2009/08/08 - 2009/08/16
6位(同エリア32件中)
bloom3476さん
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- クチコミ87件
- Q&A回答6件
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- フォロワー19人
♪ 旅先で聴く音楽は愉しい。
とりわけ、一人旅を続けていると、1日、何の
言葉を発しないまま部屋に戻る時がある。そんな時に、携帯プレイヤーのスイッチを入れて音楽を部屋に解き放つだけで、無粋な部屋も気分だけはスイートルームにUp gradeされるものだ。
アイザック・ディネーセンの伝記を映画化したOut of Africa の中で、ロバート・レッドフォード演じるサファリ・ガイドが当時まだ高級品だった蓄音機をキャンプに持ち込み、モーツアルトの「クラリネット協奏曲」を聴くシーンがある。
ディネーセン自身の実話に拠っているのだが、 この旅のスタイルが気に入り、初めて、キリマンジェロに行った時、私も300mmの望遠レンズの他に、WalkManとスピーカーを持って行った。
ジープに乗って、ライオンを追いかけながら、クラリネットの調べを流すと、熱気を帯びたサバンナに、ウィーンの涼風が吹くような気がした。
メンデルスゾーンはヘブリディーズ諸島に旅して、あの写実的な「フィンガルの洞窟」を作曲したが、私は風景と音が、俳句の上句と下句のように反響しあうような組合せを旅に求めた。
1983年、立花隆は、この石像があるネムルート山を訪れた。 オリエントとヘレニズムが交差したアナトリアの大地で、夕陽に染まる遺構を見つめながら、『西洋の知の源泉をここで見た』と語っている。 知の巨人が見せた珍しく高揚した表情を見ながら、いつか、あそこに立ってみたいと思っていた。 それから26年たち、私はたくさんの音楽をポケットに入れて、その山を目指した。
長い助走路
8 – 9 Aug 晴れ 羽田–ソウル–イスタンブール
颯爽と飛び立ったはずが、隣国に直ぐ、降り立ってしまったのには訳がある。今回、旅する地域はトルコのアジア側の広大な大地・アナトリアの、その東半分(これだけでも日本列島がすっぽり入る)。 そこに点在する聖域を僅か5日間で周遊しようという駆け足プランだ。 アナトリア中部のカッパドキアまでは容易だが、その先となると、アクセス難度が、ぐっと深まる。そこで、国内線の価格競争が激しい路線は飛行機、それ以外は高速バスで移動をするのだが、イスタンブールまでの足も、なるべく抑えたかった。
調べると韓国の観光不況は相変わらずで、トルコまで4.5万円の航空券を出していたので、ソウルに途中下車した次第だった。折角なので、自分にも燃料補給をしようと、ソウルのディープな老舗を廻って夏の味覚を楽しんだ。 土俗村の烏骨鶏のサンゲタン、乙密臺のムルネンミョン、さらに新村の線路脇の立食サンゲタン等々。どの店も、並ぶのが嫌いなソウルっ子が、炎天下、長い行列を作る程、庶民に根強く愛されてきた旨さだった。
いざアナトリアの大地へ
10 Aug 晴れ イスタンブール - アディヤマン
前夜、仁川を23:55に発ったトルコ航空機は、5:20イスタンブールに到着 次の国内線の乗り継ぎまで90分 MCTはクリアしているのだが、イミグレに着くと、外国人カウンターは早朝故か、2つしか開いてなく、遅々と進まない。そこでトルコ人カウンターに行き、乗継ぎ時刻を訴えて、入国した。さあ、そこから国内線ターミナルへ走り、長蛇の列に並びチェックイン、セキュリティがまた長蛇、、結局、機内に滑り込んだのは20分前なのに、ドアは、すぐに閉まって、機体が動き出した。中東では、出発時刻とは滑走路を飛び立つ時刻と思った方が良い。
キャフタの宿で
