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 (前編http://4travel.jp/traveler/wanyamapori/album/10270647/の続きです)<br /><br /><br /> 日本軍はニューブリテン島の北端にあるラバウルを占領しました。<br /><br /> 太平洋戦争開戦から、ひと月半経った1942年の1月23日のことです。<br /><br /><br /> その後すぐに飛行場を整備して、ここをこの方面の航空隊の拠点としました。<br /><br /> そしてここを中心に南東のフィージー、サモア諸島周辺の海域を抑えて、オーストラリア軍とアメリカ軍を遮断(しゃだん)し、その後囲い込んだオーストラリアを降伏させるという戦略を立てました。<br /><br /> そのためにはまず、オーストラリアをにらむ位置にあるポートモレスビーを攻略して、その飛行場を手に入れることが必要でした。<br /><br /><br /> 日本軍は5月には海から、8月には陸から、ポートモレスビー攻略作戦を実行に移しましたが、そのどちらもが失敗に終わりました。<br /><br /> またその頃、フィージー、サモアをにらむソロモン諸島にあるガダルカナル島でも激しい戦いが続いていました。<br /><br /> そこにある飛行場を奪い合う攻防でしたが、翌年(1943年)の初めにはその戦いにも敗れ、全軍が撤退しました。<br /><br /><br /> この1年間の戦いを振り返ってみると、日本軍は開戦後奇襲的に南方各地に進出して最初の3ヶ月で広範囲の領地を獲得しましたが、6ヵ月後のミッドウェイ海戦に敗れ、続く半年間で、陸路からのポートモレスビー攻略作戦とガダルカナル島をめぐる戦いにも敗れ、敗戦への道を歩み始めたということになるのでしょう。<br /><br /> その後も日本軍は、このニューギニア島で、飢餓と病気にさいなまれながら、人間の限界をはるかに超えるような、過酷な戦いを強いられていくことになります。

太平洋戦争 ニューギニア戦線を辿る 後編 (8.10~16) 08夏

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2008/08/23 - 2008/08/23

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57

ライオンベラー

ライオンベラーさん

 (前編http://4travel.jp/traveler/wanyamapori/album/10270647/の続きです)


 日本軍はニューブリテン島の北端にあるラバウルを占領しました。

 太平洋戦争開戦から、ひと月半経った1942年の1月23日のことです。


 その後すぐに飛行場を整備して、ここをこの方面の航空隊の拠点としました。

 そしてここを中心に南東のフィージー、サモア諸島周辺の海域を抑えて、オーストラリア軍とアメリカ軍を遮断(しゃだん)し、その後囲い込んだオーストラリアを降伏させるという戦略を立てました。

 そのためにはまず、オーストラリアをにらむ位置にあるポートモレスビーを攻略して、その飛行場を手に入れることが必要でした。


 日本軍は5月には海から、8月には陸から、ポートモレスビー攻略作戦を実行に移しましたが、そのどちらもが失敗に終わりました。

 またその頃、フィージー、サモアをにらむソロモン諸島にあるガダルカナル島でも激しい戦いが続いていました。

 そこにある飛行場を奪い合う攻防でしたが、翌年(1943年)の初めにはその戦いにも敗れ、全軍が撤退しました。


 この1年間の戦いを振り返ってみると、日本軍は開戦後奇襲的に南方各地に進出して最初の3ヶ月で広範囲の領地を獲得しましたが、6ヵ月後のミッドウェイ海戦に敗れ、続く半年間で、陸路からのポートモレスビー攻略作戦とガダルカナル島をめぐる戦いにも敗れ、敗戦への道を歩み始めたということになるのでしょう。

 その後も日本軍は、このニューギニア島で、飢餓と病気にさいなまれながら、人間の限界をはるかに超えるような、過酷な戦いを強いられていくことになります。

旅行の満足度
5.0
観光
4.0
ホテル
3.0
グルメ
4.0
ショッピング
3.0
交通
3.0
同行者
その他
一人あたり費用
50万円 - 100万円
交通手段
観光バス
航空会社
ニューギニア航空
旅行の手配内容
ツアー(添乗員同行あり)

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  •  1942年の8月に日本軍のポートモレスビー攻略部隊が上陸したブナ地区 (※日本で例えると、東京をポートモレスビーとしたときの新潟県柏崎付近)は、11月にその部隊が撤退してきたときはすでに戦闘状態にありました。<br /><br /> そしてその戦いは人間の身体の一部や、いろいろな部分を損傷した胴体があちこちに転がるような、凄惨(せいさん)を極めた激しいものでした。<br /><br /> 連合軍側は、総司令官のマッカーサーが11月6日にポートモレスビーに入って指揮をとっていました。<br /><br /><br /> 日本軍のその他の拠点としては、3月に最初に上陸したラエとサラモア(※富山付近)がありましたが、そこは小規模の守備隊が飛行場を守っていただけでした。

     1942年の8月に日本軍のポートモレスビー攻略部隊が上陸したブナ地区 (※日本で例えると、東京をポートモレスビーとしたときの新潟県柏崎付近)は、11月にその部隊が撤退してきたときはすでに戦闘状態にありました。

     そしてその戦いは人間の身体の一部や、いろいろな部分を損傷した胴体があちこちに転がるような、凄惨(せいさん)を極めた激しいものでした。

     連合軍側は、総司令官のマッカーサーが11月6日にポートモレスビーに入って指揮をとっていました。


     日本軍のその他の拠点としては、3月に最初に上陸したラエとサラモア(※富山付近)がありましたが、そこは小規模の守備隊が飛行場を守っていただけでした。

  •  ブナ地区が陥落すれば、次の主戦場はこのラエ地区になることが予想されます。<br /><br /> そうなれば、海上からそこに物資を送ることは難しくなってしまいます。<br /><br /> そこで日本軍は、新たに補給基地として、西のマダンとウェワクを占領しました。(12月18日)<br /><br /> 日本で例えると東京をポートモレスビーとしたときに、マダンは京都府の舞鶴あたり、ウェワクは島根県の松江あたりの位置(距離)になります。<br /><br /><br /> 連合軍は兵力では圧倒的優位にありましたが、日本軍の予想を上回る抵抗のために、ブナ地区(※柏崎あたり)を

     ブナ地区が陥落すれば、次の主戦場はこのラエ地区になることが予想されます。

     そうなれば、海上からそこに物資を送ることは難しくなってしまいます。

     そこで日本軍は、新たに補給基地として、西のマダンとウェワクを占領しました。(12月18日)

     日本で例えると東京をポートモレスビーとしたときに、マダンは京都府の舞鶴あたり、ウェワクは島根県の松江あたりの位置(距離)になります。


     連合軍は兵力では圧倒的優位にありましたが、日本軍の予想を上回る抵抗のために、ブナ地区(※柏崎あたり)を

  • 占拠するために、2ヶ月もかかってしまいました。<br /><br /> ここが連合軍によって占領されたのは1943年の1月半ばで、開戦後1年とひと月後のことでした。<br /><br /><br /> この地防衛のための日本軍の犠牲者は7600人にも上り、その後無事に西部のジャングルの中に転進(撤退)できたのは、3400人ほどだったようです。<br /><br /> ポートモレスビー攻略作戦の犠牲者約3千人と合わせると、この時点での日本軍のニューギニア島での犠牲者はすでに1万人を越えています。<br /><br /> しかしまだ、終戦までの20万人と比べると、その1割にも達していません。

    占拠するために、2ヶ月もかかってしまいました。

     ここが連合軍によって占領されたのは1943年の1月半ばで、開戦後1年とひと月後のことでした。


     この地防衛のための日本軍の犠牲者は7600人にも上り、その後無事に西部のジャングルの中に転進(撤退)できたのは、3400人ほどだったようです。

     ポートモレスビー攻略作戦の犠牲者約3千人と合わせると、この時点での日本軍のニューギニア島での犠牲者はすでに1万人を越えています。

     しかしまだ、終戦までの20万人と比べると、その1割にも達していません。

  •  ブナ地区(※柏崎付近)が陥落(かんらく)したすぐ後の2月の上旬には、日本軍はソロモン諸島(※千島列島)のガダルカナル島の攻略をあきらめ、生存者1万人を撤退させました。(死者2万6千人)<br /><br /> そのため、その後は10万人の将兵をかかえるラバウル(※札幌)の航空基地は、ソロモン諸島やブナ地区からの連合軍機による激しい空爆を受け続けることになりました。<br /><br /> この時点で、日本の大本営の中にはニューギニアを放棄(ほうき)して、ラバウルにいる10万人の将兵を引き上げるという案も出ていたようですが、結局はそれは実行されませんでした。<br /><br /> この後も日本軍はこの島に次々に援軍を送り続けることによって、犠牲者を増やし続けていくことになります。

     ブナ地区(※柏崎付近)が陥落(かんらく)したすぐ後の2月の上旬には、日本軍はソロモン諸島(※千島列島)のガダルカナル島の攻略をあきらめ、生存者1万人を撤退させました。(死者2万6千人)

     そのため、その後は10万人の将兵をかかえるラバウル(※札幌)の航空基地は、ソロモン諸島やブナ地区からの連合軍機による激しい空爆を受け続けることになりました。

     この時点で、日本の大本営の中にはニューギニアを放棄(ほうき)して、ラバウルにいる10万人の将兵を引き上げるという案も出ていたようですが、結局はそれは実行されませんでした。

     この後も日本軍はこの島に次々に援軍を送り続けることによって、犠牲者を増やし続けていくことになります。

  •  連合軍に占領されたブナ地区(※柏崎付近)は、2ヶ月ほどの間に巨大な後方基地と化して、その後膨大な数の兵や物資を西方の前線に送り続けていくことになります。<br /><br /><br /> ブナ地区で生き残った日本軍の3400名ほどの守備隊は、そこから西のラエ地区(※富山付近)へ向かって転進して行きました。<br /><br /> 転進とはいっても実際は、道なきジャングルの中を飢えとマラリアに苦しみながら進むような移動(退却)でした。<br /><br /><br /> 次はそのラエ地区(※富山付近)に攻め込まれることが予想されたので、日本軍はその防御を固めるために、背後の鉱山町、ワウ(※日本では岐阜県の高山あたり)を攻略

