2008/02/10 - 2008/02/10
17876位(同エリア22548件中)
Garminさん
- GarminさんTOP
- 旅行記6冊
- クチコミ0件
- Q&A回答7件
- 8,724アクセス
- フォロワー1人
朝起きるとHUNG君がなんか変だった。 実は心当たりがあった。 それは昨日からちょっと気になっていたことだった。 実はこのDong Vangに来た理由の一つにここで開催される日曜市があった。 ここの日曜市はこの辺りの山々の人々が集まり服の材料を仕入れたり食料を仕入れたり、作物や工芸品を売りに来たりする大切な集まりだったのだが、新年の休みでそれが開催されていない事を彼は知って、それを私たちに言い出せなくて困っていたようだった。 こちら側から、「市場やってないんでしょ?」と言うと、彼は何回も私に謝った。 P氏にも事情を伝えたが、P氏には旅行が始まるまで日曜市の話はしていなかったのであまり気にしていなかったようだった。 HUNG君には「また次のチャンスがあるし、HUNG君も今までこんなにモン族の人たちが通りに出ているのを見たことが無いと言っていたじゃないか、こんなに人に会えたらもう市場なんていいよ」と伝え、朝食を通りの向かいの愛想の良いお母さんのいる店で食べ、出発した。 今日の出発は昨日来た道を戻りモン族の王の墓に行った。
モン族には 1930年代にモン族は大きく二つに別れ二人の王が居たという。 その片方はフランスにより支持され、援助を受け、もう片方は日本軍の一部としてフランス軍と戦い、第二次世界大戦後は共産党の一部となり戦った。 フランスが撤退した後はもう一方のフランスが指示していたモン族は密かにアメリカに支持され、ベトナムが支持するモン族などと戦った もちろん、この頃の戦いは結果的にベトナム側が勝ち、ベトナム戦争後はアメリカが支持していた側のモン族ははベトナム戦争後アメリカに大量に移民した。 ミネソタ州、カリフォルニア州にはモン族の数万人単位のコミュニティーがあり、25万人ほどのモン族がアメリカに住んでいる。 驚くべきこと、彼らの何人かはまたインドシナ半島に戻り、2000年にはラオスでクーデター騒動を起こしている。その裏にはジュネーブ条約で直接介入できないアメリカのCIAが絡んでいたという話はGoogle等で「モン族 CIA」で検索すれば簡単に見つかる。
写真 写真
写真
このモン族のベトナム側が支援していた側の王の墓がここだ。 王の墓にしては質素だが、ここは当時の住居で、墓石はあるものの、本当に埋葬されている所は誰も知らないとの事だった。 彼の4人の妻の個室、篭城生活が出来るように食料の保存庫、2m近い厚みの石の壁で囲まれた要塞のような部分もある。 なんでも彼は財宝と共に葬られ盗掘を防ぐ為に本当の墓の場所は知らされないとの事だが、厚い石の塀を補修のために壊したときにかなりの量の金が見つかったそうだ。
写真 写真
モンの王の墓を出ると向かって左側にモン族風の家屋、右側にベトナム風の家屋が作ってある。 これもベトナム政府の同化政策の一つだろうか? 人の気配は無い。 しかし、左側に回りこむと、そこにはモン族の生活感のある家があった。 猫より少し大きな子山羊が歩いていて、子豚も野良犬のようにその辺りを歩いている。 HUNG君がモン族の家の造りを説明してくれた。 まず、石垣がある。 これはその辺りの石を拾ってきて積み上げた感じのものだ。 そして、(雨は多いが)水が殆どない地域に住んでいるので、雨水を集める為の貯水場がある。 この家では風呂より少し大きいぐらいのコンクリートの水槽だった。 そして、建物としては大きく分けて家畜小屋と住居が互いに少し離れてある。 私たちが石垣の入り口で可愛いパンダ模様の子山羊を見ているととHUNG君は住居の入り口に立って何か話している。 私たちに手招きをするので行ってみるとそこはお約束の宴会だった。 土壁の家の中は小さな窓が一つあり、囲炉裏で焚き火をしている。 屋根は瓦だ。 目が慣れるまで暗くて気が付かなかったが入り口から入って右側の囲炉裏とは反対側に赤ん坊と3歳ぐらいの子供、そして母親が居た。 子供を寝かしつけているようだった。
