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 今から70年ほど前、この地球は大変なことになっていました。<br /><br /> ヨーロッパやアジアやアフリカなどで、たくさんの国が総力を挙げて戦争をしていました。<br /><br /> 第二次世界大戦とよばれる戦争です。<br /><br /><br /> この戦争は1939年にヨーロッパで始まりました。<br /><br /> ヨーロッパではドイツやイタリアがイギリスやフランスと戦っていました。<br /><br /> その後、ソビエト連邦(現在のロシアやウクライナなどが集まった国家)も連合国側として参戦しました。(1941年6月)<br /><br /> ドイツやイタリアはヨーロッパ大陸の縦軸の位置にあって、民族的なまとまりが強く、これらの国々が中心となって世界をリードしようとしていたので、枢軸(すうじく)国(中心となる国)と呼ばれていました。<br /><br /> それに対して、イギリスやフランス、ソ連などは、多くの国が連合していたので、連合国と呼ばれていました。<br /><br /><br /> アジアでは日本がすでに中国と戦っていましたが、その頃は日独伊三国軍事同盟を結んでいたので、ドイツがフランスを占領したときに日本軍が、フランス領インドシナ(現在のベトナム、ラオス、カンボジア)に進駐しました。<br /><br /> そして1941年の12月、ついに日本は中国を擁護(ようご)していたイギリスやアメリカと戦争を始めました。<br /><br /> この太平洋を中心として戦われた戦争を、太平洋戦争といいます。<br /><br /><br /> これをきっかけにアメリカは連合国の一員として、ヨーロッパでも参戦することになりました。<br /><br /> こうしてこの戦争は、ドイツ、イタリア、日本などの枢軸国と、イギリス、ソ連、アメリカ、中国などを中心とする連合国との間の大規模な戦いとして、世界中に広がっていきました。<br /><br /><br /> 開戦後、日本はグアムやフィリピン、東インド諸島(現インドネシア)などを次々に占領していきました。<br /><br /> そして、ついにニューギニア島への上陸が始まりました。

太平洋戦争 ニューギニア戦線を辿る 前編 (8.10~16) 08夏

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2008/08/23 - 2008/08/23

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ライオンベラー

ライオンベラーさん

 今から70年ほど前、この地球は大変なことになっていました。

 ヨーロッパやアジアやアフリカなどで、たくさんの国が総力を挙げて戦争をしていました。

 第二次世界大戦とよばれる戦争です。


 この戦争は1939年にヨーロッパで始まりました。

 ヨーロッパではドイツやイタリアがイギリスやフランスと戦っていました。

 その後、ソビエト連邦(現在のロシアやウクライナなどが集まった国家)も連合国側として参戦しました。(1941年6月)

 ドイツやイタリアはヨーロッパ大陸の縦軸の位置にあって、民族的なまとまりが強く、これらの国々が中心となって世界をリードしようとしていたので、枢軸(すうじく)国(中心となる国)と呼ばれていました。

 それに対して、イギリスやフランス、ソ連などは、多くの国が連合していたので、連合国と呼ばれていました。


 アジアでは日本がすでに中国と戦っていましたが、その頃は日独伊三国軍事同盟を結んでいたので、ドイツがフランスを占領したときに日本軍が、フランス領インドシナ(現在のベトナム、ラオス、カンボジア)に進駐しました。

 そして1941年の12月、ついに日本は中国を擁護(ようご)していたイギリスやアメリカと戦争を始めました。

 この太平洋を中心として戦われた戦争を、太平洋戦争といいます。


 これをきっかけにアメリカは連合国の一員として、ヨーロッパでも参戦することになりました。

 こうしてこの戦争は、ドイツ、イタリア、日本などの枢軸国と、イギリス、ソ連、アメリカ、中国などを中心とする連合国との間の大規模な戦いとして、世界中に広がっていきました。


 開戦後、日本はグアムやフィリピン、東インド諸島(現インドネシア)などを次々に占領していきました。

 そして、ついにニューギニア島への上陸が始まりました。

同行者
その他
一人あたり費用
30万円 - 50万円
交通手段
観光バス
  •  実際には、日米開戦前は、太平洋上の島々の多くは、既に日本の統治下に置かれていました。<br /><br /><br /> 日米開戦は1941年の末のことですが、その28年ほど前の1914年には第一次世界大戦が起こりました。<br /><br /> そのとき、日本は連合国側の国として参戦し、オーストラリア軍を北アフリカに輸送するなどして、相応に勝利に貢献したので、1919年のベルサイユ条約のときに、その見返りとしてドイツ領だったこれらの島々の統治権を譲り受けていました。<br /><br /> そして、その後20年以上もの間、島の人たちに日本語や日本文化の教育などを行っていました。<br /><br /><br /> その島々とは、西太平洋の赤道以北の島々で、具体的にはマリアナ諸島、パラオ諸島、トラック諸島、マーシャル諸島などです。<br /><br /> ただし、マリアナ諸島の中のグアム島は、ドイツ領ではなくてアメリカ領だったので、そのままアメリカが統治していました。<br /><br /><br /> これらの写真(西向き)は帰国時に撮ったものなので、逆に並べながら南下していきます。<br /><br /> この写真はマリアナ諸島のあたりでしょうか?

     実際には、日米開戦前は、太平洋上の島々の多くは、既に日本の統治下に置かれていました。


     日米開戦は1941年の末のことですが、その28年ほど前の1914年には第一次世界大戦が起こりました。

     そのとき、日本は連合国側の国として参戦し、オーストラリア軍を北アフリカに輸送するなどして、相応に勝利に貢献したので、1919年のベルサイユ条約のときに、その見返りとしてドイツ領だったこれらの島々の統治権を譲り受けていました。

     そして、その後20年以上もの間、島の人たちに日本語や日本文化の教育などを行っていました。


     その島々とは、西太平洋の赤道以北の島々で、具体的にはマリアナ諸島、パラオ諸島、トラック諸島、マーシャル諸島などです。

     ただし、マリアナ諸島の中のグアム島は、ドイツ領ではなくてアメリカ領だったので、そのままアメリカが統治していました。


     これらの写真(西向き)は帰国時に撮ったものなので、逆に並べながら南下していきます。

     この写真はマリアナ諸島のあたりでしょうか?

  •  ところで、伊豆の八丈島は緯度的にはどのあたりにあるのでしょうか?<br /><br /> 調べてみると、紀伊半島最南端の大島や四国の室戸岬(むろとみさき)よりは南で、四国の足摺(あしずり)岬よりは北にありました。<br /><br /> 九州では大分よりは南、熊本よりは北になります。<br /><br /><br /> 伊豆諸島には縄文時代から人が住んでいて、江戸時代は幕府の直轄(ちょっかつ)地でした。<br /><br /><br /> 伊豆諸島の南端には鳥島があります。<br /><br /> 鳥島の緯度は、種子島(たねがしま)と同じぐらいです。(北緯約30度)<br /><br /><br /> 伊豆諸島の南には小笠原諸島があります。<br /><br /> 小笠原諸島の緯度は、沖縄を含む南西諸島と同じぐらいになります。<br /><br /><br /> 小笠原諸島は江戸時代初期に発見されて、江戸時代末期に入植が始まったようです。<br /><br /> 明治時代の初期に日本の領有が確定しています。

     ところで、伊豆の八丈島は緯度的にはどのあたりにあるのでしょうか?

