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呉三部作の最終記 <br /><br /> さて、もうすぐ8月15日の終戦記念日。<br /><br /> 軍港呉の歴史を語る上で「入船山」の物語は欠かせません。<br />(お願い:文章が長くなります。呉の歴史・理解を深めたい方はお読み願います。)<br /><br /><序章 : 亀山神社の鎮座><br /> 今から約1300年昔,古代飛鳥時代の大宝3(703)年に呉浦(くれうら)の総氏神(そううじがみ)である亀山神社(かめやまじんじゃ)の鎮座地と定められたといういわれのあるところです。<br /><br /> 「芸藩通志(げいはんつうし)」には,「八幡宮,宮原村亀山にあり,山,初は入船山(いりふねやま)と称す」と記されています。<br /> 八幡宮の鎮座で「亀山(かめやま)」「八幡山(はちまんやま)」と呼ばれ,明治の海軍鎮守府司令長官官舎設置で「長官山(ちょうかんやま)」となり,戦後再び「入船山(いりふねやま)」と呼ばれるようになりました。<br /><br /><第1章 : 呉海軍鎮守府><br /> 日本の西海(さいかい)に軍港用地を探してた海軍省は,明治16(1886)年から呉湾とその近海の測量を行いました。<br />三方を山に囲まれ防御に優れた土地で,艦艇の入出港や生産活動の拠点として適していたため,明治19(1886)年,呉への鎮守府の設置が決定し,建設工事が開始されました。<br /><br /> 明治22(1889)年7月1日,呉鎮守府が開庁。<br />清水通りに遷宮(せんぐう)することになった亀山神社の跡地には,洋風木造2階建ての「軍政会議所兼水交社」が建てられ,明治天皇行幸時には行在所(あんざいしょ)となり,明治25(1892)年からは「呉鎮守府司令長官官舎」として利用されました。<br /><br /><br /><第2章 :司令長官官舎><br /> 日露戦争直後の明治38(1905)年6月2日午後2時39分に発生した芸予地震によって大きな被害を受け,同年建て替えられたのが現在の司令長官官舎です。<br /><br /> 設計は,桜井 小太郎(1870〜1953)。<br />イギリスで建築学を学び,ヨーロッパ各国を遊学したのち呉鎮守府建築科長となった桜井は,イギリス様式(ハーフティンバー様式)を備えた長官官舎を設計しました。<br /> 前面(東側)を洋風に,後方(西側)を和風にした和洋折衷様式で,洋館側は公的接客用,和館部は私的生活用と,機能が分けられました。<br /> <br /><第3章 :終戦・占領軍><br /> 昭和20(1945)年,太平洋戦争終結後,呉はオーストラリア軍を中心とする英連邦軍の占領地区となり,呉鎮守府司令長官官舎は,占領軍の司令長官官舎として使われました。<br /> 〜 中略 〜<br /> 「入船山」が日本政府に返還されたのは昭和31(1956)年のこと。<br />この間に建物の内外とも白ペンキが塗られ,床にはリノリウムが貼られたほか,新たに通路や扉が加えられるなど様々な改造が加えられ,昔の面影はなくなっていました。<br /><br /> <br /><第4章 :呉史跡 入船山記念館><br /> 昭和41(1966)年,「入船山」は大蔵省から呉市へ譲与され,市史跡に指定。<br /> 翌42年4月1日,呉市入船山記念館としてオープンしました。<br />昭和43年には貴重な明治の洋風建築物として広島県重要文化財に指定されました。<br /> <br /><br /><第5章 :修復工事><br /> 長い歳月と数々の変遷をたどってきた“旧呉鎮守府司令長官官舎”は老朽化が進みました。<br /><br /> 修復を検討しているなかで,建築当時の資料「明治三十八年 呉鎮守府工事竣工報告」が発見され,これを受けて平成3(1991)年から5か年計画で調査,解体,修復を行い,建築当初の姿に復原しました。<br /> 洋館部の壁や天井に使われていたことが判明した金唐紙(きんからかみ)も,このときに修復・復原を行いました。<br /> <br /><br /><終章 :重要文化財><br /> 平成8(1996)年,建築当初の明治38(1905)年の姿に復原され,昔の輝きを取り戻した“旧呉鎮守府司令長官官舎”は,再び一般公開されました。<br /> 平成10(1998)年12月25日には,国から重要文化財(建築2357号)の指定を受けました。<br /><br /> “入船山”にある多くの文化財は,今も呉の歴史を私たちに語りかけてくれます。<br />

