2011/04/10 - 2011/04/10
931位(同エリア4768件中)
ひがしさん
2005年に世界遺産に登録された「マカオ歴史市街地区」。22の歴史的」建造物と8カ所の広場が含まれていますが、言われないと知らないで通り過ぎてしまうような所も多かったりします。
今日はフト思い立ち駆け足で全個所をまわってみる事にしました。
さてさて、「媽閣廟」からスタートです。
- 旅行の満足度
- 5.0
PR
-
人によって経路が違うと思いますが、私の場合には以下のように歩きました。ご参考まで。
1. 「媽閣廟」2「バラ広場」→3「港務局大楼」→4「リラウ広場」→5「鄭家屋敷」→6「聖ローレンス教会」→7「聖ヨセフ修道院」→8「ドン・ペドロ5世劇場」・9「聖オーガスチン教会」・10「ロバート・ホー・トン図書館」・11「聖オーガスチン広場」→12「民政総署」→13「セナド広場」→14「仁慈堂」→15「三街会館」→16「聖ドミニコ広場」・17「聖ドミニコ教会」→ 18「イエズス会記念広場」19「聖ポール天主堂跡」・20「ナーチャ廟」・21「旧城壁」→22「聖アントニオ教会」・23「カモンエス広場」・24「カーサ庭園」・25「プロテスタント墓地」→26「モンテの砦」→27「盧家屋敷」→28「大堂」・29「大堂広場」→「ギアの要塞」 -
①「媽閣廟(マァコッミュウ)」
② バラ広場(媽閣廟の前の広場も世界遺産の一味らしい)
マカオ観光局HPからエピソードを写させてもらいました。
「その昔、福建省の港から広東に旅立つジャンク船の船団がありました。一人の娘がお金がなく乗船を断られたのを見かねて、ある漁師が自分の船に乗せてやったところ、途中の嵐で他の船はみんな遭難したのに、この船だけは無事にマカオにたどり着きました。漁師がふと見れば娘の姿はそこにはなく、やがて女神の姿となって陸に現れたそうです。漁師は女神が現れた場所にこの媽閣廟を建てたと言い伝えられています。
境内の中庭に置かれた中国帆船の絵は、嵐の中、中国から阿媽を乗せてたどり着いたと伝えられるジャンク船です。」 -
媽祖廟。台湾で出合って以来、興味津々の対象です。長崎なんかにもありましたが日本のものはかなり控えめです。はてさてマカオのものはどんなもの? 興味津々徘徊します。
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
海の向こうに見えるのは中国の珠海です。船で渡れば5分位で着いてしまうくらいの近さです。
-
-
-
さて次なる目標に向けて歩き始めます。
-
-
-
次の目標である ③「港務局大楼」が見えてきました。
-
マカオ観光局HPの解説を確認します。
「1874年、ヨーロッパ列強国が中国の植民地化政策を進めていた時代に、ポルトガルがマカオの治安維持のためインド・ゴアから派遣した、ムーア人兵士の寄宿舎として建てられました。
花崗岩の強固な石組みの基盤にレンガを積み重ね、淡いクリーム色と白を基調とした漆喰壁が美しい大きな建物です。
「ムーア」はもともと西北アフリカのイスラム教徒を指していましたが、その後イスラム教徒全般を意味するようになりました。
ゴアは当時イスラム教圏であり、現地から派遣されたムーア人兵士約200を収容していました。このため、シンプルなネオクラシック様式の中にイスラムの影響が見られるのが特徴で、2階部分、通りに面した幅4メートルの広い回廊(バルコニー)と外壁のアーチはイスラムのモスクを思わせる仕様。ライトアップされた夜の佇まいもとてもムードがあります。
現在もマカオ港務局事務所と海上警察本部として使われています。」 -
-
-
さて次の目的地に向かいます。
-
次は ④「リラウ広場」なのですが、途中の道が狭くなるところで ⑤「鄭家屋敷」が裏から見えます。
-
マカオ観光局HPの解説:
「初期にマカオを訪れたポルトガル人たちは、ペンニャの丘から湧き出る貴重な天然の泉があるこの地を定住地に選んだのでした。」 -
ここって言われなければわからない位の世界遺産です。
私も初めて来た時は気がつかず通り過ぎました。戻ってきて「ええっ??」でした。但し、良く見ると広場の周りの雰囲気が欧州の田舎町のようで意外に雰囲気が良かったりします。
