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丸岡城は、福井県坂井市丸岡町霞町にある小高い丘陵に築かれた、現存天守閣では最古の平山城です。霞ヶ城という別名通り、春爛漫の桜花に霞んで浮かぶ姿は幻想的で旅情を燻るそうです。最古の天守閣を誇るだけでなく、石瓦葺きの屋根、かつて城を囲んでいたとされる五角形濠(内堀)なども珍しいもので、お城ファンや戦国ファンを魅了して止まないお城だそうです。<br /><br />桃山時代の1576年、一向一揆に備えた織田信長の命により、柴田勝家が甥の勝豊に築かせました。城郭建築史上重要な遺構とされ、国の重要文化財に指定されている天守閣は、本丸の南西部に位置し、高さ6.2mの野面積みされた石垣の天主台の上に聳え建ちます。天守閣は、古色蒼然とした二重三階望楼型独立式で、通し柱は存在せず、1階が上階を支える初期天守構造となっているのも見ごたえがあります。<br /><br />古くは、映画『戦国自衛隊』(1980年公開)で、丸岡城の天守閣から景虎がヘリコプターに乗り移るシーンが斬新で印象的でした。覚えておられる方も多いのではないでしょうか?ところで、重要文化財なのによく撮影許可が下りたと感心します。当然、観光のPRにもなったと思いますが…。また、黒澤明監督の映画『乱』(1985年公開)では、丸岡城は炎上する城(三の城)のモデルとされたのですが、事前に監督自ら視察に来られたそうです。何か惹かれるものがあったのでしょう。その足跡を辿ってレポートしたいと思います。<br />

山陰・北陸 日本海浪漫紀行 ③丸岡城散策編

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2012/06/02 - 2012/06/02

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丸岡城は、福井県坂井市丸岡町霞町にある小高い丘陵に築かれた、現存天守閣では最古の平山城です。霞ヶ城という別名通り、春爛漫の桜花に霞んで浮かぶ姿は幻想的で旅情を燻るそうです。最古の天守閣を誇るだけでなく、石瓦葺きの屋根、かつて城を囲んでいたとされる五角形濠(内堀)なども珍しいもので、お城ファンや戦国ファンを魅了して止まないお城だそうです。

桃山時代の1576年、一向一揆に備えた織田信長の命により、柴田勝家が甥の勝豊に築かせました。城郭建築史上重要な遺構とされ、国の重要文化財に指定されている天守閣は、本丸の南西部に位置し、高さ6.2mの野面積みされた石垣の天主台の上に聳え建ちます。天守閣は、古色蒼然とした二重三階望楼型独立式で、通し柱は存在せず、1階が上階を支える初期天守構造となっているのも見ごたえがあります。

古くは、映画『戦国自衛隊』(1980年公開)で、丸岡城の天守閣から景虎がヘリコプターに乗り移るシーンが斬新で印象的でした。覚えておられる方も多いのではないでしょうか?ところで、重要文化財なのによく撮影許可が下りたと感心します。当然、観光のPRにもなったと思いますが…。また、黒澤明監督の映画『乱』(1985年公開)では、丸岡城は炎上する城(三の城)のモデルとされたのですが、事前に監督自ら視察に来られたそうです。何か惹かれるものがあったのでしょう。その足跡を辿ってレポートしたいと思います。

同行者
カップル・夫婦
一人あたり費用
1万円未満
交通手段
観光バス
旅行の手配内容
団体旅行
  • 丸岡城<br />小高い丘の急勾配の坂を息を弾ませて登っていくと、眼前に古式蒼然とした無骨で質実剛健とした天守閣が現れます。また、石垣は一目で野面積みと識別でき、厳つくゴツゴツとした歴史感を際立たせます。<br />なるほど、国宝 犬山城と最古の覇権争いを組するだけの存在感があり、威風堂々としたものです。<br />

    イチオシ

    丸岡城
    小高い丘の急勾配の坂を息を弾ませて登っていくと、眼前に古式蒼然とした無骨で質実剛健とした天守閣が現れます。また、石垣は一目で野面積みと識別でき、厳つくゴツゴツとした歴史感を際立たせます。
    なるほど、国宝 犬山城と最古の覇権争いを組するだけの存在感があり、威風堂々としたものです。

  • 丸岡城 天守への階段脇に鎮座する石製の鯱<br />素朴ながらユーモラスな表情も、古式ゆかしい石製の鯱です。<br /><br />この鯱は、元は木彫銅板張りであったものを、1940〜1942年の修理の際に石製に改めたものです。当時は戦禍中で、銅板の入手が困難だったため、やむなく石瓦と同質の石材で作り替えたものです。石製の鯱は、1948年福井大震災で落下し、現在の様な形で残されています。現在天守閣の上に乗っている鯱は、1952〜1955年の修復時、元の木彫銅板張りに復元されたものです。<br />

    丸岡城 天守への階段脇に鎮座する石製の鯱
    素朴ながらユーモラスな表情も、古式ゆかしい石製の鯱です。

    この鯱は、元は木彫銅板張りであったものを、1940〜1942年の修理の際に石製に改めたものです。当時は戦禍中で、銅板の入手が困難だったため、やむなく石瓦と同質の石材で作り替えたものです。石製の鯱は、1948年福井大震災で落下し、現在の様な形で残されています。現在天守閣の上に乗っている鯱は、1952〜1955年の修復時、元の木彫銅板張りに復元されたものです。

