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平成20年12月22日(月)<br /> 毎月一回ゴルフをしている大学の寮友達との忘年会の日である。13時に自宅を出て熱海へ向かう。予定の快速電車より早くきた普通電車の車両に乗って時間をかけて行く。車中、介子推に読み耽る。熱海には15時28分到着。熱海駅構内の土産物屋や食堂街を散策して時間を過す。やがて石村、宇津呂夫妻が揃ったのでタクシーで伊藤忠の保養所へ。代金2450円。<br /> 安田、猪原は車で先着していた。夕食時間までカラオケを楽しむ。歌える歌なし、聞き手に専念。三組の夫妻と単身参加の二人合わせて8人で楽しく忘年会の夕食。温泉に浸かり年来の疲れを落とす。<br />                      <br />平成20年12月23日(火)<br /> 全員揃ってMOA美術館で本阿弥光悦や尾形光琳の特別展を鑑賞。岡田茂吉の経歴を調べたら世界救世教の創始者であった。出発は新興宗教のお光様。<br /><br />以下にウイキペデイアで調べた岡田も茂吉の経歴を引用しておく。<br />以下すべて引用である。<br /><br />1882年(明治15年)、東京府浅草区橋場町(現在の東京都台東区橋場)にて誕生[1]。<br />幼少時、貧しい生活を体験した。また、虚弱体質で次々と病気にかかり、結核にもなり、不治の宣告も受けた。このような体験により、食生活の重要性に気づいた。<br />日新尋常小学校を経て、浅草尋常高等小学校に入学。画家を志し、1897年9月に東京美術学校予備ノ課程に入学するも眼の病に侵され中退。<br />青年期に、商売を行い成功する。だが、過労をきっかけとして多数の病気[2]にかかり入院を3回し、不治の宣告を2回受ける。そのような体験の中で薬物の持つ副作用に気づき、医薬品や医者に頼らない、自然治癒力を重視した生活様式を築き上げていった。<br />小間物屋「光琳堂」、装飾品卸商「岡田商店」、映画館経営などの事業を行い順調に収益を上げたが、取引先銀行の破産で事業が頓挫。さらに妻が流産や死産を繰り返しており、やっと妊娠した子も5か月で死亡、先妻も死去するなど、不幸が重なる。慈善は好きだが、宗教は根っから嫌いの無神論者であったが、不幸が続くことで人間の力の儚さから救いを求めて色々な宗教の講話を聴き、信仰を勧められるが心が向かなかった。<br /><br />1920年(大正9年)大本教に入信。大本教のお筆先にある「世直し思想」(キリスト教でいう「最後の審判」、仏教でいう「末法の世」)に心を打たれたことと、歯痛に悩んでいたが詰めていた消毒薬を取ったら歯痛がよくなったなどの経験に基づく「薬が病気の本(もと)ではないか」という自分の考えと、大本の薬毒の教えが一致していたことが入信の理由であった。<br /><br />1926年(昭和元年)12月のある晩、お腹に光り輝く玉が入るといった神秘体験をし、自己の使命を悟る。<br />第一次世界大戦後の経済大恐慌の時、株式会社を経営しており、株が一斉に暴落したのに伴い自身の事業も大打撃を受け継続困難に。<br /><br />1931年(昭和6年)、千葉・鋸山の山頂にて神秘体験を得たのち、岡田式神霊指圧療法(後に浄霊になる)を開始するも、大本教の方針と異なるとの批判を受け、1934年(昭和9年)大本教から離れる。<br /><br />1935年(昭和10年1月1日)に「大日本観音会」を発会し、地上天国建設を目的として立教を宣言する。麹町山元町に本部を置く。(これが後に世界救世教となる)。同年、10月1日東京都世田谷区上野毛の玉川郷(後に宝山荘)にて、栽培実験と研究を通して自然農法の根本原理や食の重要性について説く。また、将来の美術館構想もこの玉川郷時代にしている。<br /><br />1936年(昭和11年)官憲の圧迫により、宗教行為と治療行為の分離を迫られ5月15日に「大日本健康協会」創立。宗教とは別に、団体を立ち上げ、2つを両輪とした。一般人や他宗の人たちにも浄霊の恩恵に与ってもらいたいというのが趣旨。今でいう統合医療による療院(病院)構想もしている。1936年9月、警視庁より療術行為禁止令が出て解散する。後年、科学として世に問いたいが、宗教なるが故に浄霊の効果を正しく認識してもらえないことを訴えている。<br /><br />1944年(昭和19年)戦火が激しくなり、東京から箱根の強羅へと居を移し、神仙郷と名付ける。熱海にも居を構える。<br /><br />1947年(昭和22年)静岡県熱海で、宗教法人「日本観音教団」として教団を再出発させる。<br /><br />1948年(昭和23年)無肥料栽培の論文を発表。<br /><br />1949年(昭和24年)宗教法人「日本五六七教」発足。<br /><br />1950年(昭和25年)2月4日「日本観音教団」「日本五六七教」を解散し、宗教法人「世界救世(メシヤ)教」が発足。<br /><br />1952年(昭和27年)箱根美術館を開設。<br /><br />1953年(昭和28年)『自然農法解説書』など著書を数点出版。尾形光琳の紅白梅図[3]を入手。<br /><br />1955年(昭和30年)2月8日に野々村仁清の色絵藤花図茶壺[3]を入手。 2月10日に73歳で死去。<br /><br />1957年(昭和32年)に、岡田茂吉の収集品をもとに、箱根美術館の姉妹館として、熱海美術館が開設された(これは後に「救世熱海美術館」と改称。さらに、現在のMOA美術館へとつながった。)。  引用終わり<br /><br />モア美術館内の喫茶店でお茶して熱海駅で散会。熱海始発の快速電車に駆け込み乗車成功し15時半には帰宅できた。<br />