昔々ポルトガルからはるばるやってきた人がここで生活を始めたと思うとホノボノとしてきて最近は割と好きな場所になりました。 -
マカオ観光局HPの解説:
マカオを訪れたポルトガル人にとって第二の故郷となったリラウ広場。ここには「リラウの水を飲んだ者は決してマカオを忘れることはない」という以下の伝説の詩が残っています。
リラウの水を飲みし者。この地を離れがたし。されば、この地を故郷とするや。または、必ずやマカオに戻らん。 -
⑤「鄭家屋敷」の入り口はリラウ広場から路地を少しだけ入った所にあります。
参観は10時からのようで早く来すぎて開いていませんでした。>< -
⑤「鄭家屋敷」は以前撮影した写真をご紹介します。まずはマカオ観光局HP解説をどうぞ。
「中国近代初期の維新派を代表する資産家で、孫文や毛沢東に影響を与えた19世紀の文豪・鄭観應。その父親によって1881年建てられた屋敷跡です。
総面積は約4000平方メートル、港務局から続く通りの媽閣街に沿って東西120メートルの奥行きを持つ堂々たる邸宅。母屋のほか使用人部屋や人力車庫などの長屋が中庭を取り囲む伝統的な中国家屋でありながら、インドや西洋のデザインを取り入れた建築や装飾が特徴です。例えば、外壁はヨーロッパ風の灰色レンガ、インド式の真珠貝の窓枠に中国式の格子窓が取り付けられたりしています。
マカオの中国建築が西洋の内装手法や装飾を取り入れた極めて初期の住居建築物であり、こののちマカオをはじめ、上海、広東、香港でも、アールデコの装飾コンセプトとともに、同様の建築様式が流行していくことになります。」 -
-
-
-
-
-
-
-
これはオマケです。「鄭家屋敷」を出て左に少し行ったところで金紙を燃やしていました。この古めかしい感じの所で普通に生活されているところに感動でした。
-
さて次なる目標に向かいます。途中のお菓子やさんでパチリ。
焦げ目がついたポルトガル式タルトに焦げ目無しの中国式タルト。更に牛乳タルトもありますね。^^ -
さて ⑥「聖ローレンス教会」に到着です。
解説を確認しましょう。 -
「聖アントニオ教会、聖ラザロ教会と同じ時期に建てられたマカオ初期の教会のひとつで、1569年頃にイエズス会によって建立されました。
当初は木造でしたが、1846年、マカオ生まれのポルトガル人ホセ・トーマス・アキノの設計により、幅29メートル奥行き37メートル、石造りで威厳のある現在の規模で再建されました。
当時ヨーロッパで流行っていたネオクラシック様式に、わずかにバロック調の香りを残しています。
周囲にはヤシの木が植えられ、中国製タイルを使った屋根と高さ21メートルの左右対称の鐘楼などが特徴的。教会に一歩足を踏み入れると、その瀟洒なインテリアに息を呑みます。
教会としては珍しいターコイズブルーの天井、左右のステンドグラスから注ぐ光、贅沢なシャンデリア、クリーム色の壁面に赤い絨毯。さすがマカオで最もお洒落な教会と言われるだけあり、カトリック信者に人気の結婚式場にもなっています。」 -
-
450年も歴史があるのですね。
-
次の目的地。⑦「聖ヨセフ修道院」
おっとここも朝10時からのようで門が閉まっています。
さてここは開くまで待ちましょう。 -
解説を確認。
イエズス会アジア布教の宣教師育成所として1728年に造られた修道院が始まりで、1758年に聖堂が併設され現在に至っています。
ユネスコ2001年発行の「バロック建築世界地図」にも掲載される、聖ポール天主堂跡と並ぶ中国バロック建築の代表例。その独特のドーム型の屋根は、かつてマカオ半島のランドマークの一つでした。また音響効果が素晴らしく、マカオ有数のコンサート会場としても知られています。
聖堂の内部に足を踏み入れると、バロック様式の特徴を備えるうねり柱がそびえ立ち、ドームの天井やステンドグラス越しに柔らかい光が祭壇を照らします。
聖堂右手には聖フランシスコ・ザビエルの右上腕骨の一部が安置されており、ガラスケース越しに見ることができます。
一方の修道院には、かつて日本人キリシタン画家の作品など多くの宗教美術品が収蔵されていましたが、そのいくつかは現在、聖ポール天主堂内の天主教芸術博物館で見ることができます。なお、修道院は一般には非公開です。 -