9:00 Adiyaman 空港着。 ドルムッシュ(乗合ミニバス)で市内に移動しようとしたが、乗客の計らいで、ネムルートの最寄りの町・Khataに行くTaxiに同乗出来た。(5TR)、オトガル(バスターミナル)に着くと、運転手がTourist Infoに連れてくが、相手は笑顔で、もみ手なので、どうもおかしい。やっぱりTourist Agencyだった。 宿は既に予約していたのだが、この街は思ったより足が確保出来ない事が判ったので、彼の話を聴く事にした。予約していた山小屋を告げると、そこは良くない、、とおきまりのパターンになる。 そして、案内所の裏にある自分のホテルを売り込み、主催しているツアーの説明をした。『歩き方』にも紹介されていた宿だったので、今からチェックインし、午後からツアーに参加するのも悪くは無いと考えた。
結局、宿泊費(30)+ ネムルート日没ツアー(65)+日の出ツアー(105)+空港までの送り(20)= 220 TR を190TRで妥結し、この街に泊まる事にした。※レート 1TR = 62円
シャワーを浴び、一息入れてから、電話をかけ、先約のホテルに詫びを入れた。 それから通りの向かい側にあるロカンタ(食堂)に行き、昼食を取った。ケバブもサラダも美味しかったが、ここのパンが抜群に旨かった。冷たいアイランで喉を潤しながら、胃袋でトルコに来た事を実感した。
世界の八番目の不思議
『 アナトリア東部の山中に、不思議な石像群がある 』とプロイセン参謀本部に伝令が届いたのは、1835年。報告したのは当時まだ32歳の陸軍大尉だったモルトケであった。後にドイツ帝国陸軍の元帥となり、日本陸軍の規範にも影響を与えた天才戦略家は、同盟関係にあったオスマントルコの軍事顧問に派遣されていて、対エジプト軍のシリア戦線・前線基地の造営の為、この一帯の地図を作製していた。その調査中に、小高い山に突起する、この不思議な遺跡群を発見したらしい。
その頃、ドイツは、西アナトリアでベルガモンの大祭壇、トロイで、シュリーマンが世紀の発見をしており、英仏はアッシリアの発掘に成功していた時代だった。その後、オスマン帝国に雇われたドイツ人セステル等によって、この遺跡が、紀元前1世紀頃、コンマゲネ王国のアンティオコス1世が造った、自らの墳墓である事を解明した。アレキサンダー帝国の系統に連なる王は、自らの石像の廻りにゼウス、ヘラクレス、アポロン等の石像を配して、その皇統性を民衆に示した。
今、それらの石像達は地震により、頭部が落下し、まるでアナトリアの大地を睥睨するように座していた。 アンティオコスの墓碑には、こんな言葉が残されている。
「 天の王座に近く、時の流れに損なわれる事もない、この峰を神聖な安らぎの場と定めよう。神の恩寵をこうむった余の敬虔な魂が天帝ゼウスの御許へと旅立つ時、余の老いた肉体は ここで永遠の眠りにつこう、」
ゼウスを含めた八体の頭像達は、2000年間の長きに渡って、日没、日の出の光線によって刻一刻と表情を変えながらアンティオコスの棺を守ってきた。 その様は「世界の八番目の不思議」として1987年に世界遺産に登録されている。
日没ツアー
14:00に出る日没ツアーに参加したのは、イタリア人の初老夫婦2組、ドイツ人1名の他にもう一人の日本人の大学生という顔ぶれだった。当然、車内は明るいラテン雰囲気だ。ネムルート一帯の山道は道幅が狭く、そこを急スピードで走るので、彼等はコーナーに近づく度に「ピアノ、ピアノ」という。 運転手は、
「生憎、ピアノのCDは持ってないんだよね、、」と茶かすが、真の意味を知っていて減速する。
ピアノとは小さいという音楽用語だとは知っていたが、イタリア的運転用語では、スローという意図らしい。コンマゲネの遺跡群を廻り紀元200年にこの地に進駐していたローマ帝国軍がユーフラテス川の支流にかけたジェンデレ橋も巡り、午後6時頃に、ネムルートの山頂まで200m位の山小屋に到着した。ジェンデレ橋の堅牢さを褒めると、鼻高々のイタリア人からチャイをご馳走になった。