  • 丸岡城<br />入口へのアプローチでこの勾配です。天守閣への勾配がどのくらいのものなのか、推して知るべしです。<br /><br />天守内部の階段は、大変急な階段で、観光客のために用意されたロープに捕まりながら、アスレチック風に上リ下りするのには驚愕しました。犬山城の階段の角度も凄いですが、その比ではありません。垂直に近く、階段ではなく、梯子です。姫君は、着物姿でこの階段を駆け上がったのでしょうか?イメージすることさえ不可能です。こんな状態なので、スカートの場合は天守閣への登頂は諦めた方が無難です。<br />怖い思いをしてようやく登った天守閣は、肌で感じる空気感が違うから不思議です。パワースポット的なご利益が期待できるということでしょうか? <br />

    丸岡城
    入口へのアプローチでこの勾配です。天守閣への勾配がどのくらいのものなのか、推して知るべしです。

    天守内部の階段は、大変急な階段で、観光客のために用意されたロープに捕まりながら、アスレチック風に上リ下りするのには驚愕しました。犬山城の階段の角度も凄いですが、その比ではありません。垂直に近く、階段ではなく、梯子です。姫君は、着物姿でこの階段を駆け上がったのでしょうか?イメージすることさえ不可能です。こんな状態なので、スカートの場合は天守閣への登頂は諦めた方が無難です。
    怖い思いをしてようやく登った天守閣は、肌で感じる空気感が違うから不思議です。パワースポット的なご利益が期待できるということでしょうか?

  • 丸岡城 天守閣<br />現存天守閣としては、備中松山城に次いで二番目に小さなものですが、 初期天守閣の特色を濃厚に今に遺してします。二重三階望楼型独立式の天守閣は、大入母屋造りの屋形に回縁勾欄付きの望楼を乗せた形式で、犬山城や高知城と類似。屋根の交錯を避けた直線的な独立破風、太い出格子、黒い板壁、それに各層に石落としや狭間(さま:鉄砲穴)を設けた装いは初期天守に顕著な特徴で、血で血を洗う戦国時代のユニークなものです。また、軒下や壁面が白木造りとなっているのも希少です。現在の天守閣は、1948年の福井地震で倒壊したものを1955年に修復再建したものです。その際、最上階の窓の造りが、引き戸から突き上げ窓に改変されたそうです。<br />石垣は、「野面積み(のずらつみ)」というゴツゴツ感のある古い形態で、隙間が多く、粗雑な印象ながら排水が良く、大雨にも崩れる心配がありません。屋根瓦には、福井 足羽山産の笏谷(しゃくだに)石製の石瓦が葺かれており、これも希少です。寒冷地であるため、雪が凍って屋根に張り付いて重くならないように石瓦が葺かれたと伝えられています。石瓦は一枚当たり20〜60kgあり、屋根全体で総重量は120トンにもなるそうです。<br />また、かつては最大幅が91mもあった五角形の広い濠を有し、本丸、二の丸、三の丸と東の丸を構える壮大な城郭だったそうです。<br />

    丸岡城 天守閣
    現存天守閣としては、備中松山城に次いで二番目に小さなものですが、 初期天守閣の特色を濃厚に今に遺してします。二重三階望楼型独立式の天守閣は、大入母屋造りの屋形に回縁勾欄付きの望楼を乗せた形式で、犬山城や高知城と類似。屋根の交錯を避けた直線的な独立破風、太い出格子、黒い板壁、それに各層に石落としや狭間(さま:鉄砲穴)を設けた装いは初期天守に顕著な特徴で、血で血を洗う戦国時代のユニークなものです。また、軒下や壁面が白木造りとなっているのも希少です。現在の天守閣は、1948年の福井地震で倒壊したものを1955年に修復再建したものです。その際、最上階の窓の造りが、引き戸から突き上げ窓に改変されたそうです。
    石垣は、「野面積み(のずらつみ)」というゴツゴツ感のある古い形態で、隙間が多く、粗雑な印象ながら排水が良く、大雨にも崩れる心配がありません。屋根瓦には、福井 足羽山産の笏谷(しゃくだに)石製の石瓦が葺かれており、これも希少です。寒冷地であるため、雪が凍って屋根に張り付いて重くならないように石瓦が葺かれたと伝えられています。石瓦は一枚当たり20〜60kgあり、屋根全体で総重量は120トンにもなるそうです。
    また、かつては最大幅が91mもあった五角形の広い濠を有し、本丸、二の丸、三の丸と東の丸を構える壮大な城郭だったそうです。

  • 丸山城 天守閣からの眺望<br />丸岡城の歴史を紐解くと数奇な運命を背負ったお城だと分かり、情が移ります。桃山時代の1576年に柴田勝家の甥、勝豊によって築城され、その後、幾多の戦火に巻き込まれても耐え、1934年に旧国宝に指定されますが、1948年の福井地震で倒壊してしまいました。1950年に文化財保護法施行により重要文化財に指定され、1955年に倒壊材を組直して修復されました。尚、旧国宝であった全国の城郭は、文化財保護法施行により、そのほとんどが重要文化財に指定し直されており、丸岡城が地震で倒壊したために国宝から格下げされたという見方は正しくないとされています。逆に、新法で国宝に指定されたのは、松本城、姫路城、犬山城、彦根城の4つに留まっています。<br />