-
-
日本にキリスト教を伝道したフランシスコザビエルの遺骨の一部が飾られてあると聞いていましたが、今回初めて認識しました。
多分これです。 -
次は ⑧ 「ドン・ペドロ5世劇場」
-
マカオ観光局の解説をどうぞ。
「1860年、マカオ在住のポルトガル人による東洋初の男性専用社交クラブ「マカオ・クラブ」が開設した娯楽施設で、中国初のヨーロッパ式劇場(オペラハウス)です。
建物はネオクラシック様式で、正面から見るとイオニア式の円柱が印象的です。座席数は300、記念行事やセレモニーなどポルトガル人社会を象徴する活動場所であり、コンサートやオペラも上演されていました。劇場の名称「ドン・ペドロ5世」は、当時のポルトガル国王にあやかって名付けられました。
1993年に修復され、現在も公共の催事や祝賀会の会場として利用されることがあります。残念ながら通常は入場できませんが、外観からでも当時の優雅な社交の世界をご想像いただけるはずです。」 -
次は対面に建つ⑨「聖オーガスティン教会」です。
-
観光局の解説。
「この教会は、1586年にフィリピンからやってきたスペインの聖オーガスティン修道会が、質素な木造の修道院を建てたことにはじまります。
その後ポルトガル人に引き渡され、現在位置する丘の上に移動し、1591年に付属教会が建てられました。現在の建物は1874年に再建されたものです。大理石造りの中央祭壇のそばには、十字架を背負った受難のキリスト像が祀られています。
この像を毎年一度、男性信者がかついでセナド広場に近い大堂まで移動するのが、マカオで最も有名な宗教行事「パッソス聖体行列」。数世紀も続くマカオの代表行事で、キリスト教会暦の四旬節第1日曜日(2月中旬〜3月初旬)に行われています。
何千人ものカトリック信者が巡行に参加し、教会から大堂まで夜通し練り歩く姿はマカオの早春の風物詩です。」 -
-
次は広場系。⑩「聖オーガスティン広場」
観光局の解説をどうぞ。
「世界遺産の聖オーガスティン教会、ドン・ペドロ5世劇場、聖ヨセフ修道院及び聖堂、ロバート・ホー・トン図書館が立ち並ぶエリアの中心にある"歴史の交差点"。それが聖オーガスティン広場です。
セナド広場と同じく、コントラストのはっきりした模様を描く石畳(カルサーダス)が敷き詰められ、南国らしいガジュマルの木や、可愛らしいレトロな街灯、コロニアルな色彩の建物が広場のまわりに並びます。その光景は、まるでヨーロッパの街の小径に迷い込んだかのような気分にさせてくれます。
広場木陰のベンチで、しばし世界遺産めぐりの休憩をお過ごしください。」 -
-
次は ⑪「ロバート・ホー・トン図書館」です。
観光局解説
「ドン・ペドロ劇場の裏手にある檸檬色の建物で、ポルトガル人ドナ・キャロリーナ・クンハの住居を、香港の大富豪ロバート・ホー・トン卿が1918年に購入して別荘として使っていました。1894年以前の建築とされています。
1955年の彼の死後、建物と収集した明・清時代の書物が遺志によりマカオ政府に寄贈され、1958年に図書館となりました。
内部は一般公開されており、ここで読書にふけるマカオ市民も多くいます。
ちなみに、マカオのカジノ王として有名なスタンレー・ホー氏も、このホー一族の出身です。」 -
まだ開いていませんでした。門の隙間にカメラを入れて正面の建物を作成。
ここはこじんまりとした図書館で、解説にあった通り市民が普通に読書していたりします。
壮大な建造物でもなく、中国5000年の歴史でもなく、さり気無く今を生きています。 -
-
狭くて急な坂道を下るとマカオ世界遺産の中でも一番有名なエリアに出てきます。
まずは ⑫「民政総署」。
観光局の解説。
「セナド広場に面して建つ政府機関で、清掃や文化活動、運転免許や飲食店の営業許可など市民生活に直結した行政事務を行う建物です。
16世紀末、最初に建てられた事務所は中国様式でしたが、1784年にいまの南欧スタイルに再建されました。白を基調にした上品な外観はネオクラシック様式にポルトガルらしさを漂わせています。壁、レイアウト、内装、裏庭に至るまで当時のまま残されており、建物の2階部分には議事室と一般公開している重厚な図書館があります。