頂上へ
6:20頃 陽が沈みかけて来たので、山に登る。ネムルート山は標高2150m 冬は冠雪するのでここへのツアーは5-10月までだが、実際、頂上は風の吹き上げが凄く、夏でも、体感温度は零下となる。 その為、防寒用具が必要とガイドにあるが、荷物を増やしたくなかったので、フリースと、ロンプラの薦めで、ホテルから毛布を持ってきた。見ると山小屋で機敏に山支度しているアジアの女性達がいた。彼女等は、フリースのインナー付きのゴアテックスパーカー、それにヘッドランプ、靴はトレッキングブーツという出で立ちで、これが、この山を登る理想だ。登山道は瓦礫が多いので厚底の靴が望ましい。 日の出ツアーでは真っ暗なので、ヘッドランプか懐中電灯が必携だ。それから、頂上で風に吹き付けられる内に体温がどんどん低くなるから、魔法瓶に熱いチャイなどを入れていけばパーフェクトだ。空気が薄いので、ゆっくりと歩む。 15分位で、東側のテラスに到着。遂にここに来たという感動を覚えた。 そこから斜面を移動して、西側のテラスに到着すると、東側より大きい頭像達が夕陽を浴びていた。吹き上げる寒風から、岩陰に身を避けて、石像達が夕陽に刻一刻と染まっていくのを見た。 フリースのポケットに手を入れてスイッチを入れると、ワーグナーの 荘重なアリアが聞こえて来た。それはまるで天界から地上に墜とされた神々が慟哭のアリアを歌っているような光景だった。
聴いた音: WAGNER トリスタンとイゾルデ
歌:Jessye Norman
日の出ツアー
11 Aug 晴れ アディヤマン – トラブゾン
前夜21時にホテルに戻り、また向かいのロカンタで、パトルジャンケバブ(ナスと肉の挟み焼き)を食べてから、直ぐに就寝 そして2:30AMに起きて、3:00にホテルを出発した。 今回の参加者は、英語系の壮年バックパッカー (この人は、そのパックのまま、山の向こう側・マラテヤの方に越えて行った。)それとドイツ人カップル、そして昨日のアジア人女性組が途中のロッジから乗り込んできた。 昼間の酷暑が嘘のようにアナトリアの大地は冷え込んでいた。 山小屋には5:15頃に着き、中で、チャイを飲んで暖を取った。室内のベンチで横になっている人もいたので、ここで夜を明かす事も可能のようだ。
アジアの女性組は、香港と韓国からで、リーダーらしい香港の女性と、世界の、お薦め日の出ポイントの話をした。彼女のお薦めは台湾の阿里山で、とても美しい日の出を拝んだそうだ。 私は湾岸戦争の10日前にシナイ山で見た日の出が一番だと突っ込むと、来年はキリマンジェロに登攀し、そこで日の出を見る積もりだと返した。彼女は、7月に香港を出て、英国、バルト圏、ロシア、中欧を廻り、トルコに辿り着いたという事だった。
香港に戻るのは9月というので、職業を訊ねると、旅行代理店に勤めているという。 日本の大半の旅行業者は「紺屋の白袴」なので、彼女が羨ましかった。そう話している間に体も少し温まってきた。山頂の寒さを考え、山小屋から毛布を、もう1枚、5TRで借りた。(毛布2枚にヘッドランプを巻き付けた姿は、どう見てもホームレスおじさんだが、欧米人でも3割位は、同じ格好で登っていた。)山道は夕方よりも、格段に寒く、かつ空気が薄いのを頑張り5:45頃 東側テラスに辿り着いた。
真っ暗な山頂で大勢の人達が寒さに震えながら東の空に向かって身を寄せている。あー、ポットに熱いチャイを入れてくれば良かったなあ、、と心底、思う程の極寒だった。 でも、毛布を2枚も着ている私は、まだましで、Tシャツだけで来てしまい寒風に耳が千切れそうな同胞がいたので、私の毛布を貸した。
6:00am東側の地平線が虹色の階調を描きながら輝き始めた。 熱い紅茶は忘れたが、この時の為に考えていた曲をヘッドフォンに流した。