    丸山城 天守閣からの眺望
    丸岡城の歴史を紐解くと数奇な運命を背負ったお城だと分かり、情が移ります。桃山時代の1576年に柴田勝家の甥、勝豊によって築城され、その後、幾多の戦火に巻き込まれても耐え、1934年に旧国宝に指定されますが、1948年の福井地震で倒壊してしまいました。1950年に文化財保護法施行により重要文化財に指定され、1955年に倒壊材を組直して修復されました。尚、旧国宝であった全国の城郭は、文化財保護法施行により、そのほとんどが重要文化財に指定し直されており、丸岡城が地震で倒壊したために国宝から格下げされたという見方は正しくないとされています。逆に、新法で国宝に指定されたのは、松本城、姫路城、犬山城、彦根城の4つに留まっています。

  • 丸山城 天守閣からの眺望<br /><丸岡城の歴史><br />1576年 織田信長の家臣で、越前ほぼ一帯を領していた柴田勝家の甥である勝豊により築城され、勝豊はそれまでの豊原寺城から当城に移った。<br />1871年 廃藩置県により廃城となり天守以外全て解体された。<br />1934年 天守が国宝保存法(旧法)に基づく国宝に指定される。<br />1948年 福井地震のために倒壊。<br />1950年 文化財保護法(新法)施行により天守は重要文化財に指定される。<br /><br /><br />

    丸山城 天守閣からの眺望
    <丸岡城の歴史>
    1576年 織田信長の家臣で、越前ほぼ一帯を領していた柴田勝家の甥である勝豊により築城され、勝豊はそれまでの豊原寺城から当城に移った。
    1871年 廃藩置県により廃城となり天守以外全て解体された。
    1934年 天守が国宝保存法(旧法)に基づく国宝に指定される。
    1948年 福井地震のために倒壊。
    1950年 文化財保護法(新法)施行により天守は重要文化財に指定される。


  • 丸山城 天守閣からの眺望<br />なぜ国宝の城は4つしかないのか?素朴な疑問ですが、これが結構難解で、奥の深いものです。<br />戦前の国宝保存法時代には、丸岡城と同様に多くの城郭が国宝(旧国宝)に指定されていました。戦後、国宝保存法が文化財保護法に切り替えられた時、多くの国宝が重要文化財(旧国宝=重要文化財)として指定し直されました。そして、その中で再び国宝(新国宝)として指定されたのが4城です。現在、天守が現存しているのは、国宝4城の他、丸岡、弘前、松江、備中松山、丸亀、松山、宇和島、高知の8城だけで、これらはすべて旧国宝から重要文化財に指定し直されています。<br />さて、国宝の選定基準ですが、江戸期までの縄張り・建造物が残っている事が重要でした。<br />松本城:1596年築城当時の姿を留めているなど。<br />姫路城:近世城郭の比類の無い天守様式を留めているなど。<br />犬山城:丸岡城同様に初期望楼型天守の形式を留めているなど。<br />彦根城:1603年築城当時の姿を留めているなど。<br /><br />明治初期、神仏分離令で多くの由緒ある寺院が破壊されましたが、奈良興福寺なども放棄されて坊主が一斉に春日大社の神職になっています。城郭も同様に、明治政府の1873年「城郭存廃決定」により存廃が決まり、廃城と決まった城郭は民間払い下げとなっています。藩の中心である城郭を壊す事で、支配者が変わった事を知らせる効果もあったようです。存続城郭は兵部省の管轄(軍隊駐屯)になり、解体費用不足で残った城郭(姫路城など)を含めると20城の天守が残ったそうです。第二次世界大戦で、多くの城郭が戦火で焼失しました。広島・名古屋・岡山・福山・大垣・水戸城の天守閣がもし残っていれば、国宝指定の有力候補になっていたそうです。

    丸山城 天守閣からの眺望
    なぜ国宝の城は4つしかないのか?素朴な疑問ですが、これが結構難解で、奥の深いものです。
    戦前の国宝保存法時代には、丸岡城と同様に多くの城郭が国宝(旧国宝)に指定されていました。戦後、国宝保存法が文化財保護法に切り替えられた時、多くの国宝が重要文化財(旧国宝=重要文化財)として指定し直されました。そして、その中で再び国宝(新国宝)として指定されたのが4城です。 現在、天守が現存しているのは、国宝4城の他、丸岡、弘前、松江、備中松山、丸亀、松山、宇和島、高知の8城だけで、これらはすべて旧国宝から重要文化財に指定し直されています。
    さて、国宝の選定基準ですが、江戸期までの縄張り・建造物が残っている事が重要でした。
    松本城:1596年築城当時の姿を留めているなど。
    姫路城:近世城郭の比類の無い天守様式を留めているなど。
    犬山城:丸岡城同様に初期望楼型天守の形式を留めているなど。
    彦根城:1603年築城当時の姿を留めているなど。

