2008/08/24 - 2008/08/24
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しんちゃんさん
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野口雨情の「雨降りお月さん」【雨降りお月さん、雲の蔭、お嫁にゆくときゃ、誰とゆく、ひとりで傘(からかさ)、さしてゆく、傘(からかさ)ないときゃ、誰とゆく、シャラ シャラ、シャン シャン、鈴つけた、お馬にゆられて、濡れてゆく】ここ栃木県さくら市(旧喜連川町)の高塩ヒロさんが茨城県北茨城市磯原町(旧多賀郡磯原村)へ二日間かかって嫁いだときの情景を童謡にしたそうです。さくら市ミュージアムは雨情の資料を高塩家から全部預かっていると聞きました。ごく一部の資料が8月31日まで展示されています。夏休みも終盤、雨の休日に見学はいかがでしょうか?大人300円!
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「さくら市ミュージアム」は旧国道4号線、現在はバイパスが出来ています。勝山城跡の一角にあります。目立たず、でしゃばらず、控えめに、小学校の野外教材になってるのかな?
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「入場券」です。観音様ですので、なにかご利益ありそうな入場券です。荒井寛方(1878-1945) 日本画家。栃木県の生まれ。本名、寛十郎。初め歴史画を学び、初期文展で活躍。再興日本美術院同人。タゴールに招かれアジャンター壁画を模写。法隆寺金堂壁画の模写にも従事。代表作「乳糜(にゆうび)供養」など。……Goo辞書から転用
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【童謡黄金期のはじまり
第一次世界大戦ののち大正デモクラシーの思想が盛りあがる中、教育界においても自由主義の志向が高まり、児童の個性を尊重し創造性を伸ばそうという動きが活発になる。明治以降、学校で子どもに与えられた歌は唱歌であった。唱歌は、知識習得のための手段として用いられ、詩も文語体で難しい言葉が使われていた。こうした唱歌は、子どもの感情を無視していて歌詞も芸術性に欠けるとして批判が高まり、新たな子どものための芸術的な歌・童謡*を生みだそうという動きが高まった。(*原文は“が”です)】 -
続きです【新しい児童雑誌『赤い鳥』の登場
大正期の童謡運動の牽引的役割を担ったのが、児童芸術雑誌『赤い鳥』であった。『赤い鳥』は大正7年(1918年)7月、鈴木三重吉によって創刊される。東京帝国大学(現東京大学)在学中に書いた短編小説『千鳥』が夏目漱石に認められ、小説家として活動していた三重吉だが、大正5年頃、多くの雑誌に掲載されていた教訓性の強いお伽噺に不満を持ち、芸術性豊かな童謡、童話の確立を目指す運動を宣言し、『赤い鳥』を創刊した。一流の作家、芸術、芸術家たちが賛同したこの『赤い鳥』は児童文学の新しい時代を開いた。】 -
『赤い鳥』創刊第一号
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説明版からです【詩集「邪宗門」や「思ひ出」により耽美的(たんびてき)な象徴詩を確立し、詩壇に確固たる地位を得ていた白秋が童謡を書くことになったのには、『赤い鳥』の創刊と深く関わっている。白秋は、大正7年の『赤い鳥』の創刊に際し鈴木三重吉から相談を受け、同誌の童謡欄を務めることになった。当時、人妻との恋愛事件や実家の倒産などで生活が困窮し、妻章子の病気療養のため小田原に転居した頃である。白秋にとって、この『赤い鳥』は新たな詩の境地を拓く大きな転機となった。白秋は、『赤い鳥』を舞台に活躍を続け、「あわて床屋」「ペチカ」「からたちの花」などといった数多くの名作を残した。昭和8(1933)年に『赤い鳥』を去った後も、『コドモノクニ』などに童謡の発表を続け、昭和17(1842)年に亡くなるまで、約1200編もの童謡を創作している。】
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説明版からです【社会人としてのスタート
雨情は、明治15年(1882)茨城県多賀郡北中郷村磯原の廻船問屋を営む野口家の長男として生まれた。本名は、英吉である。中学時代より雑誌『文庫』に俳句を投稿し詩をつくるなどさかんに創作活動を行い、明治34年東京専門学校予科文学科(現早稲田大学)に入学、一年余で中退するがその後も東京に残り、35年に詩人として詩壇にデビューした。この頃の雨情は、『社会主義』『小国民』などの雑誌に社会性の強い詩を発表している。】 -
当時の「雨降りお月さん」の絵本です
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説明版から【美しい楽譜
児童雑誌に発表された童謡は、岡本帰一や初山滋、竹下夢二らによる美しい装丁の楽譜として発行された。】 -
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蓄音機1
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朝顔蓄音機「里見庫男氏蔵」当時すごいお金持ちだったのでしょう!現在も資産家でしょうね!!
