2012/06/29 - 2012/06/29
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ムッシュさん
台が原を過ぎ、更に田園地帯のなだらかな街道を上ると、教来石宿、蔦木宿となる。
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【明治天皇小休所跡碑】があります、
ここが教来石宿河西本陣跡です、
明治13年(1880年)6月、三重京都巡幸の際に、元本陣にて休息した。
教来石宿は当初幕府領(旗本馬場氏の知行地)、後甲府藩領、享保9年(1724年)以降は幕府領(甲府代官所)となりました、下教来石が本宿、上教来石が加宿でした、甲州最後の宿です。 -
【諏訪神社】
1617年に造営された教来石の産土神。本殿は1844年12月に再建したもので、棟梁は諏訪出身の名工立川和四朗富昌である。
〔諏訪神社由緒〕
元和3年(1617)御朱印山より現在地に社殿造営鎮座して、産土神とした。
天保3年(1832)信州諏訪の宮大工棟梁立川和四郎に依って造営された。
本殿はケヤキ造りの総彫刻、屋根は鱗葺の覆屋で精巧を極めている(昭和43年12月県指定文化財)。
拝殿、石華表など総て改新築を了し面一新した。境内末社 道祖神社外19社
〔諏訪神社本殿〕
付棟札1枚 本社拝殿再建諸色勘定帳
昭和四十三年十二月十二日 県指定
諏訪神社の創建及び沿革について詳しいことは明らかでないが、古来から教来石村の産土神として崇敬を受けてきた。
現在の本殿は、天保十五年(1844)十二月十九日再建したもので、棟梁は諏訪出身の名工立川和四郎富昌である。
本殿は一間社流造で、屋根は柿葺、正面中央に軒唐破風付の向拝をとりつける。
建築の特色は、随所に施された彫刻装飾にある。身舎壁面の「猩々と酒壺」背面の「唐獅子」小脇羽目の「昇竜と降竜」蟇股の「竹に雀」脇障子の「手長と足長」の浮彫、向拝正面に中国の故事「ひょうたんから駒」の丸彫など、豊富な意匠、奇抜な図柄、加えて精巧な彫刻は、全体の均衡を失わず、よく「立川流」の作風を伝えており、富昌の傑作品の一つである。江戸時代後期の社寺建築の動向をふまえつつも、異彩を放つ貴重な遺構である。
山梨県教育委員会 -
建築の特色は、随所に施された彫刻装飾にある。これは、ネット越しに撮影した精巧な彫刻。
全体は、よく立川流の作風を伝えており、傑作品のひとつであり、江戸時代後期の社寺建築の動向をふまえつつ、異彩を放つ貴重な遺構。 -
【明治天皇御田植御通覧之址の碑】
「明治十三年六月本縣ニ 御巡幸遊バサル同月二十三日本村御通輦ノ際 親シク耕作插秧ノ状ヲミノナハセシ處ナリ」
明治13年6月23日にこの場所から田植えをご覧になったそうな。 -
【明治天皇御膳水跡】
巡幸の際、この細入沢の湧水を飲み美味しかったと村人を誉めたとのこと。
今は水無川のようです。
【御膳水跡】
「明治十三年、明治天皇が、ご巡幸の際に この細入沢の湧水をお飲みになり、お誉めに与りました。」
平成十年一月十五日 白州町教育委員会 -
【教慶寺の地蔵菩薩】
【由緒】
今からおよそ740年前(1247)中国から帰化した名僧蘭渓禅師が、村内に火災悪病、強盗などの凶事が相次ぎ、村人が難儀していたので、この災厄を取り除こうと大きな石地蔵を鎮座して、ひたすら祈願して村内に平和をよみがえらせたと言う。又最近ではいくつかの交通事故を救ってくれたと言う。霊験あらたかな地蔵様である。
白州町報恩会 -
右側が旧街道。
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なまこ壁の屋敷
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延々と、旧道が続いています。何もなかった山間なので、真っすぐな道となっている。
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【西番所跡碑】があります、
徳川幕府が設置した番所で、女改めの取り締まりが厳しく行われました、跡地裏には番所蔵を残しています。
天保七年八月、百姓一揆時に開門 その責任を取り、名取慶助は若尾に改姓、明治四年に廃藩により廃止
1992年 若尾法昭 -
【鳳来山口関跡碑】
武田信玄が設けた、甲州24ケ所の口留番所のひとつで、信州口を見張った國境の関所跡です。