呉市史跡 「入船山(いりふねやま)」記念館&戦艦「大和」のふるさと

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2008/09/13 - 2008/09/13

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キャンモア

キャンモアさん

呉三部作の最終記 

 さて、もうすぐ8月15日の終戦記念日。

 軍港呉の歴史を語る上で「入船山」の物語は欠かせません。
(お願い:文章が長くなります。呉の歴史・理解を深めたい方はお読み願います。)

<序章 : 亀山神社の鎮座>
 今から約1300年昔,古代飛鳥時代の大宝3(703)年に呉浦(くれうら)の総氏神(そううじがみ)である亀山神社(かめやまじんじゃ)の鎮座地と定められたといういわれのあるところです。

 「芸藩通志(げいはんつうし)」には,「八幡宮,宮原村亀山にあり,山,初は入船山(いりふねやま)と称す」と記されています。
 八幡宮の鎮座で「亀山(かめやま)」「八幡山(はちまんやま)」と呼ばれ,明治の海軍鎮守府司令長官官舎設置で「長官山(ちょうかんやま)」となり,戦後再び「入船山(いりふねやま)」と呼ばれるようになりました。

<第1章 : 呉海軍鎮守府>
 日本の西海(さいかい)に軍港用地を探してた海軍省は,明治16(1886)年から呉湾とその近海の測量を行いました。
三方を山に囲まれ防御に優れた土地で,艦艇の入出港や生産活動の拠点として適していたため,明治19(1886)年,呉への鎮守府の設置が決定し,建設工事が開始されました。

 明治22(1889)年7月1日,呉鎮守府が開庁。
清水通りに遷宮(せんぐう)することになった亀山神社の跡地には,洋風木造2階建ての「軍政会議所兼水交社」が建てられ,明治天皇行幸時には行在所(あんざいしょ)となり,明治25(1892)年からは「呉鎮守府司令長官官舎」として利用されました。


<第2章 :司令長官官舎>
 日露戦争直後の明治38(1905)年6月2日午後2時39分に発生した芸予地震によって大きな被害を受け,同年建て替えられたのが現在の司令長官官舎です。

 設計は,桜井 小太郎(1870〜1953)。
イギリスで建築学を学び,ヨーロッパ各国を遊学したのち呉鎮守府建築科長となった桜井は,イギリス様式(ハーフティンバー様式)を備えた長官官舎を設計しました。
 前面(東側)を洋風に,後方(西側)を和風にした和洋折衷様式で,洋館側は公的接客用,和館部は私的生活用と,機能が分けられました。
 
<第3章 :終戦・占領軍>
 昭和20(1945)年,太平洋戦争終結後,呉はオーストラリア軍を中心とする英連邦軍の占領地区となり,呉鎮守府司令長官官舎は,占領軍の司令長官官舎として使われました。
 〜 中略 〜
 「入船山」が日本政府に返還されたのは昭和31(1956)年のこと。
この間に建物の内外とも白ペンキが塗られ,床にはリノリウムが貼られたほか,新たに通路や扉が加えられるなど様々な改造が加えられ,昔の面影はなくなっていました。

 
<第4章 :呉史跡 入船山記念館>
 昭和41(1966)年,「入船山」は大蔵省から呉市へ譲与され,市史跡に指定。
 翌42年4月1日,呉市入船山記念館としてオープンしました。
昭和43年には貴重な明治の洋風建築物として広島県重要文化財に指定されました。
 

