2011/11/13 - 2011/11/13
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杏仁豆腐さん
ビアンキFRETTAでの都内散策。今日は、話題の芝増上寺です。
三解脱門が戦後初の一般公開されています。
三解脱門は、徳川幕府の助成により、幕府大工頭・中井正清とその配下により建立され、元和八年(1622年)に再建されました。増上寺が江戸の初期に大造営された当時の面影を残す唯一の建造物で、国の重要文化財に指定されています。
二階内部(楼上)には釈迦三尊像・十六羅漢像および当山歴代上人像が奉安されています。法然上人八百年御忌を記念し、通常非公開の「増上寺三解脱門」を一般公開しています。
これは、見逃せないと言うことで、増上寺をめざしました。
- 同行者
- 一人旅
- 交通手段
- 私鉄
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日比谷線神谷町で下車、ビアンキを組み立てて、出発です。
東京タワーに向かって走ると、永井坂。急坂です。 -
江戸時代から明治初期にかけて、この付近の地を芝永井町といったことからこの名が付いた、とあります。
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永井坂から見上げる東京タワー。
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東京タワーを過ぎ、坂を下るとすぐ増上寺です。
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三解脱門。
この日は、第38回Pウォーク10が開催され、増上寺は大勢の人でした。
三解脱門を通り、出発する人々です。 -
三解脱門に人が見ます。
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急な階段を上ります。
私が、三解脱門に入る時は、それほどの列ではありませんでしたが、時間とともに入場の列が長くなっていました。
三解脱門とは三つの煩悩「むさぼり、いかり、おろかさ」を解脱する門のことです。建築様式は三戸二階二重門、入母屋造、朱漆塗。唐様を中心とした建物に、和様の勾欄などが加味され、美しさを見せています。二階内部(非公開)には、釈迦三尊像と十六羅漢像が安置されています。写真撮影は禁止です。 -
私が、三解脱門に入る時は、それほどの列ではありませんでしたが、時間とともに入場の列が長くなっていました。
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増上寺を出発し、皇居外苑、丸の内、銀座を巡り、増上寺に戻るようです。
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鐘楼堂です。
最初の鐘楼堂は寛永十年(1633年)に建立されましたが、現在の鐘楼堂自体は戦後の再建によるものです。鐘楼堂に収められている大梵鐘は、延宝元年(1673年)にあまりの大きさに七回の鋳造を経て完成し(東日本で最大級といわれている)、江戸三大名鐘の一つに数えられています。朝と夕べ、二回撞くその鐘の音は、時を告げるだけではなく、人を惑わす百八の煩悩を浄化し、人々の心を深い安らぎへと導く六度の誘いだそうです。江戸時代の川柳には「今鳴るは芝(増上寺)か上野(寛永寺)か浅草(浅草寺)か」・「江戸七分ほどは聞こえる芝の鐘」・「西国の果てまで響く芝の鐘」等と謳われ、江戸っ子鐘と親しまれています。 -
水盤舎です。
もと清揚院殿霊廟(甲府宰相綱重公・三代家光公三男)の一部であり、明治時代の解体・昭和の空襲を逃れたものを、現在地に移築したもの。徳川将軍家霊廟建築を伝える貴重な遺構のひとつです。 -
葵の御紋。
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聖鉄観音。
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聖鉄観音の説明。
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大殿と東京タワー。
大殿は、昭和四十九年(1974年)、浄土宗大本山の念仏の根本道場として、あらゆる儀式法要が行えるよう斬新な設計と意匠で、戦災に遭い焼失した本堂が再建されました。 -
【お歌の由来】月かげのいたらぬ里はなけれども、ながむる人のこころにぞすむ。
観無量寿経に説く「光明は遍く十方世界を照らして念仏の衆生を摂取して捨てたまわず」の意を法然上人がお歌に示されたものである。浄土宗の宗歌になっている。 -
歌を歌っている女性。
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大殿の屋根と東京タワー。
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千躰子育地蔵尊。
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赤い頭巾をして風車を持っているかわいらしいお地蔵さんたち。
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子供の健康や無事な成長を願って奉安されているようです。
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七五三の女の子。健やかに育って下さいね。
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向こうには東京タワー。
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徳川家霊廟です。
徳川将軍家霊廟特別拝観を行っています。
平成24年 1月31日迄です。 -
この門は旧国宝で「鋳抜門」とよばれ、もと文昭院殿霊廟(六代将軍 徳川家宣公)の宝塔前『中門』であったものです。左右の扉に五個づつの葵紋を配し、両脇には昇り龍・下り龍が鋳抜かれている(青銅製)。規模は勿論のこと、その荘厳さにおいても日光東照宮と並び評された往時の姿を今に伝える数少ない遺構であります。
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下り龍
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増上寺は東京上野の東叡山寛永寺(天台宗)と共に徳川将軍家の菩提寺で、当山に埋葬されているのは、二代秀忠公・六代家宣公・七代家継公・九代家重公・十二代家慶公・十四代家茂公の六人の将軍のほか、崇源院(二代秀忠公夫人)、皇女和宮さま(十四代家茂公夫人)ら五人の正室、三代家光公側室桂昌院(五代綱吉公実母)はじめ五人の側室、及び三代家光公第三子甲府宰相綱重公ほか歴代将軍の子女多数が埋葬されています。
