2010/10/09 - 2010/10/09
341位(同エリア1784件中)
みにくまさん
大阪城にある重要文化財の、千貫櫓・多聞櫓・金蔵が、この週末3日間限定で特別公開されます。
滅多に見られない貴重な機会なので、天気は悪かったのですが行ってきました。
◎ 重要文化財 千貫櫓・多聞櫓・金蔵の特別公開
実施日時 2010年10月9日〜11日
10:00〜17:00
入場料金 単券 200円(千貫櫓・多聞櫓・金蔵3棟分) 販売は16:00まで
セット券 700円(3棟+大阪城天守入場料) 販売は15:30まで
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重要文化財 千貫櫓・多聞櫓・金蔵の特別公開
今日は朝からずっと雨。
とはいっても土曜日なので、どこかに出かけたいと思いいろいろ候補があったのですが、屋内で見られる大阪城の特別拝観が手ごろかなと思ってやってきました。
が、けっこう強い雨だったので、服やらかばんやらがずぶ濡れに(^_^;) -
重要文化財 千貫櫓・多聞櫓・金蔵の特別公開
この道は普段は通り抜けできなくなっているので、あまり歩くことは無いです。
こういう機会でもなければ、こんなところに櫓の入口があるなんて、ちょっと分からないです。 -
大手口多聞櫓 重要文化財
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大手口多聞櫓 重要文化財
多聞櫓前の壁。
こちらは、戦前の軍事遺産でしょうか。 -
大手口多聞櫓 重要文化財
◎ 大手口多聞櫓の歴史1
寛永5年(1628)徳川幕府による大坂城再築工事によって建造されましたが、天明3年(1783)に落雷のため焼失。その後しばらく石垣だけの状態が続き、幕末に行われた大坂城総修復工事によって嘉永元年(1848)に再建されました。再建にあたって幕府は、大坂・堺・兵庫・西宮のおもだった町人に多額の御用金を課しています。
幕末の動乱の中、大坂城を拠点とした14代将軍家茂や、15代将軍慶喜もここを通って本丸へと向かいました。特に家茂はしばしな城内諸施設の巡視を行い、この多聞櫓や千貫櫓の中にも足を踏み入れています。 -
大手口多聞櫓 重要文化財
◎ 大手口多聞櫓の歴史2
明治維新の大火や第二次世界大戦の空襲にも奇蹟的に焼失を免れたこの多聞櫓は、高さが14.7メートルあり、各地に現存する同種の櫓の中で最大の規模を誇っています。
なお、豊臣時代の大坂城にも、この付近に大手口がありましたが、そこに多聞櫓があったかどうかは分かっていません。 -
大手口多聞櫓 重要文化財
◎ 三脚使用OK
重要文化財だと、写真撮影が制限されるケースも多いですが、今回は写真撮影OKです。フラッシュの使用もOK、おまけに三脚使用もOKでした。
昔の建造物なので、照明が暗く撮影が難しそうだと思って、三脚を準備してきてよかったです。
拝観者が雨のせいかそれほど多くなかったのも幸いし、三脚を大きく広げても他の方の邪魔をすることなく、快適に撮影できました。 -
大手口多聞櫓 重要文化財
◎ かがり火風照明
櫓内は非常に暗いので、写真のような照明が準備されていました。
昔のかがり火をイメージしてあって、ちょっと雰囲気が出ているかも。 -
大手口多聞櫓 重要文化財
◎ かがり火風照明 -
大手口多聞櫓 重要文化財
◎ かがり火風照明 -
大手口多聞櫓 重要文化財
◎ かがり火風照明 -
大手口多聞櫓 重要文化財
◎ 武者溜
この部屋は、いざ戦いという時に兵士たちが籠城して寝泊まりするために造られたもの。多聞櫓は大手門を防衛する兵士が詰めた。
渡櫓のほうから16畳・20畳・12畳・16畳・12畳・12畳と合計6室があり、この部屋は12畳の大きさ。
姫路城の女房衆の長局と構造はよく似ているが、こちらは軍事的な実用性が高い。
床にくらべると敷居が高いが、畳が入れられていたかは定かではない。 -
大手口多聞櫓 重要文化財
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大手口多聞櫓 重要文化財
記念撮影
窓際にみにくま君が座っています。 -
大手口多聞櫓 重要文化財
後ろを振り返ると。
左手に武者溜、右手からは大手口を下に見ることができます。 -
大手口多聞櫓 重要文化財
天井
こういう写真は三脚が無いと撮るのが非常に難しい。
スピードライト(フラッシュ)も使用していますが、元々の色合いを壊さない程度に、出力を弱めバウンスさせるなどしています。 -
大手口多聞櫓 重要文化財
天井 -
大手口多聞櫓 重要文化財
ここからは資料などの展示がされていました。 -
大手口多聞櫓 重要文化財
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大手口多聞櫓 重要文化財
歴史を感じさせる天井の柱と梁。 -
大手口多聞櫓 重要文化財