熱海での忘年会、MOA美術館

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2008/12/22 - 2008/12/23

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早島 潮

早島 潮さん

平成20年12月22日(月)
 毎月一回ゴルフをしている大学の寮友達との忘年会の日である。13時に自宅を出て熱海へ向かう。予定の快速電車より早くきた普通電車の車両に乗って時間をかけて行く。車中、介子推に読み耽る。熱海には15時28分到着。熱海駅構内の土産物屋や食堂街を散策して時間を過す。やがて石村、宇津呂夫妻が揃ったのでタクシーで伊藤忠の保養所へ。代金2450円。
 安田、猪原は車で先着していた。夕食時間までカラオケを楽しむ。歌える歌なし、聞き手に専念。三組の夫妻と単身参加の二人合わせて8人で楽しく忘年会の夕食。温泉に浸かり年来の疲れを落とす。
                      
平成20年12月23日(火)
 全員揃ってMOA美術館で本阿弥光悦や尾形光琳の特別展を鑑賞。岡田茂吉の経歴を調べたら世界救世教の創始者であった。出発は新興宗教のお光様。

以下にウイキペデイアで調べた岡田も茂吉の経歴を引用しておく。
以下すべて引用である。

1882年(明治15年)、東京府浅草区橋場町(現在の東京都台東区橋場)にて誕生[1]。
幼少時、貧しい生活を体験した。また、虚弱体質で次々と病気にかかり、結核にもなり、不治の宣告も受けた。このような体験により、食生活の重要性に気づいた。
日新尋常小学校を経て、浅草尋常高等小学校に入学。画家を志し、1897年9月に東京美術学校予備ノ課程に入学するも眼の病に侵され中退。
青年期に、商売を行い成功する。だが、過労をきっかけとして多数の病気[2]にかかり入院を3回し、不治の宣告を2回受ける。そのような体験の中で薬物の持つ副作用に気づき、医薬品や医者に頼らない、自然治癒力を重視した生活様式を築き上げていった。
小間物屋「光琳堂」、装飾品卸商「岡田商店」、映画館経営などの事業を行い順調に収益を上げたが、取引先銀行の破産で事業が頓挫。さらに妻が流産や死産を繰り返しており、やっと妊娠した子も5か月で死亡、先妻も死去するなど、不幸が重なる。慈善は好きだが、宗教は根っから嫌いの無神論者であったが、不幸が続くことで人間の力の儚さから救いを求めて色々な宗教の講話を聴き、信仰を勧められるが心が向かなかった。