     調べてみると、紀伊半島最南端の大島や四国の室戸岬(むろとみさき)よりは南で、四国の足摺(あしずり)岬よりは北にありました。

     九州では大分よりは南、熊本よりは北になります。


     伊豆諸島には縄文時代から人が住んでいて、江戸時代は幕府の直轄(ちょっかつ)地でした。


     伊豆諸島の南端には鳥島があります。

     鳥島の緯度は、種子島(たねがしま)と同じぐらいです。(北緯約30度)


     伊豆諸島の南には小笠原諸島があります。

     小笠原諸島の緯度は、沖縄を含む南西諸島と同じぐらいになります。


     小笠原諸島は江戸時代初期に発見されて、江戸時代末期に入植が始まったようです。

     明治時代の初期に日本の領有が確定しています。

  •  太平洋戦争の激戦地のひとつ、ミッドウェー諸島<br />も、緯度は小笠原諸島ぐらいです。<br /><br /> 位置は、ここから東へ経度で40度ぐらいです。(距離では東京ー福岡間の4倍ほど)<br /><br /><br /> 小笠原諸島の南部には硫黄島があります。<br /><br /> 太平洋戦争前は小笠原諸島の1つとして人々が生活していましたが、大戦末期には激戦地となり、日本軍は全滅しました。<br /><br /> 現在は自衛隊の基地があるだけで、民間人の上陸は許可されていません。<br /><br /> 硫黄島の緯度は台湾と同じぐらいです。<br /><br /><br /> 硫黄島の南がマリアナ諸島(写真のあたり)です。<br /><br /> 南部にサイパン島とグアム島を含む諸島です。<br /><br /> マリアナ諸島の北部はハワイと同じぐらいの緯度(北緯20度ぐらい)で、台湾とフィリピンの間ぐらいになります。<br /><br /> サイパン島とグアム島はフィリピン中部ぐらいの緯度になります。<br /><br /> これらの諸島はすべて、南北に長く伸びています。

     太平洋戦争の激戦地のひとつ、ミッドウェー諸島
    も、緯度は小笠原諸島ぐらいです。

     位置は、ここから東へ経度で40度ぐらいです。(距離では東京ー福岡間の4倍ほど)


     小笠原諸島の南部には硫黄島があります。

     太平洋戦争前は小笠原諸島の1つとして人々が生活していましたが、大戦末期には激戦地となり、日本軍は全滅しました。

     現在は自衛隊の基地があるだけで、民間人の上陸は許可されていません。

     硫黄島の緯度は台湾と同じぐらいです。


     硫黄島の南がマリアナ諸島(写真のあたり)です。

     南部にサイパン島とグアム島を含む諸島です。

     マリアナ諸島の北部はハワイと同じぐらいの緯度(北緯20度ぐらい)で、台湾とフィリピンの間ぐらいになります。

     サイパン島とグアム島はフィリピン中部ぐらいの緯度になります。

     これらの諸島はすべて、南北に長く伸びています。

  •  時間的に考えれば、この写真はサイパン島のあたりになるはずです。<br /><br /> とすれば、サイパン島はこの反対側(東側)の下方遠方に見えるはずです。(写真は西向き)<br /><br /> その南のグアム島は現在はリゾート化されて、毎年多くの人が訪れています。<br /><br /> グアム島のあたりが成田、ポートモレスビー間のちょうど中間(離陸後3時間ぐらい)になります。<br /><br /><br /> 太平洋戦争開戦時は、このあたりではこのグアム島だけが、アメリカの統治下にあって、サイパン島など、他のすべての島々は日本の統治下にありました。

     時間的に考えれば、この写真はサイパン島のあたりになるはずです。

     とすれば、サイパン島はこの反対側(東側)の下方遠方に見えるはずです。(写真は西向き)

     その南のグアム島は現在はリゾート化されて、毎年多くの人が訪れています。

     グアム島のあたりが成田、ポートモレスビー間のちょうど中間(離陸後3時間ぐらい)になります。


     太平洋戦争開戦時は、このあたりではこのグアム島だけが、アメリカの統治下にあって、サイパン島など、他のすべての島々は日本の統治下にありました。

  •  グアム島までの島々は南北に連なっていました。<br /><br /> しかし、そこから赤道までの島々は東西に連なっています。<br /><br /> 西から順に、パラオ諸島、カロリン諸島、トラック諸島、マーシャル諸島です。<br /><br /> 日本が統治していたのはここまでで、その南東のギルバート諸島や、北のウェーク島はアメリカが統治していました。<br /><br /><br /> さて、それでは赤道の南はどのような状況にあったのでしょうか?

     グアム島までの島々は南北に連なっていました。

     しかし、そこから赤道までの島々は東西に連なっています。

     西から順に、パラオ諸島、カロリン諸島、トラック諸島、マーシャル諸島です。

     日本が統治していたのはここまでで、その南東のギルバート諸島や、北のウェーク島はアメリカが統治していました。


     さて、それでは赤道の南はどのような状況にあったのでしょうか?

  •  オーストラリアがイギリスから独立したのは1901年のことです。<br /><br /> 独立後13年目に第一次世界大戦が起こり、その後25年経って第二次世界大戦が起こりました。<br /><br /> ニューギニアは西半分がオランダ、東北部がドイツ、東南部がオーストラリアが統治していましたが、第一次世界大戦後は、東北部もオーストラリアの委任統治領になりました。<br /><br /> ニューギニア島の北にあるビスマルク諸島は第一次世界大戦前からオーストラリアの統治領でした。<br /><br /> ビスマルク諸島にはニューブリテン島やブーゲンビル島などが含まれます。

     オーストラリアがイギリスから独立したのは1901年のことです。

     独立後13年目に第一次世界大戦が起こり、その後25年経って第二次世界大戦が起こりました。

     ニューギニアは西半分がオランダ、東北部がドイツ、東南部がオーストラリアが統治していましたが、第一次世界大戦後は、東北部もオーストラリアの委任統治領になりました。

     ニューギニア島の北にあるビスマルク諸島は第一次世界大戦前からオーストラリアの統治領でした。

     ビスマルク諸島にはニューブリテン島やブーゲンビル島などが含まれます。

  •  その他、フィリピンはアメリカ領、東インド(現インドネシア)はオランダ領でした。<br /><br /><br /> そのころ、日本は中国大陸に進行して、中国を支援するイギリスやアメリカと対立していました。<br /><br /> そんな状況の中でヨーロッパで第ニ次世界大戦が起こり、ドイツがフランスを占領しました。<br /><br /> これを機に日本はフランス領インドシナ(現在のベトナムやラオス、カンボジア)に進行し、日独伊三国同盟を結びました。<br /><br /> これによって、ドイツと対立するイギリスやアメリカとの戦争はもはや避けられないものとなってしまいました。

     その他、フィリピンはアメリカ領、東インド(現インドネシア)はオランダ領でした。


     そのころ、日本は中国大陸に進行して、中国を支援するイギリスやアメリカと対立していました。

     そんな状況の中でヨーロッパで第ニ次世界大戦が起こり、ドイツがフランスを占領しました。

     これを機に日本はフランス領インドシナ(現在のベトナムやラオス、カンボジア)に進行し、日独伊三国同盟を結びました。

     これによって、ドイツと対立するイギリスやアメリカとの戦争はもはや避けられないものとなってしまいました。

  •  写真は首都のポートモレスビーです。<br /><br /> 向きは北向きで、写真の左が湾になっています。<br /><br /> 半島部分から撮っていて、後方に海が広がっています。<br /><br /><br /> 現在の人口は30万人ほどですが、太平洋戦争当時は都市の規模は、それほど大きくはありませんでした。<br /><br /> 太平洋戦争開戦当時は、オーストラリアがここを中心にニューギニア東南部(旧イギリス統治領)を治めていました。<br /><br /><br /> ニューギニア島の東北部は第一次世界大戦開戦(1914年)まではドイツが統治していましたが、その後は

     写真は首都のポートモレスビーです。

     向きは北向きで、写真の左が湾になっています。

     半島部分から撮っていて、後方に海が広がっています。


     現在の人口は30万人ほどですが、太平洋戦争当時は都市の規模は、それほど大きくはありませんでした。

     太平洋戦争開戦当時は、オーストラリアがここを中心にニューギニア東南部(旧イギリス統治領)を治めていました。


     ニューギニア島の東北部は第一次世界大戦開戦(1914年)まではドイツが統治していましたが、その後は

  • 国際連盟の委任統治領として、そこもオーストラリアが統治することになりました。<br /><br /> そこは東南部の直接統治領とは2000m級の山脈で隔てられているため、ニューブリテン島のラバウルを中心として治められていました。<br /><br /><br /> ラバウルの北は赤道が迫り、その赤道以北は日本の統治下にあります。<br /><br /> もし、対日戦争が始まれば、ラバウルは最前線になり、枢軸国側に占領されてしまう可能性もあります。<br /><br /><br /> もしそうなれば、連合国側にとっては,このポートモレスビ

    国際連盟の委任統治領として、そこもオーストラリアが統治することになりました。

     そこは東南部の直接統治領とは2000m級の山脈で隔てられているため、ニューブリテン島のラバウルを中心として治められていました。


     ラバウルの北は赤道が迫り、その赤道以北は日本の統治下にあります。

     もし、対日戦争が始まれば、ラバウルは最前線になり、枢軸国側に占領されてしまう可能性もあります。


     もしそうなれば、連合国側にとっては,このポートモレスビ

  • ーが、オーストラリア防衛のための、最も重要な軍事拠点になってきます。<br /><br /><br /> オーストラリアは当時既(すで)に、連合国の一員として、北アフリカ方面に派兵していました。<br /><br /> そもそもオーストラリアの国民の大半はイギリスからの移民であり、当時は(現在も)イギリスにはたくさんの親戚があったりするので、オーストラリアにとってはイギリスと行動を共にするというのは、ごく自然な選択ということになります。<br /><br /> そしてそのイギリスやアメリカと日本との対立はますます深刻なものとなっていきました。