この図書館はポルトガルのマフラにあるマフラ宮殿の図書館を模したもので、年季の入った蔵書類や内装の木彫芸術をあしらった内部を見学できますが、利用者がいる場合はお静かに。1階には小さいチャペルと中庭があり、通路や階段などの壁は白地に藍色で模様を描いたポルトガル伝統のタイル「アズレージョ」による装飾が施されています。」 -
中に入ってみましょう。
観光局に解説によると
「民政総署の建物名はポルトガル語で「レアル・セナド(忠誠なる評議会)ビルディング」。ポルトガルが1580年から60年間スペインの支配下にあったときも、マカオがポルトガル国旗を掲げて忠誠を示したことに由来しています。
また、1階のロビー正面の階段の上には「神の名の街マカオ、他に忠誠なるものなき」というプレートが掲げられており、これは1654年にポルトガル王のドン・ジョン4世がマカオを褒め称えた言葉です。」
恐らく写真撮影したところに「神の名の街マカオ、他に忠誠なるものなき」と素敵な言葉が書かれてあると思いますが、暗くて上手く写りませんでしたね。 -
-
-
-
-
-
民政総署を出て横断歩道を渡りセナド広場から振り返ってみました。
-
次は ⑬「セナド広場」です。 広場系は概してショボイですが、ここは別格の風格がありますね。
観光局解説
「古くから街の中心であり、いまもイベントや祝典の開催場所として利用されているマカオを代表する広場。現在はここから聖ポール天主堂跡まで歩行者天国になっていますが、以前はコンクリート敷きでクルマが通り、バス路線が敷かれていました。
1990年代前半にはポルトガル本国から敷石職人を呼び、ポルトガルの石を使って現在のモザイク模様のカルサーダス(石畳)が敷設されました。
中央の噴水が設置されたのは1960年のことで、それ以来、地元住民からは「噴水池」の名前で呼ばれています」 -
次はセナド広場に面した ⑭「仁慈堂」
観光局解説
「セナド広場に面するこの美しい純白の建物は、日本や中国を管轄した初代マカオ司教ドン・ベルキオール・カルネイロが1569年にアジア初の慈善福祉施設として設立したもの。西洋医療を取り入れた病院や、孤児院、養老院も備えていたとされています。
建物は何度も修復された後、1905年、ネオクラシック様式にマヌエル様式を加えた現在の姿に再建されました。現在は建物の正面1階が公証役場となっています。
また建物正面の左手、カルネイロの胸像がある小径に面する入り口から階段で2階に上がると、そこが仁慈堂博物館です。
宗教的芸術品や建物に関する古文書に混じってカルネイロ司祭の頭骸骨と埋葬品の十字架も展示されています」 -
次はセナド広場から路地を少し入った所にある ⑮「三街會館」
観光局解説
「この寺院は、かつての中国市場、現在の聖ドミニコ市場の前に建っています。
本来は商人たちの集まる場所でしたが、地元の中国人コミュニティーにとって重要な宗教的役割も持っていました。前商工会議所なども兼ねていましたが、市場の衰退と共に寺院の果たす役割が大きくなりました。
地味な灰色の壁なので見落としてしまいそうですが、華やかな南欧風の建物の中に今も中国式寺院が残る姿に、マカオにおける2つの文化の共生を見ることができます。」 -
-
-
三街會館の向かいにある市場のレリーフが気になりパチリ。
-
セナド広場からチョロッと入っただけですが、超ローカルな雰囲気満載。
背景に見えるグランドリスボアのお姿は何時見ても悪趣味?ですね。 -
セナド広場に戻り次なる目標に向かいます。
途中にある世界遺産に埋め込まれたような「スタバ」。 -
次は ⑯「聖ドミニコ広場」と ⑰「聖ドミニコ教会」
何だか一気に2つ稼ぐのは反則のような、、、、
観光局解説
「メキシコのアカプルコから来たドミニコ会スペイン人修道士3人によって1587年に建てられた、木造の簡素な礼拝所がその始まり。現在の教会は1828年に再建されたものといわれます。
コロニアル風バロック様式のファサード(正面外壁)は、クリーム色の壁に純白の漆喰で繊細な装飾が施され、マカオのファサードの中で最も美しいと評判です。