1920年(大正9年)大本教に入信。大本教のお筆先にある「世直し思想」(キリスト教でいう「最後の審判」、仏教でいう「末法の世」)に心を打たれたことと、歯痛に悩んでいたが詰めていた消毒薬を取ったら歯痛がよくなったなどの経験に基づく「薬が病気の本(もと)ではないか」という自分の考えと、大本の薬毒の教えが一致していたことが入信の理由であった。

1926年(昭和元年)12月のある晩、お腹に光り輝く玉が入るといった神秘体験をし、自己の使命を悟る。
第一次世界大戦後の経済大恐慌の時、株式会社を経営しており、株が一斉に暴落したのに伴い自身の事業も大打撃を受け継続困難に。

1931年(昭和6年)、千葉・鋸山の山頂にて神秘体験を得たのち、岡田式神霊指圧療法(後に浄霊になる)を開始するも、大本教の方針と異なるとの批判を受け、1934年(昭和9年)大本教から離れる。

1935年(昭和10年1月1日)に「大日本観音会」を発会し、地上天国建設を目的として立教を宣言する。麹町山元町に本部を置く。(これが後に世界救世教となる)。同年、10月1日東京都世田谷区上野毛の玉川郷(後に宝山荘)にて、栽培実験と研究を通して自然農法の根本原理や食の重要性について説く。また、将来の美術館構想もこの玉川郷時代にしている。

1936年(昭和11年)官憲の圧迫により、宗教行為と治療行為の分離を迫られ5月15日に「大日本健康協会」創立。宗教とは別に、団体を立ち上げ、2つを両輪とした。一般人や他宗の人たちにも浄霊の恩恵に与ってもらいたいというのが趣旨。今でいう統合医療による療院(病院)構想もしている。1936年9月、警視庁より療術行為禁止令が出て解散する。後年、科学として世に問いたいが、宗教なるが故に浄霊の効果を正しく認識してもらえないことを訴えている。

1944年(昭和19年)戦火が激しくなり、東京から箱根の強羅へと居を移し、神仙郷と名付ける。熱海にも居を構える。

1947年(昭和22年)静岡県熱海で、宗教法人「日本観音教団」として教団を再出発させる。

1948年(昭和23年)無肥料栽培の論文を発表。

1949年(昭和24年)宗教法人「日本五六七教」発足。

1950年(昭和25年)2月4日「日本観音教団」「日本五六七教」を解散し、宗教法人「世界救世(メシヤ)教」が発足。

1952年(昭和27年)箱根美術館を開設。

1953年(昭和28年)『自然農法解説書』など著書を数点出版。尾形光琳の紅白梅図[3]を入手。

1955年(昭和30年)2月8日に野々村仁清の色絵藤花図茶壺[3]を入手。 2月10日に73歳で死去。

1957年(昭和32年)に、岡田茂吉の収集品をもとに、箱根美術館の姉妹館として、熱海美術館が開設された(これは後に「救世熱海美術館」と改称。さらに、現在のMOA美術館へとつながった。)。  引用終わり

モア美術館内の喫茶店でお茶して熱海駅で散会。熱海始発の快速電車に駆け込み乗車成功し15時半には帰宅できた。

同行者
社員・団体旅行
交通手段
JRローカル
旅行の手配内容
その他
  • 熱海保養所

    熱海保養所

  • 熱海保養所

    熱海保養所

  • 保養所の夕食

    保養所の夕食

  • 忘年会の会食

    忘年会の会食

  • 忘年会の会食

    忘年会の会食

  • 伊豆方面を望む

    伊豆方面を望む

  • 朝食

    朝食

  • モア美術館の壁のレリーフ

    モア美術館の壁のレリーフ

  • モア美術館内の黄金の茶室

    モア美術館内の黄金の茶室

  • 黄金の茶室の説明

    黄金の茶室の説明

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