聴いたのは、ベネディクト派の女性修道院長だったヒルデガルド・ビンゲンが1140年頃に作曲した【天からの啓示による協和合唱曲】という曲だ。イランの方から上がった太陽がゆっくりと
アナトリアの地平を純白の陽光で満たしていくのを見つめなら、珠玉の曲は、綿、水が染みこむ如く、私の心を満たして行った。
聴いた音: ヒルデガルト・フォン・ビンゲン
天空の光タペストリー
ゼウス像
ホテルに戻り、出発する前、後学の為に、町一番の高級ホテルZEUSを訪れてみた。ここは日本からのツアー客も訪れるので、客室には深いバスタブまであった。レセプションの背後に、山頂にあったゼウス像の見事なレプリカが展示されていた。
実は、この2日間で15体もの大小様々な頭像(それは7種類ある)を私は買っていた。しかし、そこにあったのは、大理石から彫られた逸品で、ナポレオンがエジプトで、オベリスクを見そめた時のように、私も猛烈に欲しくなった。そこで、この石像を日本に持ち帰る事がホテルのPRになり、多くの日本人客を呼び込むであろう、一挙両得の提案を、初対面のホテルマンに訴えた。「風が吹けば桶屋が儲かる」噺に納得したのか、はたまた根負けしたのか、遂に、彼は35TRなら、と云ったのを、さらに25TRに値切って、ネムルート山の秘宝は、貧乏旅行者の手に落ちた。
今回の旅で一番の戦利品を、早くも手に入れ、うきうきして、空港に向かった私であった。
オズールさん
この日は、アディヤマンからアンカラに飛び、そのまま乗継いでトラブゾンに向かう予定だ。
航空券は、この2区間で、合わせて104TR という安さ。トルコ国内線には競合路線ほど、購入時期が早ければ早い程、安い運賃が用意されている。ただ国内線のエクセスが15kgという枠があり、沢山の石像を入れた私のキャリーは気難しいカウンター嬢から追加料金を請求されてしまった。
そうすると、「何か困ってますか?」と日本語で話しかけて来たのがオズールさんだった。
彼は京都府立医大に5年も留学して博士号を取った青年だった。 今はアディヤマン大学で病理学の研究をしていて、実家のアンカラに戻るので
後列に並んでいた。 事情を説明すると、カウンター嬢の上司に話しをしてくれた。上司は私が日本人である事を確かめると、ノープロブレムと言って2枚の航空券を呉れた。
「ほらね、トルコでは日本人は好かれているのです」 と言って、彼自身の経験を話してくれた。 留学を終えて、関空からトルコに戻る時、なんと彼も重量オーバになり、5万円の提示を受けたそうだ。しかし、ギリギリの留学生活をしていた彼に、その場で支払う余裕もなく往生した時、見送りに来ていた日本の友人が、保証も求めずに、その場で支払ってくれた。帰国後、直ぐに、友人の元に送金したのだが、彼は、その恩義を友人だけでなく、日本という国に持ったそうだ。 だから、困っている日本人を見て、声をかけずに居られなかったらしい。 こういう話は、イスタンブールあたりだと、始めに疑ってかかるのだが、地方に出ると、率直にトルコの親日ぶりを感じる事が多く、この日の出会いもそうだった。満席の機内で、日本語で、愉しそうに話しこむ我々を、周りの乗客が興味そうに見ていた。
黒海沿岸へ
アンカラ乗り継ぎで、トラブゾン19:30 到着
空港からメイダン広場へのドルムッシュが判らず焦る。空港から通りの反対側100m先に何の印も無く、乗合が停まっていて、それに乗って、15分でメイダンに着いた。 地図を頼りに、路地裏のHotel Nurに投宿。 黒海沿岸は、雨が多く、茶の栽培に適している。また黒海を挟んでコーカサス諸国、ロシアとの交易も盛んな為、この町はアナトリア高原と違って、気候のみならず生活にまで潤いが感じられた。店先を彩る香辛料や料理の具菜に、おいしい匂いが漂ってくる街だ。トレビゾンド帝国の由緒も感じさせる、味わい深い土地に、トルコの奥深い魅力を再認識した。
トレビゾンド帝国