     連合軍に占領されたブナ地区(※柏崎付近)は、2ヶ月ほどの間に巨大な後方基地と化して、その後膨大な数の兵や物資を西方の前線に送り続けていくことになります。


     ブナ地区で生き残った日本軍の3400名ほどの守備隊は、そこから西のラエ地区(※富山付近)へ向かって転進して行きました。

     転進とはいっても実際は、道なきジャングルの中を飢えとマラリアに苦しみながら進むような移動(退却)でした。


     次はそのラエ地区(※富山付近)に攻め込まれることが予想されたので、日本軍はその防御を固めるために、背後の鉱山町、ワウ(※日本では岐阜県の高山あたり)を攻略

  • することになりました。<br /><br /> ワウには飛行場があったし、そこからポートモレスビーへ続く道路もありました。<br /><br /><br /> 3500名のワウ攻略部隊は1月5日に5隻の輸送船でラバウル(※日本では札幌)を発ちました。<br /><br /> そのときはまだ、ブナ地区で激しい戦闘が続いていた頃だったので、空襲を受けながらも、その大半を目的地のラエ(※富山)に上陸させることができました。<br /><br /> しかし、そこからワウ(※高山)までは、険しいジャングルの中を行軍したので、各隊は山中で迷って分散し、食料も尽きてしまって、結局攻略は失敗に終わりました。

    することになりました。

     ワウには飛行場があったし、そこからポートモレスビーへ続く道路もありました。


     3500名のワウ攻略部隊は1月5日に5隻の輸送船でラバウル(※日本では札幌)を発ちました。

     そのときはまだ、ブナ地区で激しい戦闘が続いていた頃だったので、空襲を受けながらも、その大半を目的地のラエ(※富山)に上陸させることができました。

     しかし、そこからワウ(※高山)までは、険しいジャングルの中を行軍したので、各隊は山中で迷って分散し、食料も尽きてしまって、結局攻略は失敗に終わりました。

  •  その後はワウ(※高山)は連合軍の拠点の1つとなって、ラエ(※富山)の日本軍陣地を脅(おびや)かすことになりました。<br /><br /> またその飛行場から飛び立つ爆撃機が、日本軍の基地に来襲しては攻撃を加えていきました。<br /><br /><br /> その後、日本軍は2月の終りまでに海路が比較的安全な西方のウェワク(※松江付近)に、3万数千人の大軍を送り込みました。<br /><br /> そして、その内の1万7千人ほどを、海岸の道を、そこから300km離れたマダン(※舞鶴)まで徒歩で移動させました。

     その後はワウ(※高山)は連合軍の拠点の1つとなって、ラエ(※富山)の日本軍陣地を脅(おびや)かすことになりました。

     またその飛行場から飛び立つ爆撃機が、日本軍の基地に来襲しては攻撃を加えていきました。


     その後、日本軍は2月の終りまでに海路が比較的安全な西方のウェワク(※松江付近)に、3万数千人の大軍を送り込みました。

     そして、その内の1万7千人ほどを、海岸の道を、そこから300km離れたマダン(※舞鶴)まで徒歩で移動させました。

  •  写真はそのマダンの海岸です。<br /><br /> 今からちょうど65年前に、1万7千人ほどの将兵が実際にウェワク(※松江)からここに到着しました。<br /><br /> そして到着後すぐに、ここに飛行場を建設しました。<br /><br /><br /> その後、この部隊は前線のラエ(※富山)に向かうことになっていましたが、当時はここから先は道がありませんでした。<br /><br /> そこで、このマダン(※舞鶴)からラエ(※富山)まで300kmもの距離を、樹木の茂るジャングルを人力だけで切り開くという、無謀(むぼう)ともいえるような工事を行うことになりました。

     写真はそのマダンの海岸です。

     今からちょうど65年前に、1万7千人ほどの将兵が実際にウェワク(※松江)からここに到着しました。

     そして到着後すぐに、ここに飛行場を建設しました。


     その後、この部隊は前線のラエ(※富山)に向かうことになっていましたが、当時はここから先は道がありませんでした。

     そこで、このマダン(※舞鶴)からラエ(※富山)まで300kmもの距離を、樹木の茂るジャングルを人力だけで切り開くという、無謀(むぼう)ともいえるような工事を行うことになりました。

  •  そして予定の工期はどんどん延びていきました。<br /><br /> その後、道路は7ヶ月ほどかけて3分の2ほど完成しますが、その時はすでに目的地ラエの戦況は悪化していて、悠長(ゆうちょう)に道を造っている場合ではなくなり、結局工事はその時点(9月)で中止されてしまうことになります。<br /><br /><br /> マダンからラエに向かって道路を作り始めていた頃、今度はラバウル(※札幌)からラエ(※富山)に輸送船で、直接7千名ほどの将兵を送り込むことになりました。<br /><br /> ラバウルのあるニューブリテン島と、ニューギニア島の間は、100kmほど(九州と対馬ほど)のダンピール海峡で隔てられています。

     そして予定の工期はどんどん延びていきました。

     その後、道路は7ヶ月ほどかけて3分の2ほど完成しますが、その時はすでに目的地ラエの戦況は悪化していて、悠長(ゆうちょう)に道を造っている場合ではなくなり、結局工事はその時点(9月)で中止されてしまうことになります。


     マダンからラエに向かって道路を作り始めていた頃、今度はラバウル(※札幌)からラエ(※富山)に輸送船で、直接7千名ほどの将兵を送り込むことになりました。

     ラバウルのあるニューブリテン島と、ニューギニア島の間は、100kmほど(九州と対馬ほど)のダンピール海峡で隔てられています。

  •  前回の1月5日も、この海峡を船団でワウ(※高山)攻略部隊を輸送しましたが、そのときはまだブナ地区(※柏崎)が戦闘中だったので、無事に通過することができました。<br /><br /> しかし今度は、ブナ地区(※柏崎)は連合軍の後方基地と化していて、制海権を握られていたので、ここを無事に通過することなどは、とても考えられませんでした。<br /><br /> しかし上手くいけば見つからないかも知れないというような、運に頼るような輸送が決行されました。<br /><br /><br /> 1943年の3月3日、ラバウル(※札幌)からラエ(※富山)に向けて、7千名ほどの将兵を乗せた7隻の輸送船が船団を組んで進んでいました。

     前回の1月5日も、この海峡を船団でワウ(※高山)攻略部隊を輸送しましたが、そのときはまだブナ地区(※柏崎)が戦闘中だったので、無事に通過することができました。

     しかし今度は、ブナ地区(※柏崎)は連合軍の後方基地と化していて、制海権を握られていたので、ここを無事に通過することなどは、とても考えられませんでした。

     しかし上手くいけば見つからないかも知れないというような、運に頼るような輸送が決行されました。


     1943年の3月3日、ラバウル(※札幌)からラエ(※富山)に向けて、7千名ほどの将兵を乗せた7隻の輸送船が船団を組んで進んでいました。

  •  もともとは8隻でしたが、前日受けた攻撃で7隻に減っていました。<br /><br /> そしてやはりその航路は察知されていて、船団がフォン湾(※富山湾)に入ろうとした頃、130機ほどの連合軍の航空機が飛来してきました。<br /><br /> 7隻の輸送船は激しい攻撃を受け、わずか25分ほどの間にそのすべてがこの海に沈んでいきました。<br /><br /> 乗員は7千名の将兵のうち約4千名ほどは、護衛の駆逐艦に助けられて、何とかラバウルに帰り着きました。<br /><br /> しかし残りの約3千名は、武器弾薬や食料とともに海の藻屑(もくず)となって海中に消えていきました。

     もともとは8隻でしたが、前日受けた攻撃で7隻に減っていました。

     そしてやはりその航路は察知されていて、船団がフォン湾(※富山湾)に入ろうとした頃、130機ほどの連合軍の航空機が飛来してきました。

     7隻の輸送船は激しい攻撃を受け、わずか25分ほどの間にそのすべてがこの海に沈んでいきました。

     乗員は7千名の将兵のうち約4千名ほどは、護衛の駆逐艦に助けられて、何とかラバウルに帰り着きました。

     しかし残りの約3千名は、武器弾薬や食料とともに海の藻屑(もくず)となって海中に消えていきました。

  •  3ヶ月以上かけて戦われたポートモレスビー陸路攻略作戦の犠牲者も約3千名でしたが、それと同じ数の将兵が、この日の数時間の間に、この広い海の底に沈んでいきました。<br /><br /> そしてこの日以降は、ラバウルからニューギニア島へ向けての船団を組んでの輸送が計画されることはありませんでした。<br /><br /><br /><br /> 4月に入ると、日本軍は「い」号作戦と称して、航空機の大編隊で、ソロモン諸島やポートモレスビーの空爆を行いました。<br /><br /> 真珠湾攻撃を立案、実行した山本五十六(いそろく)連合艦隊司令長官は、ラバウルに入ってその作戦を指導していました。<br /><br /> 作戦が終了した後の4月18日、山本長官は前線の視察と激励のために、ソロモン諸島方面に向かいました。<br /><br /><br /> 早朝の6時、一式陸上攻撃機2機と、護衛の零戦(ぜろせん)9機が、ラバウルの飛行場を飛び立ちました。<br /><br /> 一式陸上攻撃機は、長距離飛行ができる7人乗りの双発の(プロペラが主翼に2つついている)細長い胴体の攻撃機です。<br /><br /> 山本長官はこの1番機に乗っていました。

     3ヶ月以上かけて戦われたポートモレスビー陸路攻略作戦の犠牲者も約3千名でしたが、それと同じ数の将兵が、この日の数時間の間に、この広い海の底に沈んでいきました。

     そしてこの日以降は、ラバウルからニューギニア島へ向けての船団を組んでの輸送が計画されることはありませんでした。



     4月に入ると、日本軍は「い」号作戦と称して、航空機の大編隊で、ソロモン諸島やポートモレスビーの空爆を行いました。

     真珠湾攻撃を立案、実行した山本五十六(いそろく)連合艦隊司令長官は、ラバウルに入ってその作戦を指導していました。

     作戦が終了した後の4月18日、山本長官は前線の視察と激励のために、ソロモン諸島方面に向かいました。


     早朝の6時、一式陸上攻撃機2機と、護衛の零戦(ぜろせん)9機が、ラバウルの飛行場を飛び立ちました。

     一式陸上攻撃機は、長距離飛行ができる7人乗りの双発の(プロペラが主翼に2つついている)細長い胴体の攻撃機です。

     山本長官はこの1番機に乗っていました。

  •  当時は日本軍の暗号はすべて連合軍に解読されていました。<br /><br /> アメリカのP−38戦闘機18機が、その時間に合わせてガダルカナル島の飛行場を飛び立ち、ラバウルの西隣のブーゲンビル島上空で、待ち伏せしていました。<br /><br /><br /> そして7時33分、長官機と出会いました。<br /><br /> 17分間の戦闘の後、長官機は撃墜(げきつい)され、ブーゲンビル島のジャングルに吸い込まれていきました。<br /><br /> そして山本長官は戦死しました。<br /><br /> 1943年4月18日のことでした。

