2009/02/01 - 2009/02/01
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備中高松城跡を訪ねました。
- 一人あたり費用
- 1万円未満
- 交通手段
- 自家用車 徒歩
-
備中高松城跡から南西方向を見ています。
1582年の羽柴秀吉軍との戦(いくさ)のときは、この城の城主は清水宗治(むねはる)でした。
この写真の正面(南西)の山には、味方の毛利軍が布陣(ふじん)していました。
この写真の外側左後方(東)の山には、織田信長が派遣(はけん)した羽柴秀吉が布陣していました。
岡山城主、宇喜多忠家ら、織田方の軍勢は、この写真の後ろ(北西)一帯を囲む山に、布陣していました。 -
写真の正面に見える山の上には、毛利元就(もとなり)の次男、小早川隆景が布陣していました。
その山の手前、右に見える低い山の上には、同じく元就の三男、吉川元春が布陣していました。
それらの陣の向こう(写真の右外、後方)には、元就の長男の子で、毛利軍の大将の毛利輝元が控えていました。
この毛利三兄弟は、元就が三本の矢に例えたことで有名です。
ということは、そのときここには、秀吉と、後にその五大老(豊臣五大老)となる、毛利輝元、小早川隆景、宇喜多忠家の三人がそろっていたことになります。 -
このときは、宇喜多忠家は織田方、輝元と隆景は毛利方で、互いに敵味方に分かれていました。
当時はこの辺りは湿地帯(しっちたい)で、秀吉の軍は、この高松城に攻め込むことができず、こう着状態が続いていました。
そのとき、秀吉の軍師の黒田官兵衛が、水攻めを発案して、急遽(きゅうきょ)堤防が築かれました。
その結果、高松城は、写真の模型のように水の中に孤立(こりつ)してしまいました。
当時はここには、宗治の兵等が5千人も取り残されてしまっていたそうです。 -
この模型は左が北、右が南、奥が東で手前が西になります。
湖の中央に、城主の清水宗治と5千人の兵や侍従(じじゅう)が取り残されています。
こんな狭(せま)いところに5千人もいれば、大変です。
それなりの広さはあったのでしょうか。
この湖の右岸がそのとき築かれた堤防になります。
しかし、工事期間から推定(すいてい)すると、かなりの部分は元々高く盛り上がっていたとも考えられています。 -
秀吉の本陣は湖に面した東(写真奥)の山の上にあったので、高松城はすぐ下に見下ろせていたようです。
湖を取り巻く山はすべて、織田軍の陣でした。
当然、堤防の外も、織田軍が囲んでいました。
模型の湖の一番手前の辺りから、そこを流れる足守川の水を引き込んでいました。
ちょうどその辺りの山の陣は、後の熊本城主の加藤清正の陣でした。
毛利方は、写真右下(南西)の山に吉川元春、この模型の右外の辺りの山に小早川隆景の陣がありました。 -
このような状態で、にらみ合いが続いていました。
毛利の大軍の総攻撃を恐れた秀吉は、信長に出陣を要請(ようせい)し、信長は援軍として、明智光秀の軍をここに向かわせました。
そして信長は、自らもこの高松城に向かうために、京都で出陣の準備をしていました。
ここに、光秀や信長が率(ひき)いる大軍が押し寄せてくるとなると、いかに毛利軍といえども、それを防ぎきることは、到底不可能であろうと思われました。 -
もしここで大規模な合戦が起これば、多くの将兵が犠牲(ぎせい)になり、西国の雄(ゆう)であった毛利家の滅亡(めつぼう)は必至(ひっし)のものとなってしまいます。
毛利家最大のピンチです。
しかし秀吉は、ここで新たな和平案を提示してきました。
城主宗治とその兄たちが切腹して城を明け渡せば毛利軍への攻撃を見合わせ、5千人の家臣や領民たちをすべて助けるというものです。
これを呑(の)めば、ひとまず毛利家は安泰(あんたい)です。 -
