2011/05/15 - 2011/05/19
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Yoyosaiさん
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今回は超番外。老人(父ですが)、故郷の酒田となじみの仙台近郊を回る旅に出ました。老人の文をそのまま転記します。
- 同行者
- 一人旅
- 交通手段
- 高速・路線バス 新幹線 JR特急 JRローカル 徒歩
- 旅行の手配内容
- 個別手配
-
先週、大震災の3月11日から2か月が過ぎた仙台、塩釜を訪ねた。
仙台は、30代後半と定年後の70歳前後の通算約9年を過ごした第二の故郷である。友人、知人が多い。
震災直後 −電話がつながったのは一週間後だったが−から連絡はとれていたが、この目で確かめるまでは気になって仕方がなかった。
*写真:仙台駅前の風景 -
「仙石線、沿線の町」
JR仙石線(仙台―石巻)の開通を待って、石巻、できれば気仙沼まで足をのばすつもりでいた。懐かしい思い出の詰まった町である。
が、誤算だった。気仙沼どころか石巻まで行くにもままならない。
岩手県境にすぐ近い気仙沼は三陸第一の漁港である。全国から漁師が集まり、港や魚市場はいつ行っても活気があった。いまの窮状が思いやられる。
伊達政宗ゆかりの歴史をもつ港都、石巻は人口が多い(16万人)。それだけに宮城県では最大の被災地になった。いうまでもなく津波である。
港に浮かぶ支倉常長・慶長遣欧使節のサンファン・バウテイスタ号は奇跡的に大きな被災をまぬがれ営業を続けていると聞く。こんな嬉しいことはない。
*写真:仙台駅前のステーションホテル -
住民の生活幹線である仙石線は波に洗われて寸断され、いまだ開通のめどが立っていないことが、行ってはじめてわかった。
臨時時刻表で調べた石巻行 −1時間に一本ほどあったが−は東塩釜どまりで、その先はバスで乗り継ぐ応急時刻表だったのだ。観光地の松島海岸は東塩釜の次だが、ここもバスである。
というわけで今回の津波被災地の訪問は塩釜どまりにすることにした。
それでも長い、つらい旅になった。戻ってほぼ1週間たつのに体も頭も思うように動いてくれない。仙台に着くまでに新潟と酒田に立ち寄り、ともに重篤な病人(新潟では最末期がんの友人)を見舞う強行スケジュールだったこともあるが、こんなことは初めてである。 -
「友人S氏、O氏、T氏」
仙台に着いて、取るものもとりあえず友人O氏夫人を訪ねた。O氏は昨年1月、バンコックで客死している。
夫人から年始欠礼通知で知らされていたので、今回の訪仙はO氏の焼香を兼ねていた。元気を取り戻している夫人に会って安堵した。
そのあと近くのS氏宅へ。若い頃から同じ町内で懇意にしてきた友人たちである。それぞれ震災時の状況やその後の様子を詳しく話してくれた。 -
富谷町に住む友人T氏は自宅が大きく被災している。直前に保険屋の訪問日程が飛び込んだため、残念ながら会うことがかなわなかった。保険屋は大忙しで、調査の日時を前もって約束できないから1週間外出しないで家にいてくれというらしい。これには驚いた。
*写真:鳥海山荘。上は鳥海山の水芭蕉(きれいですね) -
T氏の直系親戚は家が仙台空港の近くにあった。家屋敷がまるごと津波にもっていかれた被災者である。テレビに映し出された、SF映画のようなあの<巨大アミーバ>が襲ってくる津波の光景が記憶に生々しい。
T氏は、みぞれ交じりの寒空の下で散乱した家財がないか、周囲数百メートルにわたって捜しまわるのは老体の身にこたえる重労働だったと振り返っている。
*写真:塩釜港の対岸突堤−その向こうが松島 -
O氏夫人が、南三陸町にいる −正確には、いた− O氏の友人のことを話した。食堂を経営する息子さん37歳が、3年前に30年ローンで建てた家が流された。あまつさえ、奥さんと一人っ子、さらに新居に呼びよせたご両親(O氏の友人)の全員が津波にさらわれたという。
その息子さんは、しかし、たった一人になってもローン組み換えができないか、仕事が再開できないかと、いま奔走している。人間の<倦まず生きる力>を身近に見る思いがした。
人間は<若さ>があれば、めげずに何でもできるのだろうか。命の若さとはかけがえのないものよ、と頭が下がるばかりである。
*写真:一般道路には消毒剤が散布されている。 -
「津波被災地、塩釜へ」