    ーが、オーストラリア防衛のための、最も重要な軍事拠点になってきます。


     オーストラリアは当時既(すで)に、連合国の一員として、北アフリカ方面に派兵していました。

     そもそもオーストラリアの国民の大半はイギリスからの移民であり、当時は(現在も)イギリスにはたくさんの親戚があったりするので、オーストラリアにとってはイギリスと行動を共にするというのは、ごく自然な選択ということになります。

     そしてそのイギリスやアメリカと日本との対立はますます深刻なものとなっていきました。

  •  そんな状況の中でこの街は、1941年の12月8日、太平洋戦争の開戦の日を迎えました。<br /><br /><br /> 開戦後は日本軍は怒涛(どとう)の勢いで、太平洋地域を占拠していきました。<br /><br /> 12月8日 真珠湾攻撃、香港攻撃、フィリピン攻撃、マレー半島上陸<br /> 12月16日 ボルネオ島上陸<br /> 12月20日 フィリピン上陸<br /> 12月23日 ウェーク島占領<br /> 12月25日 香港制圧<br />  1月 2日 マニラ占領<br />  1月11日 クアラルンプール占領

     そんな状況の中でこの街は、1941年の12月8日、太平洋戦争の開戦の日を迎えました。


     開戦後は日本軍は怒涛(どとう)の勢いで、太平洋地域を占拠していきました。

     12月8日 真珠湾攻撃、香港攻撃、フィリピン攻撃、マレー半島上陸
     12月16日 ボルネオ島上陸
     12月20日 フィリピン上陸
     12月23日 ウェーク島占領
     12月25日 香港制圧
      1月 2日 マニラ占領
      1月11日 クアラルンプール占領

  •  このように日本軍は、開戦後のひと月で、東南アジアのイギリスやアメリカの領地を次々に占領していきました。<br /><br /><br /> そして、開戦ひと月半後の1月23日、ニューブリテン島のラバウルを占領しました。<br /><br /> ラバウルは、米豪(アメリカとオーストラリア)と対峙(たいじ)する日本軍にとっては、地理的にとても重要な位置にありました。<br /><br /> そこで日本軍はこのラバウルの飛行場を強化して、南方での作戦を展開するための軍事拠点としました。<br /><br />(海軍の根拠地はその北方のトラック諸島にありました。)

     このように日本軍は、開戦後のひと月で、東南アジアのイギリスやアメリカの領地を次々に占領していきました。


     そして、開戦ひと月半後の1月23日、ニューブリテン島のラバウルを占領しました。

     ラバウルは、米豪(アメリカとオーストラリア)と対峙(たいじ)する日本軍にとっては、地理的にとても重要な位置にありました。

     そこで日本軍はこのラバウルの飛行場を強化して、南方での作戦を展開するための軍事拠点としました。

    (海軍の根拠地はその北方のトラック諸島にありました。)

  •  写真は南向きで、この先にオーストラリアがあります。<br /><br /> ここが日本軍の手に落ちれば、オーストラリア本土は空爆の危機にさらされることになります。<br /><br /> そしてその後は、ここを拠点として、オーストラリア上陸作戦が展開されていくことになるでしょう。<br /><br /> 連合軍としては、何としてもここを守り通さなければなりません。<br /><br /> こうしてこの地域で、ここポートモレスビー及び、オーストラリア本土を拠点とする連合軍と、ラバウル及びトラック諸島を拠点とする日本軍が向き合うという構図ができあがりました。

     写真は南向きで、この先にオーストラリアがあります。

     ここが日本軍の手に落ちれば、オーストラリア本土は空爆の危機にさらされることになります。

     そしてその後は、ここを拠点として、オーストラリア上陸作戦が展開されていくことになるでしょう。

     連合軍としては、何としてもここを守り通さなければなりません。

     こうしてこの地域で、ここポートモレスビー及び、オーストラリア本土を拠点とする連合軍と、ラバウル及びトラック諸島を拠点とする日本軍が向き合うという構図ができあがりました。

  •  写真はニューギニア北岸のマダンです。<br /><br /> ポートモレスビーが東京とすれば、距離的にはここは京都府の舞鶴あたりになります。<br /><br /> 当時はここはまだオーストラリアの統治領でした。<br /><br /> ここから南西(写真左向き)に直線距離で200kmのところにラエという街とサラモアという街があります。<br /><br /> どちらもオーストラリア軍の飛行場がありました。<br /><br /><br /> 日本軍は1月28日にラバウルを占領しましたが、そのひと月少し経った3月7日、ラエとサラモアの攻略に向かいました。

     写真はニューギニア北岸のマダンです。

     ポートモレスビーが東京とすれば、距離的にはここは京都府の舞鶴あたりになります。

     当時はここはまだオーストラリアの統治領でした。

     ここから南西(写真左向き)に直線距離で200kmのところにラエという街とサラモアという街があります。

     どちらもオーストラリア軍の飛行場がありました。


     日本軍は1月28日にラバウルを占領しましたが、そのひと月少し経った3月7日、ラエとサラモアの攻略に向かいました。

  •  日本で例えれば、ポートモレスビーを東京とすると、ラエやサラモアは距離的には北陸の富山あたりになります。<br /><br /> 翌8日にラエには約600人、サラモアには約1000人が上陸しましたが、オーストラリア軍はすでに撤退していて、無血占領になりました。<br /><br /> しかしその日から、連合軍による激しい空襲を受け続け、毎回何十人、何百人という数の兵士が死んでいきました。<br /><br /> ラバウルからの輸送船も攻撃を受け、多くの船や兵士が海中に沈んでいきました。<br /><br /> 日本軍はラエとサラモア(※富山付近)を占領した数日後の3月10日には、続いて地理的な要地のフィンシュハーフェン(※日本では能登半島の輪島付近)をも占領しました。

     日本で例えれば、ポートモレスビーを東京とすると、ラエやサラモアは距離的には北陸の富山あたりになります。

     翌8日にラエには約600人、サラモアには約1000人が上陸しましたが、オーストラリア軍はすでに撤退していて、無血占領になりました。

     しかしその日から、連合軍による激しい空襲を受け続け、毎回何十人、何百人という数の兵士が死んでいきました。

     ラバウルからの輸送船も攻撃を受け、多くの船や兵士が海中に沈んでいきました。

     日本軍はラエとサラモア(※富山付近)を占領した数日後の3月10日には、続いて地理的な要地のフィンシュハーフェン(※日本では能登半島の輪島付近)をも占領しました。

  •  ラエやサラモアにはポートモレスビーの飛行場から次々と敵機が来襲してきます。<br /><br /> 当時のプロペラ機は空を震わすような爆音を響かせて飛来します。<br /><br /> 敵機が飛来すると、地上からは高射砲で応戦します。<br /><br /> 飛来する飛行機の爆音や応戦する機銃の音や投下される爆弾などによって、その現場は凄(すさま)じい状況だったと思われます。<br /><br /> また逆に、ここ(ラエとサラモア)やラバウルの飛行場からは日本軍機が飛び立ち、ポートモレスビーを空爆していました。

     ラエやサラモアにはポートモレスビーの飛行場から次々と敵機が来襲してきます。

     当時のプロペラ機は空を震わすような爆音を響かせて飛来します。

     敵機が飛来すると、地上からは高射砲で応戦します。

     飛来する飛行機の爆音や応戦する機銃の音や投下される爆弾などによって、その現場は凄(すさま)じい状況だったと思われます。

     また逆に、ここ(ラエとサラモア)やラバウルの飛行場からは日本軍機が飛び立ち、ポートモレスビーを空爆していました。

  •  ポートモレスビーを東京とすると、ラエやサラモアは北陸の富山あたりになります。<br /><br /> しかし、その間には日本アルプス級の山々が連なっています。<br /><br /><br /> その頃も航空機から地上は、この写真のように見えていたのでしょう。<br /><br /> そして、目標に近づき、降下して攻撃を加えます。<br /><br /> 地上からは高射砲を撃ってきます。<br /><br /> 相手の飛行機も飛び立ってきます。