     当時は日本軍の暗号はすべて連合軍に解読されていました。

     アメリカのP−38戦闘機18機が、その時間に合わせてガダルカナル島の飛行場を飛び立ち、ラバウルの西隣のブーゲンビル島上空で、待ち伏せしていました。


     そして7時33分、長官機と出会いました。

     17分間の戦闘の後、長官機は撃墜(げきつい)され、ブーゲンビル島のジャングルに吸い込まれていきました。

     そして山本長官は戦死しました。

     1943年4月18日のことでした。

  •  写真はマダンの南東の山中にあるダウロ峠です。<br /><br /> マダン(※日本では舞鶴あたり)はこの写真の左後方で、ポートモレスビー(※日本では東京)は右外のはるか前方で、正面の山々の向こうが、ラエ(※日本では富山)になります。<br /><br /> ラエは、現在、ポートモレスビーに次ぐ、この国第2の都市になっています。<br /><br /> そして、この写真の前方の山の中を、当時の日本軍が造りかけた道路の跡が残っているということです。<br /><br /> 現在はラエまでは、その近く(写真の手前側)を別の道路が走っています。

     写真はマダンの南東の山中にあるダウロ峠です。

     マダン(※日本では舞鶴あたり)はこの写真の左後方で、ポートモレスビー(※日本では東京)は右外のはるか前方で、正面の山々の向こうが、ラエ(※日本では富山)になります。

     ラエは、現在、ポートモレスビーに次ぐ、この国第2の都市になっています。

     そして、この写真の前方の山の中を、当時の日本軍が造りかけた道路の跡が残っているということです。

     現在はラエまでは、その近く(写真の手前側)を別の道路が走っています。

  •  東部ニューギニアでの次の主戦場はラエ地区でした。<br /><br /> その付近に連合軍が上陸したのは6月末のことでしたが、そこにいる日本軍はブナ地区(※柏崎あたり)やワウ(※高山)からの撤退者も含んでいて、兵力の4分の3が病人で、食料も自給に頼らなければならないような状況だったようです。<br /><br /> ここでも3ヶ月にわたって、あちらこちらに死体が散乱するような、激しい戦闘が繰り広げられましたが、物資や兵力の差には抗しきれずに、9月半ばに日本軍は、北岸(※日本では金沢あたり)への転進(撤退)を開始しました。<br /><br /> この戦いに投入された日本軍の将兵約2万人のうち、ここで戦死したのはその半数の約1万人でした。<br /><br /><br /> ラエ(※日本では富山)から北部海岸へ危険な海岸地区を避けて転進(撤退)するためには、半島部分(※日本では能登半島)を横断しなければなりませんでした。<br /><br /> しかし、直線距離にして120kmほどのその区間は4千メートル級の高さの山々が連なっていました。<br /><br /><br /> 4千メートルといえば、富士山よりも高い高さです。<br /><br /> そこをひと月以上もかけて、飢餓と病気に苦しむ8500人もの将兵が越えていくことになりました。

     東部ニューギニアでの次の主戦場はラエ地区でした。

     その付近に連合軍が上陸したのは6月末のことでしたが、そこにいる日本軍はブナ地区(※柏崎あたり)やワウ(※高山)からの撤退者も含んでいて、兵力の4分の3が病人で、食料も自給に頼らなければならないような状況だったようです。

     ここでも3ヶ月にわたって、あちらこちらに死体が散乱するような、激しい戦闘が繰り広げられましたが、物資や兵力の差には抗しきれずに、9月半ばに日本軍は、北岸(※日本では金沢あたり)への転進(撤退)を開始しました。

     この戦いに投入された日本軍の将兵約2万人のうち、ここで戦死したのはその半数の約1万人でした。


     ラエ(※日本では富山)から北部海岸へ危険な海岸地区を避けて転進(撤退)するためには、半島部分(※日本では能登半島)を横断しなければなりませんでした。

     しかし、直線距離にして120kmほどのその区間は4千メートル級の高さの山々が連なっていました。


     4千メートルといえば、富士山よりも高い高さです。

     そこをひと月以上もかけて、飢餓と病気に苦しむ8500人もの将兵が越えていくことになりました。

  •  その4千メートル級の山々は、ちょうどこの写真正面の山々の後方になります。<br /><br /> 写真では、ラエ(※富山)が右前方で、目的とする海岸(※金沢あたり)が左前方の位置になります。<br /><br /><br /> 9月12日、その山越えの行軍が開始されましたが、始まってみるとそれはやはり過酷を極め、飢えや病気のために次々と行き倒れていって、山頂に着くまでの死者の数は1500人を超えていました。<br /><br /> 後続の兵が通過する至(いた)るところに、行き倒れた死体が座ったり、横たわったりしていたといいます。<br /><br /> 山頂付近に到達しても、そこでの夜の気温は零下20度

     その4千メートル級の山々は、ちょうどこの写真正面の山々の後方になります。

     写真では、ラエ(※富山)が右前方で、目的とする海岸(※金沢あたり)が左前方の位置になります。


     9月12日、その山越えの行軍が開始されましたが、始まってみるとそれはやはり過酷を極め、飢えや病気のために次々と行き倒れていって、山頂に着くまでの死者の数は1500人を超えていました。

     後続の兵が通過する至(いた)るところに、行き倒れた死体が座ったり、横たわったりしていたといいます。

     山頂付近に到達しても、そこでの夜の気温は零下20度

  • で、寝ずに夜明かししなければならなかったようです。<br /><br /> 最後の難所は200メートルもの断崖で、そこにへばりついて横歩きする間に、何人もの将兵が悲鳴とともに谷底に転げ落ちて、絶命していったといいます。<br /><br /> 山頂から海岸までも700人ほどの死者が出て、結局海岸にたどり着けたのは、8500人中6400人でした。<br /><br /> そして到着者の6400人中千人ほどが、直ちに入院したり護送されたりしたようです。<br /><br /><br /> ラエ(※日本では富山)が陥落してから間もなく、要地フィンシュハーフェン(※日本では能登半島の輪島あたり)の戦いが始まりました。<br /><br /> 9月22日に連合軍が上陸してきたとき、日本軍の守備隊は1500人ほどでした。<br /><br /> 10月2日には連合軍が、フィンシュハーフェン(※輪島)を占領します。<br /><br /> 日本軍はマダンからラエまでの道路建設を行っていた1万2500人ほどの将兵を、道路建設を中止してフィンシュハーフェン奪還(だっかん)へ向かわせます。<br /><br /> 到着後の10月17日、総攻撃をかけましたが奪還できず、その後部分的な戦闘を続けた後、11月22日に第二次総攻撃を行いましたが、やはり奪還できませんでした。

    で、寝ずに夜明かししなければならなかったようです。

     最後の難所は200メートルもの断崖で、そこにへばりついて横歩きする間に、何人もの将兵が悲鳴とともに谷底に転げ落ちて、絶命していったといいます。

     山頂から海岸までも700人ほどの死者が出て、結局海岸にたどり着けたのは、8500人中6400人でした。

     そして到着者の6400人中千人ほどが、直ちに入院したり護送されたりしたようです。


     ラエ(※日本では富山)が陥落してから間もなく、要地フィンシュハーフェン(※日本では能登半島の輪島あたり)の戦いが始まりました。

     9月22日に連合軍が上陸してきたとき、日本軍の守備隊は1500人ほどでした。

     10月2日には連合軍が、フィンシュハーフェン(※輪島)を占領します。

     日本軍はマダンからラエまでの道路建設を行っていた1万2500人ほどの将兵を、道路建設を中止してフィンシュハーフェン奪還(だっかん)へ向かわせます。

     到着後の10月17日、総攻撃をかけましたが奪還できず、その後部分的な戦闘を続けた後、11月22日に第二次総攻撃を行いましたが、やはり奪還できませんでした。

  •  この戦いで兵力を3分の1(約7千人)にまで減らした日本軍は、その後シオ(※日本では金沢あたり)まで退却し、そこで前述の、ラエ(※富山)から山越えで退却してきていた部隊(約6千人)と出会い、合流しました。<br /><br /> このとき、シオの日本軍は1万3千人ほどになりました。<br /><br /><br /> 1年前の暮れにはブナ地区(※柏崎)の攻防が行われていたので、その後のちょうど1年間で前線はシオ(※金沢)まで後退したということになります。<br /><br /> そして3年と8ヶ月続く太平洋戦争は、ここで2年目が終わり、3年目へと入っていきました。

     この戦いで兵力を3分の1(約7千人)にまで減らした日本軍は、その後シオ(※日本では金沢あたり)まで退却し、そこで前述の、ラエ(※富山)から山越えで退却してきていた部隊(約6千人)と出会い、合流しました。

     このとき、シオの日本軍は1万3千人ほどになりました。


     1年前の暮れにはブナ地区(※柏崎)の攻防が行われていたので、その後のちょうど1年間で前線はシオ(※金沢)まで後退したということになります。

     そして3年と8ヶ月続く太平洋戦争は、ここで2年目が終わり、3年目へと入っていきました。

  •  この写真はマダン(※日本では舞鶴あたり)の飛行場に落とされた爆弾の跡です。<br /><br /><br /> ここマダンには軍の司令部がおかれ、物資の補給基地となっていましたが、その頃は次々に敵機が飛来して、このような爆弾を落としていきました。<br /><br /> 日本軍も高射砲でこれを迎え撃ち、このマダンだけでも数百の敵機を撃ち落したそうです。<br /><br /><br /> 機銃を掃射しながら低空で迫り来る敵機と、それを撃ち落そうと高射砲を低く構えて打ち続ける地上陣地との対面は、もはや生死を越えた、崇高(すうこう)とまでいえるような境地(きょうち)であったといいます。

     この写真はマダン(※日本では舞鶴あたり)の飛行場に落とされた爆弾の跡です。


     ここマダンには軍の司令部がおかれ、物資の補給基地となっていましたが、その頃は次々に敵機が飛来して、このような爆弾を落としていきました。

     日本軍も高射砲でこれを迎え撃ち、このマダンだけでも数百の敵機を撃ち落したそうです。


     機銃を掃射しながら低空で迫り来る敵機と、それを撃ち落そうと高射砲を低く構えて打ち続ける地上陣地との対面は、もはや生死を越えた、崇高(すうこう)とまでいえるような境地(きょうち)であったといいます。

  •  そして次の瞬間、そのどちらかが、ときとしてはその双方が、頭や身体を吹き飛ばされて死んでいきました。<br /><br /><br /> 第二次世界大戦では、空からの攻撃が勝敗を決定づけていたので、空母やこのような飛行場はとても貴重でした。<br /><br /> このマダンの飛行場からも、零戦(ぜろせん)などの多くの日本軍機が飛び立って、東部の前線やポートモレスビーなどを空爆していたのではないでしょうか。<br /><br /><br /> 次の写真はマダンのジャングルの中にある日本軍の爆撃機の残がいです。

