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 紀の国は長く一国を統治する大名を持たず、神領・寺領の被官が各々の領地を治めていましたが、豊臣秀吉が紀州を統一、桑山時代(桑山重晴~14年)、浅野時代(浅野幸長~19年)を経て、元和5年徳川家康十子の徳川頼宣(よりのぶ)入国によって近世を迎え、明治維新までの発展を遂げました。その徳川ゆかりの足跡を辿るべく、和歌山城、養翠園(ようすいえん)、番所庭園(ばんどこていえん)、海禅院(かいぜんいん)、中野酒造・長久邸庭園、長保寺(ちょうほじ)を廻りました。<br /> 

紀州三名園と徳川家/和歌山市~海南市

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2011/10/23 - 2011/10/23

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ひま人

ひま人さん

 紀の国は長く一国を統治する大名を持たず、神領・寺領の被官が各々の領地を治めていましたが、豊臣秀吉が紀州を統一、桑山時代(桑山重晴~14年)、浅野時代(浅野幸長~19年)を経て、元和5年徳川家康十子の徳川頼宣(よりのぶ)入国によって近世を迎え、明治維新までの発展を遂げました。その徳川ゆかりの足跡を辿るべく、和歌山城、養翠園(ようすいえん)、番所庭園(ばんどこていえん)、海禅院(かいぜんいん)、中野酒造・長久邸庭園、長保寺(ちょうほじ)を廻りました。
 

同行者
友人
一人あたり費用
1万円未満
交通手段
観光バス JRローカル 私鉄
  •  和歌山城天守閣。天正13年(1585年)豊臣秀吉が紀州を統一後、自ら虎伏山を縄張りして普請奉行に藤堂高虎、羽田長門守を任命し本丸、二の丸を築造させた。翌14年には領主羽柴秀長の城代として、桑山重晴が3万石を領して入城し、はじめて若山又は和歌山の城と称したが、その後慶長5年(1600年)には浅野幸長が37万6千石を持って入城。元和5年(1619年)には徳川家康の第十子徳川頼宣が55万5千石を領して入城するに及んで城郭の大改修があり、以来幕府三親藩の居城として250年にわたる紀州徳川氏治政の基を開きました。現在の天守閣は昭和33年に鉄筋コンクリートで復元されたものです。

     和歌山城天守閣。天正13年(1585年)豊臣秀吉が紀州を統一後、自ら虎伏山を縄張りして普請奉行に藤堂高虎、羽田長門守を任命し本丸、二の丸を築造させた。翌14年には領主羽柴秀長の城代として、桑山重晴が3万石を領して入城し、はじめて若山又は和歌山の城と称したが、その後慶長5年(1600年)には浅野幸長が37万6千石を持って入城。元和5年(1619年)には徳川家康の第十子徳川頼宣が55万5千石を領して入城するに及んで城郭の大改修があり、以来幕府三親藩の居城として250年にわたる紀州徳川氏治政の基を開きました。現在の天守閣は昭和33年に鉄筋コンクリートで復元されたものです。

  •  和歌山城本丸御殿跡。

     和歌山城本丸御殿跡。

  •  和歌山城紅葉渓庭園。

     和歌山城紅葉渓庭園。

  •  和歌山城二の丸跡。

     和歌山城二の丸跡。

  •  和歌山城御橋廊下。藩主とお付きの人だけが、二の丸と西の丸を行き来するために架けられていた橋です。そのため、外から見えないように壁と屋根が設けられ、部屋の廊下のような造りになっている。斜めにか架かる廊下橋としては全国的に珍しい。江戸時代の図面にもとずき平成18年3月に復元された。

     和歌山城御橋廊下。藩主とお付きの人だけが、二の丸と西の丸を行き来するために架けられていた橋です。そのため、外から見えないように壁と屋根が設けられ、部屋の廊下のような造りになっている。斜めにか架かる廊下橋としては全国的に珍しい。江戸時代の図面にもとずき平成18年3月に復元された。

  •  和歌山城大手門。城側からの撮影。浅野・徳川時代を通して大手門(表門)として機能した。当初は一之橋御門と呼ばれていたが、寛政8年(1796年)に大手御門と改称された。明治42年(1909年)自然倒壊し撤去されたが、昭和58年(1983年)、再建され、高麗門形式に復元された。

     和歌山城大手門。城側からの撮影。浅野・徳川時代を通して大手門(表門)として機能した。当初は一之橋御門と呼ばれていたが、寛政8年(1796年)に大手御門と改称された。明治42年(1909年)自然倒壊し撤去されたが、昭和58年(1983年)、再建され、高麗門形式に復元された。

  •  和歌山城。石垣の刻印。

     和歌山城。石垣の刻印。

  •  和歌山城天守閣からの西側(瀬戸内側)の風景、右手に住友金属和歌山製鉄所が見える。

     和歌山城天守閣からの西側(瀬戸内側)の風景、右手に住友金属和歌山製鉄所が見える。

  •  養翠園、文政元年(1818年)から8年をかけて10代藩主冶宝(はるとみ)が造営した西浜御殿の別邸で、徳川中期の代表的な武家庭園とも言われる池泉回遊式です。<br /> 中国の西湖を模したとされる三ツ橋などが架かり、デザイン的に曲線と直線を効果的に配置しています。また、海水を取り入れた池としても珍しいものです。数寄屋づくりの養翠亭や表千家の茶室も風情があります。