12 Aug 曇り トラブゾン – エルズルム
信じられない話だが、ビザンティン帝国はオスマントルコに陥落される以前に、1204年に、同じキリスト教徒でありながら暴力団と化していた第四次十字軍によって、征服(強盗・狼藉)されている。その時、東に逃げた皇族達によって、黒海沿岸に作られた都がトレビゾンド(後のトラブゾン)で、後世に、トレビゾンド帝国と呼ばれる。 以後、オスマントルコにより滅亡されるまでの250年に渡って、この地に香り高いビザンティン文化の足跡を残した。 市内、西にあるアヤソフィアを訪れると、黒海に面した日当たりの良い場所に正十字架式のビンザンティン教会が残されており、内陣には、うっすらだが最後の晩餐や聖母の生涯などのフレスコ画が残されていた。
スメラ修道院
その寺院は,市内から南東に54km、険しい山間の絶壁に、張り付くようにして建てられていた。
6世紀、ビザンティン建国から僅かして、修道僧達は、世俗を離れ,祈りを極めるため、懸崖の地に、小さな神の家を作った。それが少しずつ拡張されて14世紀頃には現在ある修道院となった。
以前は急峻な山道を300mも登らなければ成らなかったが、現在では山道を迂回しながら、ほぼ水平の地点まで車が通じていて、そこから徒歩で10分で辿り着ける。ギリシア正教の寺院ながら、この日も、トルコの老若男女の観光客で溢れていた。 見るべきは主聖堂内にあるポスト・ビザンティン期のフレスコ画で、筆致の素晴らしい絵がたくさん残されていて、見応えがあった。
ここに来るミニバスの中で唯一、英語を話したTekin夫妻と一緒に、帰りは急な山道を下った。奥さんは中学校の英語教師をしているが、こういう場合は、控え目で、アンカラ大学の地質学者ながら、英語が不自由な夫が迷った時だけ、助け船を出す。だから、私もあまり彼女に直接、話せない。そんな奇妙な距離なのに、下山してチャイを飲み、焼きとうもろこしを食べながら随分と話した。こういう時、カメラでお互いを撮るのは、その距離を取り払うのに、かなり役立つものだ。 『アンカラに次回、来る時は必ず我が家に泊まってね!』 澁澤幸子さんのトルコ旅行記に出てくるトルコの人々の親日ぶりに、私もこの時、初めて出会った。(京都人なら、とても鵜呑みに出来ない口上なんだろうけど、)
バスに揺られて5時間走る
スメラから市内のオトガルに戻り、停車場内の食堂で早めの夕食を済ませてから、18:00 エルズルム行きのバスに乗った。 バスはスメラの手前から右折して南下し、真っ暗な道を2時間走ってから、小さなSAで停まった。そうか、夜間にはこういう食事休憩がちゃんと入ってるんだ、と初めて知った。スカーフの少女達が美味しそうな煮込みをゆっくりと食べるのを、ぼーっと眺めてからバスは1時間後、出発した。無為の2時間を変えんと、スイッチを入れると、志ん朝の、凛とした語りが聞こえてきた。噺に引き込まれる内に、車窓の闇は、江戸・深川の夜に、なっていった。
聴いた音: 鬼平犯科帳
朗読: 古今亭志ん朝
エルズルム
13 Aug 晴れ エルズルム – ドウバヤズット
5:00のアザーンに起こされて、窓を開けると、冷気に思わず身震いした。前夜、遅く着いたので判らなかったが、窓の向こうに、山が連なり、冬は雪が多い厳寒の地である事が判った。 道行く人はみな上着を着ていて、フリースをここまで持ってきて賢明だった。ここは交通の要であった為、セルジュクトルコ時代にたくさんのモスクが建てられたが、第一次大戦の折り、ロシア軍占領の憂き目にあった。イスラム建築史に残る、ヤクティエ神学校とチフテ・ミナーレを見学した。これらの内装を飾っていたレリーフはロシアが占領時に略奪し、今はエルミタージュに在るという。19世紀 欧州列強はアジアの各地で調査・保管の美名の元に、多くの文化財の略奪をしたがロシアも、その例に漏れなかった。
(その後、日本も同じ撤を踏む、、私も?)