     そして次の瞬間、そのどちらかが、ときとしてはその双方が、頭や身体を吹き飛ばされて死んでいきました。


     第二次世界大戦では、空からの攻撃が勝敗を決定づけていたので、空母やこのような飛行場はとても貴重でした。

     このマダンの飛行場からも、零戦(ぜろせん)などの多くの日本軍機が飛び立って、東部の前線やポートモレスビーなどを空爆していたのではないでしょうか。


     次の写真はマダンのジャングルの中にある日本軍の爆撃機の残がいです。

  •  左右の翼についているプロペラの部分が下になっているので、写真の手前側(地面についている方)が前で、向こう側(上を向いている方)が後ろということになります。<br /><br /> 初期はまだ、この辺りもこのような日本の飛行機が健在で、このマダンの飛行場からも多くの日本軍機が飛び立っていました。<br /><br /><br /> このような飛行機が撃墜されると、多くの場合は乗組員は死んでしまうわけですが、中にはパラシュートを使って脱出することもあったようです。<br /><br /> しかしそのほとんどは連合軍機の場合で、日本軍機の場合は、パラシュートを使うことは非常に少なかったようです。

     左右の翼についているプロペラの部分が下になっているので、写真の手前側(地面についている方)が前で、向こう側(上を向いている方)が後ろということになります。

     初期はまだ、この辺りもこのような日本の飛行機が健在で、このマダンの飛行場からも多くの日本軍機が飛び立っていました。


     このような飛行機が撃墜されると、多くの場合は乗組員は死んでしまうわけですが、中にはパラシュートを使って脱出することもあったようです。

     しかしそのほとんどは連合軍機の場合で、日本軍機の場合は、パラシュートを使うことは非常に少なかったようです。

  •  パラシュートで脱出した場合、味方が優位な場所に降りれば助かりますが、敵方の優位な場所に降り立った場合はどうなるのでしょうか?<br /><br /> その場合は、実際には、助けられて捕虜(ほりょ)になる場合もあれば、殺されてしまう場合もあったようです。<br /><br /> 特に日本軍の場合は自分たちの食料もないところに捕虜がいたとしても、とても食べさせることはできませんでした。<br /><br /> 殺してしまったのか、武器と食料を奪って、逃がしてやったのか、実際にはどうだったのでしょうか?<br /><br /> それはそのときの状況によって異なっていたのかも知れません。

     パラシュートで脱出した場合、味方が優位な場所に降りれば助かりますが、敵方の優位な場所に降り立った場合はどうなるのでしょうか?

     その場合は、実際には、助けられて捕虜(ほりょ)になる場合もあれば、殺されてしまう場合もあったようです。

     特に日本軍の場合は自分たちの食料もないところに捕虜がいたとしても、とても食べさせることはできませんでした。

     殺してしまったのか、武器と食料を奪って、逃がしてやったのか、実際にはどうだったのでしょうか?

     それはそのときの状況によって異なっていたのかも知れません。

  •  日本兵が捕まった場合は、殺されることもあり、捕虜になることもあったようです。<br /><br /> 捕虜を捕(と)れない状況のときは、抵抗したとみなされて、殺されてしまっていたのでしょう。<br /><br /><br /> もし、降りたところに現地の人(ニューギニア人)がいたときは、どうなったのでしょうか?<br /><br /> 当時は彼らの多くはどちらかの軍に取り込まれていたので、そのどちらかに引き渡されていたのでしょう。<br /><br /> しかし、時としては、そこで殺されてしまうこともあったようです。

     日本兵が捕まった場合は、殺されることもあり、捕虜になることもあったようです。

     捕虜を捕(と)れない状況のときは、抵抗したとみなされて、殺されてしまっていたのでしょう。


     もし、降りたところに現地の人(ニューギニア人)がいたときは、どうなったのでしょうか?

     当時は彼らの多くはどちらかの軍に取り込まれていたので、そのどちらかに引き渡されていたのでしょう。

     しかし、時としては、そこで殺されてしまうこともあったようです。

  •  ニューギニア人は純朴(じゅんぼく)で優しい人たちが多く、負傷した兵士が助けられることも多かったようです。<br /><br /> しかし双方(そうほう)の軍に取り込まれ、荷物の運搬や道路の建設を強いられたりもしていたし、そのために相手方に殺されたりもしていたので、外国人を恨(うら)んでいた人たちも多かったようです。<br /><br /><br /> 昔はニューギニア人は人食い人種だといわれることもありましたが、すべての部族に人食いの習慣があったわけではありませんでした。<br /><br /> 中には戦いで破った相手を食べたり、食肉を求めて戦ったりしたこともあるかも知れませんが、多くの場合は宗教的な理由で肉親の肉を食べて、その魂(たましい)を

     ニューギニア人は純朴(じゅんぼく)で優しい人たちが多く、負傷した兵士が助けられることも多かったようです。

     しかし双方(そうほう)の軍に取り込まれ、荷物の運搬や道路の建設を強いられたりもしていたし、そのために相手方に殺されたりもしていたので、外国人を恨(うら)んでいた人たちも多かったようです。


     昔はニューギニア人は人食い人種だといわれることもありましたが、すべての部族に人食いの習慣があったわけではありませんでした。

     中には戦いで破った相手を食べたり、食肉を求めて戦ったりしたこともあるかも知れませんが、多くの場合は宗教的な理由で肉親の肉を食べて、その魂(たましい)を

  • 自分の中に取り込んでいたようです。<br /><br /> 私たちが肉親の骨を持ち帰ってお墓に埋(う)めるような感覚でそれを行っていたようです。<br /><br /><br /> そして、ジャングルにさまよう日本兵も、自分たちが餓死(がし)する直前まで追い込まれてしまったとき、そこで手に入る唯一(ゆいいつ)の食料として、相手兵士の肉を食べて生き延びていたといいます。<br /><br /> 実際に手記などを読むと、初期のポートモレスビー攻略作戦の頃から、相手兵士の脚などを食料として、確保していたようです。<br /><br /> また餓死寸前の状態で戦っていた人たちの中には仲間

    自分の中に取り込んでいたようです。

     私たちが肉親の骨を持ち帰ってお墓に埋(う)めるような感覚でそれを行っていたようです。


     そして、ジャングルにさまよう日本兵も、自分たちが餓死(がし)する直前まで追い込まれてしまったとき、そこで手に入る唯一(ゆいいつ)の食料として、相手兵士の肉を食べて生き延びていたといいます。

     実際に手記などを読むと、初期のポートモレスビー攻略作戦の頃から、相手兵士の脚などを食料として、確保していたようです。

     また餓死寸前の状態で戦っていた人たちの中には仲間

  • に「俺が死んだら俺の肉を食って生き延びてくれ」と言っていた人たちもいたそうです。<br /><br /> このニューギニア島での戦いは、それほどまでに凄惨(せいさん)を極めた、人間の限界をはるかに超えたようなものだったようです。<br /><br /><br /> 日本軍はここマダンの他にも、東から順に、すでに奪還されたブナ地区、ラエ地区やフィンシュハーフェン、その他ウェワク、アイタペ、ホーランジアなど、北部海岸の各地の飛行場を占領したり、新たに建設したりしていました。<br /><br /> そしてそこを飛び立って、連合軍基地に飛来して、攻撃を加えていました。

    に「俺が死んだら俺の肉を食って生き延びてくれ」と言っていた人たちもいたそうです。

     このニューギニア島での戦いは、それほどまでに凄惨(せいさん)を極めた、人間の限界をはるかに超えたようなものだったようです。


     日本軍はここマダンの他にも、東から順に、すでに奪還されたブナ地区、ラエ地区やフィンシュハーフェン、その他ウェワク、アイタペ、ホーランジアなど、北部海岸の各地の飛行場を占領したり、新たに建設したりしていました。

     そしてそこを飛び立って、連合軍基地に飛来して、攻撃を加えていました。

  •  連合軍側も、ニューギニア島南部の基地からこれらの日本軍基地を空襲していました。<br /><br /><br /> 写真は、北部山岳中にある、連合軍側のマシンガンスポットです。<br /><br /> ここはちょうど北方から前線に向かう日本軍機の通過地点になっていて、連合軍の兵士は、ここから日本の戦闘機や爆撃機を狙い打ちにしていたようです。<br /><br /><br /> 日本の戦闘機は零戦(ぜろせん)が主流でした。<br /><br /> 零戦の乗組員は、このようなところで撃ち落されるか、ポートモレスビーまで到達して、撃ち落されるか、または迎撃

     連合軍側も、ニューギニア島南部の基地からこれらの日本軍基地を空襲していました。


     写真は、北部山岳中にある、連合軍側のマシンガンスポットです。

     ここはちょうど北方から前線に向かう日本軍機の通過地点になっていて、連合軍の兵士は、ここから日本の戦闘機や爆撃機を狙い打ちにしていたようです。


     日本の戦闘機は零戦(ぜろせん)が主流でした。

     零戦の乗組員は、このようなところで撃ち落されるか、ポートモレスビーまで到達して、撃ち落されるか、または迎撃

  • (げいげき)してくる相手の飛行機と空中戦を展開して、撃ち落されるなどして、次々に命を落としていきました。<br /><br /> 日本軍機がどんどん消耗(しょうもう)していくのに対して連合軍側は、アメリカで増産される戦闘機を次々に送り込み、航空戦力を増強していきました。<br /><br /> そして、ここニューギニアの空には多くの連合軍機が飛び回り、たまに飛来する日本軍機をことごとく撃ち落していきました。<br /><br /> そして、ついにはニューギニアの空には、日本の航空機はまったく見られなくなっていきました。

    (げいげき)してくる相手の飛行機と空中戦を展開して、撃ち落されるなどして、次々に命を落としていきました。

     日本軍機がどんどん消耗(しょうもう)していくのに対して連合軍側は、アメリカで増産される戦闘機を次々に送り込み、航空戦力を増強していきました。

     そして、ここニューギニアの空には多くの連合軍機が飛び回り、たまに飛来する日本軍機をことごとく撃ち落していきました。

     そして、ついにはニューギニアの空には、日本の航空機はまったく見られなくなっていきました。

  •  ブナ地区(※柏崎)の戦闘は、1942年の9月16日に連合軍が上陸してから、1943年の1月20日に日本軍が転進(撤退)を始めるまでの2ヶ月間に、約11000人の守備隊のうち、約7600人の戦死者を出しました。<br /><br /> ラエ地区(※富山)の戦闘は、1943年の6月30日に連合軍が上陸してから、9月15日に日本軍が転進(撤退)を始めるまでの2ヶ月半の間に、約20000人の守備隊のうち、約10000人の戦死者を出しました。<br /><br /> フィンシュハーフェン(※輪島)の戦闘は、1943年の9月22日に連合軍が上陸してから、11月28日に日本軍が転進(撤退)を始めるまでの2ヶ月間に、約14000人の守備隊および攻撃隊のうち、約7000人の戦死者を出しました。

