2012/06/02 - 2012/06/02
420位(同エリア803件中)
愛吉さん
あじさい会に入っています。
元は区の勉強会がスタートで、11年続く親睦団体です。
毎月当番を決めて、何らかのイベントを開催しており、6月の当番を担当しました。
なにをするか考えましたが、1月の”子規の足跡を巡る”が以外と好評でしたので、2匹目のドジョウを狙って、芭蕉の奥の細道出立地を含む、芭蕉関連の地を訪ね、ついでに江戸名所を廻る事にしました。
開催日を6月22日と定め、下見も5月13日、17日、6月2日と3回行い、案内状を発送、出欠の返事も受け取り、当日を待つだけでした。
しかし当日起きてみると、土砂降りの雨です、残念ながら中止の連絡をしました。
次回はいつになるか不明です。
そう云う事で今回の旅行記は、下見三回の集約版です。
予定の行程順にアップして行きます。
尚下見だけで、本番では除外する場所も番外として最後に一部加えました。
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散歩の出発は、都営地下鉄森下駅です。
集合は、午前十時 A1出口で、ここから歩き始めます。
約7分で、ここ芭蕉記念館に到着です。 -
芭蕉が植えてあります。
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入口には、大きな石の表札が在ります。
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入口は奥に在り、横の木造の門から入ります。
入場料は100円です。
展示物は手紙や短冊等ですが、芭蕉遺愛の石の蛙像も有りました。
撮影は出来ません。 -
庭には小さな築山が有り、頂上に芭蕉像を安置したほこらと句碑が二つあります。
”ふる池や 蛙飛びこむ 水の音”
”川上と この川下や 月の友” -
芭蕉像が安置されたほこら。
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芭蕉記念館見学後は、裏口から隅田川の堤防に出ます。
堤防から見た隅田川です。 下の遊歩道を歩きます。 -
5分も歩くと、芭蕉庵史跡展望庭園に到着です。
旅姿では無い、俳諧の宗匠としての芭蕉像が有りました。 -
見晴らしの良い庭園です。 向うに見えるのは清州橋。
芭蕉庵は直ぐそこです。 -
展望庭園を降りると、直ぐに芭蕉稲荷があります。
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深川芭蕉庵旧地の由来と書かれた案内板が有りました。
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鳥居をくぐり中に入ります。
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芭蕉庵跡の碑
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奥の細道旅立参百年記念碑 平成九年五月 とあります。
足元には石造りの蛙がいました。 -
ふる池や 蛙飛び込む 水の音
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芭蕉庵を出て再び大川端に戻り、川沿いの遊歩道を歩きます。
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清州橋をくぐった処で堤防に上がります。
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清澄公園の前を通過します。
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仙台掘川に突き当ると、川に沿って上流方向に向います。
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ありました、採茶庵の跡です。
芭蕉の門人杉山杉風の別荘でしたが、芭蕉は深川の草庵を人に譲り、ここから奥の細道への旅に出発したのです。
平成3年に奥の細道出立の地として、この像が造られました。 -
正面から写します。
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次は清州橋通り迄戻り、臨川寺に立寄ります。
芭蕉庵に近く、時の住職と親しかった為、よく参禅したお寺です。 -
庭にはこんな石碑がありました。
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両国に来ました、普段なら歩くのですが、今回は清澄白河から地下鉄に乗ります。
ここは両国橋のたもとです。 -
橋のたもとに、両国橋の解説板と赤穂義士の一人、大高源吾の句碑が建って居ます。
日の恩や 忽ち砕く 厚氷
大高源吾は芭蕉の高弟 宝井其角に俳句を学び子葉と名乗って居ました。
では次に何故両国橋にその句碑が在るのでしょう。
それは討ち入りの前日、すす払いの笹売りに変装して、吉良邸の様子を探っていた大高が、偶然両国橋の上で師匠の其角とすれ違い、其角が”年の瀬や 水の流れと人の身は”と問いかけると大高が”あした待たるる この宝船”と答えました。