    明治初期、神仏分離令で多くの由緒ある寺院が破壊されましたが、奈良興福寺なども放棄されて坊主が一斉に春日大社の神職になっています。城郭も同様に、明治政府の1873年「城郭存廃決定」により存廃が決まり、廃城と決まった城郭は民間払い下げとなっています。藩の中心である城郭を壊す事で、支配者が変わった事を知らせる効果もあったようです。存続城郭は兵部省の管轄(軍隊駐屯)になり、解体費用不足で残った城郭(姫路城など)を含めると20城の天守が残ったそうです。 第二次世界大戦で、多くの城郭が戦火で焼失しました。広島・名古屋・岡山・福山・大垣・水戸城の天守閣がもし残っていれば、国宝指定の有力候補になっていたそうです。

  • 丸岡城 天守閣記念碑<br />石製の鯱の横に石碑が鎮座しています。「天守閣記念碑」と記されていますが、文字は解読不能でした。横に「丸岡天守閣」の説明が書かれた石板があり、それによると天守閣は高さ22m、石瓦の枚数約6000枚、総重量75トンあるそうです。<br /><br />話は変わりますが、1989年4月8日、丸岡城とドイツのマルクスブルグ城が姉妹城となったそうです。 マルクスブルグ城は、ライン河畔で唯一破壊されたことのない城で、1231年に文書に記録されて以来、今日までずっと人が居住していた古城とのことです。 <br />

    丸岡城 天守閣記念碑
    石製の鯱の横に石碑が鎮座しています。「天守閣記念碑」と記されていますが、文字は解読不能でした。横に「丸岡天守閣」の説明が書かれた石板があり、それによると天守閣は高さ22m、石瓦の枚数約6000枚、総重量75トンあるそうです。

    話は変わりますが、1989年4月8日、丸岡城とドイツのマルクスブルグ城が姉妹城となったそうです。 マルクスブルグ城は、ライン河畔で唯一破壊されたことのない城で、1231年に文書に記録されて以来、今日までずっと人が居住していた古城とのことです。

  • 丸岡城 『一筆啓上 火の用心 お仙泣かすな 馬肥やせ』の碑<br />天守閣の石垣の傍らには、この句の碑が建っています。<br /><br />1582年の本能寺の変後、勝豊が江州長浜へ移り、城主が何人か交替した後、1612年に本多成重が本多家 初代城主となりました。この成重は、幼名を「仙千代」といい、父は「鬼作左」の勇名で知られる三河三奉行の一人 本多作左衛門重次。父・重次は、陣中から妻に宛て『一筆啓上 火の用心 お仙泣かすな 馬肥せ』という短い手紙を送りました。<br /><br />これに因み、坂井市では1993年から「日本一短い手紙」コンクールを開催し、衆目を集めています。恥ずかしながら、この書簡の由来については丸岡城に来て初めて知りました。この手紙、簡潔ながら、家族への深い愛情が溢れている秀作だとつくづく思います。<br /><br />駐車場の一角には「一筆啓上茶屋」があり、名物「おろしそば」をはじめ、食事の提供やお土産品を販売しています。<br />

    丸岡城 『一筆啓上 火の用心 お仙泣かすな 馬肥やせ』の碑
    天守閣の石垣の傍らには、この句の碑が建っています。

    1582年の本能寺の変後、勝豊が江州長浜へ移り、城主が何人か交替した後、1612年に本多成重が本多家 初代城主となりました。この成重は、幼名を「仙千代」といい、父は「鬼作左」の勇名で知られる三河三奉行の一人 本多作左衛門重次。父・重次は、陣中から妻に宛て『一筆啓上 火の用心 お仙泣かすな 馬肥せ』という短い手紙を送りました。

    これに因み、坂井市では1993年から「日本一短い手紙」コンクールを開催し、衆目を集めています。恥ずかしながら、この書簡の由来については丸岡城に来て初めて知りました。この手紙、簡潔ながら、家族への深い愛情が溢れている秀作だとつくづく思います。

    駐車場の一角には「一筆啓上茶屋」があり、名物「おろしそば」をはじめ、食事の提供やお土産品を販売しています。

  • 丸岡城 「人柱お静」の慰霊碑 <br />丸岡城を築城する際、天守台の石垣が何度も崩れて工事が進まなかったため、人柱を立てることになりました。城下に住む、後家で貧しい片目の未亡人「お静」は、息子の一人を武士に取り立てる事を条件に人柱となる事を申し出ました。その願いが受け入れられ、お静は人柱となって石垣の底奥深く埋められ、そのご利益で天守の工事は無事完了しました。<br />しかし、柴田勝豊はほどなく移封となり、その約束は果たされませんでした。それを怨んだお静の怨霊は、片眼の大蛇となって城の井戸深くに棲みつき、暴れたという。<br />今もその井戸は、本丸跡に『蛇の井』と呼ばれて残っているそうです。毎年、お静が人柱に立った4月中旬には、きまって丸岡城は大雨に見舞われました。これがまた、誰言うことなく『お静の涙雨』と呼ばれるようになったそうです。堀の藻を刈り取る時の作業唄にも、『堀の藻刈りに降るこの雨はいとしお静の血の涙』と唄われるようになりました。<br />城内には、お静の鎮魂を祈念した慰霊碑が、城と対峙して佇んでいます。<br />