〔山口関所跡〕町指定文化財(史跡)昭和48年12月指定
甲州二十四ヶ所の口留番所の一つで、信州口を見張った国境の口留番所である。
ここがいつ頃から使用されたかは不明であるが、天文十年(1546)の武田信玄の伊那進攻の際設けられたという伝承がある。「甲斐国志(1814)」によれば、番士は二名で近隣の下番の者二名程を使っていた。当時の番士は二宮勘右衛門・名取久吉で名取氏は土着の番士であったが、二宮氏は宝永二年(1705)に本栖の口留番所から移ってきた。
この番所の記録に残る大きな出来事に、天保七年(1836)郡内に端を発した甲州騒動の暴徒がこの地に押し寄せた折、防がずして門扉を開いた判断をとがめられ、番士が「扶持召し上げられ」の処分を受けたことである。番士のうち二宮氏は再び職に戻り、明治二年番所が廃せられるまで勤め、明治六年に設けられた台ヶ原屯所の初代屯所長に起用されている。
今は蔵一つを残し地割にわずかなおもかげを留めるのみであるが、番所で使用した袖がらみ、刺股、六尺棒などの道具が荒田の伏見宅に残り、門扉一枚が山口の名取宅に保存されている。 -
甲州 教来石 山口番所跡1
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【甲州 教来石 山口番所跡】 町指定文化財(史跡)昭和48年12月指定
甲州二十四ヶ所の口留番所の一つで、信州口を見張った国境の口留番所である。
ここがいつ頃から使用されたかは不明であるが、天文十年(1546)の武田信玄の伊那進攻の際設けられたという伝承がある。「甲斐国志(1814)」によれば、番士は二名で近隣の下番の者二名程を使っていた。当時の番士は二宮勘右衛門・名取久吉で名取氏は土着の番士であったが、二宮氏は宝永二年(1705)に本栖の口留番所から移ってきた。
この番所の記録に残る大きな出来事に、天保七年(1836)郡内に端を発した甲州騒動の暴徒がこの地に押し寄せた折、防がずして門扉を開いた判断をとがめられ、番士が「扶持召し上げられ」の処分を受けたことである。番士のうち二宮氏は再び職に戻り、明治二年番所が廃せられるまで勤め、明治六年に設けられた台ヶ原屯所の初代屯所長に起用されている。
今は蔵一つを残し地割にわずかなおもかげを留めるのみであるが、番所で使用した袖がらみ、刺股、六尺棒などの道具が荒田の伏見宅に残り、門扉一枚が山口の名取宅に保存されている。 -
”目には青葉 山ほととぎす 初かつお”
山口素堂は教来石出身であり。江戸時代前期の俳人。江戸で漢学を学ぶ。 -
〔日蓮上人の高座石〕富士見町指定史跡
文永十一年(1274)三月、流罪を赦された日蓮上人は佐渡から鎌倉へ帰ったが、その後、甲斐国河内の豪族波木井氏の庇護を受けて身延に草庵をつくることになった。その合間に、上人は甲斐の逸見筋から武川筋の村々を巡錫した。下蔦木(当時は甲斐領・蘿木郷(つたきのごう))に立ち寄ったのはこの時である。
伝承によると、当時、村には悪疫が流行し村人が難渋していたので、上人は三日三晩この岩上に立って説法とともに加持祈祷を行い、霊験をあらわしたという。その高徳に村人はことごとく帰依し、真言宗の寺であった真福寺の住職も感応して名を日誘と改め、日蓮宗に改宗したといわれる。また、このとき上人が地に挿して置いた杖から蔦の芽が生えて岩を覆うようになったとも伝えられる。その後、日誘はこの高座石の傍らにお堂(後に敬冠院と呼ばれた)を建てて上人をまつり、近郷への布教につとめたという。 -
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日蓮の高座石(小祠の下の石)
日蓮がこの石の上で悪疫封じの加持祈祷を行ったという。 -
日蓮の高座石(小祠の下の石)
日蓮がこの石の上で悪疫封じの加持祈祷を行ったという。 -
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日蓮の高座石
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日蓮に感応し真言宗から日蓮宗に改宗した真福寺。珍しい鐘楼造りの山門が建っており、いかにも風格を感じる。
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【信副寺の山門】