これまでも秀吉は、織田方につけばこの辺りの三国を与えるなどという好条件を出して、宗治を誘っていました。
しかし、毛利への忠誠心に厚かった宗治は、それを丁重(ていちょう)に断っていました。
しかし、今回はその毛利家の存続を認めるという条件です。
そして、5千人の家臣や領民たちの命を救うことができます。
宗治は、その条件を受け入れました。 -
白装束(しろしょうぞく)をまとった宗治が乗った小舟は、織田方、毛利方、双方(そうほう)の兵が見守る中、湖の中ほどに漕(こ)ぎ出て来ました。
宗治はゆっくりと舞を待った後、秀吉が差し入れた肴(さかな)で最後の酒を飲みました。
「浮世をば 今こそ渡れ 武士の名を 高松の 苔に残して」
辞世(じせい)の句を残して、宗治は、短刀を自分の脇腹に突き立てました。
1982年の6月4日のことでした。 -
これは南向きです。
右に見える山に毛利方の小早川隆景の陣がありました。
この写真の左外側にある山には秀吉の本陣がありました。
写真正面の建物は資料館です。 -
宗治の首塚です。
左の橋の向こうが資料館です。
宗治の首は、秀吉が自分の本陣の山の上に、丁重(ていちょう)に葬(ほうむ)っていましたが、明治になってこの場所に移されました。
それにしても、このように城主を切腹させて、家臣の命を救うということは、なぜ行われるようになったのでしょうか?
現在に置き換えれば、組織のトップが全責任をとって、部下たちは許されるということになります。 -
何と、このようなことは、秀吉の中国攻めのときが最も多かったようです。
秀吉の主君の信長などは、徹底抗戦を基本としていたようですし、他の大名たちの戦いも、城主が討ち取られるか、逃げ出すかするまで続くことが多かったようです。
また、和議によって、領地などを没収し、全員を味方につけることも多かったようです。
では、なぜ秀吉の中国攻め(上月城、三木城、鳥取城や、この高松城など)のときには、このようなことが多かったのでしょうか。
私が思うには、まずは、秀吉が兵糧(ひょうろう)攻め -
(=取り囲んで食料の補給を断つ攻め方)を好んだということがあるでしょう。
城を攻めれば、兵を消耗(しょうもう)するので、相手が討(う)って出るのを待つことになります。
もし、相手が降伏すれば、その兵はすべて味方の戦力となります。
このように兵糧攻めは、時間こそはかかるけれども、最も得策であったのでしょう。
相手方、ここでは毛利方にすれば、降伏すれば、兵を相手に取られて、その後の戦いが苦しくなります。 -
逆に徹底抗戦すれば、相手方の兵の数を減らすことができますし、兵を敵に取られるということもなくなります。
他の城のことは知りませんが、この高松城の場合は、このような条件を受け入れることを、背後の毛利が決めて、宗治に勧めたといいます。
なぜ毛利は、このような決断をしたのでしょうか?
それは、毛利は何(いず)れは、信長に降伏するつもりで、ここで犠牲者を増やしたくなかったのでしょうか?
または、自分たちが優勢になったときに、この忠誠心の強い兵たちが、こちらに寝返ってくれるのを期待したのでしょうか? -
とにかく、毛利と、宗治やその家臣たちとの間には、信頼関係のようなものがあったことは確かでしょう。
では、秀吉の気持ちや立場としてはどうでしょうか?
秀吉は、どうしてこの中国攻めで、城主の切腹を求めたのでしょうか?
秀吉の経歴からすれば、自分と同じ立場の家臣たちの命を助けたいと思ったということは十分に考えられます。
領民の多くは、死ぬことを誇りにして戦っているのではなくて、食べるために仕方なく戦っているのだということをよく知っていたのではないでしょうか? -
もう少し、ドライな見方をすれば、やはり、これからの戦を戦い抜くために、少しでも兵の数を増やしておきたいと考えていたのでしょう。
では、なぜ、城主に切腹を求めたのでしょうか?