目抜き通りの玩具店で、オスマントルコとビザンティンの王様と兵士を駒にしたチェス盤を見つけた。 イスタンブールからの品だろうが、スルタンアフメットでも見かけない精巧さだ。王様も騎馬もお城も良くできている。地方の方が観光地値段を上乗せしてないだろうと思い、値を訊くと、150 TRというので値切って130 TRで買った。駒を一つずつ新聞紙で包ませ、大事に宿まで持ち帰り、ゼウスと一緒に、キャリーに入れた。
イサク・パシャ宮殿
エルズルムから5時間バスに揺られて、16時にドウバズヤットの街の中のオトガルに着いた。Taxiに荷物を入れ、直ぐに「Ishak Pasa Sarayi 」と告げると、車は山を目指して走った。 左手にアララット山の偉容が飛び込ん来る、あの山の向こうがアルメニア、そして東に行くとイラン、国境の緊張感が伝わってくる。
金網に囲われて、戦車が30台以上も並ぶ基地が現れた。 カメラを向けると、運転手が目配せして、「これは国境の向こうにいるクルドの同胞に向けられたものだけど、私の車で問題を起こしてくれるな、、」と云っているように思えた。
そうする内に山の向こうに、あの城が見えてきた。
Lonely Planetでは、トルコの西の果てにある、
この宮殿をこう評している。
「 全ての子供達が想像する城 まさに千夜一夜物語の世界が、あなたの目の前に現れるはずだ 」
ここは17世紀に、この地を治めたクルド人、イサク・パシャが三代に渡って造営した大宮殿だ。完成した1784年には7600m平方の敷地内に、モスク、ハレム、浴場、牢獄の他に、366もの部屋が在ったという。しかし、その栄華もわずか130年しか続かなかった。 第一次大戦が起きるとハプスブルグ帝国側に属していたオスマントルコに、ロシア軍が攻め込んできた。兵達は宮殿から精緻を極めたレリーフや青銅製の門などの名品を略奪し、エルミタージュに持ち帰ったという。ユダヤ人と同様に、ディアスポラ(離散の民)の苦しみを背負ってきたクルド人の悲劇をここでも知った。
主のいない、ひっそりと静まった宮殿で、
もう一つの 悲しみの歌を聴いた。
聴いた音: I’m a fool to want you
歌: Billie Holiday
ドウバズヤット
この街はクルド人が99% それ以外が彼等を監視するトルコの兵隊で共生している仮面夫婦のような街だ。 だからカメラで、あちこち撮ってはいけない、とホテルのマネージャーから注意された。名産のキリムは、良い品はイスタンブールに行ってしまい地元にはいいものは少なかった。
裸電球の店、砂埃の道、そして、子供達が連発する「Hi! Where are you from ?」に閉口したが、その人なつこさが、孤独な心と対峙した。
旅の記憶に残るのは、何が有った、よりも、無かった、の方かも知れない。その無い分だけ、そこに住む人々の裸の心を見た、はずなのだから。
エルズルム
14 Aug 晴れ ドウバヤズット- ヴァン
泊まった宿は、Grand Derya 、入口の扉には、日本の辺境ツアー会社のシールがペタペタと貼られている街一番の宿だ。私の部屋は512号室でアララト山を間近に見る、眺めのいい部屋だが、隣がモスクで、アザーンを知らせるスピーカーがテラスの10m先にあった。 案の定、朝 4時に、大音響のアザーンで起こされた。頭の中で、祈りの声がグルグルと廻った。 フラフラしながらベッドを出て、溜まった日記を書き足し、息子や友人に絵葉書を書いた。
6:30、ダイニングに降りると、昨日、絨毯屋に居た西欧人達と出会った。挨拶を交わす内に、彼等は、大アララット山、小アララット山を縦走する為にポルトガルから来た登山者達だと知る。
登頂へのエールを送らんと、プレイヤーからアマリア・ロドリゲスの歌を流すと、みんな目を丸くして驚いた。リーダーがその音をビデオで撮影するので、調子にのり、セザリア・エヴォラ、ナラ・レオンなどのポルトガル語の歌を続けて流した。 しかし、もし私自身、朝食の席でガイジンから美空ひばりを聴かせられたら、重たいかな、 と考え直し、朝に相応しい曲を流すと、リーダーは笑みを浮かべて、O melhor:最高 と頷いた。
聴いた音: Bach 無伴奏チェロ 1番
Gavriel Lipkind
旅する女性
ヴァン行きのミニバス乗り場に行くと日本人の女性がチャイを飲んでいた。一目で、旅の熟練者だと思った。それでいて旅の疲れを風体に出していないのも好感が持てて、話しかけた。