     ポートモレスビーを東京とすると、ラエやサラモアは北陸の富山あたりになります。

     しかし、その間には日本アルプス級の山々が連なっています。


     その頃も航空機から地上は、この写真のように見えていたのでしょう。

     そして、目標に近づき、降下して攻撃を加えます。

     地上からは高射砲を撃ってきます。

     相手の飛行機も飛び立ってきます。

  •  そして、このような空での銃撃戦となります。<br /><br /> それらの銃弾に当たって操縦不能となれば、操縦管を引いても、倒しても、機は思うようには動きません。<br /><br /> そして次第にこの山々が近づいてきて、最後はその地面に激突してしまいます。<br /><br /> その瞬間に、帰国して再び家族や友人に会うという夢がすべて閉ざされてしまいます。<br /><br /><br /> 当時もこのニューギニアの空で、双方で多くの飛行機が撃墜され、このような地面や海に墜落していきました。

     そして、このような空での銃撃戦となります。

     それらの銃弾に当たって操縦不能となれば、操縦管を引いても、倒しても、機は思うようには動きません。

     そして次第にこの山々が近づいてきて、最後はその地面に激突してしまいます。

     その瞬間に、帰国して再び家族や友人に会うという夢がすべて閉ざされてしまいます。


     当時もこのニューギニアの空で、双方で多くの飛行機が撃墜され、このような地面や海に墜落していきました。

  •  日本軍がラエとサラモアに上陸した頃、アメリカ極東軍司令官のマッカーサーは、フィリピン防衛の指揮をとっていました。<br /><br /> しかし日本軍の猛攻の前に、3月11日、ついにフィリピンを離れ、オーストラリアのメルボルンに逃れました。<br /><br /> そこで彼は、南西太平洋方面総司令官に就任しました。(4月18日)<br /><br /><br /> その後、ブリスベンに対日拠点をおき、アメリカ、オーストラリア連合軍の指揮をとりました。<br /><br /> ラバウル方面の日本軍はそのときから、このマッカーサーが指揮する連合軍と戦うことになりました。

     日本軍がラエとサラモアに上陸した頃、アメリカ極東軍司令官のマッカーサーは、フィリピン防衛の指揮をとっていました。

     しかし日本軍の猛攻の前に、3月11日、ついにフィリピンを離れ、オーストラリアのメルボルンに逃れました。

     そこで彼は、南西太平洋方面総司令官に就任しました。(4月18日)


     その後、ブリスベンに対日拠点をおき、アメリカ、オーストラリア連合軍の指揮をとりました。

     ラバウル方面の日本軍はそのときから、このマッカーサーが指揮する連合軍と戦うことになりました。

  •  写真は再びポートモレスビーです。<br /><br /><br /> 5月、ついにこのポートモレスビーをめぐる戦いの火蓋(ひぶた)が切られました。<br /><br /> 日本軍はまず海から大軍を送り込み、ポートモレスビーに敵前上陸させて占領する計画を立てました。<br /><br /> そして、その護衛のために、空母を中心とする機動部隊を送りました。<br /><br /> 連合軍も空母の機動部隊でこれを迎え撃ちました。<br /><br /> この戦いを珊瑚(さんご)海海戦といいます。(5月7、8日)

     写真は再びポートモレスビーです。


     5月、ついにこのポートモレスビーをめぐる戦いの火蓋(ひぶた)が切られました。

     日本軍はまず海から大軍を送り込み、ポートモレスビーに敵前上陸させて占領する計画を立てました。

     そして、その護衛のために、空母を中心とする機動部隊を送りました。

     連合軍も空母の機動部隊でこれを迎え撃ちました。

     この戦いを珊瑚(さんご)海海戦といいます。(5月7、8日)

  •  それは日本軍がラエとサラモアに上陸してから2ヶ月後、太平洋戦争が始まってから、5ヶ月後のことでした。<br /><br /><br /> 写真はポートモレスビーを囲む珊瑚礁(しょう)です。<br /><br /> この海が珊瑚海で、このまま写真上方へ南下すると、オーストラリア北東岸のグレートバリアリーフに到達します。<br /><br /><br /> 珊瑚海海戦のときはポートモレスビー上陸部隊(上陸要員は約5千名)はここ(この写真の場所)を目指して、5月4日にラバウルを発ちました。<br /><br /> そして、その3日後の7日には、この写真の左(東)400〜500kmのところまで来ていました。

     それは日本軍がラエとサラモアに上陸してから2ヶ月後、太平洋戦争が始まってから、5ヶ月後のことでした。


     写真はポートモレスビーを囲む珊瑚礁(しょう)です。

     この海が珊瑚海で、このまま写真上方へ南下すると、オーストラリア北東岸のグレートバリアリーフに到達します。


     珊瑚海海戦のときはポートモレスビー上陸部隊(上陸要員は約5千名)はここ(この写真の場所)を目指して、5月4日にラバウルを発ちました。

     そして、その3日後の7日には、この写真の左(東)400〜500kmのところまで来ていました。

  •  そのとき、日米の空母を中心とする機動部隊は、その先(東)さらに数百kmの海域で動いていました。<br /><br /><br /> 日本の上陸部隊はついに敵偵察機に発見され、護衛の小型空母翔鳳(しょうほう)は百機近い敵機の攻撃を受けて沈没しました。<br /><br /> しかし5千名の上陸要員の船は無事でした。<br /> (なぜ無事だったのかは調べてみましたが、よくわかりませんでした。機動部隊と誤認されていたため、空母だけが標的になったのでしょうか?)<br /><br /><br /> 翌8日は、機動部隊の空母同士が互いに艦載(かんさい)機による攻撃を行い、米空母2隻(沈没と大破)と日本

     そのとき、日米の空母を中心とする機動部隊は、その先(東)さらに数百kmの海域で動いていました。


     日本の上陸部隊はついに敵偵察機に発見され、護衛の小型空母翔鳳(しょうほう)は百機近い敵機の攻撃を受けて沈没しました。

     しかし5千名の上陸要員の船は無事でした。
     (なぜ無事だったのかは調べてみましたが、よくわかりませんでした。機動部隊と誤認されていたため、空母だけが標的になったのでしょうか?)


     翌8日は、機動部隊の空母同士が互いに艦載(かんさい)機による攻撃を行い、米空母2隻(沈没と大破)と日本

  • の空母1隻(中破)が被害を受けました。<br /><br /> 護衛を失った日本の攻略部隊は、ポートモレスビーへの上陸をあきらめ、そのままラバウルに引き返しました。<br /><br /><br /> この海戦によっても双方に多くの戦死者が出ました。<br /><br /> 陸の戦闘の場合は、爆弾や銃弾に当たって戦死しますが、海の戦闘の場合は、船が沈むことによって多くの人が戦死します。<br /><br /> 例えば、日本の小型空母祥鳳(しょうほう)が撃沈されましたが、その乗組員の多く(700名ほど)は広大な海の中に投げ出され、戦闘機に狙撃(そげき)されたり泳ぎ疲れたりして、次々に海の底へと沈んでいきました。

    の空母1隻(中破)が被害を受けました。

     護衛を失った日本の攻略部隊は、ポートモレスビーへの上陸をあきらめ、そのままラバウルに引き返しました。


     この海戦によっても双方に多くの戦死者が出ました。

     陸の戦闘の場合は、爆弾や銃弾に当たって戦死しますが、海の戦闘の場合は、船が沈むことによって多くの人が戦死します。

     例えば、日本の小型空母祥鳳(しょうほう)が撃沈されましたが、その乗組員の多く(700名ほど)は広大な海の中に投げ出され、戦闘機に狙撃(そげき)されたり泳ぎ疲れたりして、次々に海の底へと沈んでいきました。

  •  船が沈んだときは、近くに味方の船がいれば収容されますが、いなければ何時間も大洋をさ迷った後に、海の底に沈んでいくことになります。<br /><br /> プールで続けて数十分も泳げば相当疲れるのに、何百メートル、何千メートルもの深さの広い海で何時間も泳ぎ続けるとなると、体力の消耗(しょうもう)は相当なものでしょう。<br /><br /> 疲れ果ててしまうと、最後は完全に絶望的な気持ちになってしまいます。<br /><br /> 実際の戦場では、このようにして膨大な数の人たちが、可能性のない救助を待って泳ぎ続けながら、ひとり、またひとりと海の底へ沈んでいきました。

     船が沈んだときは、近くに味方の船がいれば収容されますが、いなければ何時間も大洋をさ迷った後に、海の底に沈んでいくことになります。

     プールで続けて数十分も泳げば相当疲れるのに、何百メートル、何千メートルもの深さの広い海で何時間も泳ぎ続けるとなると、体力の消耗(しょうもう)は相当なものでしょう。

     疲れ果ててしまうと、最後は完全に絶望的な気持ちになってしまいます。

     実際の戦場では、このようにして膨大な数の人たちが、可能性のない救助を待って泳ぎ続けながら、ひとり、またひとりと海の底へ沈んでいきました。

  •  また、その翌日に攻撃を受けた大型空母翔鶴(しょうかく)は、中破したけど沈まなかったために、乗員千数百人のうち犠牲者は爆裂による被害者の100名ほどでした。<br /><br /> 当時はまだ緒戦(しょせん)の戦勝ムードに湧(わ)いていたので、ここで犠牲になった人たちも、自分もいつかは勝って帰れるだろうという希望をもっていたのではないでしょうか?<br /><br /><br /> 写真は南向きで、現在のポートモレスビーの市街地はこの少し左になります。<br /><br /> このときの上陸作戦では、正面(写真の左)から上陸する部隊と、この写真の少し右から上陸して回り込む部隊とに分かれて攻略を図る計画だったようです。

     また、その翌日に攻撃を受けた大型空母翔鶴(しょうかく)は、中破したけど沈まなかったために、乗員千数百人のうち犠牲者は爆裂による被害者の100名ほどでした。

     当時はまだ緒戦(しょせん)の戦勝ムードに湧(わ)いていたので、ここで犠牲になった人たちも、自分もいつかは勝って帰れるだろうという希望をもっていたのではないでしょうか?


