上げ下げ窓などに当時の洋風建築の要素を取り入れています。 -
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=伴庄右衛門邸=
伴家は江戸時代初期から八幡商人として財を築いた家柄で寛永年間には江戸日本橋に出店し、その後も大坂淡路に出店するなど繁栄しました。
現在の建物は文政10年(1827年)から天保11年(1840年)にかけて建てられたもので、明治20年頃伴家がこの地を離れると建物は町に譲渡され小学校や役場、女学校、図書館などに利用されました。
近年まで近江八幡市立図書館となっていましたが平成9年の移転に伴い再整備され現在は市立資料館として一般公開されています。旧伴家住宅は近江八幡市指定文化財に指定されています。 -
イチオシ
新町通り
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新町通り
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=森五郎兵衛邸=
初代五郎兵衛は、伴傳兵衛家に勤め、別家を許され、煙草や麻布を商いました。
やがて呉服・太物など取り扱い商品を増やし、江戸日本橋や大阪本町にも出店するなど活躍しました -
=旧西川利右衛門家住宅=
西川利右衛門は屋号を大文字屋と称して蚊帳や畳表を商い、江戸、大坂、京都に店を構えました。
現在の建物は、3代目によって宝永3年(1706年)に建てられたものです。 -
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西川家の庭に咲いていた枝垂れ桜
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=西川庄六邸(非公開)=
西川庄六家は古くから蚊帳、綿、砂糖、扇子などを取り扱う豪商として知られ、島津家御用商人にもなり江戸にも出店していました。
現在の建物は江戸時代中期に建てられたもので木造2階建、切妻、平入、桟瓦葺、外壁の向かって右端には防火の為うだつが掲げられ、正面1階は前面格子戸で板葺の下屋庇が下げられ、2階は真壁造りで白漆喰仕上げになっています。
西川庄六邸は江戸時代中期に建てられた大型町屋建築の遺構として貴重な存在で滋賀県指定文化財に指定されています。 -
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ちなみにこちらが通りがかりで見つけた、八幡商人の血を引く?若者が学ぶ県立八幡商業高校です。
結構立派な建物ですね〜
皆さんしっかり勉強して世間のお役に立てる人間になって下さいね
間違っても小生みたいにはならないように(*^_^*) -
今回の旅行貯金の成果です
近江八幡郵便局(水郷の街)と八幡池田郵便局(京街道)でお宝スタンプGETです!
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この旅行記へのコメント (2)
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- ぺでぃまるさん 2013/04/09 22:38:00
- 春の近江八幡
- kotetsupatapataさん、こんばんは〜
イイ天気の下、近江八幡楽しまれてますね。
仕事をしながら今日は最高の旅行日和だと窓の外を眺めた自分としては羨ましいです。
仕事ついでにしょっちゅう行きますが、桜の時期はあんまないんですよ…
桜は八幡には少ないですが、八幡堀に咲いていると絵になりますね〜
表紙の桜吹雪の絵は秀逸です!
ちなみに最後の八商の校舎はヴォーリズ建築、渋くありませんか?
ぺでぃまる
- kotetsupatapataさん からの返信 2013/04/10 22:34:41
- RE: 春の近江八幡
- ぺでぃまるさん
コメントありがとうございます(*^^)v
初めて近江八幡を訪ねましたが本当にいい所でした。
まさかあんな綺麗な桜吹雪が見られるとは・・
天気も良くラッキーでした(*^_^*)
> ちなみに最後の八商の校舎はヴォーリズ建築、渋くありませんか?
なかなかいい建物ですね 生徒さんが羨ましいです
今後とも宜しくお願い申し上げます
kotetsupatapata拝
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