これにより其角は、翌日の討ち入りを予感したそうです。
それが元で、ここに大高の句碑が建てられました。
では大高が討ち入り後、泉岳寺で詠んだ句も
”山を裂く刀も折れて松の雪”
切腹前の辞世の句は
”梅で呑む茶屋もあるべし死出の山” -
両国橋のたもとに、江戸から続く猪鍋の店、ももんじやがあります。
今日の昼食場所です。 -
ももんじやの案内看板
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いのしし鍋です。A定食1350円でした。
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両国駅前通りと両国橋通りの交差点に回向院は在ります。
回向院は、江戸市街の6割を焼いた明暦の大火(1657)後、その犠牲者107千人を葬った跡地に幕府が建立した寺で、その後も火災、地震、水難等の無縁の犠牲者を葬る寺となりました。
又人間ばかりでなく、犬、猫等も葬ります。
入口付近には、時代掛ったお地蔵さんが立って居ました。 -
参道の左側に大きく力塚と書かれた石碑があります。
相撲関係碑と呼ばれています。
江戸時代末期迄、相撲の開催場所は一定せず、ここ回向院を始め各所の神社仏閣で行われて居ましたが、天保4年(1833)以降はここ回向院が、定場所となりました。
その後明治22年に回向院の隣地に国技館が建てられ、天候に左右されずに開催出来るようになります。
この力塚は昭和11年に、歴代相撲関係者の慰霊の為建立されました。 -
力塚を囲む玉垣に、懐かしい名前を見付けました。
昭和11年には、双葉山も関脇だったのですね、名前も古く当時のままです。 -
墓地の入口一等地に、明暦の大火を始めここに葬られた各種災害の犠牲者の慰霊碑が並んでいます。
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三界萬霊墓
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こちらは犬猫小鳥迄の慰霊碑です。
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盗賊鼠小僧次良吉の供養墓
鼠小僧は実在の盗賊で、天保3年8月19日 小塚原で処刑されています。
歌舞伎で上演されてから、義賊あつかいされ人気が出ました。
この墓は、当時の歌舞伎役者が、あたり狂言のお礼に建てたと言われています。
墓の前に在る白い石は、欠き石といって、墓の石を欠いて財布に入れて置くとお金が増えるの伝説用のものです。 -
一人の男性が、墓石を欠いていました。
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こんなお墓もありました。
猫の恩返し 両国物語です。 -
猫塚、 なぜかガラスケースに入っています。
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回向院を裏門から出て、左に進むと間もなく吉良邸跡に到着します。
今は小さな公園ですが、当時は約2500坪もあったそうで、一方は回向院に隣接していたそうです。
なまこ塀が目立ち、人も多く佇んでいます。
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門前の碑には、赤穂義士遺跡 吉良邸跡 と書かれて居ます。
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中に入ると正面に、吉良上野介義央像が鎮座します。
好男子で善人の顔です。 -
首洗いの井戸
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吉良邸を出て表通りに出て来ました。
本所松坂町の石碑が有りますが、修理の跡が痛々しいです。 -
ここからは、番外です。
街中の小さな公園の片隅に、勝海舟生誕之地と書いた石碑が立っています。
海舟は1823年にこの地で生まれたのです。 -
公園と同じ通りに両国小学校が並んでいて、その壁に芥川龍之介の文学碑があります。
そこには杜子春の一節が刻まれていました。
龍之介が、この学校で学んだ事を記念したものです。 -
東京都震災記念堂です。
大正12年9月1日の関東大震災を悼んで建てられました。
当時ここは陸軍被服廠跡で公園造成中であった為、多くの人が避難しましたが、四方を劫火に包まれ全員が焼死しました。
よってこの地に慰霊堂を建設し、震災犠牲者合わせて58千人を祀りました。
その後第二次大戦による空襲の犠牲者10万人以上を合祀しました。
深々と頭を下げてきました。 -
公園の一角に、震災遭難児童弔魂像があります。
痛ましい像です。 -
江戸東京博物館裏の公園に、徳川家康の銅像があります。
鷹狩りの像です。
家康の銅像は、東京では珍しいと思います。
以上長くなりましたが、これで終了です。
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