立派!立派! 山門の2階に鐘楼があります。 -
新しい「応安の古碑」の碑と左の「子乃神塔」の間の後ろの台座のような石が「応安の古碑」。
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慶長9年(1604年)江戸から甲府までの甲州道中が整備され、その後下諏訪まで延長された際に蔦木宿が新設されました。
天保?年(1843)頃の蔦木宿の宿内家数は105軒、うち本陣1、問屋2、旅籠15軒)で、宿内人口は508人でした。
本陣表門 本陣跡碑
甲州街道蔦木宿と本陣表門の沿革
蔦木宿は江戸幕府の宿駅制度のよって、慶長16年(1611)ころ甲州道中第43番目の宿駅として設置された。街は街道に面して屋敷割をし、本陣・問屋などが位置づけられた。本陣の規模は広大で多くの座敷や板敷、土間のほか堂々とした門構えや広い玄関、書院造りの上段の間などを具備していた。この宿駅は、元禄15年(1702)、延享三年(1746)、明和八年(1771)、寛政六年(1794)、文化六年(1809)、元治元年(1864)の計六回の大火にあい罹災戸数も知られているが本陣の類焼についての詳細は不明である。この宿場街は、明治維新による宿駅制度廃止と、さらに、鉄道がこの宿駅から離れたところに敷設されたため次第にさびれていった。本陣も主屋は、明治40年(1907)に南原山に移築され、渡辺別荘(分水荘)として活用されていたが、老朽化したため昭和50年代に取り壊された。本陣主屋は弘化三年(1846)五月の建築であり、甲州道中における、本陣建築の遺構として惜しまれる建造物であった。この表門は、構造手法、および使用材料よりみて、主屋より新しく江戸末期の元治元年の火災後の復興になるものと考えられる。明治38年(1905)池袋区の、平出武平氏がゆずり受け、同家の正門としていたが、平成二年(1990)本屋取りこわしに際して町の歴史民族資料館に保存された。かつての蔦木宿の面影をしのび、心のよりどころとの区民の強い要望から、平成四年(1992)七月本陣跡地に復元された。建物の造りは簡素であるが数少ない本陣表門として貴重な遺構である。(富士見市教育委員会) -
ちょっと変わった、六角燈籠
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【枡型道路の説明板】
〔桝形道路〕
蔦木宿は、甲州街道(道中)の宿駅として、慶長十六年(1611)頃つくられた。
この宿駅は、新しい土地に計画されたので、稀に見る完備した地形となっている。
桝形路は、南北の入口に設けられ、以来、宿内への外からの見通しを遮り、侵入者の直進を妨げて、安全防衛の役割をはたしてきた。
平成三年度の道路改修工事のために、南の桝形を移動したので、その原型を碑面に刻し、これをのこす。
平成四年三月一日 富士見町教育委員会 上蔦木区 -
【大阪屋本陣跡】
本陣表門を残しています。
本陣母屋は弘化3年(1846年)の建築でしたが、他所に移築されその後、老朽化の為解体されました、本陣門は元治元年(1864年)の大火後の建築といわれています
本陣も主屋は、明治40年(1907)に南原山に移築され、渡辺別荘(分水荘)として活用されていたが、老朽化したため昭和50年代に取り壊された。本陣主屋は弘化三年(1846)五月の建築であり、甲州道中における、本陣建築の遺構として惜しまれる建造物であった。この表門は、構造手法、および使用材料よりみて、主屋より新しく江戸末期の元治元年の火災後の復興になるものと考えられる。明治38年(1905)池袋区の、平出武平氏がゆずり受け、同家の正門としていたが、平成二年(1990)本屋取りこわしに際して町の歴史民族資料館に保存された。かつての蔦木宿の面影をしのび、心のよりどころとの区民の強い要望から、平成四年(1992)七月本陣跡地に復元された。建物の造りは簡素であるが数少ない本陣表門として貴重な遺構である。
【甲州街道蔦木宿と本陣表門の沿革】
蔦木宿は江戸幕府の宿駅制度のよって、慶長十六年(1611)ころ甲州道中第四十三番目の宿駅として設置された。街は街道に面して屋敷割をし、本陣・問屋などが位置づけられた。本陣の規模は広大で多くの座敷や板敷、土間のほか堂々とした門構えや広い玄関、書院造りの上段の間などを具備していた。この宿駅は、元禄十五年(1702)、延享三年(1746)、明和八年(1771)、寛政六年(1794)、文化六年(1809)、元治元年(1864)の計六回の大火にあい罹災戸数も知られているが本陣の類焼についての詳細は不明である。