城主も領民といっしょに助けて味方につければいいように思うのですが。
それは、主君の信長が、自分が率先して前線に出て行くほどの気持ちの熱い人(気性の荒い人?)だったので、トップも部下も助けたとなると、信長の面子(めんつ)が立たないと考えたからではないでしょうか? -
実際のところは、宗治の毛利に対する忠誠心があまりにも厚くて、決して降伏しなかったので、致(いた)し方なくその面子(メンツ)を立てて切腹させたというのが、真相なのでしょう。
このような、城主の毛利に対する忠誠心や領民を思う気持ちと、秀吉の信長に対する立場という偶然の関係が絡(から)み合って、この中国攻めでは、城主が切腹をして、家臣や兵が助かるということが多かったのではないでしょうか?
こうして見ていくと、どの時代にも現代に通じるような人の心の機微(きび)のようなものが感じられて、とても面白いと思います。 -
あの山に秀吉の本陣がありました。
秀吉は、そこからこの高松城を見下ろしていました。
高松城は天守閣を持たない、土塁(どるい)に囲まれただけの城でした。
実際には、この切腹の2日前の6月2日、ここへ向かうはずの明智光秀は、途中で兵を返して、京の本能寺に向かい、そこで主君の織田信長を討(う)っていました。
光秀はそのことを伝えて、秀吉を挟(はさ)み撃ちにしようと、毛利方に使者を送りました。 -
ところが使者は毛利軍と間違えて、秀吉軍に紛れ込んでしまい、獲(とら)えられて殺されてしまいました。
驚いた秀吉は、そのことを隠して、宗治に好条件の和睦を申し入れたのでした。
高松城主の宗治は、そのようなことは一切知らずにそれを受け入れ、この地に散っていったのでした。
もし、使者が無事に毛利方に到達していたらどうなっていたでしょうか?
毛利軍は光秀軍と共にここで秀吉を討っていたでしょうか? -
それともしばらく静観して、結局、秀吉と和睦(わぼく)したのでしょうか?
しかし、その場合は誰が天下を取っていたのでしょうか?
やはり秀吉でしょうか、それとも明智光秀か、柴田勝家か、徳川家康だったのでしょうか?
それともこの毛利や越後の上杉だったのでしょうか?
いずれにせよその後は、複雑な連合関係が絡み合うことになっていたことでしょう。 -
このとき、この高松に集っていた人たちの中で、今後の日本の歴史を最も大きく変えてしまった人物は誰だったのでしょうか?
羽柴秀吉だったのでしょうか?
切腹した清水宗治だったのでしょうか?
それとも和議を受け入れる決断をした毛利輝元だったのでしょうか?
いや、それともこの水攻めを考案した黒田官兵衛だったのでしょうか?
ここでこうして見ていくと、確かに秀吉も宗治も輝元も官兵衛もそれぞれに、熟考(じゅっこう)の末に、大きな決断をしました。
しかし私が思うには、それにも増して、その後の日本の歴史を大きく変えてしまった人物は、偶然に相手陣に紛れ込んで捕まってしまった光秀の使者だったのではないでしょうか。
もし、この使者が捕まらなかったら、秀吉が天下をとることはなかったかも知れません。
そうすれば、現在の大阪の街もも東京の街も、今のような場所に存在しなかったことになります。
この高松において、この光秀の使者こそが、宗治の首を落とし、秀吉に光秀を討たせ、以後の日本の歴史を大きく変えてしまった時代のキーマン(鍵となる人物)だったといえるのではないでしょうか。
(完)
岡山旭川河岸散策 http://4travel.jp/traveler/wanyamapori/album/10310742/
烏城 http://4travel.jp/traveler/wanyamapori/album/10310772/
岡山の旅 09冬 [写真版] セレクション http://4travel.jp/traveler/wanyamapori/album/10317472/
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