翌日、一人で塩釜に行ってみた。友人たちに、この目で見た津波被災地の現場写真を約束していたからだが、わたし自身かつて何度か訪ねた懐かしい風景を今一度、記憶のなかから呼び戻してみたかった。 -
じつは、友人A氏の友人(福祉関係)が地震発生2週間後の3月26日に、東京から宮城県の提携老人ホームに支援物資を届けたときの<被災地見聞報告>が手許にある。生々しい塩釜の現地報告である。
「車を降りるなりツンと鼻をつくヘドロの悪臭に思わずドキッとした、ヘドロは場所によっては明らかに何センチも堆積していた」と書いてある。
*写真:波止場は<臨時>ヘドロ集積所 -
あれから一か月半たった同じ塩釜の街かどや港を今、わたしは歩いている。駅が水浸しになったのは仙台近郊では塩釜だけと聞いたが、駅構内では電気復旧作業に余念がなかった。<電源喪失>であろう。
エレベーター、エスカレーターは動かない。トイレも使えない。
「駅構外の簡易トイレでお願いします」と、貼り紙がしてあった。
*写真:本塩釜駅−駅構外の簡易トイレ -
浜側に向かって歩いた。港まで4-5キロほどあるだろうか。主要道路は片付いていて車は通るが、交通量がきわめて少ない。
ヘドロや瓦礫の除去など応急処置のあと、一服しているのか、それ以上のことに手がまわらないのか。たぶん後者ではなかろうか。なにしろあれから、まだ2か月しかたっていない。
*写真:腹を見せる港の漁船 -
小路に入ると無人の民家や店が無残な姿をさらしている。空地が目立つのは家が流されたからだろう。それでも、わずかに小高いところ−といっても明らかに浸水していたが−に市営住宅とおぼしき質素な平屋が何棟かあり、住人の気配がした。
買い物袋をもった中年の婦人が足早に通りすぎていった。心なしか後姿がさみしい。おもわず声をかけたくなるが、そんな雰囲気ではなかった。不便な、つらい生活を強いられているはずである。
*写真:廃屋は無残 -
港の近くに「貞山堀」運河があり、岸に漁船が何艘も船腹を見せて乗り上げている。
「貞山」と号した伊達政宗は、藩の石高を上げるために水利・水運を重視し、貞山堀を宮城野に張りめぐらした。当時、江戸で消費するコメの大半を伊達藩が賄っていたといわれる。いうまでもなく、塩釜や石巻がコメの積出港だった。
運河が港に接するあたりに「貞山堀運河橋梁(可動橋)」があり、「昭和7年、鉄道省建立、数少ない鉄道用の<昇開橋>である」と書いた銘板が貼ってある。これも無残な姿をさらしていた。
*写真:貞山堀運河、岸に乗り上げた漁船 -
一般道路の瓦礫はおおかた片づけられていたが、個人の敷地や、ひどいのは住宅の中にまで闖入した瓦礫や車の残骸が放置されたままである。
*写真:民家に車が闖入 -
港はヘドロや瓦礫の集積場
しかし、港の近くまで来ると道路事情は一変する。路肩からはみ出した瓦礫や車の残骸が目立ち、捨て場のないヘドロを詰めこんだ無数の大型土嚢が雨よけのブルーシートを被せて延々と並び、道をふさいでいる。
*写真:ヘドロと車の残骸−路肩に放置 -
柵を越えて港に入ってみた。震災前は賑わっていたはずの塩釜港はいま無人の港で、自由に出入りできた。人影がほとんどないのだ。
中の機材類が片づけられ、がらん洞になった倉庫はいまやカモメの巣窟(遊び場)と化し、中は糞だらけである。シャッターを構えただけで、警戒心の強いカモメたちは倉庫の外へ飛び立ち、すぐまた戻ってくる。
*写真:倉庫はカモメの巣窟 -
普段は美しい天使のような姿のカモメのジョナサンも、ここまでくると人類の仇敵に見えてしまうのは一体どうしたことだろう。
*写真:カモメのジョナサン -
波止場は格好のヘドロ置き場になっていた。これだけ大量のヘドロを何処へ運ぶのだろうか。
沖合から流れ着いた大量のブイが所在なげに吹き寄せられている。
大型船 −じつはこれも大破していて使い物にならない−の横に何杯もの漁船が腹を見せている。
*写真:流れ着いた沖合のブイ -
「がんばろう!東北」―仙台駅
夕刻、塩釜から仙台に戻った。はじめて我に返ったような気がした。駅舎は天井がすべて崩落したが、すっかり修復されていた。
外壁だけが全面シートで覆われているのは一部剥がれたタイルの張り替え工事らしい。
「がんばろう!東北」のロゴが夕日にまぶしい。
ある九州出身の友人が、すべてを失った被災者たちが穏やかな顔でもの静かに苦境を訴えるテレビ報道を見て、東北人の芯の強さを感じたといっていたのをおもい出す。ぜひ奮起してもらいたいと願う。