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蓄音機3
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館内はしんちゃん貸切状態、やっと入場者が来ました。
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ここからは、氏家町の歴史紹介です。行進する女学生。【氏家高女生の夜行軍 昭和16年〜17年頃】との説明でした。高等女学校ですよ!
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鋸(のこぎり)の歴史資料もありました。町に蒐集家が居たそうです。
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帆掛け舟?鬼怒川に?江戸時代に鬼怒川そして利根川と江戸はつながっていました。現在は茨城県猿島郡堺町から支流として江戸川の名前は当時の面影があります。明治の鉄道開通まで約300年、宇都宮藩、会津藩、奥州南部の物質はこの氏家近くの阿久津河岸から江戸まで船で運ばれていました。知らなかった!長さ12.6m幅1.8m深さ60Cm米25表、当時の米は60Kgが一表ですから1500Kgを一艘で運んだことになります。現在は面影は一切ありませんでした。
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町の地図です。
氏家の南側約3km鬼怒川の傍に「阿久津河岸」がありました。近くには奥州街道の渡し舟もありました。白沢宿から喜連川(きつれがわ)宿への途中です。町は陸揚げする荷物、江戸へ運ぶ荷物で繁盛したそうです。千駄の荷が着くと「千駄の宴」を催したそうです。「入船千駄、出船千駄」と河岸の活況の言葉があるそうです。 -
阿久津河岸のジオラマです
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日本の律令制時代7世紀後期(飛鳥時代後期)から10世紀頃までに近畿から奥州までの道路「東山道」(とうざんどう)の資料もありました。
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さくら市ミュージアムから勝山城跡への橋脚です。当時は大手門への橋が架かっていたと思います。
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堀は空堀!当時は水が一杯だったんでしょうか。
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本丸跡は広場になっていました。
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本丸跡を通り過ぎると鬼怒川が見えてきました。
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明治天皇が立ち寄った跡らしいですが、左側の文字は消されて右側に「****六月十一日」怪しい!
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となりにあった「なんちゃら・かんちゃら・・・略」記念碑
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勝山城跡説明版
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勝山城跡から眺める、西側を流れる鬼怒川
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さくら市ミュージアム入り口
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「明治時代の東北本線の基礎」鬼怒川にて発見された東北本線開通当時の橋脚の基礎。開通当時は現在の路線とは違っていました。大雨のたびに破壊され修繕費用が多いため線路・橋梁が移されました。直径3mの基礎が発見され展示されていました。
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説明版からです【旧大島家住宅
規模は小さいが、江戸時代中期の村役人の住居である。近年まで使用され、“床の間”付きの“畳の間”があり、“板戸”で生活の場である「板の間」と仕切られ、さらに勝手場兼農作業の広い上間がある。正面の軒は長く張り出しており、それを支えるための外柱がある。外縁や大黒柱はなく、古い民家ん形を留めている。矢板市塩田より移築。】なんで矢板市からなんだ! -
説明版からです【旧森家長屋門
長屋門は長屋の中央に出入口を設けたもので、両側は物置や隠居屋などに利用された。本来、武家屋敷のものだが、近世以降、名主・組頭など村役人格に許されるようになり、さらに明治以降は家格に関係なく建てられるようになった。この長屋門は喜連川鹿子畑から移築したもので、天保年間の建造と推定されている。】 -
説明版からです【旧手塚家板倉
板倉は1〜1尺5寸おきに角柱を立て、その間に1尺5寸間隔で貫(ぬき)を通し、その裏に厚板を張ったもので、古くは倉といえばこの地方では板倉であった。現在、残っている2階建て板倉の多くは、明治初期の商品経済が農村に普及してきたころ建造され、木材も上等なものが使われている。この板倉は明治10年の建造で、大正時代に氏家伝馬町の手塚家に移築された。】 -
「さくら市ミュージアムと勝山城跡」地図
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この木はなんて言う名前でしょうか?木の実がさくらんぼのように、たわわに実っていました。駐車場にありました。名前が判明しました。植木の専門家から「ヤマボウシの果実」と教えて貰いました。
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お土産に採ってきましたが、家族には不評でした。小さな種が数個入っています。大きさは、さくらんぼくらいです。「ヤマボウシの果実」は果物屋さん、八百屋さんでは販売していません。もっと美味しく、甘い物がたくさんあるからでしょう。さて次は何処へ行きましょうか?
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