2009/11/28 - 2009/11/28
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練馬の材木屋さん
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平家物語潅頂巻の番外編「練馬の材木屋平林寺御幸」
かかりし程に、練馬の材木屋、武蔵の国新座郡の禅寺
平林寺の紅葉をご覧ぜまほしう思し召されども、写真に
あるごとく、グジグジかつデレデレ
としたれば、11月26日
明仁帝及び美智子后にさきを越され
紅葉をば狩られたとの報道にて
あわてて随人も従えず翌々日、徒歩にて詣でける。
- 同行者
- 一人旅
- 一人あたり費用
- 1万円未満
-
畑中江戸通りの御幸なれば、いつもどおり
地蔵尊2体にちょっとチョッカイをし、
歩くこと20分にて -
寺のまわりには、かくのごとく
うどん屋 -
平林寺のそばのそば屋や
-
抹茶そば屋などがあり
左様なところでちょっと
一杯なんてこともせず -
曹洞宗修行道場でもある
平林寺にたどりつきにけれり。
但し、入り口にて¥300喜捨せり
このお寺「へいりんじ」で検索に
かくれば詳細にあない申さるに
よって今は省略
とにかく広大な敷地を有し
本気で境内くまなくありけば
一日かかりなむ。 -
いずれの面々も両陛下の紅葉狩りのこと
聞きつけたにやアラム人人でごったがえし
撮影で三脚なぞたつるなとの
お達しあり -
しばし紅葉を叡覧めされ
-
ここ平林寺は樫クヌギならケヤキなどの
自然林が残ってて天然記念物に指定される
ほどの広大な林をもっていて
そちらはウッソウとして、昼なほ
暗く、いにしえよりの、武蔵野の
面影を残しているが
紅葉のあるほうは木もまばらにて -
明るい樹相でこそあんなれ
-
そろそろ
こんな風に -
常なれば
この茅葺の御堂めあてのひとびとも -
今日は皆もみじを求めて
人々しばしなごむ。
但し可哀想なのはこの
放生池の鯉ども、もみじの
落ち葉に水面をはばまれ
練馬の材木屋の持ってきたる
「麩」を
食うことかなわず
憐れなり
その「麩」練馬の材木屋
夕餉にオデンとかいうものにして食ったり
とかや。 -
この平和観音の前から
ちょこっと順路を外せば
人には知れずこっそりと立つ
一本のイチョウの木に
対面することとなれ -
このイチョウは余と銀杏契約を締結しており
春に一握りの粒状肥料を根っこにまくと
秋に銀杏を拾ってよい事になっている
ちなみにその契約書は
契約書
平林寺のイチョウを甲と呼ぶ
練馬の材木屋を乙と呼ぶ
乙は毎年春先に甲の根元に
肥料を撒くものとする
秋に至り地面に落ちた銀杏を両手
山盛り一杯乙が持ち帰る
ことに甲は同意する。
契約書以如件 -
それがこちら
臭いので開くること
無用 -
さらに紅葉は続き
-
うんざりしてきたので
このあと
平林寺「お墓拝見」
なぞして
いにしえをおしのびあれ -
お墓その1
天保9年(1838)とある
この5年前に天保の大飢饉が
あって、やっと立ち直った頃 -
文化5年(1808)間宮林蔵が樺太探検に
出かけた年
元冶元年(1864)は池田屋事件やら
長州征伐やらそろそろ幕藩体制の終末期
以上お墓その2とその3 -
お墓その4と5
天明3年(1783)この前の年が
天明の大飢饉があった
隣は文化5年の没 -
これは川越藩の城主で老中を勤めた
松平伊豆守信綱の墓所寛文2年死去
(1662)将軍家光と家綱につかえた -
上州高崎城の藩主
大河内輝貞の墓所
4万5千石の大名
松平伊豆守も松平の姓をもらうまでは
大河内氏だった -
更に紅葉はつづき
-
あちらの紅葉こちらの黄葉
-
ど-だこれでもか
-
まだまだまいらぬか
-
やうやう陽もかたぶき西に紫雲たなびき
異香境内に満ち、妙なる音楽の天空より
聞こえたれば
練馬の材木屋「平林寺」をドタドタとば
引きにケ−リ−−(ドタドタしたのは山門の
カマチに足をひっかけけっつまずいたため
なるけん) -
散々紅葉を堪能し
恐れ入ったにより
これにて
本日のでっちあげ平家物語
「平林寺御幸」も終わんぬ
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