*写真:「がんばろう!東北」−仙台駅 -
駅から乗ったバスの運転手さんの明るい声で話すジョークを懐かしく聴いた。ご立派な<仙台なまり>は耳に心地よい。塩釜ですさんだ心を癒してくれた。
シートに女性用のバッグの忘れ物があったので、「忘れ物ですよ、、」といって渡そうとしたら、
「アリガドさん。シミませんが、オチャクさんのほうで中身をチョピッと確認してみてください。<100万円入ってたんダッチャ!>とか、<ダイヤがネッチャ!>なんて持ち主の人にいわれたら、運転手が困ルッチャ〜〜」と。
*写真:仙台の夜景−その夜は満月だった -
仙台に来る前日、生まれ故郷に近い鳥海山麓に行った。小学校6年のときに疎開した母の実家の村がある。湿地帯に楚々と咲く水芭蕉を観賞し心がひろがった。山荘に訪ねてきた従弟と語らい、いっときの<ゆとり時間>を持てたのは有難かった。
*写真:月山の遠景−酒田〜仙台バスより -
災害史は救援の歴史だった
被災地、宮城県を訪ねたこの機会に東日本大震災についてわたしなりに感じたことを書いてみたい。
*写真:路肩に家財放置 -
仙台駅周辺で何組かのボランテイアグループを見かけた。「何かをしたい、手助けができないか、、ともかく行ってみよう、、」と、それぞれの思いを胸に全国から膨大な数のボランテイアたちが駆けつけている。
人間であれば誰しも思うことだが、それを形にして行動に移す、さらにシステムとして支え合うスタイルが定着してきている現実は、目を見張るばかりだ。
*写真:ボランティアの若者−仙台駅前 -
災害史を紐解いてみると、それは救援の歴史でもあったといわれる。
いわく、
・1855年の安政江戸地震では、富裕層による<施行>と呼ばれる多額の義援金が寄せられた。
・1923年(大正12年)の関東大震災では、貨幣換算すれば千数百億円の義援金が全国から集まった。
・16年前の阪神淡路大震災では、過去最大の義援金1800億円だった。
・今回は、これらをはるかに上まわる義援金にくわえ、ボランテイアによる支援活動がある。
これら善意に根ざす救援、支援活動が災害史にはついてまわったようだ。
*写真:塩釜駅−「エレベータは使えません」 -
人間は一人では生きられない
(支え合う共同体) -
<善意>とは何だろう。それは揺るぎないものなのか。
善意なんて心許なく、危うい、脆弱なものだ、という人がいる。そんなものを当てにしないで、人に頼らず自らを鍛え、信念をもってわが道を貫けという。
「人間は一人で生まれ、一人で死んでいく」というではないか、文明は人類の英知と努力の産物なのだ、ともいう。
はたしてそうだろうか? 理想主義者、完全主義者、あるいは持ってまわった偽善者にそういうことをいう人が多い。
ならば問う。「人間は一人で生きられるか」と。否といわざるを得ないのが人間ではないだろうか。なぜだろう?
人間は決して強くはない、弱いものだとわたしは思っている。自然環境にも、状況に対しても一定の適応能力は備えていても、基本的には弱いものと考えて間違いない。生き物=有機体だからだ。
*写真:山小屋群−鳥海山荘から
-
たとえば、O氏の友人の息子さんを例にとってみる。
<倦まず生きる力>は感動的であり、賞賛に値する。しかし、そこには自ずと限界がある。限界を超えさせてはならない。一人だけの命は必ず壊れる。
人間には、ボランテイアではないが支援、救援が必要になってくる局面が必ずあるはずだ。
このことを別の角度から考えてみよう。人間の本質 −<現実>と置き換えてもいいが− から離れた<理想>を説くことの無力、無意味さ、空しさについてである。いわゆる思想、哲学、宗教の類がそうかもしれない。
これらは、<生きねばならない人間>にとって役に立たないばかりか、往々にして有害な<虚構>を築くことによって、目くらましにもなりかねない。 -
人間の本質は、生き物として営々と生き続け、かろうじて今あるという現実の集積のなかにこそある。絵に描いた、あるいは頭で考えた、理想とは無縁のものである。
人間の本質から離れて一人歩きした、旧ソ連邦の共産主義体制が雪崩現象のようにもろくも崩れ去った歴史の事実が好例といっていい。
人間とは、支え合うことによってより強くなれる<社会的>動物であること、でないと<滅びを早める>運命が待っていることを忘れてはならない。
大震災で改めて教えられたわたしなりの教訓である。
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