     写真は南向きで、現在のポートモレスビーの市街地はこの少し左になります。

     このときの上陸作戦では、正面(写真の左)から上陸する部隊と、この写真の少し右から上陸して回り込む部隊とに分かれて攻略を図る計画だったようです。

  •  珊瑚海海戦のひと月後の6月には、ミッドウェー海戦が起こりました。<br /><br /> このとき日本海軍は空母4隻と艦載(かんさい)全機を失うという大打撃を受け、これによって海からのポートモレスビー攻略作戦は完全に中止されました。<br /><br /> 開戦からちょうど半年後のことです。<br /><br /><br /> このときから日本軍は、多大な犠牲を払いながら、敗戦への道をたどっていくことになります。<br /><br /><br /> そして、その翌月の7月、今度は陸路からのポートモレスビー攻略作戦が始まりました。

     珊瑚海海戦のひと月後の6月には、ミッドウェー海戦が起こりました。

     このとき日本海軍は空母4隻と艦載(かんさい)全機を失うという大打撃を受け、これによって海からのポートモレスビー攻略作戦は完全に中止されました。

     開戦からちょうど半年後のことです。


     このときから日本軍は、多大な犠牲を払いながら、敗戦への道をたどっていくことになります。


     そして、その翌月の7月、今度は陸路からのポートモレスビー攻略作戦が始まりました。

  •  さて、これからニューギニア島における日豪の戦いを見ていくわけですが、結局のところ、このニューギニア島の戦闘による犠牲者数はどのくらいだったのでしょうか。<br /><br /><br /> 日本だけの数字になりますが、調べてみると戦争全体の犠牲者(死者)数は約300万人で、そのうち民間人を除いた兵士の数は220万人のようです。<br /><br /> そして、このニューギニア島で亡くなった兵士の数は約20万人だということです。<br /><br /> 太平洋戦争中の兵士の犠牲者のうち約十数人に1人がこのニューギニア島で亡くなったことになります。

     さて、これからニューギニア島における日豪の戦いを見ていくわけですが、結局のところ、このニューギニア島の戦闘による犠牲者数はどのくらいだったのでしょうか。


     日本だけの数字になりますが、調べてみると戦争全体の犠牲者(死者)数は約300万人で、そのうち民間人を除いた兵士の数は220万人のようです。

     そして、このニューギニア島で亡くなった兵士の数は約20万人だということです。

     太平洋戦争中の兵士の犠牲者のうち約十数人に1人がこのニューギニア島で亡くなったことになります。

  •  写真はマダンです。<br /><br /> ポートモレスビーが東京とすれば、ここは京都府の舞鶴あたりでしょうか?<br /><br /> 日本軍が占領したラエ、サラモアは北陸の富山あたりになります。<br /><br /><br /> そして、ついに日本軍は、陸路からのポートモレスビー攻略をねらって、最短距離で進攻できるブナ地区に上陸を開始しました。<br /><br /> ブナ地区の位置は、ポートモレスビーを東京とすると、新潟県の柏崎市あたりになります。

     写真はマダンです。

     ポートモレスビーが東京とすれば、ここは京都府の舞鶴あたりでしょうか?

     日本軍が占領したラエ、サラモアは北陸の富山あたりになります。


     そして、ついに日本軍は、陸路からのポートモレスビー攻略をねらって、最短距離で進攻できるブナ地区に上陸を開始しました。

     ブナ地区の位置は、ポートモレスビーを東京とすると、新潟県の柏崎市あたりになります。

  •  しかし、その間には3000m級の山脈と道無きジャングルがありました。<br /><br /><br /> この写真の右の海中に写っているのは日本の上陸用舟艇(しゅうてい)(または物資陸揚げ用の桟橋)です。<br /><br /> ここマダンに上陸したのはもう少し後(12月18日)のことですが、ブナ地区(※柏崎付近)への上陸もこのような舟で行われました。<br /><br /> 激しい空爆を受け、多くの犠牲を出しながらも、3千人ほどの日本兵がブナ地区への上陸を果たしました。<br /><br /> 7月21日のことでしたが、ラエとサラモア(※富山付近)に初めて上陸してから4ヶ月半ほど経っていました。

     しかし、その間には3000m級の山脈と道無きジャングルがありました。


     この写真の右の海中に写っているのは日本の上陸用舟艇(しゅうてい)(または物資陸揚げ用の桟橋)です。

     ここマダンに上陸したのはもう少し後(12月18日)のことですが、ブナ地区(※柏崎付近)への上陸もこのような舟で行われました。

     激しい空爆を受け、多くの犠牲を出しながらも、3千人ほどの日本兵がブナ地区への上陸を果たしました。

     7月21日のことでしたが、ラエとサラモア(※富山付近)に初めて上陸してから4ヶ月半ほど経っていました。

  •  私はこれを書きながら、より詳(くわ)しい史実を知り、当時の実際の様子を疑似(ぎじ)体験してみたいと思って、オーストラリアの映画『ココダの戦い』(日本でのタイトルは『男達の戦場』)のDVDと戦記『米軍が記録したニューギニアの戦い』(いずれも中古)を購入しました。<br /><br /> また、ウェブサイトでもいろいろ調べてみました。<br /><br /> そして、このニューギニアの戦いが、まさに人間の限界をはるかに超えるほどの過酷(かこく)な戦いであったことを十分に思い知りました。<br /><br /> この映画に描(えが)かれた『ココダの戦い』というのが、まさにこれから見ていく、日本軍の陸路によるポートモレスビー攻略作戦そのものでした。

     私はこれを書きながら、より詳(くわ)しい史実を知り、当時の実際の様子を疑似(ぎじ)体験してみたいと思って、オーストラリアの映画『ココダの戦い』(日本でのタイトルは『男達の戦場』)のDVDと戦記『米軍が記録したニューギニアの戦い』(いずれも中古)を購入しました。

     また、ウェブサイトでもいろいろ調べてみました。

     そして、このニューギニアの戦いが、まさに人間の限界をはるかに超えるほどの過酷(かこく)な戦いであったことを十分に思い知りました。

     この映画に描(えが)かれた『ココダの戦い』というのが、まさにこれから見ていく、日本軍の陸路によるポートモレスビー攻略作戦そのものでした。

  •  上陸した日本軍のうち、2000人ほどが、陸路でポートモレスビーを目指しました。<br /><br /> 迎えうつのはオーストラリア軍でしたが、これは突然のことで、まだ十分な準備が整っていませんでした。<br /><br /> 映画(史実に基づいているらしい)では、当面は十分な訓練を受けていないオーストラリアの寄せ集めの軍隊が、日本軍の進行を阻(はば)む様子が描かれていました。<br /><br /> この映画からも、日本軍、オーストラリア軍、双方にとって、雨と泥にまみれながらの、想像を絶するような過酷な戦いであったことは確かなようです。<br /><br /> また、ヒルに血を吸われたり、マラリアで倒れたりする兵士も多かったようです。