『食べ飽きる程、この国のあちこちを歩いているんです』と、眼を輝かせながら、Nさんは語った。 私は真冬に彼女の出身である富山の漁村に寒鰤を食べに出かけた事を話し、お互いの旅を語り始めた。 彼女は派遣の看護婦をしていて、病院での激務に一区切り付くと、休職して旅に出た。気が向いた街には暫く留まり、そうでない街は足早に去る。まるで風林火山のような旅をしていた。
途中、軍の検問があり、兵士が私のパスポートに問題がある、と気色ばった時も、彼女と一緒だと、なんとかなるさ、、と安心させる人だった。
結局、今年1月にトルコに来た時のスタンプを見て、3ヶ月以上も不法滞在している? という疑いは別ページにあった今回のスタンプであっさり放免された。
11:30 VANのオトガル着 市内までのドルムッシュが無いので、予約していた HotelAsurまでTaxiで向かった。西さんは、この街には3年前に来たので、街をぶらついてから夜のバスで移動するという。夕食を約束して、彼女はバックパックを背負い飄々と歩いて行った。
VAN
アナトリアの東の果て、イラン国境近くに、トルコ最大の湖・ワン湖がある。湖面の標高は1646m、湖岸の周囲だけでも500kmもある巨大な湖だ。ワン市はその東側にあり、旧約聖書にも登場するウラルトゥ王国の首都・トゥシバが在った場所だ。 ウラルトゥは、その後、アルメニア王国となり、歴史上初めて、キリスト教を国教とした国になった。 アルメニア王国はその後、 アラブ、セルジュク等との攻防から北方に退き、VANやアニなどの都は置き去りにされた。旧約聖書に描かれ、アルメニア人が、神からの恩寵とするアララット山でさえ、第二次大戦後、トルコの領土とされ、その国境線は1993年以来、閉ざされている。
※ 帰国後の報道によると、 2009.9 スイスの仲介によりトルコ・アルメニアは国境開門を含む、国交正常化への道を歩み始めた。
アルメニアの美
数年前、アルメニアを訪れて、点在するキリスト教寺院を巡った。アルメニア建築は、とんがり帽子のような屋根が特徴だ。 外壁を彩るレリーフには独特の牧歌的な人物表現で、イエスや使徒達が描かれ、周囲にはペルシアの花草文様も加えられ、キリスト教が小アジアに出自を持つ宗教である事を如実に表している。
そのアルメニアのルーツであるVANの湖に、アクダマル島という小島があり、西暦915年建立の典雅な教会が残っていた。最果ての地にある古寺は訪れる人もないまま、近年まで廃屋と化していた。しかし、その美術的価値が認識され、本格的な補修が始まったのは、つい最近の事だった。その工事が終わり、痛んでいた外壁も見事に甦ったと、イスタンブールの洋子オーレテンさんからメールが届いたのは今春だった。
アクダマル島
ホテルで車をチャーターして、60km離れたゲワッシュ村のフェリー乗り場に行き、そこからフェリーに乗って、アクダマル島に行った。 湖岸から1km先に浮かぶ島はひょうたんの側面をして
いるので、まさしく「ヒョッコリひょうたん島」だ。 そのくびれのような部分に、とんがり帽子が見える。 30分で上陸。 島は無人島で、夏だけ、観光客向けのチャイハネが開いている。
教会は無人で、内陣のフレスコ画も色が褪せてはいるが、色付けの前の素描のようにイエスや聖人達の眼や表情などは、しっかり残っていた。
一目見て、はるばる、ここまで来た甲斐があったと思った。慈愛を持ちつつも凛とした表情、ビュッフェの絵のような頭身比率、主張しない色の組合せ方、、どれをとってもアルメニア独特の美意識だ。 外壁に廻ると、聖人達が、無駄のないフォルムで彫られ、素朴ながらも、温かい血を感じさせる表現は驚く程、ロマネスクに似ていた。
フランス・ブルゴーニュのヴェズレィやオータンで、ロマネスクのタンパンに見惚れた人は、是非、ここのレリーフも見て欲しいと思う。
フランス、スペインから英国北部の地域で11世紀に花咲くロマネスクに、心通じる表現が、遡る100年以上も前に、遠く離れたアナトリア〜コーカサスの一帯で生まれていた事は、何を物語るのだろうか? 私は、そこに、中央アジアの草原から渡来し、中欧、ガリア(フランス)そして大陸を追われ、ブルトンの果て、に辿り着いたケルト人の足跡を想像した。 教会の裏手の墓地で、ケルティック・クロスに似た文様を発見した。
ケルト人は、大切な事は決して文字に残さず、親から子へと伝承したので、その歴史さえも言葉に記録されていない。しかし、その墓標は、彼等が嘗て、この地に住み、美しい人生を送っていた事を物語っているように思えた。
聴いた音: ゲド戦記歌集
歌:手嶌葵.