この宿場街は、明治維新による宿駅制度廃止と、さらに、鉄道がこの宿駅から離れたところに敷設されたため次第にさびれていった。本陣も主屋は、明治四十年(1907)に南原山に移築され、渡辺別荘(分水荘)として活用されていたが、老朽化したため昭和五十年代に取り壊された。本陣主屋は弘化三年(1846)五月の建築であり、甲州道中における、本陣建築の遺構として惜しまれる建造物であった。
この表門は、構造手法、および使用材料よりみて、主屋より新しく江戸末期の元治元年の火災後の復興になるものと考えられる。明治三十八年(1905)池袋区の、平出武平氏がゆずり受け、同家の正門としていたが、平成二年(1990)本屋取りこわしに際して町の歴史民族資料館に保存された。
かつての蔦木宿の面影をしのび、心のよりどころとの区民の強い要望から、平成四年(1992)七月本陣跡地に復元された。建物の造りは簡素であるが数少ない本陣表門として貴重な遺構である。
【本陣表門の構造形式(概要)】
棟門、銅版葺、背面腰高片袖付、支柱付、西側面袖塀付、平面桁行一間半、一間菱格子付板扉内両開、半間潜板扉内開、軸組土台に柱を立て上部を棟木で繋ぐ、一軒疎垂木、妻千鳥破風造り、屋根銅版葺に樋棟を乗せて、中陰蔦紋で飾る。
平成六年三月吉日 富士見町教育委員会 上蔦木区 -
蔦木宿の本陣跡碑
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蔦木宿街路説明板
宿並と旧屋号がシッカリと描かれた立派な造りのモニュメントがあります
宿の東、西の枡型が切られてる。 -
御膳水の傍らには【与謝野晶子歌碑】
「白じらと 並木のもとの 石の樋(ひ)が 秋の水吐く 蔦木宿かな」があります。 -
与謝野晶子の歌碑です。
”白々と並木のもとの石の桶が
秋の水吐く蔦木宿かな” -
【平岡の一里塚】
江戸日本橋より数えて四十六里目です。
慶長十五年江戸日本橋ヨリ四十六里ニ築キタル塚ナリ道ノ両側ニ作ルヲ本体トスルガ此所ハ片塚ナリ -
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寄り道先:【サントリー白州蒸留所】
工場見学と試飲ができます。 -
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【尾片瀬神社】
祭神は瀬織津姫(せおりつひめ)で災厄抜除の女神です、境内には宝篋印塔、繭玉神社石碑があり、福昌院跡碑があります、旧境内には多数の石仏石塔があります。 -
【栃の木風除林】
樹齢200年以上のとちの木風除林。(富士見町指定天然記念物)。
この地は北風が強く、五穀は実らず無住の地でした、そこで寛政年間(1789~1801)にとちの木の村民が高島藩へ願い出て防風林として赤松を植樹した。
とちのきには、古くから樋口姓の者が住んでいた。しかし村は風当たりが強く、五穀は実らず、全戸が今の若宮地籍へ移り住み無人家の地となった。元和六年(1620)、樋口氏が木之間から今の塚平の地へ移住した。ここは周りが草原だったので、神戸から草刈に来た人達や甲州道中の通行人が時々失火して火災にあった。それで、やや南の方の今の地へ移った。このころ片瀬から小林氏が来て住むようになった。やはり北風は強く、内風除けを作ったが、なお稲はよく実らなかった。寛政年間(1789~1800)に村では高島藩へ願い出て、防風林として外風除けを村の上に仕立てた。そのアカマツが、樹齢およそ200年の立派な風除けとして今日に至っている。この風除けは甲州街道に直交し、かつ東西に100メートルずれるように設けられている。東側は村の北西、ソリの道地籍の崖縁に沿う延長160メートルの間に植えられている。樹高20メートル余り、いま胸高幹囲140~240センチのもの35本を数える。西側は延長45~50メートルに上端の幅10メートル余、高さ2メートル余の土盛りをして植えられ、いま胸高幹囲160~250センチのもの14本を数える。風除けと呼ばれる林は藩の許可を得て設けられるもので、富士見町内では30余りが数えられる。現存するものの中でこの風除林は、往時からの姿を伝える顕著なものである。(富士見市教育委員会) -
