2013/01/20 - 2013/01/20
65位(同エリア187件中)
五黄の寅さん
利根川は古来より度々氾濫して、その名残が手賀沼などの湖沼として現在に至っています。
氾濫を防ぐための治水事業として、河川の流れを付け替える土木工事が行われて来ましたが、その付け替えの痕跡がこの古利根沼になって残っています。
又古利根沼の近くに戦国時代の城址が残っているらしいので、そちらも訪ねてみました。
- 同行者
- 一人旅
- 交通手段
- 自家用車 徒歩
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古利根沼の場所は、利根川の千葉側で国道6号線の橋の東側に位置しています。
豆知識
行政区分として、利根川が千葉と茨城の県境になっています。
古利根沼の真ん中が茨城と千葉の県境として行政上の区分けされています。
そんな訳で、古利根沼の前後で千葉県と茨城県が入り組んでいます。
この地図を拡大して頂くと、点線で描かれた県境が古利根の真ん中を通っているのが判ると思います。 -
この先の空き地で車を駐車、城址に向かいます。
先日の雪が辺り一面残ってます。 -
途中、祠(最初の地図の緑の円の所)が階段の上に見えるので上がって見る事にしました。
この辺りは城跡の西の端だった様です。 -
狭くて急な階段を上ってゆくと
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小さな祠が建ってました。
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祠のほとりに小さな石塔が建ってます。
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再び急な石段を下ります。
ここにも先日の雪が残ってます。 -
石段を下りた先に案内表示が建ってます。
150m先に目指す 芝原城址 があるようです。 -
城址の向こうに公園があるようですね。
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この先に城址があります。
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城址の区域を示す地図によると、三角形の地域に城は有り堀(縦縞の線)で
三つの郭(区画)で成り立っていたようです。
この地図の左端(西の端)に先程の祠が建っています。 -
城址の入口に建っている説明版より引用
芝原城(中峠城)跡は我孫子市内の中世城郭としてはその形をよく保っています。 -
城の施設は西に向かい突出する三角形状の台地の端に構築した南北方向の3本の空堀が中心です。
この空堀で台地先端部の?郭から?郭まで3郭が区画されています。先端部の?郭がいわゆる本丸と考えられています。(先程の地図参照) -
昭和49年に現在住宅地となっている部分の?郭の南側の一部と?郭の南側を含む部分の発掘調査が行われました。
芝原城の城主は史料の上で明記されたものは残っていませんが、言い伝えや「本土寺過去帳」の記述などから「河村氏」が城主であったことは確かなようです。 -
河村氏は小田原の後北条氏の家臣で、もと相模の在地土豪で、後北条氏の勢力伸張に従いこの地に移ってきたようです。
後北条氏滅亡のとき芝原城を守っていた城代林伊賀守順道が自刃したという言い伝えが残っています。
以上引用でした。 -
2000年に我孫子市の景観賞に輝いた記念のモニュメントが建ってました。
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従前の引用分の記された説明版が城址の入口に建っています。
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城址の奥が公園になっていて
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こちらがその入口です。
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公園(自然観察の森)を後にして、古利根沼に戻ります。
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以下ウィキペディアより古利根の項を引用
古利根沼は大正時代中期までは、利根川の本流であり県境ともなっていた。 -
しかし、この地域で利根川の流路が急激に湾曲していたため、台風の襲来による河川の氾濫が絶えなかった。
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そこで、明治44年から大正9年の利根川河川改修により流路を直線化し、
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利根川は現在の位置(古利根沼の北)を流れるようになった。
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その名残として、現在でも古利根沼と利根川に挟まれた細長い地域は
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取手市取手の一部及び小堀(おおほり)として茨城県に所属している。
これが冒頭の県境の入りクリの説明です。 -
雪の残る古利根沼を後にして、帰路につきました。
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