     ブナ地区(※柏崎)の戦闘は、1942年の9月16日に連合軍が上陸してから、1943年の1月20日に日本軍が転進(撤退)を始めるまでの2ヶ月間に、約11000人の守備隊のうち、約7600人の戦死者を出しました。

     ラエ地区(※富山)の戦闘は、1943年の6月30日に連合軍が上陸してから、9月15日に日本軍が転進(撤退)を始めるまでの2ヶ月半の間に、約20000人の守備隊のうち、約10000人の戦死者を出しました。

     フィンシュハーフェン(※輪島)の戦闘は、1943年の9月22日に連合軍が上陸してから、11月28日に日本軍が転進(撤退)を始めるまでの2ヶ月間に、約14000人の守備隊および攻撃隊のうち、約7000人の戦死者を出しました。

  •  連合軍はフィンシュハーフェン(※輪島)を占領したので、その後はそこからダンピール海峡を越えてニューブリテン島に上陸して、日本軍の巨大な航空基地のある、ラバウルの攻略に向かうものと思われていました。<br /><br /> ラバウルでは、日本軍の10万人もの守備隊が、畑などを作って、外からの補給がなくても生活できるような、完全自給体制を整えていました。<br /><br /> そこを連合軍が攻略するとなると、攻守の双方で、膨大(ぼうだい)な数の人の命が奪われてしまいます。<br /><br /><br /> 1943年の暮れ頃、ラエ地区(※富山)とフィンシュハーフェン(※輪島)から撤退してシオ地区(※金沢)に集結していた約13000人は、そこで防備を整えて次の戦いに

     連合軍はフィンシュハーフェン(※輪島)を占領したので、その後はそこからダンピール海峡を越えてニューブリテン島に上陸して、日本軍の巨大な航空基地のある、ラバウルの攻略に向かうものと思われていました。

     ラバウルでは、日本軍の10万人もの守備隊が、畑などを作って、外からの補給がなくても生活できるような、完全自給体制を整えていました。

     そこを連合軍が攻略するとなると、攻守の双方で、膨大(ぼうだい)な数の人の命が奪われてしまいます。


     1943年の暮れ頃、ラエ地区(※富山)とフィンシュハーフェン(※輪島)から撤退してシオ地区(※金沢)に集結していた約13000人は、そこで防備を整えて次の戦いに

  • 備えながら、飢餓と病気の回復を図ろうとしていました。<br /><br /><br /> 当然のことですが、1万3千人が1日に3食食べるとすれば、1日に3万9千食分の食料が必要になります。<br /><br /> 10日滞在すれば39万食分、ひと月では約120万食分の食料が必要となります。<br /><br /> その食料のほとんどは、マダン(※舞鶴)から海上輸送によって運ばれていました。<br /><br /><br /> その数週間後の年明け、1944年の正月2日、シオ地区(※金沢)1万3千人の部隊を愕然(がくぜん)とさせる出来事が起こりました。

    備えながら、飢餓と病気の回復を図ろうとしていました。


     当然のことですが、1万3千人が1日に3食食べるとすれば、1日に3万9千食分の食料が必要になります。

     10日滞在すれば39万食分、ひと月では約120万食分の食料が必要となります。

     その食料のほとんどは、マダン(※舞鶴)から海上輸送によって運ばれていました。


     その数週間後の年明け、1944年の正月2日、シオ地区(※金沢)1万3千人の部隊を愕然(がくぜん)とさせる出来事が起こりました。

  •  突然、連合軍が、シオ(※金沢)とマダン(※舞鶴)の中間点のサイドル(※福井付近)に上陸して、そこを占領してしまったのです。<br /><br /> その結果、武器や食料の補給路が断たれてしまい、シオ地区(※金沢)1万3千人の将兵は、完全にエサを断たれた袋のネズミになってしまいました。<br /><br /> フィンシュハーフェン(※輪島)を攻略した連合軍は、次は当然ラバウル(※札幌)の攻略に向かうと思われていましたが、そこを放置して(スキップして)、西への進行を図ってきました。<br /><br /> これは、日本軍の大きな拠点をすっ飛ばして、その先の地点に進行するという、連合軍のスキップ作戦によるものでした。

     突然、連合軍が、シオ(※金沢)とマダン(※舞鶴)の中間点のサイドル(※福井付近)に上陸して、そこを占領してしまったのです。

     その結果、武器や食料の補給路が断たれてしまい、シオ地区(※金沢)1万3千人の将兵は、完全にエサを断たれた袋のネズミになってしまいました。

     フィンシュハーフェン(※輪島)を攻略した連合軍は、次は当然ラバウル(※札幌)の攻略に向かうと思われていましたが、そこを放置して(スキップして)、西への進行を図ってきました。

     これは、日本軍の大きな拠点をすっ飛ばして、その先の地点に進行するという、連合軍のスキップ作戦によるものでした。

  •  またこれは、マッカーサーの担当地区だけで考えれば、日本軍が集結するシオ(※金沢)を避けて、その先のサイドル(※福井付近)に上陸したということになります。<br /><br /> この小さなスキップ作戦をマッカーサーは、リープフロッグ(かえる飛び)作戦と称していました。<br /><br /> このような知略によって連合軍は、自軍の犠牲を払わずに日本軍を無力化することに成功しました。<br /><br /><br /> 食料の補給が断たれてしまったので、1万3千人の日本軍の将兵は、このままシオ(※金沢)に留まれば、飢え死にするのを待つだけになってしまいます。<br /><br /> そうかといって、上陸した連合軍を攻撃しようと思っても、

     またこれは、マッカーサーの担当地区だけで考えれば、日本軍が集結するシオ(※金沢)を避けて、その先のサイドル(※福井付近)に上陸したということになります。

     この小さなスキップ作戦をマッカーサーは、リープフロッグ(かえる飛び)作戦と称していました。

     このような知略によって連合軍は、自軍の犠牲を払わずに日本軍を無力化することに成功しました。


     食料の補給が断たれてしまったので、1万3千人の日本軍の将兵は、このままシオ(※金沢)に留まれば、飢え死にするのを待つだけになってしまいます。

     そうかといって、上陸した連合軍を攻撃しようと思っても、

  • シオ(※金沢)からサイドル(※福井)まで、食料なしで延々と歩いて行って、戦うというようなこともできません。<br /><br /> またたとえ戦えたとしても、奪還(だっかん)できずに長期戦になれば、そこで飢えて死ぬことになります。<br /><br /> そこで、このシオ(※金沢)に取り残された1万3千人は、仕方なくジャングルに入って、自力で採集した草木や木の実などで食いつなぎながら、連合軍のいるサイドル(※福井付近)を迂回(うかい)して、マダン(※舞鶴)を目指すことになりました。<br /><br /><br /> そしてその部隊は1月8日と11日に、連合軍に悟(さと)られないように、密(ひそ)かにシオを脱出しました。<br /><br /> しかしそのひと月後の2月6日、密林を長蛇(ちょうだ)の列で行軍しているのを、連合軍の監視に発見されてしまいます。<br /><br /> ところが結局連合軍は、密林内の戦闘で多くの犠牲を出すのを避けて、あえて退路の遮断(しゃだん)を行わずに、その行軍を放置しました。<br /><br /> 脱出部隊は、地図上では約60km、実質は200km近くの密林を行軍した後、2月の下旬にサイドル(※福井)を越えたあたりの海岸に出て、そのままマダン(※舞鶴)に向かいました。<br /><br /> そのとき出発時の1万3千人のうち3700人が、この密林の中に消えていました。

    シオ(※金沢)からサイドル(※福井)まで、食料なしで延々と歩いて行って、戦うというようなこともできません。

     またたとえ戦えたとしても、奪還(だっかん)できずに長期戦になれば、そこで飢えて死ぬことになります。

     そこで、このシオ(※金沢)に取り残された1万3千人は、仕方なくジャングルに入って、自力で採集した草木や木の実などで食いつなぎながら、連合軍のいるサイドル(※福井付近)を迂回(うかい)して、マダン(※舞鶴)を目指すことになりました。


     そしてその部隊は1月8日と11日に、連合軍に悟(さと)られないように、密(ひそ)かにシオを脱出しました。

     しかしそのひと月後の2月6日、密林を長蛇(ちょうだ)の列で行軍しているのを、連合軍の監視に発見されてしまいます。

     ところが結局連合軍は、密林内の戦闘で多くの犠牲を出すのを避けて、あえて退路の遮断(しゃだん)を行わずに、その行軍を放置しました。

     脱出部隊は、地図上では約60km、実質は200km近くの密林を行軍した後、2月の下旬にサイドル(※福井)を越えたあたりの海岸に出て、そのままマダン(※舞鶴)に向かいました。

     そのとき出発時の1万3千人のうち3700人が、この密林の中に消えていました。

  •  このうち何人が行軍中に死亡して、何人がいつまで、そのままジャングルで生存していたかというようなことは定かではありません。<br /><br /> もしかして、今、この付近を捜索(そうさく)すれば、当時、食料を得ようとしてこのジャングルで迷った人が生き残っていて、出会えるというようなこともあるのでしょうか?<br /><br /> 当時の二十歳の人でも今は84歳、三十歳の人は94歳なので、今、直接出会えるという可能性は、とても少ないでしょう。<br /><br /> でもメモなどの痕跡(こんせき)は発見できるのでしょうか?・・・???

     このうち何人が行軍中に死亡して、何人がいつまで、そのままジャングルで生存していたかというようなことは定かではありません。

     もしかして、今、この付近を捜索(そうさく)すれば、当時、食料を得ようとしてこのジャングルで迷った人が生き残っていて、出会えるというようなこともあるのでしょうか?

     当時の二十歳の人でも今は84歳、三十歳の人は94歳なので、今、直接出会えるという可能性は、とても少ないでしょう。

     でもメモなどの痕跡(こんせき)は発見できるのでしょうか?・・・???