【栃の木風除林の説明】
〔とちの木風除林〕 富士見町指定天然記念物
とちの木には、古くから樋口姓の者が住んでいた。しかし村は風当たりが強く、五穀は実らず、全戸が今の若宮地籍へ移り住み無人家の地となった。
元和六年(1620)、樋口氏が木之間から今の塚平の地へ移住した。ここは周りが草原だったので、神戸から草刈に来た人達や甲州道中の通行人が時々失火して火災にあった。それで、やや南の方の今の地へ移った。
このころ片瀬から小林氏が来て住むようになった。やはり北風は強く、内風除けを作ったが、なお稲はよく実らなかった。
寛1789~18001789~1800)に村では高島藩へ願い出て、防風林として外風除けを村の上に仕立てた。そのアカマツが、樹齢およそ200年の立派な風除けとして今日に至っている。
この風除けは甲州街道に直交し、かつ東西に100メートルずれるように設けられている。東側は村の北西、ソリの道地籍の崖縁に沿う延長160メートルの間に植えられている。樹高20メートル余り、いま胸高幹囲140~240センチのもの35本を数える。西側は延長45~50メートルに上端の幅10メートル余、高さ2メートル余の土盛りをして植えられ、いま胸高幹囲160~250センチのもの14本を数える。
風除けと呼ばれる林は藩の許可を得て設けられるもので、富士見町内では30余りが数えられる。現存するものの中でこの風除林は、往時からの姿を伝える顕著なものである。
平成15年3月 富士見町教育委員会 -
【重修一里塚の石碑】
道が平らになった所に「甲州街道コース」の案内板が立っており、注連縄が巻かれた道祖神と並んで重修一里塚の石碑がある。木が5~6本あっているこんもりした所で、江戸より四十七里目。 -
富士見高原のスキー場あたり
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原の茶屋町の表示
【原の茶屋】と呼ばれている。
蔦木宿と金沢宿の宿場間は13kmもあって、かつては人家も無く、一面の原っぱだったという。1772(明和9)年頃に、与兵衛という人物がここで茶屋を始め、その後次第に集落が形成された。集落の中心の甲州街道沿いには「桔梗屋」という旅館があり、今は営業をやめているが、建物が残っている。
ここには、明治末から大正にかけて、伊藤左千夫、斉藤茂吉、田山花袋、島木赤彦、土屋文明、竹久夢二など、文人・歌人が集まり、サロン的な役割果たした。 -
富士見公園近く。海抜965m。富士見峠の最高点。
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【富士見公園】
富士見公園には、芭蕉句碑、伊藤サチオ、等の碑がありました。
園内に入ると芭蕉句碑「眼にかゝる ときや殊更(ことさら) 五月不二(さつきふじ)」があります、元禄7年(1694年)の句です。
芭蕉最後の上方帰郷の際、箱根を越えた辺りで、ちょうど富士山の全貌が見え、俳聖の最期を気遣ったか、富士は五月晴れとなり、その姿をことさら美しく現したの意です。
芭蕉句碑の後ろには庚申塔が並んでいます。
園内には松丘句碑、伊藤左千夫歌碑、斉藤茂吉歌碑、ゝ山歌碑、島木赤彦歌碑等があり、高尾神社が祀られています。
〔公園由来〕
明治37年11月、左千夫は甲州御嶽歌会の後を韮崎より馬車で入信し、上諏訪にて赤彦と初対面した。明治、大正時代の日本短歌会をリードする二人の劇的な出会いである。
この頃よりアララギ同人の富士見来訪多く、明治41年10月富士見油屋歌会に来遊した左千夫は、「財ほしき思いは起る草花のくしく富士見に庵まぐかね」と原之茶屋の一小丘に立ちて、「ここは自然の大公園だ。自然を損なわぬように公園を作りたい。」と腹案をもらされた。
村人は、赤彦を通じ左千夫に設計を依頼し、明治44年左千夫の指示を受け、富士見村や原之茶屋の協力によって富士見公園は出来上がった。
早春の芽吹きから、花、新緑、鮮やかな紅葉と四囲に高峰を望むこの公園は詩歌の里としての希い(ねがい)多く、左千夫歌碑が大正12年に、赤彦歌碑は昭和12年に、昭和40年に茂吉歌碑の建立を見るに至り3基の句碑と共に歌碑公園として、文学愛好者の訪れが絶えない。
【富士見公園】 富士見町指定名勝