    丸岡城 「人柱お静」の慰霊碑
    丸岡城を築城する際、天守台の石垣が何度も崩れて工事が進まなかったため、人柱を立てることになりました。城下に住む、後家で貧しい片目の未亡人「お静」は、息子の一人を武士に取り立てる事を条件に人柱となる事を申し出ました。その願いが受け入れられ、お静は人柱となって石垣の底奥深く埋められ、そのご利益で天守の工事は無事完了しました。
    しかし、柴田勝豊はほどなく移封となり、その約束は果たされませんでした。それを怨んだお静の怨霊は、片眼の大蛇となって城の井戸深くに棲みつき、暴れたという。
    今もその井戸は、本丸跡に『蛇の井』と呼ばれて残っているそうです。毎年、お静が人柱に立った4月中旬には、きまって丸岡城は大雨に見舞われました。これがまた、誰言うことなく『お静の涙雨』と呼ばれるようになったそうです。堀の藻を刈り取る時の作業唄にも、『堀の藻刈りに降るこの雨はいとしお静の血の涙』と唄われるようになりました。
    城内には、お静の鎮魂を祈念した慰霊碑が、城と対峙して佇んでいます。

  • 丸岡城 伝説 その2<br />ある日、奇襲によって城は幾重にも包囲されました。老いも若きも剣、弓を手にとって防戦に努めるが、敵前に立ち向かった男どもは全滅してしまいます。そこで、美しい姫が女中どもの指揮を執りました。しかし、女手で応戦できるものではありませんでした。姫はつぶらな眸に無念の露を湛え、『生きて落城の憂き目を見んよりは、死してなお城を守らん』と玉の肌の紅葉を散らせました。敵勢は破竹の勢いで軍馬を進め、ついに出丸の攻略にかかりました。その折、俄に霞が吹き出し、あっという間に敵兵の一寸前を闇と化したそうです。そして、寄せ手は退却し、城<br />は無事であったが、この霞は姫の化身だった。今もこの伝説の井戸が天守入口近くに『霞の井戸』として残されています。<br /><br />丸岡城 伝説 その3<br />丸岡には『継体天皇』が住んでいたという伝説があり、古代史ファンとしては興味が尽きないところです。<br />この伝説は城の別名『霞ヶ城』に因むもので、元々このお城には守護神の大蛇が棲んでおり、合戦が始まると大蛇が霞を吐いて城を包み隠したというのです。元来、この地は『継体天皇』発祥の地で、城のあるこの丘は、天皇の第二皇子 椀子(まるこ)王を葬った場所と言い伝えられています。古くは、『麿留古平加(まるこのおか)』と呼ばれ、それが『丸子の岡』となり、やがて『丸岡』という地名を生んだとされます。故に、この椀子皇子が大蛇に化身し、霞を吐い、この地を守護してくれたのだという伝説。<br />実際、この地方は九頭竜川の支流竹田川が流れていることもあって、朝・夕に霞がよく立ち込める多雨多湿の土地ではあるそうです。 <br />

    丸岡城 伝説 その2
    ある日、奇襲によって城は幾重にも包囲されました。老いも若きも剣、弓を手にとって防戦に努めるが、敵前に立ち向かった男どもは全滅してしまいます。そこで、美しい姫が女中どもの指揮を執りました。しかし、女手で応戦できるものではありませんでした。姫はつぶらな眸に無念の露を湛え、『生きて落城の憂き目を見んよりは、死してなお城を守らん』と玉の肌の紅葉を散らせました。 敵勢は破竹の勢いで軍馬を進め、ついに出丸の攻略にかかりました。その折、俄に霞が吹き出し、あっという間に敵兵の一寸前を闇と化したそうです。そして、寄せ手は退却し、城
    は無事であったが、この霞は姫の化身だった。今もこの伝説の井戸が天守入口近くに『霞の井戸』として残されています。

    丸岡城 伝説 その3
    丸岡には『継体天皇』が住んでいたという伝説があり、古代史ファンとしては興味が尽きないところです。
    この伝説は城の別名『霞ヶ城』に因むもので、元々このお城には守護神の大蛇が棲んでおり、合戦が始まると大蛇が霞を吐いて城を包み隠したというのです。元来、この地は『継体天皇』発祥の地で、城のあるこの丘は、天皇の第二皇子 椀子(まるこ)王を葬った場所と言い伝えられています。古くは、『麿留古平加(まるこのおか)』と呼ばれ、それが『丸子の岡』となり、やがて『丸岡』という地名を生んだとされます。 故に、この椀子皇子が大蛇に化身し、霞を吐い、この地を守護してくれたのだという伝説。
    実際、この地方は九頭竜川の支流竹田川が流れていることもあって、朝・夕に霞がよく立ち込める多雨多湿の土地ではあるそうです。