本来、「多聞」とは石垣の上に作られた長屋のことで、石垣と塀をそろえた城壁としての機能と、兵士が詰めたり武器を納めたりすることのできる蔵・櫓としての機能と両方を兼ね備えていました。
江戸時代の絵図を見ると、大手口枡形だけでなく、京橋口枡形・玉造口枡形・桜門枡形・山里丸枡形にも「多聞」とあることから、大坂城にはたくさんの多聞櫓があったことになります。
また、本丸を囲む石垣城の塀も実際は長屋になっていて、これも「多聞」と呼ばれていました。 -
大手口多聞櫓 重要文化財
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大手口多聞櫓 重要文化財
多宝塔の部品? -
大手口多聞櫓 重要文化財
◎ 槍落とし
千莟櫓の石落としと同じ機能の装置で、侵入しようとする敵に真上から槍や石などを浴びせた。
この多聞渡櫓の槍落としは、大門(櫓門)の真上に設けられ、大手門を破り枡形まで侵入し、まさに大門を突破しようとする敵に対するもの。下からは気付かれにくい構造になっている。
分厚い板に防火のためのしっくいで塗り固められている。 -
大手口多聞櫓 重要文化財
◎ 槍落とし -
大手口多聞櫓 重要文化財
◎ 櫓解体修復遺品
千貫櫓:江戸初期(1620)の建物で、昭和36年修復完了
多聞櫓:幕末(1848)の建物で、昭和44年修復完了
一番櫓:寛文8年(1668)大改造、昭和40年解体修理
千莟櫓・多聞櫓の公開に際し、各櫓の解体修復時の古材・遺品を公開するものです。 -
大手口多聞櫓 重要文化財
◎ 櫓解体修復遺品 多聞櫓鯱瓦(幕末改修時のもの) -
大手口多聞櫓 重要文化財
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大手口多聞櫓 重要文化財
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千貫櫓 重要文化財
◎ 現在の千貫櫓はいつ作られたか
昭和34年(1959)4月より36年9月にかけて行われた解体修理の時、土台付近の木材に墨で「御はしら立/元和6年/9月13日」と書かれていることが分かり、棟上げ式の日が元和6年(1620)9月13日だったことが判明しました。この年代は、徳川幕府による大坂城再築工事の第1期工事の最中にあたります。
大坂城再築工事は大坂夏の陣で大坂城が落城してから5年後の元和5年(1619)から始められました。前年に大坂城を幕府直轄地とした当時の将軍徳川秀忠は、来るべき大坂築城工事にともなう石垣築造への動員を西国・北国諸大名に命じ、翌元和6年3月1日に石垣築造が始められています。
櫓や塀などの建造物工事は石垣や堀の築造が進んでいた7月以降で、この時、茶人としても有名な小堀遠州が奉行に命じられています。 -
千貫櫓 重要文化財
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千貫櫓 重要文化財
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千貫櫓 重要文化財
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千貫櫓 重要文化財
◎ 千貫櫓の歴史1
千貫櫓の歴史は、豊臣時代、さらにそれ以前の大坂(石山)本願寺の時代にまでさかのぼります。
本願寺と織田信長との間で戦われた石山合戦の時、この櫓を攻めあぐねていた信長軍が、「千貫文の賞金を出してでも奪いたい櫓だ」と語りあったと「武功雑記」という江戸時代の戦記は伝えています。「千貫櫓」の名称はこれに由来すると言われます。 -
千貫櫓 重要文化財
◎ 千貫櫓の歴史2
天正8年(1580)本願寺を下した信長は、のちの大坂城本丸にあたるところを重臣の丹羽長秀に預け、千貫櫓を一族の織田信澄に預けました。
2年後、本能寺の変が起こって信長が明智光秀によって殺害されると、丹羽長秀は、光秀への加担が疑われた織田信澄を攻めるべく千貫櫓に鉄砲を撃ちかけています。
このことは、秀吉築城以前の千貫櫓が、一人の武将の拠点となる規模と重要性を持っていたことを示しています。
その翌年となる天正11年、秀吉は大坂を手に入れ、大坂城築城を開始しますが、この時も千貫櫓は築かれ、秀吉がここから馬揃を見たというエピソードが伝わっています(常山紀談)。 -
千貫櫓 重要文化財
◎ 石落とし
堀を渡り石垣をよじ登ってくる敵に対して真上から石などを落として侵入を防ぐ装置。
天守閣や全ての隅櫓の石垣に面したところに、石垣上から迫り出して作られている。この千貫櫓では大手門と西北堀に向かって設置されている。
また、石落としの上の側壁には内側から押し開ける蓋のついた隠し銃眼が備えられている。 -
千貫櫓 重要文化財
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千貫櫓 重要文化財
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千貫櫓 重要文化財