  •  その頃は、日本から届く物資のほとんどはウェワク(※松江)で陸揚げされて、そこから小船や徒歩でマダン(※舞鶴)などの各地へ送られていました。<br /><br /> ウェワク(※松江)でも時折、陸揚げ時に攻撃を受けて被害を出すこともありましたが、何とか輸送船団を着岸させて、大量の物資を運び込むことが可能でした。<br /><br /><br /> シオ(※金沢)から脱出して、サイドル(※福井)を迂回(うかい)してきた部隊がマダン(※舞鶴)に到着し始めた頃の2月29日、またしてもこの部隊は、衝撃的なニュースを聞くことになりました。<br /><br /> ハンサ(※鳥取あたり)の沖合いにあるマヌス島に連合軍が上陸を始めたというのです。

     その頃は、日本から届く物資のほとんどはウェワク(※松江)で陸揚げされて、そこから小船や徒歩でマダン(※舞鶴)などの各地へ送られていました。

     ウェワク(※松江)でも時折、陸揚げ時に攻撃を受けて被害を出すこともありましたが、何とか輸送船団を着岸させて、大量の物資を運び込むことが可能でした。


     シオ(※金沢)から脱出して、サイドル(※福井)を迂回(うかい)してきた部隊がマダン(※舞鶴)に到着し始めた頃の2月29日、またしてもこの部隊は、衝撃的なニュースを聞くことになりました。

     ハンサ(※鳥取あたり)の沖合いにあるマヌス島に連合軍が上陸を始めたというのです。

  •  マヌス島はニューギニア本島から400kmほど(本州と隠岐(おき)島の距離の4倍ほど)の沖合いにある淡路島の2倍ほどの大きさの島です。<br /><br /> ここには2千500人ほどの守備隊がいましたが、4万5千人ほどの連合軍の大部隊による攻撃を受け、2週間ほどで全滅してしまいました。<br /><br /><br /> これも、連合軍のスキップ作戦によるもので、これで完全にラバウル(※札幌)はスキップ(跳躍)され、連合軍の占領地域の中に置き去りにされてしまいました。<br /><br /> しかし幸運にもラバウルは自給体制を整えていたおかげで終戦まで持ちこたえ、多くの将兵の命が救われることになりました。

     マヌス島はニューギニア本島から400kmほど(本州と隠岐(おき)島の距離の4倍ほど)の沖合いにある淡路島の2倍ほどの大きさの島です。

     ここには2千500人ほどの守備隊がいましたが、4万5千人ほどの連合軍の大部隊による攻撃を受け、2週間ほどで全滅してしまいました。


     これも、連合軍のスキップ作戦によるもので、これで完全にラバウル(※札幌)はスキップ(跳躍)され、連合軍の占領地域の中に置き去りにされてしまいました。

     しかし幸運にもラバウルは自給体制を整えていたおかげで終戦まで持ちこたえ、多くの将兵の命が救われることになりました。

  •  しかし、補給に頼っていたマダン(※舞鶴)は、連合軍に囲い込まれたような形となって、このままでは多くの将兵が食糧不足のまま籠城(ろうじょう)を続け、餓死(がし)するのを待つだけになってしまいます。<br /><br /> そこで、シオ(※金沢)から到着したばかりの部隊は、そのままさらに西のウェワク(※松江)まで、転進を続けることになりました。<br /><br /><br /> この状況を大きな目で捉えると、連合軍は、ラバウルや東部ニューギニアを置き去りにして、マリアナ諸島 → 小笠原諸島 → 東京 というルートと、西部ニューギニア → フィリピン → 台湾 → 九州 というルートに向かって、駒(こま)を進めた、ということになるでしょう。

     しかし、補給に頼っていたマダン(※舞鶴)は、連合軍に囲い込まれたような形となって、このままでは多くの将兵が食糧不足のまま籠城(ろうじょう)を続け、餓死(がし)するのを待つだけになってしまいます。

     そこで、シオ(※金沢)から到着したばかりの部隊は、そのままさらに西のウェワク(※松江)まで、転進を続けることになりました。


     この状況を大きな目で捉えると、連合軍は、ラバウルや東部ニューギニアを置き去りにして、マリアナ諸島 → 小笠原諸島 → 東京 というルートと、西部ニューギニア → フィリピン → 台湾 → 九州 というルートに向かって、駒(こま)を進めた、ということになるでしょう。

  •  写真はマダン(※舞鶴)近郊の海岸です。<br /><br /> 日本軍は東部ニューギニアには戦車を上陸させていなかったようです。<br /><br /> 食料の補給さえ断たれてしまう状況の中では、戦車を上陸させる余裕など、とてもなかったのでしょう。<br /><br /> ということは、これは連合軍の戦車ということになります。<br /><br /> マダン(※舞鶴)が連合軍に占領されたのは、1944年の4月24日のことです。<br /><br /> ということは、この戦車はそのときに連合軍が持ち込んだものかも知れません。

     写真はマダン(※舞鶴)近郊の海岸です。

     日本軍は東部ニューギニアには戦車を上陸させていなかったようです。

     食料の補給さえ断たれてしまう状況の中では、戦車を上陸させる余裕など、とてもなかったのでしょう。

     ということは、これは連合軍の戦車ということになります。

     マダン(※舞鶴)が連合軍に占領されたのは、1944年の4月24日のことです。

     ということは、この戦車はそのときに連合軍が持ち込んだものかも知れません。

  •  連合軍はその年の1月2日にサイドル(※福井)に上陸したので、この戦車もそのときに上陸して、そこから陸路でここまでやってきたのではないかと思われます。<br /><br /> マダンが占領されるときは、日本軍は空爆を受けた後、大した抵抗もできずにここを撤退しました。<br /><br /> この戦車は、そのときの攻撃に使用されたものではないでしょうか。<br /><br /><br /> 他の地域では、連合軍はこのような戦車の後から圧倒的な数で前進して来て、それに対して日本軍は、塹壕(ざんごう)になどに隠れながら、近づいて来た戦車に走り寄って、手りゅう弾を投げつけるなどして、決死の戦法で対応していたようです。

     連合軍はその年の1月2日にサイドル(※福井)に上陸したので、この戦車もそのときに上陸して、そこから陸路でここまでやってきたのではないかと思われます。

     マダンが占領されるときは、日本軍は空爆を受けた後、大した抵抗もできずにここを撤退しました。

     この戦車は、そのときの攻撃に使用されたものではないでしょうか。


     他の地域では、連合軍はこのような戦車の後から圧倒的な数で前進して来て、それに対して日本軍は、塹壕(ざんごう)になどに隠れながら、近づいて来た戦車に走り寄って、手りゅう弾を投げつけるなどして、決死の戦法で対応していたようです。

  •  このニューギニアの戦いの特徴は、制海権、制空権を擁(よう)した連合軍が、海上から自由に好きな場所に大軍を送り込めたのに対して、日本軍は、飢えと病気に苦しみながら、重い荷物を背負って、徒歩でジャングルの中を延々と歩き続けなければならなかったということになります。<br /><br /> マダン(※舞鶴)からラエへの道路を造っていた部隊は、結局ウェワク(※松江)から、フィンシュハーフェン(※輪島)までを重い荷物を背負い、各地で戦いや飢餓(きが)、病気などで多くの死者を出しながら往復したことになります。<br /><br /> 行きは、飛行場や道路を建設しながら歩き、帰りは、主にジャングル内を食料を調達しながら歩き続けました。<br /><br /> そしてその部隊は、マダン(※舞鶴)からウェワクへの移動中に、次の困難に遭遇(そうぐう)しました。

     このニューギニアの戦いの特徴は、制海権、制空権を擁(よう)した連合軍が、海上から自由に好きな場所に大軍を送り込めたのに対して、日本軍は、飢えと病気に苦しみながら、重い荷物を背負って、徒歩でジャングルの中を延々と歩き続けなければならなかったということになります。

     マダン(※舞鶴)からラエへの道路を造っていた部隊は、結局ウェワク(※松江)から、フィンシュハーフェン(※輪島)までを重い荷物を背負い、各地で戦いや飢餓(きが)、病気などで多くの死者を出しながら往復したことになります。

     行きは、飛行場や道路を建設しながら歩き、帰りは、主にジャングル内を食料を調達しながら歩き続けました。

     そしてその部隊は、マダン(※舞鶴)からウェワクへの移動中に、次の困難に遭遇(そうぐう)しました。

  •  大河河口の大湿地帯を徒歩で渡ることになったのです。<br /><br /> 行きは駆逐艦や上陸用の船の往復で渡りましたが、今度はそれがありません。<br /><br /> 沼地の中を十数日間も、腰を降ろすこともできずに、重い荷物を背負いながら移動して、夜は立ったまま仮眠をとりました。<br /><br /> そしてここでも多くの兵士が疲労のために絶命し、沼地の中に立ったままの姿勢で置き去りにされました。<br /><br /><br /> ウェワク(※松江)は、日本軍の物資の集積地で、そこへの船団輸送は1943年の2月頃(ブナやガダルカナルから撤退していた頃)から始まって、1年後の1944年の3月

     大河河口の大湿地帯を徒歩で渡ることになったのです。

     行きは駆逐艦や上陸用の船の往復で渡りましたが、今度はそれがありません。

     沼地の中を十数日間も、腰を降ろすこともできずに、重い荷物を背負いながら移動して、夜は立ったまま仮眠をとりました。

     そしてここでも多くの兵士が疲労のために絶命し、沼地の中に立ったままの姿勢で置き去りにされました。


     ウェワク(※松江)は、日本軍の物資の集積地で、そこへの船団輸送は1943年の2月頃(ブナやガダルカナルから撤退していた頃)から始まって、1年後の1944年の3月

  • 中旬には、21回目の船団を迎え入れていました。<br /><br /> マヌス島(※鳥取沖)を占領した連合軍は、次は当然このウェワク(※松江)を攻撃してくると思われたので、日本軍はその防備を固めるために、ここに兵を集めました。<br /><br /> ここは物資の集積地なので、ある程度は食料の備蓄もあったのではないでしょうか。<br /><br /><br /> マダン(※舞鶴)から転進してきた部隊は1944年の4月下旬から5月上旬にかけて、次々にウェワク(※松江)に到着しました。<br /><br /> マダンを出た時の9300人からさらに数百人がジャングルの中に消えていました。

    中旬には、21回目の船団を迎え入れていました。

     マヌス島(※鳥取沖)を占領した連合軍は、次は当然このウェワク(※松江)を攻撃してくると思われたので、日本軍はその防備を固めるために、ここに兵を集めました。

     ここは物資の集積地なので、ある程度は食料の備蓄もあったのではないでしょうか。


     マダン(※舞鶴)から転進してきた部隊は1944年の4月下旬から5月上旬にかけて、次々にウェワク(※松江)に到着しました。

     マダンを出た時の9300人からさらに数百人がジャングルの中に消えていました。

  •  ウェワク(※松江)に到着した部隊は、そこでまたしても驚くべき事実を知ることになりました。<br /><br /> 何と連合軍は、このウェワクをもスキップして、4月22日に、さらに先のアイタペ(※島根県浜田市付近)とホーランジア(※山口県下関付近)に上陸したというのです。<br /><br /> ウェワク(※松江)に集結して、ここで上陸してくる連合軍を撃退しようとしていた日本軍にとっては、それは完全に予想外の出来事でした。<br /><br /><br /> このときホーランジア(※下関)の日本兵は1万5千人ほどいたけれども、そのほとんどは後方部隊で、銃を持つのは10人に1人、弾丸はわずか20発ずつだったといいます。