  • 丸岡城 新たなる伝説<br />個人的には、これらのピュアな伝説をミックス&デフォルメすると、よりロマンチックになると思います。同じような伝説が3つも存在するのは、ある意味「帯に短し、襷に長し」で煮え切らない所があったと勘ぐれます。時代と共にデフォルメされ、次のような言い伝えもあったのでは?<br /><br />築城に当り、石垣が幾度も崩れるので人柱を立てることにし、城下から人を募りますが、誰一人、志願する者は現れません。勝豊は、工期が迫る重圧に耐え切れず、寝込む毎日が続きました。それを見兼ねた姫君が、人柱に立つことを志願します。これを知った工事を司る棟梁たちは沸立ちますが、自分の子を犠牲にすることをためらう親心で、一つの条件を付けます。それは、神のお告げである白蛇と一緒であるなら、姫を人柱にしようと言うものでした。勿論、白蛇など居るはずがありません。しかし、あにはからんや、城下で白蛇が捉えれられてしまいます。そして、姫君は白蛇と共に人柱となって石垣の底深く埋められ、そのご利益で立派な城が築かれました。<br />ある日、奇襲によって城は幾重にも包囲されました。老いも若きも剣、弓を手にとって防戦に当たりますが、多勢に無勢で勝ち目はありません。誰もが『生きて落城の憂き目を見んよりは、死してなお城を守らん』との想いを募らせたその時、白い大蛇が井戸深くから突如現れ、口から霞のようなものを敵陣に向けて吹き出し、あっという間に闇と化してしまったそうです。そして、寄せ手は退却し、城は無事であった。この大蛇は姫君の化身だったそうな。(チャンチャン?!)

    丸岡城 新たなる伝説
    個人的には、これらのピュアな伝説をミックス&デフォルメすると、よりロマンチックになると思います。同じような伝説が3つも存在するのは、ある意味「帯に短し、襷に長し」で煮え切らない所があったと勘ぐれます。時代と共にデフォルメされ、次のような言い伝えもあったのでは?

    築城に当り、石垣が幾度も崩れるので人柱を立てることにし、城下から人を募りますが、誰一人、志願する者は現れません。勝豊は、工期が迫る重圧に耐え切れず、寝込む毎日が続きました。それを見兼ねた姫君が、人柱に立つことを志願します。これを知った工事を司る棟梁たちは沸立ちますが、自分の子を犠牲にすることをためらう親心で、一つの条件を付けます。それは、神のお告げである白蛇と一緒であるなら、姫を人柱にしようと言うものでした。勿論、白蛇など居るはずがありません。しかし、あにはからんや、城下で白蛇が捉えれられてしまいます。そして、姫君は白蛇と共に人柱となって石垣の底深く埋められ、そのご利益で立派な城が築かれました。
    ある日、奇襲によって城は幾重にも包囲されました。老いも若きも剣、弓を手にとって防戦に当たりますが、多勢に無勢で勝ち目はありません。誰もが『生きて落城の憂き目を見んよりは、死してなお城を守らん』との想いを募らせたその時、白い大蛇が井戸深くから突如現れ、口から霞のようなものを敵陣に向けて吹き出し、あっという間に闇と化してしまったそうです。そして、寄せ手は退却し、城は無事であった。この大蛇は姫君の化身だったそうな。(チャンチャン?!)

  • 丸岡城 石垣<br />よく見ると石垣の石に名が刻まれています。この石を運んだ職人の名なのか?フランスのモンサンミッシェルのテラスの敷石のにも同様に名を刻んだ石がありました。

    丸岡城 石垣
    よく見ると石垣の石に名が刻まれています。この石を運んだ職人の名なのか?フランスのモンサンミッシェルのテラスの敷石のにも同様に名を刻んだ石がありました。

  • 丸岡城 石垣<br />古来の野面積み工法は、隙間が多いのが特徴。その隙間には、色々な植物が逞しく育っています。

    丸岡城 石垣
    古来の野面積み工法は、隙間が多いのが特徴。その隙間には、色々な植物が逞しく育っています。

  • 丸岡城 城址の途中にある丸岡城八幡神社<br />小さな祠かと思いましたが、八幡神社の名前をいただいた由緒ある神社だそうです。元々、丸岡城内の鎮守社としてこの地にあったが、一時衰退したそうです。丸岡城の再建の際の残材で建立されたものだそうです。<br />実は、復元された天守閣は古材80%使用で、使用できなかった古材をこの八幡神社に利用したのだそうです。 <br />

    丸岡城 城址の途中にある丸岡城八幡神社
    小さな祠かと思いましたが、八幡神社の名前をいただいた由緒ある神社だそうです。元々、丸岡城内の鎮守社としてこの地にあったが、一時衰退したそうです。丸岡城の再建の際の残材で建立されたものだそうです。
    実は、復元された天守閣は古材80%使用で、使用できなかった古材をこの八幡神社に利用したのだそうです。

  • 丸岡城 友影賢世の銅像<br />ずいぶんと高い所に立っておられます。見たことのないお顔立ちですが、さぞかし著名な偉い方なのでしょうねと名前を探すと「友影賢世」。誰なの???<br />忸怩たる想いを胸に歴史民俗資料館に立ち寄り、漸くこの方の業績を理解することができました。ごめんなさいね!<br /><br />福井地震で倒壊した丸岡城の復元に尽力された、当時の町長・友影賢世 氏の銅像でした。当時79歳だった町長は、老体に鞭打って復元のために東奔西走されたそうです。その功績に対して皇室より鳩杖を拝領され、没後19年の1989年に名誉町民としての称号が贈られました。<br />銅像は、丸岡城が再建されたのと同時期の1954年に建立されています。台座の後面には、友影賢世翁を称える銅板の碑文が認められているそうです。<br /> <br />

    丸岡城 友影賢世の銅像
    ずいぶんと高い所に立っておられます。見たことのないお顔立ちですが、さぞかし著名な偉い方なのでしょうねと名前を探すと「友影賢世」。誰なの???
    忸怩たる想いを胸に歴史民俗資料館に立ち寄り、漸くこの方の業績を理解することができました。ごめんなさいね!