     上陸した日本軍のうち、2000人ほどが、陸路でポートモレスビーを目指しました。

     迎えうつのはオーストラリア軍でしたが、これは突然のことで、まだ十分な準備が整っていませんでした。

     映画(史実に基づいているらしい)では、当面は十分な訓練を受けていないオーストラリアの寄せ集めの軍隊が、日本軍の進行を阻(はば)む様子が描かれていました。

     この映画からも、日本軍、オーストラリア軍、双方にとって、雨と泥にまみれながらの、想像を絶するような過酷な戦いであったことは確かなようです。

     また、ヒルに血を吸われたり、マラリアで倒れたりする兵士も多かったようです。

  •  ココダというのは村の名前で、日本軍が上陸したブナ地区とポートモレスビーのちょうど中間点になります。<br /><br /> 日本で例えれば、前橋、高崎辺りでしょうか。<br /><br /> しかし、こちらではそこまでが比較的なだらかで、そこから先が高い山になっています。<br /><br /> 日本軍は、8日目の7月29日にココダに到達し、激しい戦闘の末に占領しました。<br /><br /> 8月18日には本隊の5千名ほどが上陸を果たし、合計8千人もの兵力になりました。<br /><br /> そのときもまた、連合軍の空爆によって多くの犠牲を払いながらの上陸でした。

     ココダというのは村の名前で、日本軍が上陸したブナ地区とポートモレスビーのちょうど中間点になります。

     日本で例えれば、前橋、高崎辺りでしょうか。

     しかし、こちらではそこまでが比較的なだらかで、そこから先が高い山になっています。

     日本軍は、8日目の7月29日にココダに到達し、激しい戦闘の末に占領しました。

     8月18日には本隊の5千名ほどが上陸を果たし、合計8千人もの兵力になりました。

     そのときもまた、連合軍の空爆によって多くの犠牲を払いながらの上陸でした。

  •  本隊は8月26日にココダに到達し、先の部隊と合流しました。<br /><br /> ココダまでは、車がようやく通れるほどの道があって、物資の補給も空襲を受けながらではあるけれども、何とか順調に行われていたようです。<br /><br /> しかしそこから先は、馬も通れないような道でした。<br /><br /> 日本兵は重い食料を背負いながら進軍しました。<br /><br /> 背負う荷物の重さは50kgといいますから、ちょうどペットボトルの水25本分ぐらいの重さになります。<br /><br /> 映画『ココダの戦い』では、この戦いがオーストラリア側からの視点で描かれていました。

     本隊は8月26日にココダに到達し、先の部隊と合流しました。

     ココダまでは、車がようやく通れるほどの道があって、物資の補給も空襲を受けながらではあるけれども、何とか順調に行われていたようです。

     しかしそこから先は、馬も通れないような道でした。

     日本兵は重い食料を背負いながら進軍しました。

     背負う荷物の重さは50kgといいますから、ちょうどペットボトルの水25本分ぐらいの重さになります。

     映画『ココダの戦い』では、この戦いがオーストラリア側からの視点で描かれていました。

  •  戦いはこのようなジャングルの中で行われていました。<br /><br /> 日本兵は、このような茂みの中に潜(ひそ)んでいます。<br /><br /> 息を潜(ひそ)めているので、相当近づかないとわかりません。<br /><br /> そして、相手の姿を見つけたとたんに銃撃され、自分の人生がすべて終わってしまいます。<br /><br /> これは日本側から見ても、まったく同じことです。<br /><br /><br /> このようなところを進み続けることは、相当な緊張を強いられることになります。

     戦いはこのようなジャングルの中で行われていました。

     日本兵は、このような茂みの中に潜(ひそ)んでいます。

     息を潜(ひそ)めているので、相当近づかないとわかりません。

     そして、相手の姿を見つけたとたんに銃撃され、自分の人生がすべて終わってしまいます。

     これは日本側から見ても、まったく同じことです。


     このようなところを進み続けることは、相当な緊張を強いられることになります。

  •  長時間の緊張によってストレスが蓄積され、精神的にも追い詰(つ)められていくに違いありません。<br /><br /> また、降り続く雨によって道はぬかるみ、靴(くつ)は破れ、脚(あし)にはヒルが吸い付くこともあったようです。<br /><br /> そして、マラリアにかかって高熱を出し、生死の淵(ふち=縁?)を漂いながら死んでいく兵士も多かったようです。<br /><br /> 夜間の恐怖も、想像を絶するものであったに違いありません。<br /><br /><br /> 逆に、狙撃(そげき)する方の恐怖も大きかったと思います。<br /><br /> たとえそれによって相手を殺すことができたとしても、撃てば必ず相手側に自分の位置が知られることになります。<br /><br /> そして、相手側からの銃弾を浴びて死ぬことになります。<br /><br /> 撃たなければ、隠(かく)れ通すことができても、撃ってしまえば、狙(ねら)われることになります。<br /><br /> また、自分が撃たなくても味方が撃ち始めることもあるでしょう。<br /><br /><br /> そしてまた、人を殺すこと自体も相当のストレスであったと思われます。

     長時間の緊張によってストレスが蓄積され、精神的にも追い詰(つ)められていくに違いありません。

     また、降り続く雨によって道はぬかるみ、靴(くつ)は破れ、脚(あし)にはヒルが吸い付くこともあったようです。

     そして、マラリアにかかって高熱を出し、生死の淵(ふち=縁?)を漂いながら死んでいく兵士も多かったようです。

     夜間の恐怖も、想像を絶するものであったに違いありません。


     逆に、狙撃(そげき)する方の恐怖も大きかったと思います。

     たとえそれによって相手を殺すことができたとしても、撃てば必ず相手側に自分の位置が知られることになります。

     そして、相手側からの銃弾を浴びて死ぬことになります。

     撃たなければ、隠(かく)れ通すことができても、撃ってしまえば、狙(ねら)われることになります。

     また、自分が撃たなくても味方が撃ち始めることもあるでしょう。


     そしてまた、人を殺すこと自体も相当のストレスであったと思われます。

  •  相手の人柄(ひとがら)や家族を想うとき、至近(しきん)距離から相手を撃(う)つときには、大変な思い切りが必要であったのではないでしょうか。<br /><br /> しかし、殺さなければ自分や味方が殺されるか、また非国民となって、自分の家族につらい思いをさせることになります。<br /><br /> そのような状況の中で、相手を殺し続けてきた人たちも多いでしょう。<br /><br /> 戦後、平和な時代になって、そのような人たちの精神的苦痛は計り知れないものがあるでしょう。<br /><br /> まさに戦場は誰にとっても究極の生き地獄でしょう。

     相手の人柄(ひとがら)や家族を想うとき、至近(しきん)距離から相手を撃(う)つときには、大変な思い切りが必要であったのではないでしょうか。

     しかし、殺さなければ自分や味方が殺されるか、また非国民となって、自分の家族につらい思いをさせることになります。

     そのような状況の中で、相手を殺し続けてきた人たちも多いでしょう。

     戦後、平和な時代になって、そのような人たちの精神的苦痛は計り知れないものがあるでしょう。

     まさに戦場は誰にとっても究極の生き地獄でしょう。

  •  この写真のようなところでの戦闘は白兵戦になってしまいます。<br /><br /> 白兵戦というのは、いわば顔を突き合わせての殺し合いです。<br /><br /> 当時の鉄砲は、よほど相手に近づかなければ、相手に確実に弾を当てることはできなかったでしょう。<br /><br /> 私も中国を旅行したとき、軍のライフルで射撃(しゃげき)を経験しましたが、古い銃だったために、同じように狙っても、弾は気まぐれに上下左右に飛んでいきました。<br /><br /> 当時の日本軍の銃もこのような古い型の銃ではなかったでしょうか。

     この写真のようなところでの戦闘は白兵戦になってしまいます。

     白兵戦というのは、いわば顔を突き合わせての殺し合いです。

     当時の鉄砲は、よほど相手に近づかなければ、相手に確実に弾を当てることはできなかったでしょう。

     私も中国を旅行したとき、軍のライフルで射撃(しゃげき)を経験しましたが、古い銃だったために、同じように狙っても、弾は気まぐれに上下左右に飛んでいきました。

     当時の日本軍の銃もこのような古い型の銃ではなかったでしょうか。

  •  それでは、相手がこの写真くらいの距離から撃ってきたとすれば、ここから撃ち返すよりも、1〜2秒かけて走り込んで、銃剣(銃の先に付けた剣)で突く方が、確実に相手を倒すことができます。<br /><br /> 戦記物ではよく、このように相手を倒すという表現を使ってありますが、それは実際には相手を殺すということで、思い切り突くわけですから、腕には人間を突いたときの何ともいえないような鈍(にぶ)い衝撃を受け、吹き出した血を浴びることもあるでしょう。<br /><br /> 普通は相手は複数いるので、すぐに自分も撃たれるか、相手の銃剣やナイフで突き刺されてしまうでしょう。<br /><br /> それよりも先に味方が、その相手を倒した(殺した)場合