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千貫櫓 重要文化財
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千貫櫓 重要文化財
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イチオシ
大手口多聞櫓 重要文化財
★ トップ写真 ★
いくつか撮ったこの方向の写真の内、一番ローアングルのこちらの写真が最も雰囲気が出ていると思いました。 -
金蔵(きんぞう) 重要文化財
◎ 金蔵とは
金蔵は本丸内部、現在の大阪市水道局配水池の南側に建つ徳川大坂城の古建造物で、江戸時代、幕府の金銀(御用金)保管庫の役割を果たしていました。「きんぞう」あるいは「かねぐら」「かなぐら」といろいろな読み方をしますが、江戸時代には通常「後金蔵=ごきんぞう」と呼ばれていました。
江戸幕府の金蔵は江戸城と大坂城に置かれ、二条城・駿府城や甲府にも小規模なものがありましたが、現存するのはこれ1棟のみです。
諸大名の城郭を含めてもこの金蔵は唯一の遺構となっています。 -
金蔵(きんぞう) 重要文化財
◎ 金蔵の歴史1
豊臣家が滅亡した大坂夏の陣後、徳川幕府は元和5年(1619)に大坂城を直接の管理下に置き、翌年から城の全面的な再築工事を行いました。
金蔵ができたのは3代将軍徳川家光の時代、大坂城本丸の築造が進められ、初代の大坂金奉行が任命された寛永2年(1625)か、その翌年ごろと考えられます。
ちなみに現在大阪城内に残る古建造物はすべてこの徳川再築後のもので、豊臣時代の遺構は石垣を含めて地上には(地下に石垣が見られる場所があります)全く残されていません。 -
金蔵(きんぞう) 重要文化財
◎ 金蔵の歴史2
現在の金蔵は、「大坂御城代公用人諸事留書」の記述により、寛延4年(1751)に新たに築かれたものであることが明らかになりました。
築造にあたっては、「御本丸御金蔵脇御多門御金蔵取立候」とあることから、その場所にあった多聞を転用・改造したものと考えられます。
この金蔵はのちに「新御金蔵」と呼ばれ、当初の金蔵を「元御金蔵」と呼んで区別しました。
なお「新御金蔵」は天保8年(1837)に大規模な改築が行われていたことが、解体修理時に発見された墨書や、当時大坂城警備にたずさわった大名の記録でも分かっています。 -
金蔵(きんぞう) 重要文化財
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金蔵(きんぞう) 重要文化財
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金蔵(きんぞう) 重要文化財
◎ 頑丈な構造
東西の柱間は3間(5.91m)、南北の柱間は8間(15.76m)で、総面積は93.11?です。
屋根の形状は寄棟で本瓦葺、壁は上部を白漆喰で塗り固め、下部をなまこ壁としています。なまこ壁とは四角の平瓦を並べて打ち付け、その間を漆喰でかまぼこ形に盛り上げて塗ったものです。
北側にある入口は戸を三重とし、下の換気口や窓には鉄格子がはめこまれ、また床に石を敷き詰めるなど、防火や防犯、さらには防湿にまで配慮した非常に頑丈で厳重なつくりとなっています。
大坂城の金蔵には、金・銀・銭とさまざまな種類の貨幣が納められていて、元禄15年(1702)末にはいっていた貨幣の重さを計算すると、およそ22トンになります。
現在の金蔵(新御金蔵)はその後に造られたものですが、少なくともこれだけの重量には耐えられる構造といえるでしょう。 -
金蔵(きんぞう) 重要文化財
◎ 千両箱(レプリカ) -
金蔵(きんぞう) 重要文化財
◎ 金蔵にはどれだけのお金が納められたか
元和16年(1703)の記録によると、前年末の段階で、
大判 48枚
金 13万7488両3分3朱
銀 4436貫432匁1分5厘7毛
銭 754貫894文
のお金が納められていました。
当時は現在と違って金・銀・銭がそれぞれ独自の体系をもっていたため、金1両=銀60匁=銭4貫文の公定相場によって金に換算し、さらに金1両=約24万円として現在のおよその額を算出すると、元和15年末で残額508億9000万円となります。
その後の出し入れによる増減はあるものの、だいたい常に500〜800億円くらいのお金が納まっていたといっていいでしょう。 -
金蔵(きんぞう) 重要文化財
床板が外され、その下の構造を見ることができるようになっていました。
これを見ると、地下からの侵入を防ぐために、石が敷き詰められているのが分かります。 -
金蔵(きんぞう) 重要文化財
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金蔵(きんぞう) 重要文化財
◎ 千両箱