     養翠園、文政元年(1818年)から8年をかけて10代藩主冶宝(はるとみ)が造営した西浜御殿の別邸で、徳川中期の代表的な武家庭園とも言われる池泉回遊式です。
     中国の西湖を模したとされる三ツ橋などが架かり、デザイン的に曲線と直線を効果的に配置しています。また、海水を取り入れた池としても珍しいものです。数寄屋づくりの養翠亭や表千家の茶室も風情があります。

  •  養翠園。中国の西湖を模した三ツ橋が架かっている。

     養翠園。中国の西湖を模した三ツ橋が架かっている。

  •  番所庭園(ばんどこていえん)。

     番所庭園(ばんどこていえん)。

  •  番所庭園、雑賀崎の西端、和歌浦湾に突き出た岬には、江戸時代から紀州藩の見張り番所が置かれたので「番所の鼻」呼ばれました。明治維新後、見張り番所の跡地を整備して芝生庭園とし、紀伊水道に浮かぶ大島、中之島、双子島を眼前に望む景勝の庭園として知られています。

     番所庭園、雑賀崎の西端、和歌浦湾に突き出た岬には、江戸時代から紀州藩の見張り番所が置かれたので「番所の鼻」呼ばれました。明治維新後、見張り番所の跡地を整備して芝生庭園とし、紀伊水道に浮かぶ大島、中之島、双子島を眼前に望む景勝の庭園として知られています。

  •  海禅院が位置する妹背山、周囲250mほどの小島。

     海禅院が位置する妹背山、周囲250mほどの小島。

  •  海禅院、慶安2年(1649年)、徳川家康の三十三回忌の時に、頼宜、頼房(水戸家初代)の母・養珠院(お万の方)が法華経を書写した経石を納めた石室を造り、その上に小堂を建てたのが創始とされるのが海禅院です。この時、養珠院に賛同した後水尾上皇、また庶民にいたるまで、身分を問わず全国から経石を集めて総数は20万個なったと伝えられていました。<br /> 養珠院の没後、承応2年(1653年)に、頼宜は小堂を二層の多宝塔に改築し、拝殿と唐門を建立しました。その後、紀州徳川家の庇護を受けていましたが、明治維新後は禄を失い荒廃していき、現存する多宝塔を残すのみの姿になりました。

     海禅院、慶安2年(1649年)、徳川家康の三十三回忌の時に、頼宜、頼房(水戸家初代)の母・養珠院(お万の方)が法華経を書写した経石を納めた石室を造り、その上に小堂を建てたのが創始とされるのが海禅院です。この時、養珠院に賛同した後水尾上皇、また庶民にいたるまで、身分を問わず全国から経石を集めて総数は20万個なったと伝えられていました。
     養珠院の没後、承応2年(1653年)に、頼宜は小堂を二層の多宝塔に改築し、拝殿と唐門を建立しました。その後、紀州徳川家の庇護を受けていましたが、明治維新後は禄を失い荒廃していき、現存する多宝塔を残すのみの姿になりました。

  •  中野酒造・長久邸庭園、昭和58年、中野酒造の敷地内に1万平方mの庭園(泉水庭)を築造したもので、巨岩庭石を配し、松、樫など常録樹に梅、桜、藤、さつき、つつじなどが四季それぞれの景観で目を楽しませています。企業庭園ですが、一般に公開されており、酒造見学とともに楽しむことが出来ます。

     中野酒造・長久邸庭園、昭和58年、中野酒造の敷地内に1万平方mの庭園(泉水庭)を築造したもので、巨岩庭石を配し、松、樫など常録樹に梅、桜、藤、さつき、つつじなどが四季それぞれの景観で目を楽しませています。企業庭園ですが、一般に公開されており、酒造見学とともに楽しむことが出来ます。

  •  中野酒造・長久邸庭園。

     中野酒造・長久邸庭園。

  •  長保寺本堂、鎌倉時代(1311年)国宝。長保2年(1000年)に一条天皇の勅願によって創建された寺院で、紀州藩浅野時代に浅野幸長、2代光貞からの寄進があり、五百五石の寺領を持つ大寺となりました。寛文6年(1666年)初代藩主頼宜がこの寺を菩提寺にするのにあたり、真言宗から天台宗に改められ現在にいたっています。<br /> 紀州徳川家の墓碑は28基で12基が藩主のもので、歴代藩主のうち5代吉宗と13代慶福は将軍となったため当地には墓碑はありません。

     長保寺本堂、鎌倉時代(1311年)国宝。長保2年(1000年)に一条天皇の勅願によって創建された寺院で、紀州藩浅野時代に浅野幸長、2代光貞からの寄進があり、五百五石の寺領を持つ大寺となりました。寛文6年(1666年)初代藩主頼宜がこの寺を菩提寺にするのにあたり、真言宗から天台宗に改められ現在にいたっています。
     紀州徳川家の墓碑は28基で12基が藩主のもので、歴代藩主のうち5代吉宗と13代慶福は将軍となったため当地には墓碑はありません。

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