アルメニアとトルコは前世紀に遡る恩讐が解決されず、未だ、その国境は堅く閉ざされている。修復が教会だけでなく、民族の上にも訪れ、アルメニア人が、この地に巡礼出来る日が来る事を願った。帰路、VAN城に寄った。イスラエルのマッサダ砦と似た、その城塞に登ると、ヴァン湖が夕陽に反射して水平線まで金色に輝いていた。
ホテルに戻り、Nさんとの約束までには、少しは文明人に戻ろうと髭剃りを持って、近くのハマムに出かけた。大理石を敷き詰めた蒸し風呂はとても清潔だった。ここで下着も洗ってしまおうと、水洗いしていたら、鼻髭が4cmもありサダム・フセインにソックリな巨体の紳士が、どこからか洗剤を出して来てくれ、これで洗いなさい、と親切に、ジェスチャーで教えてくれた。
ハマムのフルコース(垢すり+マッサージ)もイスタンブールでは、結構ぼられるが地方なら安いかな?と受付で訊くと、入浴:8 垢すり:6 マッサージ:6と良心値段だった。丁度、20TR紙幣だけを持ってきたので、これでとお願いすると、現れたのが先のフセイン氏だった。胸板30cmはあろうかという、大男による垢すりは、ちょっぴりしか出なかったが、反面、マッサージの方は
強烈・大技で、拷問の如くであったが、これも、旅の思い出と、心と身体で愉しんだ。
フィナーレはガラタ塔で
15 - 16 Aug 晴れ VAN – Istanbul – Seoul – 成田
食料品店で名産の蜂蜜とロクミを買い、キャリーに詰めると、総重量32kg! エクセスが心配だ。帰路はSun Expressを利用してイスタンブールまで、僅か 45TRで飛んだ。到着したGokcenn空港から、アタチュルクまでBus,Ferry,Tramで飛行機と同じ2時間かけて辿り着いたのは誤算だった。
CheckInを済ませてから、旅の最後に、イスタンブールの夕陽が見たくなり、エミノニュに戻ってガラタ塔に登った。 圧倒的な夕陽が地球上、最も美しい海峡を真っ赤に染めていた。東側に周り、アナトリアの大地を眺めると、黄昏の中に、ネムルートの神々の記憶が過ぎ去って行った。
澁澤幸子さんと、 オーレテン・洋子さん、 トルコの
面白さに目覚めさせてくれた、お二人に感謝を覚えて
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- 高速・路線バス
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- ターキッシュ エアラインズ
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この旅行記へのコメント (3)
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- わんぱく大将さん 2015/05/21 07:27:00
- オデッセイ
- bloom3476さん
昔、オデッセイと言う旅の雑誌なり、個人の旅行記を冊子にしたものを読んでました。文章を拝読させていただいてるとその本のこと思いだしました。
フォローに入れていただきどうも。しかしながら私の旅行記、ええのありませんでえ。
大将
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- pedaruさん 2014/05/29 06:44:27
- 写真はいつ?
- bloom3476さん はじめまして
履歴からお邪魔しました。bloomさんの旅行記の表紙を見るとどれも魅力的な画像なので、ワクワクしました。 さて、どれから見ようかな?と・・・
まず、文章から始まりました。読み進みました。まだ写真は出てきません。さらに読み進めました。やっと、読み終わりました。えーっ 無いよ〜写真が〜っ
ということで期待を裏切られましたが、その文章の上手さに免じて許してあげます。写真より面白い旅行記でした。
pedaru
- bloom3476さん からの返信 2014/05/29 06:58:53
- RE: 写真はいつ?
- pedaru さん おはようございます。
許して頂き、助かります、、
これらの旅行記は東京海外旅行研究会の会報誌に載せたテキストです
それらには写真を配していますが、4Traに移す時は面倒くさくて、省きました。 ご覧になりたい旅行記があればPDFでお送りします。
3年前から旅行記を書かず、旅行は全てFacebookに載せるようになったので4Traに投稿してなく読むばかりでした。
それでは よい旅を!
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