高温多湿の気候のため大きく開け放つことができる濃いグリーンの鎧戸が、鮮やかなコントラストをなしています。
祭壇には「バラの聖母像」と呼ばれる聖母マリア像を祀っており、これが中国語で「バラの教会」と呼ばれる所以です。
また教会左側のチャペルには、小さめの聖母像が置かれています。
これはポルトガルのファティマに出現したといわれる聖母伝説の「ファティマの聖母」で、毎年5月13日の日没時、ここからペンニャ教会まで聖母像を送る巡行「ファティマ聖母マリアの行列」が行われています。」 -
-
-
-
次はマカオ世界遺産で一番有名なセントポールに向かいます。
途中の土産物屋に囲まれた狭い通りの混雑は凄いです。この日は時間が早いためか問題無かったですが、前に撮影したラッシュ時間の様子を参考までにご紹介しておきます。 -
ここも一気に2つ。⑱「イエズス会記念広場」と ⑲「聖ポール天主堂跡」
観光局解説
「マカオのシンポルとして圧倒的な存在感を誇るここ聖ポール天主堂跡は、教会の前面だけが残る石造りのファサード(正面壁)とその隣に建てられた聖ポール大学の総称です。
小高い丘にそびえ立つその姿はまさに荘厳で、完成当時は「ローマ以東でもっとも傑出した教会」と言われていたほど。1602年から1640年にかけ聖母教会(聖ポール教会)として建築され、施工には中国人ほか、長崎から幕府の弾圧を逃れて渡ってきた多くの日本人キリスト教徒も携わりました。
設計はイタリア人修道士スピノラで、最初の創建者は日本にも来訪したアレッサンドロ・ヴァリニャーノ司祭でした。「石に刻まれた説教」と言われるように、残されたファサードからは、様々なメッセージが発せられています。
また、天主堂の右手モンテの砦へ進む途中には、1609年に東洋初のキリスト教大学となった「聖ポール学院」があり、中国明朝の北京に渡り天文学者や数学者を努めたマッテオ・リッチを代表とする宣教師たちを輩出したほか、後に日本人キリシタンのための専用修道院(セミナリオ)が開講されました。当時の聖母教会、聖ポール大学、モンテの砦もすべてイエズス会による建築物であり、マカオの「アクロポリス」のような存在だったと考えられています。
1762年のイエズス会の追放後、大学は兵舎へと変わり、1835年の火事で校舎と天主堂の本体が焼け落ちて現在のファサードのみの姿となりました。周辺一体は1990年から1995年に復元工事が行われ、ファサード裏手の地下には天主教芸術博物館と納骨堂が設置されました。
博物館には当時使用された燭台や聖杯のほか、火災で唯一焼け残った「聖ミカエル像」など貴重な宗教画も展示されています。一方、納骨堂には日本人やベトナム人殉教者の聖骨も納められています。 -
-
-
観光局解説
「ファサード中央の聖母マリア像を取り囲む彫刻をよく見ると、日本の菊の花が型取られていることが分かります。
天主堂が完成した時期は日本では1637年の島原の乱(天草四郎の乱)とも重なり、祖国を追われ教会建設に加わった日本人キリシタン難民の望郷の念が偲ばれます。」 -
裏から見るとこんな感じです。
横から登れるようになってます。 -
ペラペラの壁に登ってみました。
セントポールとグランドリスボア。マカオの新旧のシンボルの競演です。 -
セントポールの横にもコソッと2つの世界遺産があります。
-
⑳「ナーチャ廟」
観光局解説
「1888年に建立された神童ナーチャを祀る小さな中国式寺院。
当時、この地域で疫病が蔓延した際、その厄払いにこの廟が建てられました。
ナーチャは西遊記にも登場するやんちゃな男の子の神様。
子どもながら武芸の達人、霊感退治で中国では人気があります。
間口は5メートル程度と小さく、奥に子供の姿のナーチャが鎮座しているのが見えます。
聖ポール天主堂跡と並んで建つこのささやかな廟は、東洋と西洋が共存するマカオを象徴するという理由から世界遺産に登録されました。」
ちょっと無理やりの感がありますね、、、、 -
観光局解説
「ナーチャは母親のお腹に3年半もおり、その間に道教の僧から特別な力を与えられたそうです。
当時、猛威を振るった大厄病を止めるためにナーチャを祀ったと言われています」