     それでは、相手がこの写真くらいの距離から撃ってきたとすれば、ここから撃ち返すよりも、1〜2秒かけて走り込んで、銃剣(銃の先に付けた剣)で突く方が、確実に相手を倒すことができます。

     戦記物ではよく、このように相手を倒すという表現を使ってありますが、それは実際には相手を殺すということで、思い切り突くわけですから、腕には人間を突いたときの何ともいえないような鈍(にぶ)い衝撃を受け、吹き出した血を浴びることもあるでしょう。

     普通は相手は複数いるので、すぐに自分も撃たれるか、相手の銃剣やナイフで突き刺されてしまうでしょう。

     それよりも先に味方が、その相手を倒した(殺した)場合

  • に限って、自分の命が助かることになるのではないでしょうか。<br /><br /> そして、そのようにありったけの力を使って相手を突き刺したり、それから身をかわしたりすることは大変に体力を消耗(しょうもう)することであり、そんなことを数回繰り返せば、疲れ果てて身体が動かなくなって、次の相手に殺されてしまうことになるでしょう。<br /><br /> このように、ジャングルの中での白兵戦というのは、相手を殺す場合も、相手に殺される場合も、生々(なまなま)しい地獄絵図そのものであったでしょう。<br /><br /> そして多くの手記を読むと、それは想像上の物語ではなくて、実際にここで起こっていた事実であったことがわかります。

    に限って、自分の命が助かることになるのではないでしょうか。

     そして、そのようにありったけの力を使って相手を突き刺したり、それから身をかわしたりすることは大変に体力を消耗(しょうもう)することであり、そんなことを数回繰り返せば、疲れ果てて身体が動かなくなって、次の相手に殺されてしまうことになるでしょう。

     このように、ジャングルの中での白兵戦というのは、相手を殺す場合も、相手に殺される場合も、生々(なまなま)しい地獄絵図そのものであったでしょう。

     そして多くの手記を読むと、それは想像上の物語ではなくて、実際にここで起こっていた事実であったことがわかります。

  •  このような過酷な戦いを続けながら、日本軍はついに9月16日、ポートモレスビーの街の灯が見える、イオリバイワという村に到達しました。<br /><br /> 距離にしてあと50kmほどなので、日本で例えると東京に対して、八王子の辺りまで迫ったことになります。<br /><br /> しかし、地形的にはそこから先も平坦(へいたん)ではありませんでした。<br /><br /><br /> 写真はポートモレスビーからイオリバイワに向かう道の途中から見た風景です。<br /><br /> 当時も、ここからポートモレスビーはちょうどこのようにして見えていたのでしょう。

     このような過酷な戦いを続けながら、日本軍はついに9月16日、ポートモレスビーの街の灯が見える、イオリバイワという村に到達しました。

     距離にしてあと50kmほどなので、日本で例えると東京に対して、八王子の辺りまで迫ったことになります。

     しかし、地形的にはそこから先も平坦(へいたん)ではありませんでした。


     写真はポートモレスビーからイオリバイワに向かう道の途中から見た風景です。

     当時も、ここからポートモレスビーはちょうどこのようにして見えていたのでしょう。

  •  オーストラリア軍も、このまま、日本軍にポートモレスビーに攻め込まれることも覚悟していたようです。<br /><br /><br /> 写真はソゲリという小さな村の中のある場所です。<br /><br /> ポートモレスビーから小型バスで登ってきました。<br /><br /> かなり高い山道を通って来ました。<br /><br /> 今、地図で調べると、ポートモレスビーから道沿いに40kmほどの距離でした。<br /><br /><br /> この道を、さらに20kmほど進んだところが、当時、日本軍が進行していたというイオリバイワです。

     オーストラリア軍も、このまま、日本軍にポートモレスビーに攻め込まれることも覚悟していたようです。


     写真はソゲリという小さな村の中のある場所です。

     ポートモレスビーから小型バスで登ってきました。

     かなり高い山道を通って来ました。

     今、地図で調べると、ポートモレスビーから道沿いに40kmほどの距離でした。


     この道を、さらに20kmほど進んだところが、当時、日本軍が進行していたというイオリバイワです。

  •  当時はこの辺りで、激しい戦闘が繰り広げられていたそうです。<br /><br /> その頃は、この辺りは日本軍でいっぱいだったということです。<br /><br /> ポートモレスビーの位置は写真のずっと右側の下方になります。<br /><br /><br /> 日本軍はこのままポートモレスビーに進行するものと思われていました。<br /><br /> しかし9月28日、この辺りを占領していた日本軍が、突然、撤退(てったい)を始めました。

     当時はこの辺りで、激しい戦闘が繰り広げられていたそうです。

     その頃は、この辺りは日本軍でいっぱいだったということです。

     ポートモレスビーの位置は写真のずっと右側の下方になります。


     日本軍はこのままポートモレスビーに進行するものと思われていました。

     しかし9月28日、この辺りを占領していた日本軍が、突然、撤退(てったい)を始めました。

  •  補給線が伸びきってしまい、後方からの食料や物資がまったく届かなくなってしまったからでした。<br /><br /> この頃、珊瑚海東のソロモン諸島にあるガダルカナル島では、飛行場を奪い合う激しい戦いが始まっていました。<br /><br /> そのため日本軍は、ニューギニア島に増援部隊を送る余裕がなくなっていました。<br /><br /> 撤退が決まったのはそのような理由もありました。<br /><br /><br /> 写真はソゲリ高校の博物館にある日本兵の鉄兜(てつかぶと)です。<br /><br /> この辺りには、このような遺品(いひん)や遺骨がたくさん

     補給線が伸びきってしまい、後方からの食料や物資がまったく届かなくなってしまったからでした。

     この頃、珊瑚海東のソロモン諸島にあるガダルカナル島では、飛行場を奪い合う激しい戦いが始まっていました。

     そのため日本軍は、ニューギニア島に増援部隊を送る余裕がなくなっていました。

     撤退が決まったのはそのような理由もありました。


     写真はソゲリ高校の博物館にある日本兵の鉄兜(てつかぶと)です。

     この辺りには、このような遺品(いひん)や遺骨がたくさん

  • 出てくるそうです。<br /><br /><br /> オーストラリア軍の兵士たちは、今、ここでようやく死への恐怖から開放されました。<br /><br /> 泥にまみれながら、圧倒的多数の日本軍から、祖国オーストラリアを守り切った瞬間でした。<br /><br /> 彼らは身も心もやつれ果てていました。<br /> <br /> そして、映画はここで終わります。<br /><br /><br /> 写真は、ここでの戦いで犠牲になった連合軍の兵士の慰霊碑(いれいひ)です。

    出てくるそうです。


     オーストラリア軍の兵士たちは、今、ここでようやく死への恐怖から開放されました。

     泥にまみれながら、圧倒的多数の日本軍から、祖国オーストラリアを守り切った瞬間でした。

     彼らは身も心もやつれ果てていました。
     
     そして、映画はここで終わります。


     写真は、ここでの戦いで犠牲になった連合軍の兵士の慰霊碑(いれいひ)です。

  •  空腹で餓死寸前(がしすんぜん)の中で、あと少しでポートモレスビーに進行して、腹いっぱい食べることができるという希望を抱いていた兵士たちにとっては、思いも寄らぬ撤退命令でした。<br /><br /> そして撤退する間にも、連合軍の追撃によって、またマラリアや飢餓によって、多くの兵士が死んでいきました。<br /><br /><br /> もし、食料の補給が足りて、あのままポートモレスビーに進軍していたらどうなっていたでしょうか?<br /><br /> 最初はこの辺りはオーストラリアの寄せ集めの志願兵がいただけでしたが、そのうちにオーストラリア正規(せいき)軍が到着し、さらに続いてアメリカ軍がポートモレスビーに入ったといいます。

     空腹で餓死寸前(がしすんぜん)の中で、あと少しでポートモレスビーに進行して、腹いっぱい食べることができるという希望を抱いていた兵士たちにとっては、思いも寄らぬ撤退命令でした。

     そして撤退する間にも、連合軍の追撃によって、またマラリアや飢餓によって、多くの兵士が死んでいきました。


     もし、食料の補給が足りて、あのままポートモレスビーに進軍していたらどうなっていたでしょうか?

