2010/11/06 - 2010/11/06
1362位(同エリア1510件中)
カピさん
戦国時代大内氏の重臣の内藤氏の居城として築城。勝山の麓にあり廻りを山に囲まれ、天然の要塞となり、厳島の戦いの後、大内義長は勝山城に籠城して毛利氏と戦う。しかし、敗戦、義長は勝山城近くの功山寺にて切腹。その後、時代は流れ、幕末の1863年、長州藩の藩邸は関門海峡の近くに建てられていたが、長州藩は折からの攘夷戦により、関門海峡を通る外国船を砲撃し、ついにフランス軍艦に反撃に出られ、砲台のあったエリアは占領され被害を被るということになった。そこで、防衛上藩邸を危険な海沿いから、勝山の麓へ移転させることにし、急遽7ヶ月という短期間で新しい藩邸をこの地に建てたという。南から北にかけて、二の丸、三の丸、二部構造の藩主の住む本丸という構造となっており、近年の発掘調査により埋没していた二の丸、三の丸の城塁が発見され、現在は、良好に残っている本丸の石垣を中心にこざっぱりと公園として整備されている。
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この山の麓に勝山御殿があります。
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案内板より、本丸表と裏の見取り図。
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本丸表御殿址。裏御殿につづく渡り廊下で繋がる平屋造りだったそうで、表御殿には藩主の御寝間、御座の間、大書院、御茶堂、玄関等、藩の仕事を取り扱える場所となっていたそうです。その他、医師、煮方、衣類方等使用人の住む部屋があったそうです。部屋数は60にも及んだそうです。
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案内板より、本丸御殿跡。
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案内板がところどころにあります。
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本丸表から裏に続く池には氷河期の植物で、温暖化により絶滅の危機にあるミツガシワが生息するそうです。
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案内版より。本丸の空中写真。
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案内板より、本丸表門址。
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案内板より、移築された本丸表門(今は太平町の了圓寺山門)。
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案内板より本丸玄関跡。
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案内板より、玄関は下関市長府の覚苑寺に移築されたそうです。
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本丸奥御殿の裏。奥御殿には藩主の奥さんや家族が住んでいたそうです。
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案内板より本丸奥の溝跡。
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案内板より、本丸多門櫓跡。
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現在は公園となっています。
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本丸表の北西から城壁をみる。
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立派な石垣です。
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二の丸
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二の丸
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三の丸方面から二の丸をのぞむ。
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案内板より、勝山御殿の周辺図。山と、海側は、砲台で、防衛対策をたてていたそうです。
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内容の濃い案内板です。
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この横の道を通って、使用人達は御殿に入っていっていたのでしょうか?
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