    福井地震で倒壊した丸岡城の復元に尽力された、当時の町長・友影賢世 氏の銅像でした。当時79歳だった町長は、老体に鞭打って復元のために東奔西走されたそうです。その功績に対して皇室より鳩杖を拝領され、没後19年の1989年に名誉町民としての称号が贈られました。
    銅像は、丸岡城が再建されたのと同時期の1954年に建立されています。台座の後面には、友影賢世翁を称える銅板の碑文が認められているそうです。

  • 丸岡城 牛ヶ島石棺<br />丸岡城天守閣に続く坂の途中、何の変哲もない所に展示されているのが牛ヶ島石棺。<br /><br />牛ヶ島地区東方の白山神社の杉林の中にあった円墳の西側から出土したものといわれ、同地区の八幡神社境内に置かれ、村人は何も気づかぬまま祭に立てる幟竿の控石に使っていたそうです。足羽山で発見された石棺と同時代の古墳時代中期後半のものと考えられています。<br /><br />日本書紀によれば、継体天皇は父の死後、母「振姫」の故郷「高向(たかむこ)」で幼青年期を過ごしたと書かれています。また、「釈日本記」には「多加牟久村(たかむくむら)」と書かれています。この「高向」あるいは「多加牟久村」は、現在の福井県坂井市丸岡町高田付近にあったと言われています。<br />この高田地区には昔、継体天皇の母「振姫」の父「ヲハチノキミ」を祀っていたといわれる式内社「高向神社」があったそうです。この石棺が発見された牛ヶ島地区から南東に3km離れた下久米田地区には「大伴金村」を祀った「久米田神社」があり、この神社の北東の山稜には「振姫」一族の祖先の墓と言われる「六呂瀬山古墳」があります。この時代、ここまで立派な石棺を用意できたのは継体天皇ゆかりの豪族くらいではないかと考えられています。<br />これらの事実を紡ぎ合わせ、この石棺を継体天皇の母「振姫」の石棺と説く人もいるそうです。<br /><br /><br />

    丸岡城 牛ヶ島石棺
    丸岡城天守閣に続く坂の途中、何の変哲もない所に展示されているのが牛ヶ島石棺。

    牛ヶ島地区東方の白山神社の杉林の中にあった円墳の西側から出土したものといわれ、同地区の八幡神社境内に置かれ、村人は何も気づかぬまま祭に立てる幟竿の控石に使っていたそうです。足羽山で発見された石棺と同時代の古墳時代中期後半のものと考えられています。

    日本書紀によれば、継体天皇は父の死後、母「振姫」の故郷「高向(たかむこ)」で幼青年期を過ごしたと書かれています。また、「釈日本記」には「多加牟久村(たかむくむら)」と書かれています。この「高向」あるいは「多加牟久村」は、現在の福井県坂井市丸岡町高田付近にあったと言われています。
    この高田地区には昔、継体天皇の母「振姫」の父「ヲハチノキミ」を祀っていたといわれる式内社「高向神社」があったそうです。この石棺が発見された牛ヶ島地区から南東に3km離れた下久米田地区には「大伴金村」を祀った「久米田神社」があり、この神社の北東の山稜には「振姫」一族の祖先の墓と言われる「六呂瀬山古墳」があります。この時代、ここまで立派な石棺を用意できたのは継体天皇ゆかりの豪族くらいではないかと考えられています。
    これらの事実を紡ぎ合わせ、この石棺を継体天皇の母「振姫」の石棺と説く人もいるそうです。


  • 丸岡城 シラン(紫蘭)<br />駐車場のお手洗いの先に楚々と咲くシランが見事でした。<br />ラン科シラン属の宿根草。野生のものは準絶滅危惧種。しかし栽培品として広く普及しているそうです。近所の庭先でよく見かけます。花期は4〜5月。花は紫紅色で、30〜50cmの花茎の先に数個つきます。花弁は細長く、あまり開ききらないような感じに咲きます。偽球茎は白及(びゃくきゅう)と呼ばれ、漢方薬として止血や痛み止め、慢性胃炎に用いられるそうです。<br /><br /><br /><br />

    丸岡城 シラン(紫蘭)
    駐車場のお手洗いの先に楚々と咲くシランが見事でした。
    ラン科シラン属の宿根草。野生のものは準絶滅危惧種。しかし栽培品として広く普及しているそうです。近所の庭先でよく見かけます。花期は4〜5月。花は紫紅色で、30〜50cmの花茎の先に数個つきます。花弁は細長く、あまり開ききらないような感じに咲きます。偽球茎は白及(びゃくきゅう)と呼ばれ、漢方薬として止血や痛み止め、慢性胃炎に用いられるそうです。



