2010/06/30 - 2010/06/30
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ポゾさん
実はあまり知られていませんが、下関は龍馬とおりょうが唯一、藩から認められて一つ屋根の下で新婚生活を送ったところなんです。
それまでは、脱藩浪人、武器商人、闇の政治フィクサー、とにかく怪しい商売をしていた龍馬がまともに住んだところなんてなかったわけです。
長州藩もそんな怪しいけれどもとてつもない野望を持った彼をうまく利用したかったのでしょう。
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まずは、龍馬と高杉晋作の友情を示した「青春交響の搭」からスタートです。
これは完全に下関観光予算の無駄遣い、というか市政の失敗といっていいでしょう(笑)
非常に観光としての魅力を感じない搭です。
これを作るお金があるのなら銅像を立てたほうが・・・。 -
ここが伊藤久三(助太夫)邸跡。
伊藤は下関の大年寄で、龍馬を物心両面で支えた人物。
お屋敷は当時2000坪あったといわれています。 -
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当時の面影を見せる唯一の証拠、井戸です。
ただし、これは伊藤家が本陣宿(大名などが泊まった宿)をかねていたため、泊まる人の専用井戸といわれています。 -
何もない、普通の道路。
ここが、龍馬とおりょうが新婚生活を過ごした「自然堂(じねんどう)」のあった場所といわれているところです。
龍馬の訃報もおりょうはこの場所で聞いたとか。 -
そんな自然堂を再現しようと地元の飲食店や商店街の有志が立ち上がりました。
唐戸商店街にある「幕末維新村」。 -
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実はこのあたり一帯は、遊郭街だったそうです。
これは今の第一ホテルのところにあった大坂屋の遊女の絵。
当時、北前船の寄港地として下関は問屋街として栄えたそうで、多くの商人や船頭たちが、遊郭で遊んでいたそうです。
もちろん、酒と女をこよなく愛した龍馬も通っていたとか。
ある日龍馬は朝帰りをしおりょうさんに怒られ、三味線を爪弾きながらおりょうしかいないと唄ったというエピソードもあります。
さらにその後龍馬はおりょうとのやり取りを見ていた19歳の長府藩士・梶山鼎介に見られ、紙に書いて贈ったという謎の行動に出ています。(現物は長府博物館にあります)
いったい、何のためにそれを書き残し、梶山に渡したのか、またそれが何を示すものなのかは謎のままです。 -
これが、龍馬とおりょうが新婚生活を過ごしたという「自然堂」。
わずか3畳。
でも、昼間はほとんどほかの部屋か外出していたそうで、ここは寝床としてのみお使っていたそうです。 -
幕末維新村のはす向かいにある「末廣稲荷神社」。
当時遊郭のあった稲荷町で働いていた人たちの信仰を集めた場所だそうです。 -
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商業の中心地・唐戸地区から城下町で栄えた長府地区にやってきました。
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龍馬のお宝が眠る長府博物館は、功山寺というお寺の境内にあります。
功山寺へのストローク、山門までの階段はすばらしい。
春には新緑、秋には紅葉が楽しめます。 -
実はこの功山寺、龍馬ゆかりの志士たちが眠っているんです。
これは、寺田屋事件のときに龍馬と共に命からがら逃げ出した三吉慎蔵の墓。
小さくて見つけにくいですが、8月には案内板もできるとか。 -
こちらは大きな墓。
豊永長吉こと、印藤聿(いんどうのぶる)の墓。
印藤は、長府藩と龍馬のパイプ役として知られ、前出の三吉慎蔵と龍馬を引き合わせたのも印藤だったとか。
彼は武士から商人へ鞍替えし、大成功を収めたそうです。
ちなみに彼は、名前を下村百合平→印藤弁介→印藤聿→因藤聿蔵→豊永長吉と変えているとのこと。 -
功山寺の国宝・仏殿。
ほんと雰囲気あります。
長府博物館には坂本龍馬が三吉慎蔵に宛てた「おりょうをたのむ」と書かれた遺言状や稲荷町であそんで 帰ってきたあとおりょうへの侘びを歌ったという謎の唄などがあります。 -
何が残っている、というわけではありませんが下関は龍馬の足跡がたくさんあるんです。
後は売り出し方が下手と言うか機を逸したというか・・・。
終の棲家であった場所としてはちょっとさびしいものです。
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