2012/09/28 - 2012/09/28
203位(同エリア229件中)
ムッシュさん
甲州古道no14 金沢宿へ
天保?年(1843年)頃の金沢宿の宿内家数は161軒、うち本陣1、問屋2、旅籠17軒で、宿内人口は622人でした。
〔金沢宿本陣跡〕
五街道は幕府直轄で道中奉行の支配下に置き、約四里(約15Km)おきくらいに宿場を設け、大名の参勤交代や公用旅行荷物の継ぎ建ての業務に当てさせた。甲州街道の宿場には二十五人の人足と二十五匹の馬を常駐させその任に当たらせた。
本陣は大名や公家が泊まったり、休憩する施設で、公用の書状や荷物の継ぎたてをおこなっていた。金沢宿には二軒の問屋が置かれ主は名字帯刀が許されていて世襲であった。金沢宿は慶安年間の初めまでは現在地の北方権現原にあって青柳宿と称していたが、度重なる水害と前年の火災で焼失したのを機に、慶安四年(1651)現在地に移転し金沢町と改称した。
本陣の敷地は約四反歩(約40アール)あって、敷地内には高島藩や松本藩の米倉などがあった。小松家は青柳宿当時から代々本陣問屋を勤めていたが、隣村茅野村との山論で家族を顧みる暇もなく、寝食を忘れ町民の先にたって働いた四代三郎左衛門は、延宝六年(1678)高島藩は伝馬を怠ったとの廉で、町民の見守る中ではりつけの刑に処され家は闕所断絶した。その後明治初年まで白川家が本陣問屋を勤めた。金沢宿を利用した大名は高島藩・飯田藩・高遠藩の三藩であったが、江戸後期になると幕府の許可を得た大名が東海道や中仙道を通らず甲州街道を通行し金沢宿に泊まっている。
平成十一年五月吉日 金沢財産区 金沢区 金沢歴史同好会
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「金沢交差点」から次のバス停手前に、こちらも二階に【連子格子を残している小林氏宅】が建っている。
往時馬方宿を営んでいたと云う玄関の前に大きな石(フォト左端)が置かれており、その石の前に小さな馬繋ぎ石があった。 -
大きな石(フォト左端)が置かれており、その石の前に【小さな馬繋ぎ石】
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【権現の森】 茅野市指定史跡(昭和58年4月指定)
江戸から甲府までの甲州道中(甲州街道)が下諏訪まで延長されたのは慶長十五年(1610)ごろである。そのころここは青柳宿といい、この権現の森の北西に家が並んでいたが、たびかさなる宮川の洪水や慶安三年(1650)の大火を機に南方の現在地へ移転し、翌四年に金沢宿と宿名を改めた。この宿場は、山浦方面や松倉峠(金沢峠)を越して高遠方面に通ずる分岐点として、交通上、物資の流通上重要な所であった。
文化二年(1805)に金沢宿より幕府に供出した「御分間御絵図御用宿方明細書上帳」に、「宿持鎮守 除地 拾六間四方金山権現森壱ヶ所石御祠御座候 但江戸ヨリ右之方往還ニ御座候」とあり、権現の森と石祠について報告がされている。
参道正面に祀られているのがこの石祠で、建立は承応三年(1654)である。青柳宿が移転して金沢宿と名を改めた三年後のことである。金山権現は、祭神は金山彦命で、山の神である。武田信玄の開発した金鶏金山と関係が考えられ、当時すでに祀られていたのではないかと考えられる。
石祠の左右には、江戸中期ころより庶民の信仰として祀られた御嶽座王大権現・庚申・矜羯羅(こんがら)童子と制吨迦(せいたか)童子の脇侍(わきじ)をともなう不動明王・摩利支天・甲子・秩父坂東西国巡礼供養塔・津島牛頭天王・大六天・如意輪観音・蚕玉大神・道祖神祠・石燈籠など大正期までの石造物二十数基が祀られている。
また、石祠建立のころの植樹かと思われるサワラの古木が残存し、森に趣を添えており、信仰の場として、また憩いの場として今も江戸時代の名ごりを留めている貴重な場所である。
昭和五十九年一月 茅野市教育委員会 -
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