赤ちゃんに3年半も居座られたお母さんは大変だったでしょうね。 -
ええっ、これも? 21「旧城壁」です。
観光局解説
「1569年、ポルトガル人の居留が始まった頃に造られた古い城壁。
ポルトガル人は自分達の生活圏を守るために周囲に城壁を築く習慣があり、アフリカやインドなどの植民地でもそれを実践してきました。
マカオでは土砂、ワラ、牡蠣の貝殻を混ぜ、木製の枠に流し込んで押し固めた「シュウナンボー」という材料を使い、これを何層にも重ねて城壁が作られました。
様式は西洋風なのに材料と手法は東洋的。まさに東西文化の融合で生まれた城壁です。
なお、シュウナンボーは時間が経つにつれ強固になり、大砲の弾を弾き返すのではなく呑み込むようにとどめ、かえって石造りの城壁よりも防御に適していたと言われています。」 -
-
今までは大体が順路にあったのですが、次の4つの集まるエリアは上手くつながりません。セントポールの裏から出て往復しました。
庶民的なアパートをすり抜けて出たところが 22「聖アントニオ教会」です。
観光局解説
「かつては竹と木で造られていたマカオで最も古い教会の一つで、1565年に3人のイエズス会修道士がここを本拠に定めたことから、マカオでのキリスト教布教の発祥の地とされています。のちに木造教会と司祭館が建てられ、中国人子女への初等教育も行われました。
その後、建物は2度の火災に遭いましたが、1930年の再建でネオ・クラシック様式の石造りとなり、さらに1959年に床と祭壇が改修され現在に至っています。
また、教会の前庭には古い十字架が鎮座しており、マカオで最も古い歴史を持つ3つの教会の一つであることを今に伝えています。
十字架にはユダヤの王を意味する「INRI」の文字が、そして台座には1638年に建立された教会の十字架であることが刻印されています。石の質感が伝わる外壁は落ち着きがあり、中に入ると白壁に薄ベージュの天井、精巧な装飾が施された静寂の空間が広がります。
正面祭壇には受難のキリスト像が、その上部にはイエズス会の紋章が掲げられています。」 -
次は 23「カモンエス広場」です。
実は今回は写真撮影を忘れたので前回撮影した写真をアップしておきます。
それほどさり気無く通り過ぎてしまうものです。いやはや「広場系」には参りました。^^ -
-
次は 24「カーサ庭園」
観光局解説
「カモンエス公園とプロテスタント墓地の間に位置するこのカーザ庭園は、公園と墓地を含むこの一帯の大地主だったポルトガルの豪商マヌエル・ペレイラが1770年に建てた邸宅跡。木造ネオクラシック様式の邸宅の庭には、大きな池や熱帯の木々が生い茂り、コロニアルな雰囲気が漂います。
19世紀初頭、マカオは西洋人が居留することを許された中国で唯一の場所。当時国力が強かった英国東インド会社はここを借り上げ、中国との取り引きの本部として使っていました。名前の由来は、英国東インド会社の役人にちなんだものと言われています。
1840年のアヘン戦争後、貿易の中心は香港に移り、この邸宅は博物館として利用されていました。
現在は東方基金會という財団の事務所となっており、正面の石段を上がった2階には、同會が集めた大航海時代の陶磁器やアジア系アーティストの絵画を展示するギャラリー(無料)になっています。なお、ギャラリーは週末・祝日は休館です。」 -
-
次は 25「プロテスタント墓地」
観光局解説
「カトリック施設が中心のマカオにおいて、英国東インド会社が1821年に建てられたマカオで初めてのプロテスタント墓地。
イギリスやアメリカの宣教師、貿易商人など約150人が眠っています。
カーサ庭園に隣接し、墓地入口の教会は英中辞典を編纂、聖書の中国語訳を行ったイギリスのプロテスタント伝道師ロバート・モリソンを記念した「モリソン礼拝堂」があります。実は、この墓地の開設を東インド会社に働きかけたのがモリソンでした。
カトリック教会と比較して質素な白い外壁、キリストや聖人の像がない祭壇正面には漢字が書かれた珍しいデザインのステンドグラスを見ることができます。
墓地にはロバート・モリソンや、マカオを描いたイギリス人画家ジョージ・チナリー(1774〜1852)、イギリス宰相ウィンストン・チャーチルの祖先J.S.チャーチル卿など著名人も眠っています。」 -