  • 丸岡城 シラン(紫蘭)<br />ズームアップです。

    丸岡城 シラン(紫蘭)
    ズームアップです。

  • えちぜん鉄道<br />今夜の宿 芦原温泉へ向かう途中、えちぜん鉄道の列車とすれ違いました。一両編成の愛嬌のあるかわいらしい列車です。<br /><br />愛知環状鉄道で余剰となった日本車両製100系100形と300形を譲り受けて改造した車両。車内には、アテンダントが乗車しています。彼女達は、観光客を見分け、何か困っているのではとやさしく声を掛けます。検札時にどこの駅で降りるか確認し、駅が近づくと一声かけます。故郷の暖かさの琴線に触れ、どこかに置き忘れていたノスタルジーがふと蘇り、トランス状態に浸れるのでは…。さて、どんな経緯でこのようなサービスが始まったのか、興味が湧きませんか?人口が少ない地方の移動手段は自動車です。従って、鉄道経営は厳しく、運行本数を減らすことになります。これは利便性を下げ、その結果、乗客減という悪循環に陥ります。こうしたメカニズムで多くの地域で廃線の検討が進んでいます。えちぜん鉄道も同じ境遇でした。前身は京福鉄道で、当時年間300万人の利用客がありましたが、人口減少でいずれ運行が維持できなくなることは明白でした。それに追い討ちをかけたのが、2000年と翌年に起きた衝突事故。整備不良と信号の見落としという人為的ミスが原因で、業務停止命令が下されました。こうして路線バスが移動手段になり、多数の人が自動車を利用するようになると、道路が狭いために大渋滞が起きました。バスは乗客を乗せることもできない事態に陥り、再び「鉄道存続」の声が大きくなりました。議論の末、福井県が鉄道資産を取得。沿線の自治体も資本参加し、利用促進と赤字補填をすることで2003年に運行が再開されました。京福鉄道時代の事故経験から、正確で安全な運行は勿論のこと、乗客とのコミュニケーションづくりを重視するようになったそうです。こうした話を聞くに及び、応援したくなるのは人間の性でしょうか? <br />アテンダントは、経営スリム化の副産物と言えます。駅数は43、うち無人駅が26。駅員の人件費と切符自動販売機の設備投資がなくせます。地域住民は鉄道を大事にしようという気持ちが強く、草刈り、花壇の整備、トイレの掃除、駅舎ベンチの座布団の提供など、施設の維持管理業務をボランティアで担われているそうです。まさしく、地域と密着した第三セクターの鏡と言えます。市バス等の高齢者特別乗車証の有料化が進められているようですが、地域住民と協力して人件費を削減し、それで補填する考え方もありだと思います。リタイヤされた後、地域貢献したい人は多いはずです。是非、えちてつの事例から刺激を受け、アクションを起こして欲しいと思います。<br /><br />次回は、石川県立航空プラザを紹介いたします。

    イチオシ

    えちぜん鉄道
    今夜の宿 芦原温泉へ向かう途中、えちぜん鉄道の列車とすれ違いました。一両編成の愛嬌のあるかわいらしい列車です。

    愛知環状鉄道で余剰となった日本車両製100系100形と300形を譲り受けて改造した車両。車内には、アテンダントが乗車しています。彼女達は、観光客を見分け、何か困っているのではとやさしく声を掛けます。検札時にどこの駅で降りるか確認し、駅が近づくと一声かけます。故郷の暖かさの琴線に触れ、どこかに置き忘れていたノスタルジーがふと蘇り、トランス状態に浸れるのでは…。さて、どんな経緯でこのようなサービスが始まったのか、興味が湧きませんか?人口が少ない地方の移動手段は自動車です。従って、鉄道経営は厳しく、運行本数を減らすことになります。これは利便性を下げ、その結果、乗客減という悪循環に陥ります。こうしたメカニズムで多くの地域で廃線の検討が進んでいます。えちぜん鉄道も同じ境遇でした。前身は京福鉄道で、当時年間300万人の利用客がありましたが、人口減少でいずれ運行が維持できなくなることは明白でした。それに追い討ちをかけたのが、2000年と翌年に起きた衝突事故。整備不良と信号の見落としという人為的ミスが原因で、業務停止命令が下されました。こうして路線バスが移動手段になり、多数の人が自動車を利用するようになると、道路が狭いために大渋滞が起きました。バスは乗客を乗せることもできない事態に陥り、再び「鉄道存続」の声が大きくなりました。議論の末、福井県が鉄道資産を取得。沿線の自治体も資本参加し、利用促進と赤字補填をすることで2003年に運行が再開されました。京福鉄道時代の事故経験から、正確で安全な運行は勿論のこと、乗客とのコミュニケーションづくりを重視するようになったそうです。こうした話を聞くに及び、応援したくなるのは人間の性でしょうか?
    アテンダントは、経営スリム化の副産物と言えます。駅数は43、うち無人駅が26。駅員の人件費と切符自動販売機の設備投資がなくせます。地域住民は鉄道を大事にしようという気持ちが強く、草刈り、花壇の整備、トイレの掃除、駅舎ベンチの座布団の提供など、施設の維持管理業務をボランティアで担われているそうです。まさしく、地域と密着した第三セクターの鏡と言えます。市バス等の高齢者特別乗車証の有料化が進められているようですが、地域住民と協力して人件費を削減し、それで補填する考え方もありだと思います。リタイヤされた後、地域貢献したい人は多いはずです。是非、えちてつの事例から刺激を受け、アクションを起こして欲しいと思います。

    次回は、石川県立航空プラザを紹介いたします。

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