2012/04/07 - 2012/04/07
1314位(同エリア1778件中)
ムッシュさん
先ずは軽く、日本橋より新橋まで。現代の銀座をメインに歩きましょう。
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桜の背景は、現代の日本橋と高速道路
なんと、現在の橋は、第20代目の橋です。初代はもちろん木造ですが、江戸の火事の度に掛け替えたようです。
家康の政策「伝馬制」により、東海道には53の宿場が設けられた。
人々の往来が急増し、「お江戸日本橋7つ立ち」と唄われたように、早朝4時に出発し、せっせと歩みを進めた。 -
こちら、旧日本橋の欄干碑
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現代の日本橋の欄干
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現代の渡し船。クルーズ船か!
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橋のたもとに複製された「日本国道道路元標」がある。
日本橋は慶長八年(1603)に架けられた。現在の橋は明治44年に御影石でけんぞう。江戸東京博物館に復元、展示されている。
日本橋の4隅にある獅子像。獅子像は当時の東京市の紋章を持っています(この紋章は東京都の紋章として現在も使用)。
太陽を中心にして6方に光が放たれている形で、日本の中心としての東京を象徴するデザインになっている。 -
文字は15代将軍徳川慶喜による。
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徳川家康の関東入国の後、摂津から漁民が佃島に移り住み、幕府の膳所に供するために漁業を営み、のち、日々上納する残りの鮮魚を舟板の上で並べて一般に販売するようになったのが魚河岸の始まり。
【日本橋魚河岸跡】
『日本橋から江戸橋にかけての日本橋川沿いには、幕府や江戸市中で消費される鮮魚や塩干魚を荷揚げする「魚河岸」がありました。ここで開かれた魚市は、江戸時代初期に佃島の漁師たちが将軍や諸大名へ調達した御膳御肴の残りを売り出したことに始まります。この魚市は、日本橋川沿いの魚河岸を中心として、本舟丁・小田原町・安針町(現在の室町一丁目・本町一丁目一帯)の広い範囲で開かれ、大変な賑わいをみせていました。・・・』と。 -
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日本橋の東に構えるは、デパート三越本店です。
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三越の東隣は、三井。
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こちら三井記念美術館。
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丁度、北斎展を開催中でした。
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2015年3月追加
呉服橋方面 -
2015年3月追加
延命神社(日本橋) -
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老舗の山本山。上から読んでも、下から読んでも”山本山”
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2015年3月追加。日本橋COREDO
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日本橋2丁目の高島屋。重厚な様式の建築です。
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2015年3月追加。
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「江戸歌舞伎発祥之地」の碑
「寛永元年(1624)、猿若中村勘三郎が中橋(現在の日本橋と京橋の中間)に、猿若中村座の櫓をあげたのが江戸歌舞伎の始まりです。写真は、これを記念して昭和32年(1957)に建立された碑で、銀座と京橋を分かつ高速道路のすぐ脇に。当時、この中村座の後に、市村座、森田座、山村座と続き、この四座が官許の芝居小屋でした。役者の氏神といわれた市川団十郎をはじめ、尾上菊五郎などの役者が絶大な人気を得、江戸歌舞伎は大衆文化の頂点に立ったのです。」 -
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こちら、山形屋の海苔やさん。
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「京橋擬宝珠(ぎぼし)」
京橋の欄干。京橋は日本橋と同時代の慶長年間に架橋されたものです。
京橋の欄干の柱頭を飾った石の擬宝珠(ぎぼし)。江戸時代、東海道で京へ上る際、日本橋を基点として最初に渡る橋の意で、京橋と呼ばれた。
昭和34年に京橋の下を流れる「京橋川」が埋められ、この擬宝珠のみが記念に残された。この擬宝珠は明治8年の石橋に用いられたもの。 -
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「京橋大根河岸青物市場跡」の碑。
1664年(寛文4年)に京橋川の水運を利用して、京橋の北詰西側に野菜の売り場が設けられた。この青物市場には大根の入荷が多かったため、「京橋大根河岸市場」と呼ばれ、明治になってからは「京橋青物食物河岸」と呼ばれた。明治の終わりには現在の京橋3丁目と八重洲2丁目の南部、対岸の銀座1丁目の西部にまで規模が広がり、青物・菓物のほか、魚類・乾物も扱うようになった -
「京橋の大正時代の親柱」名称は擬宝珠(ぎぼし)
橋の格式を示し、江戸では、日本橋、京橋、新橋の三橋だけ許された装飾。
文字は15代将軍徳川慶喜による。
江戸時代は木造だったが、明治8年に石造アーチ橋に架けかえられた。
「煉瓦銀座之碑」
明治5年の大火で、銀座は全焼し築地まで延焼した。その後、銀座通りの建物は、耐火構造の煉瓦造り洋風2階建てに統一され、煉瓦通りと呼ばれた。
「煉瓦銀座之碑」に書かれている。
道を挟んで反対側には、「江戸歌舞伎発祥の地碑」のあるところ。中村勘三郎が寛永元年(1624年)、この地で始めた興行した。現在の歌舞伎座はこの先の銀座四丁目の角を左に曲がった所にある。 -
「きやうはし」
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偶には、ピンクのコマーシャルカーが走っています。
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2015年3月追加。
銀座を歩く御姉さま方。 -
銀座2丁目碑
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【銀座発祥の地碑】
銀座2丁目にある銀座発祥の地記念碑。慶長17年(1612年)、ここに「銀貨鋳造役所銀座」が設置された。
銀座の名前は明治になってから正式に使われたもので、江戸時代は新両替町で、通称が銀座町であった。
碑には「銀座発祥の地 銀座役所跡」と刻まれており、江戸時代にこの地に銀座があったことを記念して、昭和30年(1955年)に建てられたとある。銀座役所がこの地にあったのだそうだ。銀座という地名も江戸時代に貨幣の鋳造所としてこの地に建てられたことから。役所は1800年に日本橋の蛎殻町(かきがらちょう)に移転したが、銀座は地名として残ることになったと。 -
こちら”LOUIS VUITTON”
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こちらは、"BVLGARI”
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銀座も、現代では、世界のブランド店”cartier"が出店してル。江戸時代の人が聞くとさぞかし驚くでしょうね。
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銀座四丁目交差点。
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【銀座四丁目交差点の服部時計店】
銀座4丁目交差点の一角に立つ和光のこの建物は、昭和初頭から今日に至るまで、銀座のシンボルとして、銀座通りのイメージを象徴して来た。現在では高級百貨店となっているが、もともと服部時計店の社屋として建てられたもの。長らく服部の時計塔として親しまれ、銀座を舞台とした映画には必ず背景として映されていたと。戦後の荒廃した銀座通りにあっても、この建物はけなげに立ち続け、人々に勇気を与えたのだと。
服部時計店が銀座に進出したのは明治28年、初代の建物も時計塔を乗せていた。
現在の時計塔は東西南北の4面すべてに文字盤は配されているのだ。 -
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「SWAROVSKI」銀座店。
1895年にオーストリアのチロル州で創業したクリスタル・ガラス製造会社。
ファサードを構成するのは数にして幾千本と言う六角のステンレス製異形パイプの束。圧倒的量感。無数の鏡面が銀座通りの風景をモザイク状に映し出していた。 -
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「新橋の親柱」。
銀座中央通り沿いの銀座ナイン2の向かい、首都高速下にポツンと親柱が。
かつては汐留川がありそこに架けられた橋で当時の史跡として、この親柱が残されている
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