私にとっては「キリスト教」と認識するだけで、「カトリック」も「プロテスタント」も区別ありませんでしたので新鮮でした。
-
ここは昔はポルトガルの植民地であったはずですが、確かに墓標を見てみるとポルトガル人ではなく、アメリカ人やイギリス人のものでした。これがプロテスタントたる所以なんですね。
-
ふと目についた墓標。
1857年にマカオで31歳にして亡くなったアメリカ人のものです。
何でも1854年に日本初の「電信システム」を立ち上げるのに尽力した人のようです。 -
-
赤ちゃんの墓標の年齢は日にちまで記載されていました。
8カ月と2日間。
時は1813年ですが、ご両親の無念さが表れている様な気がしました。 -
次は一旦セントポールに戻り 26「モンテの砦」に向かいます。
モンテの砦は博物館のエスカレーターを利用しながら登ると楽に到達出来ます。
博物館で見かけた大砲。大砲の端の蓋には何と可愛い犬が付いていました。 -
マカオ式ポルトガル料理なのでしょうか。 -
私は昔の写真を見るのが大好きです。
マカオの海岸部は埋め立てで激変しているでしょうけれど山の部分はあまり変化が無いかも知れません。
但し、マカオの山は小高い丘程度ですから麓に建つニョキニョキ建つ高層ビルで綺麗に山の輪郭が見えないのは残念です。 -
博物館を見て外に出れば、そこが「モンテの砦」です。
-
観光局解説
「1617年から1626年にかけてイエズス会との協力で築かれたマカオ最強の防御施設。砦には大砲、軍部宿舎、井戸のほか、2年間の攻撃に耐えうるよう兵器工場や貯蔵庫もありました。1623年にはイエズス会からマカオ総督の手に渡り、18世紀中ごろまで総督官邸として使われました。
要塞は以来、1960年代の中ごろのポルトガル軍撤退まで軍事施設と利用され、一般市民は立ち入り禁止でした。撤退後、気象台が置かれ、98年には大規模な補修作業を経て、マカオの歴史、生活、文化を転じするマカオ博物館が建設されました。
砦は台形で海抜53メートルの丘の上にあり、街を一望できる憩いの場として市民に親しまれています。小高い丘ですが、マカオ博物館入り口にエスカレーターが整備されているので楽にアクセスできます。」 -
-
このまま大砲をぶっ放せばグランドリスボアに当るかもね。 -
セントポールの方向を見下ろすと壁がペラペラなのが良くわかりますね。
海の向こうの山やビルは中国の珠海です。 -
今日は完全制覇が目的ですから再びセナド広場の方向に戻ります。
世界遺産ではありませんが途中で見かけた廟。
この廟の前を通る時は私の脳裏には何時でも「女(おんな)」「禍(わざわい)」の二文字がチラつき一瞬緊張します。 -
次の世界遺産は 27「廬家屋敷」
これまたさり気無さ過ぎて気がつかず通り過ぎてしまうことも多いです。「屋敷系」では、先の「鄭さんの家」に比べると規模も小さいです。
観光局解説
「1889年に建てられたこの邸宅は、マカオにいくつもの大きな建物を所有していた中国広東省生まれの貿易商・廬華詔の屋敷。灰色レンガを使い2階建てで中庭がある伝統的な中国式住居ですが、様式や建築技術は東洋と西洋の両方が贅沢に取り入れられており、建造物としての価値と芸術性の高さから保護・保全の対象となりました。
例えば、渦巻き模様の透かし彫りと欄間、ガラスの代わりにカキの貝殻を利用して作った窓などは中国広東省の建物の典型ですが、ステンドグラスがはめ込まれた窓や白く塗られた天井は西洋建築の佇まいです。
また、外壁の青レンガは時間をかけて磨かれたもので、その滑らかさに職人の最高技術が伺えます。「クリスチャン・シティー」中心部であるセナド広場と路をはさんで建っており、マカオにおける文化共存の具体例として数えられます。」 -
-
通り抜けると次の目的地です。
-
次は 28「大堂(カテドラル)」です。
観光局解説
「セナド広場近くにある大きな教会。
日本・中国や近隣諸国を含むマカオ司教区が開かれた1576年頃、その活動の中枢としてこの地に初めて教会が建てられました。