<第5章 :修復工事>
 長い歳月と数々の変遷をたどってきた“旧呉鎮守府司令長官官舎”は老朽化が進みました。

 修復を検討しているなかで,建築当時の資料「明治三十八年 呉鎮守府工事竣工報告」が発見され,これを受けて平成3(1991)年から5か年計画で調査,解体,修復を行い,建築当初の姿に復原しました。
 洋館部の壁や天井に使われていたことが判明した金唐紙(きんからかみ)も,このときに修復・復原を行いました。
 

<終章 :重要文化財>
 平成8(1996)年,建築当初の明治38(1905)年の姿に復原され,昔の輝きを取り戻した“旧呉鎮守府司令長官官舎”は,再び一般公開されました。
 平成10(1998)年12月25日には,国から重要文化財(建築2357号)の指定を受けました。

 “入船山”にある多くの文化財は,今も呉の歴史を私たちに語りかけてくれます。

交通手段
高速・路線バス 新幹線 JRローカル
  •  呉探訪ループバス「くれたん」で、市民広場(旧呉海軍練兵場)前に降ります。<br /><br /> 呉市史跡 「入船山」入り口の門です。<br /><br /><br /> この地は,飛鳥時代の大宝3(703)年に呉浦の総氏神の鎮座地として定められたいわれのあるところです。<br /><br /> 「芸藩通志(げいはんつうし)」に「八幡宮,宮原村亀山にあり,山,はじめは入船山(いりふねやま)と称す」と記されています。<br /><br /> しかし,明治19(1886)年に旧海軍の鎮守府が呉に置かれその用地となることから神社は移転し(遷宮し),<br />現在は清水1丁目にあります。

     呉探訪ループバス「くれたん」で、市民広場(旧呉海軍練兵場)前に降ります。

     呉市史跡 「入船山」入り口の門です。


     この地は,飛鳥時代の大宝3(703)年に呉浦の総氏神の鎮座地として定められたいわれのあるところです。

     「芸藩通志(げいはんつうし)」に「八幡宮,宮原村亀山にあり,山,はじめは入船山(いりふねやま)と称す」と記されています。

     しかし,明治19(1886)年に旧海軍の鎮守府が呉に置かれその用地となることから神社は移転し(遷宮し),
    現在は清水1丁目にあります。

  • 呉市有形文化財<br /> 『旧呉海軍工廠(こうしょう)塔時計』<br /><br /><br /> 大正10(1921)年に,海軍工廠造機部の屋上に設置されていたもので,昭和56(1981)年に整備し復元されたものです。<br /><br /> 1日に4回流れるメロディーは小・中学生の作曲したものだそうです。<br /><br /> 右上に,国立病院呉医療センターがあります。<br />(旧呉海軍病院)

    呉市有形文化財
     『旧呉海軍工廠(こうしょう)塔時計』


     大正10(1921)年に,海軍工廠造機部の屋上に設置されていたもので,昭和56(1981)年に整備し復元されたものです。

     1日に4回流れるメロディーは小・中学生の作曲したものだそうです。

     右上に,国立病院呉医療センターがあります。
    (旧呉海軍病院)

  •  1号館(旧火薬庫)<br /><br /> この石造りの建物は,呉軍港一帯の防備のため,明治32年(1899年)から3箇年かけて建てられたものの一つで,火薬を保管するものです。<br /><br /> 昭和42年(1967年)に警護屋高烏砲台跡から移築したものです。

     1号館(旧火薬庫)

     この石造りの建物は,呉軍港一帯の防備のため,明治32年(1899年)から3箇年かけて建てられたものの一つで,火薬を保管するものです。

     昭和42年(1967年)に警護屋高烏砲台跡から移築したものです。

  •  『要塞地帯標』

     『要塞地帯標』

  •  『要塞地帯標』<br /><br /> これらの標柱は,軍の重要な地域であることを標示し,立ち入りを禁止していたものです。<br /><br /> 呉軍港を囲む周辺の山々にあったものです。