明治十二年、原之茶屋の人たちは、入会地の一部であったこの地を買い受けて小公園をつくった。ここは特に富士山と八ヶ岳の眺望がすばらしく。翌年の明治天皇御巡幸の折には街道端に「美蓉峰ヲ望ムノ勝地タリ」との建札も行われた。
明治三十一年、東京では正岡子規による短歌革新運動が起こり、子規没後は伊藤左千夫によって継承され、雑誌「馬酔木(あしび)」「アカネ」「阿羅々木(あららぎ)」などが次々と発刊された。同じころ、諏訪では島木赤彦を中心とする短歌活動が活発化し、同人誌「比牟呂(ひむろ)」が刊行されていた。三十七年に左千夫が上諏訪布半短歌会に出席して以来、二人は志を通じ交友を重ねていた。四十一年、富士見油屋短歌会に左千夫ほか阿羅々木の同人たちが出席したのを契機に機運が高まり、翌年、同誌は合同して「アララギ」と改め、左千夫が主宰することになった。富士見は「アララギ」にとって記念すべき地となったのである。
左千夫はこの間にしばしば富士見を訪れたが、ここの自然景観をたたえ、公園の設計を推奨した。これを受けて富士見村では直ちに用地を確保し、左千夫の構想と村人の奉仕によって四十四年、新しい公園が完成した。爾来、今日に至っている。
左千夫の没後大正十一年に、村民はその恩に酬いるため、歌碑を建立した。赤彦没後十三回忌の昭和十二年には、県内外の多数の賛同者によって赤彦の歌碑が建立された。さらに、赤彦のあとアララギを主宰した斉藤茂吉の歌碑も十三回忌の昭和四十年に建立された。また当町神代の出身で、アララギの選者として活躍した森山汀川の歌碑も四十五年忌の平成二年に建立された。
平成十年三月 富士見町教育委員会
【芭蕉句碑】
”眼にかゝるときや殊更五月不二 はせお
明治十四年九月に鶴鳴舎中によって建てられた。
書は諏訪市中金子の岩波千尋の揮毫である。
天保の頃、独楽坊一山にはじまる鶴鳴舎は、知覚、柳心、対岳等の俳人を生んだ。
この句は、元禄七年の作で「箱根の関越えて」と前書があり、元禄八年の路通書「芭蕉翁行状記」に見えている。 -
【小川平吉生誕碑】
小川平吉(1870~1942)は、政治家・弁護士で長野県生まれ。1903年衆議院議員に当選して、司法大臣、鉄道大臣等を歴任。鉄道大臣時代に利権目当てが大半といわれた鉄道敷設免許を乱発、全国の駅名からローマ字を削除させて『国粋大臣』の異名をとった人物。1929年の私鉄疑獄事件に連座して入獄。 -
三差路。ここに馬頭観音がたつ。右は国道20号線で、左の坂道が甲州古道。
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【御射山神戸(みさやまごうど)の一里塚】
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【御射山神戸(みさやまごうど)の一里塚】
*江戸日本橋より48番目。
珍しく街道の東西に両塚(ふたつの塚)を残している。この欅は往時のもので樹齢400年である。
御射山神戸(みさやまごうど)という場所に出た。
甲州街道は、ここでいったん国道20号に合流し、再び静かな脇道に入っていく。
一里塚が見えてきた。
ケヤキの巨木がこんもりとした塚の上に植わっている。慶長年間に植えられたらしく、樹齢が400年以上あるそうだ。日本橋から48番目の一里塚だ。甲州街道は53里24町。
【一里塚】
江戸日本橋ヨリ下諏訪宿ニ至ル五十三里余ノ道ヲ甲州道中ト云イ慶長十五年開通サレ同時ニ日本橋ヲ基点トシテ一里毎ニ道ノ両側ニ方五間ノ地ヲ占メ上ニ塚ヲ築キ榎カ欅ヲ植エタ次ノ塚ヲ目当ニ進ンタ此塚ハ四十八里塚テ東塚ハ榎テアッタガ明治廿年代枯レ西塚ハ当時ノママノ欅テ県内唯一ノモノ県ノ史跡ニ指定サレテイル
昭和四十四年四月八日 富士見町 御射山神戸区 細川隼人書 -
一里塚を示す石碑と樹齢400年の幹の太さ。見事です。
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こちらは東塚。
【一里塚】
江戸日本橋ヨリ下諏訪宿ニ至ル五十三里余ノ道ヲ甲州道中ト云イ慶長十五年開通サレ同時ニ日本橋ヲ基点トシテ一里毎ニ道ノ両側ニ方五間ノ地ヲ占メ上ニ塚ヲ築キ榎カ欅ヲ植エタ次ノ塚ヲ目当ニ進ンタ此塚ハ四十八里塚テ東塚ハ榎テアッタガ明治廿年代枯レ西塚ハ当時ノママノ欅テ県内唯一ノモノ県ノ史跡ニ指定サレテイル
昭和四十四年四月八日 富士見町 御射山神戸区 細川隼人書
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