当時はタイパという土とワラでできたレンガで築かれ、幾度となく修復・再建が繰り返されました。現在の重厚な石造りの建物は1937年のものです。
上海製の漆喰を使い、ファサード(正面)はヨーロッパの大聖堂のように両側に鐘楼がそびえ立っています。また壁の一部を張り出して作ったピラスターという柱も特徴的です。
内部は清楚な白壁で、正面奥と両脇のステンドグラスも美しく目を引きます。」 -
観光局解説
「徳川幕府の時代に殉教した長崎の日本人キリシタンの遺骨が、かつて聖ポール天主堂からここに移されて安置されていたこともあるそうです。
なお、司教館には聖ポール天主堂の博物館に展示されている「長崎26聖人殉教図」のオリジナルが保管されるなど、日本人キリシタン迫害の歴史と関係の深い場所です。」 -
-
大堂近くの広場。これも世界遺産だったりします。
題して 29「大堂広場」(そのままやんか) -
-
はてさて世界遺産は残り1つとなりました。
但し、ここまでどうにかこうにか続いていた世界遺産も、ついにここで途切れて少し離れた丘の上に移動しなくてはいけません。とは言え狭いマカオの事ですから十分射程距離内です。
とぼとぼ歩いて「ミリタリークラブ」まで来ました。これから山登りですが、丁度昼だったので休憩を兼ねて昼食としました。 -
-
-
ここはポルトガル料理のレストランです。
昼なのでビッフェにしました。冷たいポルトガルビールが心地よいです。 -
-
-
デザートもシッカリ頂きました。
これが本場の味なのか、甘さといい香料といい見かけ以上に強烈で驚かされました。
料金は166パタカなので2000円弱でしょうか。店の雰囲気の割りに安いのですね。ここ。 -
再び歩き始めました。
なんだか良い感じの古い屋敷がありました。
廃墟のようですが昔はどんな人が住んでいたのでしょうか。 -
おっ 30 「ギアの要塞」が見えてきました。 -
-
観光局解説
「1622年から1638年にかけて築かれた、マカオで一番高い場所(海抜92メートル)にある要塞。頂上にはギア教会とギア灯台が建っています。
ギア教会は要塞建設中の1626年頃、聖クレア修道院を建設する前にギアの丘に居住していたクラリスト修道女たちによって建立された聖母礼拝堂です。
1996年の補修工事の際に、礼拝堂内部の天井と壁から約300年前と見られる見事なフレスコ画が見つかりました。宗教や神話をテーマにしたものですが、西洋的な画風の中に東洋的な図柄やタッチが見られ、ここにもマカオ特有の東西文化の融合が感じ取れます。教会内は見学可能です。
一方、礼拝堂のすぐ右にあるギア灯台は、1865年に中国沿岸初の近代的灯台として建てられました。灯台はマカオの地理座標点であり、マカオの位置を示す北緯22度11分52秒、東経113度32分47秒はここが基準となっています。
名実ともにマカオのランドマークと言えるでしょう」 -
ここに来る時は、かなりの確率でウエディングドレス来た花嫁の撮影会に出くわすような気がします。
この日も二組いました。 -
-
-
-
香港行きの高速船が見えていますね。
-
全世界遺産を踏破しました。朝の9時に出て13時30分頃でしたから4時間半程度かかった計算です。
今後全制覇に挑戦される人がいるなら、私のように早く出るのではなく、施設の開館時間を考慮して出発は朝の10時以降が良いでしょう。ご参考まで。
ここからは、前から気になっていた「ケーブルカー」の表示に向かって歩いてみました。灯台の所から直ぐかと思いましたが、少し離れていました。
人気がしないので本当にあるのかと不安な気持ちで歩きましたが、本当にあってホッとしました。 -
この旅行記のタグ
利用規約に違反している投稿は、報告する事ができます。
コメントを投稿する前に
十分に確認の上、ご投稿ください。 コメントの内容は攻撃的ではなく、相手の気持ちに寄り添ったものになっていますか?
サイト共通ガイドライン(利用上のお願い)報道機関・マスメディアの方へ 画像提供などに関するお問い合わせは、専用のお問い合わせフォームからお願いいたします。
マカオ(マカオ) の旅行記
旅の計画・記録
マイルに交換できるフォートラベルポイントが貯まる
フォートラベルポイントって?
2
137