写真 写真
ここはモン族のBlack Smithつまり、鍛冶屋の家だった。 大人が数人、酒を飲みながら何か食べている。 我々も例のごとく客人としてそこに招かれて囲炉裏をかこんで酒を飲んだ。 握手をすると少し相手の手がベトついていたが、それはたぶん、薪に含まれているタールだ。 私も薪をくべたがタールが多い木だった。 この家は鍛冶屋なので、薪の他にここには石炭が少しあった。 HUNG君の隣にいた男の子は19歳、なんと結婚もしているという。 モン族は結婚すると2年は親と離れて独立して夫婦だけで暮らすのだという。 彼もその”修行中”なのだった。 学校は小学校に言っただけだという、彼はここでの生活にそれ以上の教育は必要ないという。 確かにそうかもしれない。 文字もなく、電気もないここでの生活には特に必要ないかもしれない。 しかし、もしも盲腸などの比較的簡単な手術で済む病気でも尊い命を落とすような事があれば、その命を失う悲しみはどの家族も変わらないだろう。 いや、もしも手術で助かるという事も知らなければそれを受け入れてしまうのかもしれない。 いや、きっとそんな事はない。 色々考えさせられる土地だ。
写真
HUNG君が私の為に入れてくれた保険は約款によると救急車が手配できない地域(まさにこの地域)では万が一の場合は医療ヘリコプターでの搬送が受けられると書いてある。(本当に配備されているかは不明、ちょっと試しに呼んでみるわけにはいかない) 私はこの地域で受けられる医療について色々聞いてみた。 HUNG君とモン族の人の話によると、この地域で病気になるといわゆる民間医療の薬草などを調合してくれる家があり、そこに行って治療を受けるとの事だった。 しかし、民族服を着ている人の中には金歯を入れている人もおり、きっとどこかにある程度設備の整った病院があるに違いないと思った。 いや、そう思い込む事で自分を安心させた。
鍛冶屋の家では説明されても良く分らない濁った蒸留酒、説明されても良く分らないおつまみ(多くが動物系)を頂き、出発した。 この辺りは標高1400m近くあり結構寒い。 天気も相変わらず雨だったり曇ったりしていたが、距離が短いので午後早くには到着するはずだ。 14km程走ると今朝出発したDong Vanの町に戻った。
写真
ここで昼食を食べる予定だったが、鍛冶屋でおもてなしを受けたおかげで腹は減っていない。朝食を食べたレストランとは別なCAFEでお茶だけをした。 CAFEとは言っても何でも屋の店の空きスペースにプラスチックのテーブルと椅子があるだけの店だ。 お茶が終わり出発すると、またまた美しい民族衣装の人々が道を歩いているのを見かけた。 彼らはある地点から別な地点に移動するという目的で道路の出ているとは考えにくい。 道が社交の場であり、山や谷を眺めているだけの人も多くいた。
写真 写真
この日、私もHUNG君も忘れられない出来事が起きた。 決して楽しい思い出ではなく、むしろ、やるせない悲しい出来事だった。 彼は私と会う度に「あの子の顔が忘れられない」と言う。 私も忘れられない・・
この旅行記のタグ
利用規約に違反している投稿は、報告する事ができます。
コメントを投稿する前に
十分に確認の上、ご投稿ください。 コメントの内容は攻撃的ではなく、相手の気持ちに寄り添ったものになっていますか?
サイト共通ガイドライン(利用上のお願い)報道機関・マスメディアの方へ 画像提供などに関するお問い合わせは、専用のお問い合わせフォームからお願いいたします。
旅の計画・記録
マイルに交換できるフォートラベルポイントが貯まる
フォートラベルポイントって?
0
11