     最初はこの辺りはオーストラリアの寄せ集めの志願兵がいただけでしたが、そのうちにオーストラリア正規(せいき)軍が到着し、さらに続いてアメリカ軍がポートモレスビーに入ったといいます。

  •  このときポートモレスビーには2万8千人の戦力が整っており、あのまま数千人の日本軍がポートモレスビーに攻め込んでいたとしても、到底、攻略することは不可能だったと思われます。<br /><br /> その後、日本軍は突撃と全滅(ぜんめつ)を繰り返すようになっていきますが、このような撤退(てったい)(当時は転進といっていた。)命令が出たということは、このときはまだ、兵士の命を大切に(温存?)するような、冷静な判断がなされていたようです。<br /><br /> 7月21日の上陸から9月25日の退却命令が出るまでの2ヶ月間の日本軍の戦死者は約3千人だったといいます。<br /><br /> そして、その中には飢えやマラリアで死んでいった人たちもたくさんいたようです。

     このときポートモレスビーには2万8千人の戦力が整っており、あのまま数千人の日本軍がポートモレスビーに攻め込んでいたとしても、到底、攻略することは不可能だったと思われます。

     その後、日本軍は突撃と全滅(ぜんめつ)を繰り返すようになっていきますが、このような撤退(てったい)(当時は転進といっていた。)命令が出たということは、このときはまだ、兵士の命を大切に(温存?)するような、冷静な判断がなされていたようです。

     7月21日の上陸から9月25日の退却命令が出るまでの2ヶ月間の日本軍の戦死者は約3千人だったといいます。

     そして、その中には飢えやマラリアで死んでいった人たちもたくさんいたようです。

  •  ニューギニア島のポートモレスビー攻略部隊が、連合軍の激しい追撃を受けながら撤退し、最後の部隊がブナ地区の海岸にたどり着いたのは、撤退を始めてから2ヶ月後の11月27日のことでした。<br /><br /><br /> そしてこのポートモレスビー攻略作戦は、これから続くさらに過酷なニューギニア島での戦いの、前哨(ぜんしょう)戦に過ぎませんでした。<br /><br /> ニューギニア島での日本軍の戦死者は約20万人ですが、この作戦で亡くなったのは、そのうちの約三千人です。<br /><br /> この後さらに2年と9ヶ月もの間、飢餓と病気と雨と泥にまみれながらの戦いが、続いていきます。

     ニューギニア島のポートモレスビー攻略部隊が、連合軍の激しい追撃を受けながら撤退し、最後の部隊がブナ地区の海岸にたどり着いたのは、撤退を始めてから2ヶ月後の11月27日のことでした。


     そしてこのポートモレスビー攻略作戦は、これから続くさらに過酷なニューギニア島での戦いの、前哨(ぜんしょう)戦に過ぎませんでした。

     ニューギニア島での日本軍の戦死者は約20万人ですが、この作戦で亡くなったのは、そのうちの約三千人です。

     この後さらに2年と9ヶ月もの間、飢餓と病気と雨と泥にまみれながらの戦いが、続いていきます。

  •  この島に上陸した人のうち、10人中9人は生きてここから出ることはありませんでした。<br /><br /> 今、ここに見られる植物は、そのような多くの兵士たちの血や肉や魂を糧(かて)として取り込みながら、命をつなぎ、現在、このような姿で生い茂っているのでしょう。<br /><br /><br /> この陸路でのポートモレスビー攻略作戦が行われていたのと同時期に、ソロモン諸島のガダルカナル島でも飛行場をめぐる激しい戦いが繰り広げられていました。<br /><br /> しかし、日本軍は度重なる総攻撃に失敗し、またここでも飢餓と病気に苦しめられながら、最終的には1万人の戦死者と1万5千人の餓死、病死者を出すような、過酷な状況に陥(おちい)っていました。

     この島に上陸した人のうち、10人中9人は生きてここから出ることはありませんでした。

     今、ここに見られる植物は、そのような多くの兵士たちの血や肉や魂を糧(かて)として取り込みながら、命をつなぎ、現在、このような姿で生い茂っているのでしょう。


     この陸路でのポートモレスビー攻略作戦が行われていたのと同時期に、ソロモン諸島のガダルカナル島でも飛行場をめぐる激しい戦いが繰り広げられていました。

     しかし、日本軍は度重なる総攻撃に失敗し、またここでも飢餓と病気に苦しめられながら、最終的には1万人の戦死者と1万5千人の餓死、病死者を出すような、過酷な状況に陥(おちい)っていました。

  •  開戦から1年間のできごとを整理してみると、ラバウルに根拠地をつくった日本軍が、米豪分離を狙って作戦を展開しようとしたけれども間に合わず、ついに連合軍に反撃の態勢を整えられてしまい、本格的な攻勢を受け始めたということになるのでしょう。<br /><br /> また、その間の出来事を年表形式に整理してみると、次のようになります。((※〜)はポートモレスビーを東京に例えたときの位置です。)<br />1941年12月 8日 真珠湾攻撃、日米開戦<br />1942年 1月23日 日本軍ラバウル占領 (※札幌占領)<br />       3月 8日 日本軍ラエ、サラモア上陸 (※富山<br />              上陸)<br />       5月 3日 日本軍ソロモン諸島(ツラギ島)占領<br />                          (※千島列島占領)<br />       5月 6日 珊瑚海海戦 (※房総半島沖海戦)<br />       6月5〜7日 ミッドウェイ海戦<br />       7月 6日 日本軍ソロモン諸島(ガダルカナル<br />              島)に飛行場建設開始 (※千島列島<br />                          に飛行場建設開始)<br />       8月 7日 米軍ソロモン諸島(ガダルカナル島<br />              等)上陸開始 (※千島列島上陸<br />                          開始)<br />       8月18日 日本軍ブナ地区上陸 (※柏崎付近<br />                          上陸)<br />       9月16日 日本軍イオリバイワ占領 (※八王子<br />              占領)<br />       9月26日 日本軍イオリバイワ撤退 (※八王子<br />              撤退)<br />      11月27日 日本軍ブナ地区への撤退完了<br />              (※柏崎への撤退完了)

     開戦から1年間のできごとを整理してみると、ラバウルに根拠地をつくった日本軍が、米豪分離を狙って作戦を展開しようとしたけれども間に合わず、ついに連合軍に反撃の態勢を整えられてしまい、本格的な攻勢を受け始めたということになるのでしょう。

     また、その間の出来事を年表形式に整理してみると、次のようになります。((※〜)はポートモレスビーを東京に例えたときの位置です。)
    1941年12月 8日 真珠湾攻撃、日米開戦
    1942年 1月23日 日本軍ラバウル占領 (※札幌占領)
           3月 8日 日本軍ラエ、サラモア上陸 (※富山
                 上陸)
           5月 3日 日本軍ソロモン諸島(ツラギ島)占領
    (※千島列島占領)
           5月 6日 珊瑚海海戦 (※房総半島沖海戦)
           6月5〜7日 ミッドウェイ海戦
           7月 6日 日本軍ソロモン諸島(ガダルカナル
                 島)に飛行場建設開始 (※千島列島
    に飛行場建設開始)
           8月 7日 米軍ソロモン諸島(ガダルカナル島
                 等)上陸開始 (※千島列島上陸
    開始)
           8月18日 日本軍ブナ地区上陸 (※柏崎付近
    上陸)
           9月16日 日本軍イオリバイワ占領 (※八王子
                 占領)
           9月26日 日本軍イオリバイワ撤退 (※八王子
                 撤退)
          11月27日 日本軍ブナ地区への撤退完了
                (※柏崎への撤退完了)

  •  イオリバイワまで進軍した後撤退して、何とか生き延びて北部海岸にたどりついた人たちにも、そこでさらに次の試練が待っていました。<br /><br /><br /> (後編http://4travel.jp/traveler/wanyamapori/album/10436296/に続く)

     イオリバイワまで進軍した後撤退して、何とか生き延びて北部海岸にたどりついた人たちにも、そこでさらに次の試練が待っていました。


     (後編http://4travel.jp/traveler/wanyamapori/album/10436296/に続く)

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この旅行記へのコメント (2)

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  • とらいもんさん 2008/10/23 08:22:55


    霊に、深々とコウベを垂れます。

    詳しい、お話有り難うゴザイマシタ。

    国民学校卒業者として、思い出したくない「戦争」でした。

    いまでも、なにかにつけ「ガダルカナルやインパール作戦の兵隊さんを考えれば、コレシキ」です。

    あさから、襟を正す気持となりました。

    失礼致しました。

    ライオンベラー

    ライオンベラーさん からの返信 2008/11/21 23:30:00
    RE: 霊
    感想をいただき、有難うございました。
    私も昭和生まれなので、太平洋戦争についてはよく話に聞きながら育ちました。
    これからはこのような大規模な世界戦争が決して起こらないようにと祈り続けています。
    (小規模な戦争も同じですね)

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