     ウェワク(※松江)に到着した部隊は、そこでまたしても驚くべき事実を知ることになりました。

     何と連合軍は、このウェワクをもスキップして、4月22日に、さらに先のアイタペ(※島根県浜田市付近)とホーランジア(※山口県下関付近)に上陸したというのです。

     ウェワク(※松江)に集結して、ここで上陸してくる連合軍を撃退しようとしていた日本軍にとっては、それは完全に予想外の出来事でした。


     このときホーランジア(※下関)の日本兵は1万5千人ほどいたけれども、そのほとんどは後方部隊で、銃を持つのは10人に1人、弾丸はわずか20発ずつだったといいます。

  •  その1万5千人が、5万人に近い連合軍を迎え撃ちましたが、結局数日で半数の7千人ほどとなって、その生き残った人たちは、ジャングルの中を転進(退却)していきました。<br /><br /> そしてその人たちは、スコール(大雨)に襲われて、次々とマラリアにかかって倒れていき、結局退避地に着いたのは2千人ほどでした。<br /><br /> ということは、5千人もの人たちが、このジャングルの中で戦病死してしまったということになります。<br /><br /> このニューギニア戦では、戦って倒れた人も多かったけれども、このような病気や飢餓(きが)によって亡くなった人たちの数の方が、それを上回っていたようです。<br /><br /><br /> 同じ日(1944年の4月22日)に連合軍を迎えたアイタペ(※浜田)では、総勢2千名中、450名ほどが戦闘用の守備隊でした。<br /><br /> 彼らもホーランジア(※下関)の場合と同じく、瞬(またた)く間に大軍に攻め込まれて撤退し、ジャングルの中を転進していきました。<br /><br /> この部隊は東西に分かれて転進しました。<br /><br /> 東へ向かった500人の部隊は、途中で連合軍と遭遇して戦った後、200人が生き残ってウェワク(※松江)から来た部隊と合流しました。

     その1万5千人が、5万人に近い連合軍を迎え撃ちましたが、結局数日で半数の7千人ほどとなって、その生き残った人たちは、ジャングルの中を転進(退却)していきました。

     そしてその人たちは、スコール(大雨)に襲われて、次々とマラリアにかかって倒れていき、結局退避地に着いたのは2千人ほどでした。

     ということは、5千人もの人たちが、このジャングルの中で戦病死してしまったということになります。

     このニューギニア戦では、戦って倒れた人も多かったけれども、このような病気や飢餓(きが)によって亡くなった人たちの数の方が、それを上回っていたようです。


     同じ日(1944年の4月22日)に連合軍を迎えたアイタペ(※浜田)では、総勢2千名中、450名ほどが戦闘用の守備隊でした。

     彼らもホーランジア(※下関)の場合と同じく、瞬(またた)く間に大軍に攻め込まれて撤退し、ジャングルの中を転進していきました。

     この部隊は東西に分かれて転進しました。

     東へ向かった500人の部隊は、途中で連合軍と遭遇して戦った後、200人が生き残ってウェワク(※松江)から来た部隊と合流しました。

  •  西へ向かった1500人の部隊は、アイタペ(※浜田)とホーランジア(※下関)の間にいた部隊と合流しましたが、4千人になったその部隊は、両側の連合軍にはさまれたまま、ジャングル内で飢餓(きが)や病気で多くの将兵を失いました。<br /><br /> ようやくホーランジア(※下関)の西側に抜け出ることができた人たちも、そこにいた連合軍と戦って、壊滅(かいめつ)状態になって、そのままジャングルに消えていきました。<br /><br /> このようにしてマッカーサーは、連合軍の兵士をほとんど失うことなく、多くの日本軍を無力化することに成功しました。<br /><br /> このとき(4月22日)、マッカーサー自身もホーランジア(※下関)に上陸し、翌日(4月23日)にはアイタペ(※浜田)に飛んで、前線で指揮をとりました。<br /><br /><br /> マッカーサーの目標はとにかくフィリピンを奪還(だっかん)することだったといいます。<br /><br /> 彼は、戦前に日本やフィリピンに滞在していたので、日本やフィリピンの様子には詳(くわ)しく、とりわけフィリピンには強い愛着があったようです。<br /><br /> そのためこのホーランジア(※下関)を攻略して、ここをフィリピン奪還(だっかん)への出発点にしようと思っていました。

     西へ向かった1500人の部隊は、アイタペ(※浜田)とホーランジア(※下関)の間にいた部隊と合流しましたが、4千人になったその部隊は、両側の連合軍にはさまれたまま、ジャングル内で飢餓(きが)や病気で多くの将兵を失いました。

     ようやくホーランジア(※下関)の西側に抜け出ることができた人たちも、そこにいた連合軍と戦って、壊滅(かいめつ)状態になって、そのままジャングルに消えていきました。

     このようにしてマッカーサーは、連合軍の兵士をほとんど失うことなく、多くの日本軍を無力化することに成功しました。

     このとき(4月22日)、マッカーサー自身もホーランジア(※下関)に上陸し、翌日(4月23日)にはアイタペ(※浜田)に飛んで、前線で指揮をとりました。


     マッカーサーの目標はとにかくフィリピンを奪還(だっかん)することだったといいます。

     彼は、戦前に日本やフィリピンに滞在していたので、日本やフィリピンの様子には詳(くわ)しく、とりわけフィリピンには強い愛着があったようです。

     そのためこのホーランジア(※下関)を攻略して、ここをフィリピン奪還(だっかん)への出発点にしようと思っていました。

  •  このアイタペ(※浜田)とホーランジア(※下関)上陸の2日後の4月22日、かつて日本軍が司令部を置いていたマダン(※舞鶴)も、連合軍によって占領されました。<br /><br /> (ここで使っている多くの写真は、そのマダンのものです。)<br /><br /> <br /> 5月27日には連合軍はホーランジア(※下関)を脅(おびや)かす位置にあるビアク島にも上陸しました。<br /><br /> ビアク島はホーランジアを下関とすると、韓国の済州島よりもやや遠いところにある、淡路島の3倍ほどの島です。<br /><br /> ここには1万2千人もの日本軍の守備隊がいましたが、連合軍はそこに3万人ほどで上陸を開始しました。

     このアイタペ(※浜田)とホーランジア(※下関)上陸の2日後の4月22日、かつて日本軍が司令部を置いていたマダン(※舞鶴)も、連合軍によって占領されました。

     (ここで使っている多くの写真は、そのマダンのものです。)

     
     5月27日には連合軍はホーランジア(※下関)を脅(おびや)かす位置にあるビアク島にも上陸しました。

     ビアク島はホーランジアを下関とすると、韓国の済州島よりもやや遠いところにある、淡路島の3倍ほどの島です。

     ここには1万2千人もの日本軍の守備隊がいましたが、連合軍はそこに3万人ほどで上陸を開始しました。

  •  最初に艦砲射撃や空爆でであたりの草木を焼き尽くし、戦車に続いて将兵が上陸していくというこれまで同様の方法で攻め込んできました。<br /><br /> 日本軍は物量と数に勝る相手に対して、突撃と全滅(ぜんめつ)を繰り返しながら、どんどんその数を減らしていきました。<br /><br /> そして、ちょうどひと月後の6月27日に、全軍が玉砕(ぎょくさい)(突撃して全滅)しました。 <br /><br />(しかし終戦のときに、近くの島で86人の生存者が見つかりました。)

     最初に艦砲射撃や空爆でであたりの草木を焼き尽くし、戦車に続いて将兵が上陸していくというこれまで同様の方法で攻め込んできました。

     日本軍は物量と数に勝る相手に対して、突撃と全滅(ぜんめつ)を繰り返しながら、どんどんその数を減らしていきました。

     そして、ちょうどひと月後の6月27日に、全軍が玉砕(ぎょくさい)(突撃して全滅)しました。 

    (しかし終戦のときに、近くの島で86人の生存者が見つかりました。)

  •  ニューギニア島に置き去りにされた日本軍は、アイタペとホーランジア奪還(だっかん)という名目で総攻撃を計画しました。<br /><br /> 当然、圧倒的な数と物量の差があるので、奪還できないことはわかっていましたが、最後に華(はな)と散るというような、上層部の軍人魂(だましい)によるものでした。<br /><br /><br /> 各地から飢餓と病気に苦しみながらも5万5千人がアイタペ(※浜田)の周りに集結しました。<br /><br /> そして7月6日にに総攻撃を開始しました。<br /><br /><br /> ほぼひと月の間、その攻撃を続けましたが、攻め込んだり押し戻されたりするうちに、どんどん兵士の数を減らしていきました。<br /><br /> そして結局8月3日に、奪還できないままにその攻撃を中止しました。<br /><br /><br /> 空腹のままひと月もの間、死力を尽くして戦ったので、ウェワク(※松江)に戻るときには、軍規は乱れ、中には友軍の兵士を殺してその肉を食うような者まで現れたといいます。<br /><br /> そのような人間としての極限をはるかに越えたような境遇の中で多くの人が死に行き、残った人たちが、地獄の記憶を引きずりながら、ウェワクにたどり着きました。

     ニューギニア島に置き去りにされた日本軍は、アイタペとホーランジア奪還(だっかん)という名目で総攻撃を計画しました。

     当然、圧倒的な数と物量の差があるので、奪還できないことはわかっていましたが、最後に華(はな)と散るというような、上層部の軍人魂(だましい)によるものでした。


     各地から飢餓と病気に苦しみながらも5万5千人がアイタペ(※浜田)の周りに集結しました。

     そして7月6日にに総攻撃を開始しました。


     ほぼひと月の間、その攻撃を続けましたが、攻め込んだり押し戻されたりするうちに、どんどん兵士の数を減らしていきました。

     そして結局8月3日に、奪還できないままにその攻撃を中止しました。


     空腹のままひと月もの間、死力を尽くして戦ったので、ウェワク(※松江)に戻るときには、軍規は乱れ、中には友軍の兵士を殺してその肉を食うような者まで現れたといいます。

     そのような人間としての極限をはるかに越えたような境遇の中で多くの人が死に行き、残った人たちが、地獄の記憶を引きずりながら、ウェワクにたどり着きました。

  •  日本軍はこのひと月に渡るアイタペ攻撃で、半数の将兵を失いました。<br /><br /> その後の撤退中の戦いや病死者も含めて、集結した5万5千人の中の、4万3千人もの人たちが亡くなりました。<br /><br /> この攻撃を受けて、連合軍側も3千人ほどの人たちが亡くなりました。<br /><br /><br /> この頃は、サイパン島の守備隊が玉砕(ぎょくさい)し、米軍がグアム島に上陸を始めていました。<br /><br /> そのため連合軍側にとっては、ニューギニアはもう、戦略的価値はありませんでした。