     『要塞地帯標』

     これらの標柱は,軍の重要な地域であることを標示し,立ち入りを禁止していたものです。

     呉軍港を囲む周辺の山々にあったものです。

  •  石畳の前は『1号館(旧火薬庫』です。<br /><br /> 右側に2人の人が話をされているのが『郷土館』です。<br /> 旧呉鎮守府司令長官官舎及び長官関係の資料が展示してあります。

     石畳の前は『1号館(旧火薬庫』です。

     右側に2人の人が話をされているのが『郷土館』です。
     旧呉鎮守府司令長官官舎及び長官関係の資料が展示してあります。

  •  『旧呉鎮守府司令長官官舎』<br /><br /> 明治38(1905)年の資料をもとに,平成3(1991)年から平成7(1995)年にかけて,調査,解体,修復を行い,建築当初の姿に復元しています。

     『旧呉鎮守府司令長官官舎』

     明治38(1905)年の資料をもとに,平成3(1991)年から平成7(1995)年にかけて,調査,解体,修復を行い,建築当初の姿に復元しています。

  •  洋館部の室内(壁は“金唐紙”)<br /><br /> 金唐紙(きんからかみ)とは,もともとはヨーロッパで壁の内装に用いられた,金唐革(きんからかわ)の技法を和紙で再現したものです。

     洋館部の室内(壁は“金唐紙”)

     金唐紙(きんからかみ)とは,もともとはヨーロッパで壁の内装に用いられた,金唐革(きんからかわ)の技法を和紙で再現したものです。

  •  洋館部の室内

     洋館部の室内

  •  ここから3枚は、『金唐紙』は洋館室内写真をトリミングしたものです。<br /><br /> 色が異なるのは、光の加減によるものです。<br /><br /> 

     ここから3枚は、『金唐紙』は洋館室内写真をトリミングしたものです。

     色が異なるのは、光の加減によるものです。

     

  •  『金唐紙』

     『金唐紙』

  •  『金唐紙』

     『金唐紙』

  •  乗り放題で便利な“呉探訪ループバス「くれたん」”に乗って<br />“歴史の見える丘”に来ました。<br /><br /><br /> 戦艦「大和」のふるさと<br /><br />このドックで「大和」が建造されたようです。<br />「 旧呉海軍工廠造船部 」<br /><br /> 現在は,株式会社IHI<br />(旧社名:石川島播磨重工業株式会社)

     乗り放題で便利な“呉探訪ループバス「くれたん」”に乗って
    “歴史の見える丘”に来ました。


     戦艦「大和」のふるさと

    このドックで「大和」が建造されたようです。
    「 旧呉海軍工廠造船部 」

     現在は,株式会社IHI
    (旧社名:石川島播磨重工業株式会社)

  •  建造中の巨大な船<br />

     建造中の巨大な船

  •  船の先の人物と比べて見てね。<br /><br />船の巨大さがわかります。

     船の先の人物と比べて見てね。

    船の巨大さがわかります。

  •  前の潜水艦には,隠密性ゆえ艦ナンバーは描いてありません。<br /><br /> 後ろは,護衛艦「まつゆき」艦ナンバー“130”<br />基準排水量:3,100トン<br />全長 :130m<br />全幅 :13.6m

     前の潜水艦には,隠密性ゆえ艦ナンバーは描いてありません。

     後ろは,護衛艦「まつゆき」艦ナンバー“130”
    基準排水量:3,100トン
    全長 :130m
    全幅 :13.6m

  •  呉探訪ループバス「くれたん」から撮影した<br /><br />“旧海軍墓地” 長迫公園(ながさこ こうえん)<br /><br />Old  Imperial  Naval  Cemetery<br /><br /><br /> 合掌<br />

     呉探訪ループバス「くれたん」から撮影した

    “旧海軍墓地” 長迫公園(ながさこ こうえん)

    Old Imperial Naval Cemetery


     合掌

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