大阪城の金蔵には、たくさんの貨幣が千両箱に詰められ、納められていました。本来千両箱とは、その名の通り1両小判1000枚を入れるものですが、2000両・10000両入りの大型のものや、500両入りの小型のもの、また銀を入れる「銀箱」なども「千両箱」と呼ばれました。
葵の御紋の入った千両箱は、大坂城の金蔵に入っていたものと同型と考えられます。重さは約4.4kgで、金1000両を詰めると22キロぐらいになります。金蔵に入っていた当時のお金の量から計算すると、ここには1000箱以上の千両箱が入っていました。 -
金蔵(きんぞう) 重要文化財
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金蔵(きんぞう) 重要文化財
慶長大判などの貨幣の展示。
これらは全てレプリカです。 -
金蔵(きんぞう) 重要文化財
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金蔵(きんぞう) 重要文化財
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金蔵(きんぞう) 重要文化財
外壁 -
金蔵(きんぞう) 重要文化財
重厚な扉 -
売店「錦秀」
天守の前にあるお土産屋とレストランがくっついた建物で、食事をしました。
注文したのは、名物「太閤うどん」で、器がけっこう大きいです。 -
売店「錦秀」
太閤うどん 1050円
海老・わかめ・椎茸・出汁巻き・かまぼこに加え、鳥肉のチャーシュー(?)が入っていました。
味はまぁまぁ。お腹が空いていたので一気に食べてしまいましたが、観光地価格・味だと思った方が良いでしょう。
海老天が2尾入っていましたが、身と衣がすぐに離れてしまいます。調理法にやや問題ありかな。 -
イチオシ
トイレ(城壁ビュー)
お土産屋さんの奥にあったトイレですが、私は初めて利用しました。
こんな凄いトイレは初めてです。
目の前が城壁なんですよー!
しかも、こんな立派な石が使ってある部分。
今日一番感激しました(^O^) -
トイレ(城壁ビュー)
大阪城へ行った時は、是非ご利用(見学だけでも)下さい。 -
大阪城天守 特別展
◎ 秀吉への挑戦
平成22年10月9日〜11月14日
時間 9:00〜17:00
場所 大阪城天守3〜4階展示室
入城料 600円
今回は、重要文化財とのセット券を購入していたので、天守にも登ってきました。
3〜4階の特別展も見てきましたが、写真撮影は禁止なので、一枚もありません。 -
大阪城天守より
ここはいつも来ているところなので、今回はちょっとだけ。
写真は、現在西の丸庭園に作られた「大阪平成中村座」の特設会場。
詳しくは↓
http://www.ktv.co.jp/nakamuraza/index.html -
大阪城天守より
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大阪城天守より
鯱鉾と大阪市立博物館(旧陸軍第四師団司令部庁舎) -
大阪城天守より
鯱鉾の超アップ(あまり意味無し) -
大阪城
紅葉?
何の木だろう、葉が真っ赤に染まっていました。 -
大阪城公園内にあったベンチ
ちょっと大阪城内とは思えない絵じゃないですか?
水溜りへの写り込みがポイント。
最近はいい被写体を見つけると、嬉しくてカシャカシャ写真を撮ってしまいます。
◎ おしまい
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この旅行記へのコメント (2)
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- 潮来メジロさん 2010/10/13 00:34:00
- かわいい大阪のスズメちゃん・・・。ヾ(^o^)
- みにくまさん、こんばんは! ヾ(^o^)
毎度、訪問ありがとうございました。
> 金蔵(きんぞう) 重要文化財
このスズメちゃんも、金蔵の千両箱に見とれているのでしょうか。
さすが、大阪のスズメちゃん。目の付け所が違いますね。
でも、レプリカって事に気づいていないでしょうね。(^_^;
かわいい大阪スズメちゃんに、一票・・・。(^o^)/~~~
(潮来メジロ)
- みにくまさん からの返信 2010/10/13 16:38:47
- RE: かわいい大阪のスズメちゃん・・・。ヾ(^o^)
潮来メジロさん、こんにちは〜。
いつもコメント&投票ありがとうございます。
おぉ〜よく発見してくれました!
金蔵の中からふっと外を見たら、窓枠のところにスズメがいたので、こっそり撮影してみました。
かなり近くまで寄ったのに、こちらに気づいていないみたいで、逃げなかったんですよー。
普段は金蔵の中は見られないので、スズメ君も珍しそうに覗いていたのかもしれません。
では〜(^O^)/
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