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14代将軍家茂の正室、静寛院和宮は仁孝天皇の第8皇女として弘化3年(1846)に生まれる。和宮は嘉永4年、6歳の時に有栖川宮と婚約が成立したが、婚儀間近になって前述した公武合体策によって降嫁。時に15歳であった。和宮は家茂死後、落飾して静寛院と称した。明治10年(1877)、31歳で逝去。
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家茂は11代家斉の子、斉順の長子として弘化3年に生まれる。安政5年、将軍家の養子となり14代将軍となった。しかし、世継問題と日米通商問題で幕府は大きく揺れ、井伊直弼によって安政の大獄がはじまったが、事態収拾のために公武合体策をとり、和宮親子内親王(静寛院)を正室に迎えた。尊皇攘夷派と幕府の対立が激化するなかで、家茂は第1次長州征伐を指揮し、第2次長州征伐中、大阪城で病没した。慶長2年(1866)、享年21歳であった。
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家宣は家光の三男綱重の子として寛文2年(1662)に生まれる。将軍職を継ぎ、新井白石等を重用し政治の刷新をはかり、生類憐みの令を廃止するなど、「正徳の治」をなしとげたが、将軍職わずか3年にして病に倒れ、正徳2年(1712)、51歳の生涯を閉じた
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秀忠は家康の第3子として、天正7年(1579)に生まれる。慶長10年(1605)ぶ第2代将軍の位に上った。将軍職にあること18年をかぞえ、寛永9年(1632)、54歳で逝去。台徳院廟に葬られた。
大河ドラマ、江の人気で、訪れる人もたくさんいます。 -
「お江の方」(崇源院)の宝塔が、二代秀忠公と合祀されています。
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家継は家宣の第3子として、宝永6年(1709)に生まれる。父家宣の逝去とともにわずか3歳で将軍職についた。家継は元来病弱で、正徳6年(1716)、8歳で亡くなられた。
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8代吉宗の長子として、正徳元年(1711)に生まれる。成長するにつれしだいに病気がちになり、将軍になっても政務は重臣にまかせた。調査によれば、重度の歯ぎしりにより発音障害ががあったようである。が、復元される容貌は歴代将軍の中でも最も美男子であったようで、遠くから拝謁するだけの大名にとっては気高く見えたという。49歳で将軍職を譲り、宝暦11年(1761)、51歳で逝去。
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家斉の第2子として、寛政5年(1793)に生まれる。天保8年(1837)12代将軍となった。
家慶は「天保の改革」に着手するが、改革は失敗に終わり、幕府は没落の道を進むこととなる。家慶はあわただしい世情の中、嘉永6年(1853)、に亡くなった。行年61歳。
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ボランティアのガイドさんの説明が聞けます。
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四菩薩像です。
右から、普賢菩薩(辰年守本尊)、地蔵菩薩(子育地蔵)、虚空蔵菩薩(丑寅本尊)、文殊菩薩(卯年守本尊)。もとはこの場所の北西、地蔵山に安置されていた。西向の観音像にたいして東向きあった。正嘉二年(1256年)の作と伝えられる古像である。 -
仏足石
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浄土宗の開祖法然聖人の幼少像。
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三解脱門に入る人たちの列。
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増上寺の近くのル・パン・コティディアンでランチです。
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1990年、ベルギーのブリュッセルで創業し、現在は世界19カ国26都市で151店舗を展開するベーカリーレストラン、Le Pain Quotidien(ル・パン・コティディアン)の日本第一号店です。が2011年1月5日オープン。
http://www.lepainquotidien.jp/ -
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創業時から受け継がれているシンプルなパンは、オーガニックの石臼挽きの小麦粉(フランス・デコローニュ社製)、塩、水、酵母のみを使用し、レストランのメニューはすべて、パンを愉しむ料理や飲みもので構成されているそうです。
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アイスカフェラテ
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チキンカレー&ダイストマト
クランベリーチャッツネ添え
オーガニックですね。雰囲気はいいですが、値段はちょっと高い。味は普通かな。 -
お会計の時に、チョコレートのサービス。
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増上寺で購入したお守り。子供たちにお土産です。
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龍の起き上がりこぼし。来年は辰年。
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三解脱門に入ると、竹の栞がもらえます。
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徳川家将軍霊廟に入ると、古地図と絵はがきがもらえます。
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三解脱門にと徳川家将軍霊廟は見る価値ありです。
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