     日本軍はこのひと月に渡るアイタペ攻撃で、半数の将兵を失いました。

     その後の撤退中の戦いや病死者も含めて、集結した5万5千人の中の、4万3千人もの人たちが亡くなりました。

     この攻撃を受けて、連合軍側も3千人ほどの人たちが亡くなりました。


     この頃は、サイパン島の守備隊が玉砕(ぎょくさい)し、米軍がグアム島に上陸を始めていました。

     そのため連合軍側にとっては、ニューギニアはもう、戦略的価値はありませんでした。

  •  アイタペは奪還の見込みはないことはわかっていたので、もしこの攻撃を行わずに、そのままウェワク(※松江)で篭城(ろうじょう)するか、ジャングルに潜んで自給の道を探っていたら、終戦後にこの何万人もの人のうちの多くが生きて帰国することができていたはずです。<br /><br /> そしてその後はこの人たちは、もっと違ったかたちで、世界の平和のために尽くせたのではないかと思われます。<br /><br /><br /> その2ヶ月後の1944年の10月、ホーランジア(※下関)に、おびただしい数の連合軍の船団が集結しました。<br /><br /> そしてそこからフィリピンへ向かって出港していきました。<br /><br /> 翌年8月に終戦を迎える10ヶ月ほど前のことでした。

     アイタペは奪還の見込みはないことはわかっていたので、もしこの攻撃を行わずに、そのままウェワク(※松江)で篭城(ろうじょう)するか、ジャングルに潜んで自給の道を探っていたら、終戦後にこの何万人もの人のうちの多くが生きて帰国することができていたはずです。

     そしてその後はこの人たちは、もっと違ったかたちで、世界の平和のために尽くせたのではないかと思われます。


     その2ヶ月後の1944年の10月、ホーランジア(※下関)に、おびただしい数の連合軍の船団が集結しました。

     そしてそこからフィリピンへ向かって出港していきました。

     翌年8月に終戦を迎える10ヶ月ほど前のことでした。

  •  そしてその10ヶ月ほどの間に、フィリピン、沖縄、日本本土などで、このニューギニアでの犠牲者をはるかに上回る数の人たちが亡くなっていくことになります。<br /><br /><br /> 結局このニューギニア島に足を踏み入れた日本軍の将兵のうち、生きて再びこの島から出ることができたのは10人に1人ほどだったようです。<br /><br /> 西部ニューギニアと合わせると、ニューギニアで亡くなった人の数は、20万人ほどになるようです。<br /><br /> そして、この人たちの中には、相手を直接には一人も殺すことなく亡くなった人たちも多くいるでしょう。<br /><br /> また、それ以外の人たちはすべて、自分や戦友、そして

     そしてその10ヶ月ほどの間に、フィリピン、沖縄、日本本土などで、このニューギニアでの犠牲者をはるかに上回る数の人たちが亡くなっていくことになります。


     結局このニューギニア島に足を踏み入れた日本軍の将兵のうち、生きて再びこの島から出ることができたのは10人に1人ほどだったようです。

     西部ニューギニアと合わせると、ニューギニアで亡くなった人の数は、20万人ほどになるようです。

     そして、この人たちの中には、相手を直接には一人も殺すことなく亡くなった人たちも多くいるでしょう。

     また、それ以外の人たちはすべて、自分や戦友、そして

  • 自分の家族を守るために止む無く相手を殺してしまった人たちでしょう。<br /><br /> 殺戮(さつりく)が好きで、このような戦いに参加した人などは一人もいません。<br /><br /> もしこの自国の方針の犠牲となった人たちの霊(れい)を弔(とむら)うということに問題があるとしたらそれはどこにあるのでしょうか。<br /><br /> それは、今、想うに、自国の人たちと同じように、相手の国の人たちにも、そのような犠牲者がいる。<br /><br /> そしてそれにも増して、まったく戦闘の意思のない地元の人たちにも多くの犠牲を出してしまったということを考えていないということでしょう。

    自分の家族を守るために止む無く相手を殺してしまった人たちでしょう。

     殺戮(さつりく)が好きで、このような戦いに参加した人などは一人もいません。

     もしこの自国の方針の犠牲となった人たちの霊(れい)を弔(とむら)うということに問題があるとしたらそれはどこにあるのでしょうか。

     それは、今、想うに、自国の人たちと同じように、相手の国の人たちにも、そのような犠牲者がいる。

     そしてそれにも増して、まったく戦闘の意思のない地元の人たちにも多くの犠牲を出してしまったということを考えていないということでしょう。

  •  自国の人を弔うときには、必ずその前に、犠牲となった現地の非戦闘員の人たちのことを考え、まずその人たちを弔わなければならないのではないでしょうか。<br /><br /> それを行って初めて、自国の戦闘員として組み込まれてしまった人たちの霊を弔うことができるのではないでしょうか?<br /><br /> これは戦勝国にとっても同じことでしょう。<br /><br /> 戦争によって犠牲になった現地の人たちを弔うことこそ、平和への第一歩ではないかと思いました。<br /><br /> ニューギニアを訪れたことをきっかけに、この地で何があったのかを調べていくうちに、たくさんの驚くべき事実を知ることになりました。

     自国の人を弔うときには、必ずその前に、犠牲となった現地の非戦闘員の人たちのことを考え、まずその人たちを弔わなければならないのではないでしょうか。

     それを行って初めて、自国の戦闘員として組み込まれてしまった人たちの霊を弔うことができるのではないでしょうか?

     これは戦勝国にとっても同じことでしょう。

     戦争によって犠牲になった現地の人たちを弔うことこそ、平和への第一歩ではないかと思いました。

     ニューギニアを訪れたことをきっかけに、この地で何があったのかを調べていくうちに、たくさんの驚くべき事実を知ることになりました。

  •  そしてその結果、今日の平和の有難さを身にしみて感じました。<br /><br /> 調べてみて本当によかったと思いました。<br /><br /><br /><br />      (完)<br /><br /><br /><br /><br /> ※ このブログの多くの部分は草思社の「米軍が記録したニューギニアの戦い」(森山康平氏編著1995年)やウェブサイトを参考にしています。

     そしてその結果、今日の平和の有難さを身にしみて感じました。

     調べてみて本当によかったと思いました。



          (完)




     ※ このブログの多くの部分は草思社の「米軍が記録したニューギニアの戦い」(森山康平氏編著1995年)やウェブサイトを参考にしています。

  •  ニューギニアの戦いにおける主な出来事を整理して見ました。<br /><br />1941年<br /> 12月 8日 真珠湾攻撃 日米開戦<br />1942年<br />  1月23日 日本軍、ラバウルを占領<br />  3月 8日 日本軍、ラエとサラモアを占領<br />  5月 7日 珊瑚海海戦開始(〜8日)<br />  6月 5日 ミッドウェイ海戦開始(〜7日)<br />  7月 6日 日本軍、ガダルカナル島に上陸<br />  8月 7日 米軍、ガダルカナル島に上陸<br />     18日 日本軍、ブナ地区のバサブアに上陸<br />  9月16日 日本軍、イオリバイワを占領<br />         (その後、撤退)<br /> 11月16日 連合軍、ブナ地区のバサブアに上陸<br /> 12月18日 日本軍、ウエワクとマダンを占領<br />     19日 日本軍、フィンシュハーフェンを占領<br />1943年<br />  1月20日 日本軍、ブナ地区から撤退<br />  2月 7日 日本軍、ガダルカナル島からの撤退完了<br />  3月 3日 日本軍の輸送船団、ダンピール海峡で<br />         撃沈される<br />  4月18日 連合艦隊司令長官山本五十六大将戦死<br />  9月 4日 連合軍、ラエ地区に上陸<br />     15日 日本軍、ラエ・サラモア部隊の撤退完了<br />  9月22日 連合軍、フィンシュハーフェンに上陸<br />1944年<br />  1月 2日 連合軍、サイドルに上陸<br />  3月 8日 連合軍、マヌス島に上陸<br />  4月22日 連合軍、ホーランジアとアイタペに上陸

     ニューギニアの戦いにおける主な出来事を整理して見ました。

    1941年
     12月 8日 真珠湾攻撃 日米開戦
    1942年
      1月23日 日本軍、ラバウルを占領
      3月 8日 日本軍、ラエとサラモアを占領
      5月 7日 珊瑚海海戦開始(〜8日)
      6月 5日 ミッドウェイ海戦開始(〜7日)
      7月 6日 日本軍、ガダルカナル島に上陸
      8月 7日 米軍、ガダルカナル島に上陸
         18日 日本軍、ブナ地区のバサブアに上陸
      9月16日 日本軍、イオリバイワを占領
             (その後、撤退)
     11月16日 連合軍、ブナ地区のバサブアに上陸
     12月18日 日本軍、ウエワクとマダンを占領
         19日 日本軍、フィンシュハーフェンを占領
    1943年
      1月20日 日本軍、ブナ地区から撤退
      2月 7日 日本軍、ガダルカナル島からの撤退完了
      3月 3日 日本軍の輸送船団、ダンピール海峡で
             撃沈される
      4月18日 連合艦隊司令長官山本五十六大将戦死
      9月 4日 連合軍、ラエ地区に上陸
         15日 日本軍、ラエ・サラモア部隊の撤退完了
      9月22日 連合軍、フィンシュハーフェンに上陸
    1944年
      1月 2日 連合軍、サイドルに上陸
      3月 8日 連合軍、マヌス島に上陸
      4月22日 連合軍、ホーランジアとアイタペに上陸

  •   5月27日 連合軍、ビアク島に上陸<br />  6月15日 米軍、サイパン島に上陸<br />  7月 7日 日本軍、サイパン島守備隊玉砕<br />     10日 日本軍、アイタペの連合軍に攻撃開始<br />     21日 米軍、グアム島に上陸<br />  8月 3日 日本軍、アイタベ攻撃を中止して<br />         ウエワク地区に集結を下令<br />     11日 日本軍、グアム島守備隊玉砕<br />     22日 日本軍、ビアク島守備隊、連絡を絶つ<br />1945年<br />  2月19日 米軍、硫黄島に上陸<br />  3月 3日 米軍、マニラを完全占領<br />  4月 1日 米軍、沖縄本島に上陸開始<br />  8月 6日 米軍、広島に原爆を投下<br />      9日 米軍、長崎に原爆を投下<br />     15日 正午に「終戦詔書」を玉音放送

      5月27日 連合軍、ビアク島に上陸
      6月15日 米軍、サイパン島に上陸
      7月 7日 日本軍、サイパン島守備隊玉砕
         10日 日本軍、アイタペの連合軍に攻撃開始
         21日 米軍、グアム島に上陸
      8月 3日 日本軍、アイタベ攻撃を中止して
             ウエワク地区に集結を下令
         11日 日本軍、グアム島守備隊玉砕
         22日 日本軍、ビアク島守備隊、連絡を絶つ
    1945年
      2月19日 米軍、硫黄島に上陸
      3月 3日 米軍、マニラを完全占領
      4月 1日 米軍、沖縄本島に上陸開始
      8月 6日 米軍、広島に原爆を投下
          9日 米軍、長崎に原爆を投下
         15日 正午に「終戦詔書」を玉音放送

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